【松倉重政・松倉勝家】島原の乱の原因を作った江戸時代最悪の暗君親子

江戸時代には大小200を超える藩がありましたが、その藩主が必ずしも名君であった訳ではありません。

藩主がとんでもない人間だったら、その藩の領民はとてつもない迷惑を被ることになります。

身分社会だった江戸時代にこれから逃れる術はありませんので、藩主が暗君・暴君だったら領民は悲惨です。

そんな江戸時代の藩主の中で、最悪の政治をした暗君親子がいます。

島原藩初代藩主松倉重政と、2代藩主松倉勝家です。

恐らくこの2人が、江戸時代ワースト1とワースト2であったことに間違い無いと思います。

以下、2人の傍若無人ぶりを紹介していきたいと思います。

名君時代の松倉重政

暗君親子の父の方である松倉重政は、天正2年(1574年)、松倉重信の嫡男として生まれます。

松倉氏は、戦国武将、筒井順慶の家臣として仕えた由緒ある家柄で、松倉重政の父・松倉重信は関ヶ原の戦いでも活躍し西軍の実質的総大将であった石田三成の快刀でもあった島清興(左近)と共に「右近左近」と称されるほどの名将でした。

文禄2年(1593年)、父・松倉重信の死亡によって松倉家の家督を継いだ重政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで単身参陣して徳川家康に認められ、大和国二見1万石を与えられました。

大和国二見に入った松倉重政は、五條新町を築くなど商業の振興を図るなど領内の整備を行いました。これにより、五條は、江戸期を通して商業都市として賑わい、大和盆地では奈良に次ぐ賑わいをみせるまで発展させました。江戸時代には松倉重政に感謝する祭りまで開かれていたというほど優れた統治者だったようです。

松倉重政は、この時代までは、父の名に恥じない名君として、大器の片鱗を見せていました。

また、松倉重政は、優れた政治力のみならず、優れた軍略も発揮しています。

松倉重政は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、徳川・大和方面軍の一員として参戦し、大和郡山城の救援や、道明寺の戦い・誉田の戦いで功を挙げます。

大坂夏の陣での武功が高く評価された松倉重政は、翌元和2年(1616年)にキリシタン大名であった有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられてここに移封します(松倉重政が肥前日野江に移封された理由は、江戸幕府が、おそらく名君松倉重政にキリシタンの弾圧と、有馬氏が延岡に移封されたことによりあぶれた浪人を取り締まらせるためだったのだと思われます。)。

そして、この日野江の地で松倉重政は、豹変します。

暗君となった松倉重政

普請について

大名達は、その石高や格式に応じて江戸幕府からお役目を命じられます。

いわゆる天下普請(土木工事)、手伝い普請(各地の警護・軍役・朝廷の接待など)です。

天下普請・手伝い普請は、検地によって出された大名の表高(形式上の石高)によってその程度が決められました。

この表高は、実際の石高である実高いとは異なるもので、幕府に届け出た形式的な石高です。

そのため、表高と実高は必ずしも整合しておらず、表高〉実高の藩もあれば、表高〈実高の藩もありました。

普請の際、表高〈実高の藩は、藩の実力よりも少ない仕事ですみますので、経済的な損失が抑えられます。

他方で、表高〉実高の藩は、普請の際に藩の実力を越える仕事を課せられますので、財政的な負担が重くのし掛かります。

松倉重政は、自身が治める島原藩が実高僅か4万3000石の小藩であるにも関わらず、江戸幕府に忠誠を見せるためと大大名を装って家格を高めるために、江戸幕府に島原藩の表高が10万石であると申告します。

その結果、当然島原藩には、実力の2倍を越える普請が課せられ、島原藩は経済的に困窮します。

なお、表高は、形式上の石高に過ぎませんので、幕府に申請すれば訂正は可能でした。

ところが、表高が下がると藩の格が落ちると考え、訂正しない藩もありました。プライドのために、無理して金をかけるという見栄っ張りの極みですね。

島原城建設

また、4万3000石の島原藩は、石高から考えると、ギリギリ城持ち大名レベルの貧乏小大名に過ぎませんでした。なお、大名家には、その所有する領地、城で区別する格式もあり、一般に、国主(国持大名)〉準国主〉城主(城持ち)〉城主格〉無城(陣屋)の順で区別されていました。

この点、島原藩内には元々キリシタン大名有馬氏時代から残る日野江城と原城という2つの城があったのですから、これらのいずれか(普通に考えれば、当初政庁を置いた日根野城と考えるのが一般的です。)を使用するべきです。

ところが、松倉重政は、江戸幕府の一国一城令に従って現存する原城と日野江城を破却し、元和2年(1616年)、島原半島の雲仙岳東麓・島原湾の平野部に新たに本格的な近世城郭である島原城の築城と城下の整備を開始します。

戦国の世を武力で渡り歩き、長い苦労の末に大名となり、さらに城を造ることが出来る身分を与えられた松倉重政はのぼせ上がったのです。

憧れた自分の城を持てる。

しかも、一から造ることもできる。

もう、松倉重政は自分を抑えることは出来ませんでした。

貧乏藩がただでさえ見栄を張って大変なのに、さらに追い討ちをかけて、今ある城を壊して新しく城を築くというとんでもない判断です。

しかも、築いた城は、五層五階の天守を中心に3基の三重櫓が幾重にも屈曲した高石垣の上建ち、平櫓33基、広大な堀をも擁する、小藩のものとは思えない巨城です。

島原城は、寛永元年(1624年)、動員人夫延べ100万人を使い、莫大な費用を費やして、7年の工事を経て完成します。

松倉重政は、感無量だったでしょう。

財政が火の車となった島原藩の中で、松倉重政だけは。

キリシタン弾圧

そんな松倉重政の圧政は、別の方向からも領民を苦しめます。

島原藩は、前記のとおり、かつてはキリシタン大名であった有馬氏の統治下にありましたので、その領民の多くはキリシタンでした。

松倉重政は、島原藩主となった当初は、キリシタンにより南蛮貿易の利を得ることができたためにキリスト教を黙認していたのですが、キリシタン弾圧政策をとっていた江戸幕府からの圧力もあって元和7年(1621年)ころからキリシタンの弾圧を開始します。

