木造建築の最高傑作として、1993年に日本初のユネスコ世界文化遺産に登録された名城・姫路城。
白鷺城の別名を持つ美しい城ですが,城自体が極めて強い防衛力を持っていることでも有名です。
この姫路城に戦うためのものではない曲輪があることをご存じですか。姫路城・西の丸です。
本稿では,この戦わない西の丸曲輪がなぜ姫路城に造られたのかについて解説します。
なお,本稿では主題とならないので簡単な説明にとどめますが,姫路城には攻城のためのルートとして,左回り(北から回る)と右回り(東から回る)の2つのルートがあります。
このうち,西の丸が意味を持つ左回りルートについて見るに,西の丸は,左回り攻城ルートで攻めてくる敵を迎撃できる位置関係にはあるものの,これを攻略しなくても本丸に向かうことができる離れた場所にあります。
敵は西の丸を攻略しなくても、本丸に向かえますので、わざわざ西の丸を攻める必要はありません。
すなわち,姫路城の防衛構造上、西の丸は必ずしも必要ではないのです。少なくとも、これほど大きな曲輪は要りません。
では、なぜこんなものがあるのか。姫路城の歴史を紐解いて行きます。
【目次(タップ可)】
姫路城の始まりと池田輝政による改修
戦国時代までの姫路城
姫路城は,1346年(南朝:平正元年,北朝貞和2年)に,赤松氏によって築城されたとされています。
その後,西播磨の豪族であった小寺氏の家臣である黒田家(有名な黒田官兵衛の実家です。)によって整備されました。
もっとも,このころはまだ城としては小ぶりであり,砦や館程度の小規模のものでした。
その後,織田信長の命を受けた豊臣秀吉が中国攻めを行う際に、その居城となり,整備・拡張が始まります。
池田輝政の姫路城
そして,関ヶ原の戦いで功を挙げた池田輝政が,1600年(慶長5年),播磨52万石を封して入城すると,池田輝政は徳川家康から以西の豊臣恩顧の外様大名監視の命を受け,1601年(慶長6年)から8年を要する大改修を行います。
その結果,姫路城は,周辺の村を包括する大城郭に造り変えられました。
このときの大工事で造られたのが,現在残る姫路城です。
もっとも,池田輝政によるこのときの大改修では,姫路城に西の丸は造られませんでした。
本丸防衛上,必須な曲輪ではなかったからです。
では,なぜその後に姫路城に西の丸が造られたのでしょうか。
本多家による西の丸増築
本多忠政入封
1613年(慶長18年)に池田輝政が死亡し,さらに1616年(元和2年)にその後を継いだ池田利隆も死亡したため,姫路藩は幼い池田光政(池田輝政の孫)が継ぐくことになりました。
大坂の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家ですが、まだまだ西国には外様の大大名が残っており、これらの対応が必要とされていました。
そこで、2代将軍・徳川秀忠は、山陽道上の城郭整備に着手します。
さらに、1617年(元和3年)、江戸幕府は、東西に山陽道が通り、北は丹波国・但馬国へ、南は淡路国・四国へとつながる交通の要衝であった明石について、駿河譜代の小笠原忠真を信濃松本藩から国替えして明石に移し、明石藩を誕生させるとともに、明石城を築城させます。
もっとも,池田光正は,山陽道を守る要衝の地であった姫路を治めさせるには不安があるとの理由で,江戸幕府から因幡国に転封させられ,代わりに伊勢国桑名より,本多忠政が15万石にて入城させ、姫路城を整備させます。
当たり前の話ですが、以上のとおり姫路城は戦うための城です。
千姫輿入れ
ところが,1618年(元和4年),本多忠政の子,本多忠刻に,徳川家康の孫である千姫が嫁いだことにより,戦うための姫路城に異質な西の丸が出来上がるのです。
西の丸の話をする前に,少しだけ千姫の話をします。
千姫は,1597年(慶長2年)4月11日,後の2代将軍徳川秀忠と織田信長を叔父に持つ浅井三姉妹で有名な江との間に生まれます。
千姫は,1603年(慶長8年)に,わずか7歳で従兄でもある豊臣秀頼と政略結婚し,大坂城に入ります。7歳で結婚させられたのは気の毒ですが、相手の豊臣秀頼もまた僅か11歳の子供だったのです。
嘘か誠かわかりませんが,千姫は,大坂城に入る際に,祖父徳川家康から,豊臣秀頼を豊臣家当主として頭角を発揮することがないよう弱らせるよう指示を受けており,そのため千姫は,大坂城にて豊臣秀頼にカロリーの高い御馳走をひたすら食べさせ,馬に乗れない程太らせることに成功したなどと言う説もあるようです。
もっとも、子供同士で結婚させられたとはいえ、豊臣秀頼と千姫の中はとても良かったと伝わっています。
その後、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したのですが、その際、千姫は、徳川家康によって大坂城から救出されました。
救出された千姫は,徳川家康に対して豊臣秀頼と淀殿の助命嘆願をしましたが,これが聞き入れられることはありませんでした。
その結果、千姫は、僅か19歳にして、未亡人となります。
千姫は,その美貌と,穏やかな人柄から,輿入れした豊臣家においても,また父徳川秀忠,祖父徳川家康に可愛がられ,また弟である3代将軍徳川家光のも仲も良好であったようです。