しかも、その弾圧は、寛永2年(1625年)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されるたことにより極端化し、徹底化されます。

その後の弾圧は過酷を極め、キリシタンを処刑したり、またその顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押したり、指を切り落としたりするなど数々の拷問が行われました。

これに加えて、松倉重政は、キリシタンの出城ともいえるフィリピンのルソン攻略を江戸幕府に進言するなど、もはや常人の発想とは思えない行動をとり始めます。

しかも、そのために島原藩の領民に対して、戦費調達のために更なる税を課し、遠征準備まで行っています。

暗君松倉重政急死

誇大妄想で他国侵略まで考え準備したものの、松倉重政はそれを実行に移すことはできませんでした。

寛永7年(1630年)、小浜温泉で急死したからです。享年57歳でした。

そして、松倉重政の死亡により、島原藩は、その息子である松倉勝家が継ぐことになりました。

島原藩の領民達は、ようやく松倉重政の圧政から解放されるかと期待します。

しかし、・・・

父を超える暗君・サディスト松倉勝家

九公一民

島原藩の2代目藩主となった松倉勝家は、まだ父親の代の方がマシだったと領民に言わしめる程の更なる圧政を敷きます。

まず、松倉勝家は、松倉重政の失政により傾いた島原藩の財政を健全化するため、領民に九公一民という苛烈な税を課しました。

税金9割です。

稼ぎのほぼ全て税金です。

幕府領の年貢が四公六民であったこの時代に、考えられない税率です。

しかも、松倉勝家は、苦しい台所事情だった島原藩の財政を顧みず、領民から搾り取った税金で島原城を塗り替えさせたりするなど、自己中心的な政治をしてますます領民を苦しめ続けます。

そんな中、島原藩に更なる不幸が訪れます。

島原藩の領内を飢饉が発生したのです。

飢饉と一揆

飢饉によって税収が下がったため、松倉勝家は、あらゆるものに税を課し始めます。

子供が生まれたら人頭税、畳を敷いたといえばこれにも税、死んで墓を掘ったら墓穴税など、生まれ→生活し→死ぬの人間のサイクルの全てに税をかけたのです。

こんな制度の下で人間が生きていけるはずがありません。

多くの人が、税金を払えなくなっていきます。

ところが、松倉勝家は、この税を治められなくなった人を、徹底的に迫害しました。

税を納められなかった者に、キリシタンに行っていたのと同様の迫害をしました。

年貢を納められなった者の妻や娘を人質に取ったり、それでも払えない者を拷問にかけてなぶり殺しにしたりするなど、とんでもない悪行を繰り返します。

領民たちの我慢は限界を超えます。

そして、寛永14年(1637年)10月25日、有馬村の領民が起こした代官殺害事件をきっかけに反乱が起き、声を上げた農民・虐げられ続けたキリシタンたちが声を上げ、廃城となっていた原城に集合し一揆がおきます。

そして、有馬村の領民が起こした代官殺害事件をきっかけに反乱は島原藩内に拡大、その後、同じく圧政に苦しめられた天草にも飛び火して島原の乱が勃発します。

島原の乱勃発

その後、反乱は島原藩内に拡大、その後、同じく圧政に苦しめられた天草にも飛び火し、ここに旧有馬家臣の浪人たちが加わって,遂に寛永14年(1637年)10月25日、島原の乱が勃発します。

老若男女3万7000人もの人が一揆に加わり、日本の歴史上最大規模の一揆の始まりです。

そして、旗印として、キリシタンの間でカリスマ的人気を誇っていた天草四郎時貞を総大将として、松倉勝家に反旗を翻します。

領内で一揆が起きた島原藩側では、一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったとも言われており、松倉重家がいかに領民から嫌われていたかが窺い知れます。

なお、島原の乱が、キリスト教徒による宗教的な反乱であったと見るかについては見方の分かれるところで、一揆勢の中にキリシタンが多かったことは間違いないのですが、それが全てであったわけでもありませんので、本質的なところは私にはわかりません。

島原の乱は、寛永15年(1638年)2月27日、12万を超える幕府軍の一斉攻撃によって鎮圧されたのですが、約4ヶ月に及んだ抵抗の結果、一揆軍は内通者を除いて女子供も含めて全員虐殺されたといわれています。

島原の乱後

島原の乱鎮圧後、島原藩主松倉勝家は、反乱発生の責任を取らされ、領地没収、松倉家改易の上、美作(岡山県)津山藩へお預けとなります。

その後、島原の乱の発生原因調査により、松倉勝家の常軌を逸した領民への虐殺が明らかとなります。

これに対し、松倉勝家は、乱はキリスト教徒が迫害の結果起こしたものであると主張し、自身の失政は決して認めませんでしたが、江戸幕府は、松倉勝家の責任を重く受け止め、松倉勝家を江戸に送った上で斬首刑に処しています(切腹は刑罰ではなく名誉でしたが、斬首は罪人に対する処罰です。)。

大名である松倉勝家が、罪人として処罰されたわけです。江戸期を通して大名が斬首されたのは、後にも先にも松倉勝家ただ1人です。

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