それに加え、徳川家康,徳川秀忠は、その夫を攻め殺している手前,千姫に対して厳しい態度をとることはできず,その処遇に対しては最新の注意を払っていたようです。
そんな千姫ですが,1616年(元和2年)11月8日,桑名藩主本多忠政の嫡男,本多忠刻と結婚します。
本多忠刻、イケメンです。オシャレでも知られていました。
徳川家康の孫,2代将軍の娘,3代将軍の姉が,臣下である小藩主のさらにその息子に嫁ぐという,異例中の異例である身分違いの結婚でした。
そのため,この結婚については逸話が色々あり、大坂城落城後江戸にもどる際に桑名の七里渡しの船中で偶然本多忠刻を見て見初めたという説や,徳川家康が臨終の際に本多忠刻に千姫との結婚を命じたという説など色々な説が説かれていますが,真実はわかりません。
なお,このとき,千姫は,10万両とも言われる莫大な化粧料を持参して、桑名藩・本多家に嫁に行きます。
そして,翌1617年(元和3年)に,夫の父である本多忠政が播磨国姫路に入封となったため,千姫は,夫本多忠刻とともに,姫路城に移ることとなりました。
姫路城西の丸整備
姫路藩主となった本多忠政は考えます。
息子の嫁となったとはいえ,千姫は主君筋。神君徳川家康の孫でもあります。
一藩主に過ぎない自分と比べると桁違いの身分差があります。そのため,姫路城内でも,千姫を手厚く扱う必要があります。
千姫を、下々の者と同じような場所に住まわせることはできませんし,また小さな貧乏くさい建物に住まわせることもできません。
ところが,池田家から引き継いだ姫路城は,複雑に入り組んだ造りを駆使した近代城郭の傑作とも言える城で,天守近くに大きな御殿を造るスペースなどありません。
そこで,本多忠政は,千姫が持参した10万石の化粧料を元に,姫路城の東側にあった山を掘削して造成し、そこに新たな曲輪(西の丸)を建造して,千姫と息子本多忠刻を住まわせることとしたのです。
これが、元々西の丸が存在しない状態でその防衛が完成していた姫路城に,新たに西の丸が追加された原因です。
言うなれば,西の丸は防衛施設ではなく,千姫の家と庭なのです。
さすが徳川家康の孫です,スケールが違います。
千姫の曲輪となった西の丸の構造
以上のとおり、姫路城西の丸は,姫路城防衛のためではなく,千姫の生活の場とすることを主目的として造られた曲輪ですので,曲輪として最低限の防御能力は有しているものの,他の城の曲輪とは異質な構造をしています。
まず、その大きさが異質です。上記の写真(天守から見た西の丸の眺め)を見たらお分かりいただけると思いますが、千姫の身分を象徴するように西の丸は、天守曲輪である本丸とほぼ同じ大きさがあります。何より広いのです。
また、そこにある構造物も異質です。
通路・階段
まず、西の丸に繋がる通路・階段から特殊です。
普通の城は、攻めてくる敵の足が鈍るよう、わざと登りにくく造っています。
段差を高くしてみたり、わざと段の高さをバラバラにしたりするなどの工夫がなされているのが一般的です。
ところが、姫路城西の丸に続く階段は、段差が低く、一定の高さとなり、またその幅も広く取られています。俗にいう千姫階段です。
防衛施設としての城の造りとしてみると、有り得ない造りとなっています。
千姫が輿に乗って移動する際に、揺れて不快な気分にさせないようにする配慮です。
城の施設と相いれないとんでもない発想です。
西の丸櫓群
西の丸は、東西南北全てを石垣で囲っており、単体で1つの出城ともいえる構造をしています。
そして、北端にある石垣の上には化粧櫓が、東側石垣上には櫓群とこれらを結ぶ渡櫓(長局)が残っています。
①化粧櫓
化粧櫓は,西の丸の北端にある物見櫓であり、二重二階の構造となっています。
物見櫓は、戦時は普通の城では偵察と攻め込んでくる敵の迎撃、平時は物置として使われるのが一般的です。
ところが、この櫓(化粧櫓)は違います。
化粧櫓は、内部には畳が敷かれた3室の座敷部屋があり、これを襖で区分された奥御殿となっています。
しかも、一面に窓を設けています。
化粧櫓は、構造としては櫓ですが、機能としては千姫の別荘だったのです。
東側の窓は特に大きく造られており、朝この窓から入ってくる朝日を使って千姫が化粧ができるように考えられたものでした。
また、櫓の中にある床の間から、床の間を背にして前を向くと真正面に天守がそびえるのが見えるというにくい造りともなっています。なお,中には遊びに興じる千姫の人形が展示してあります。
②渡櫓(多聞櫓)
西の丸の東側には、北端の化粧櫓から南西角部のワの櫓までいくつもの櫓が設置され,これらの各櫓を渡櫓と呼ばれる長屋で結んでいます。その構造は多門櫓です。
そして、この渡櫓の内部には、化粧櫓からワの櫓まで約240m(121間)にも亘る長い廊下が続いています。なお、この廊下は100間をこえる長さがあるために、「百間廊下」と呼ばれています。
この西の丸櫓群は、複数の機能を有しており、レの渡櫓は廊下がなく倉庫として利用され、またタの渡櫓から潜り戸付扉がありそこから北に廊下が設置されています。
特に特徴的なのがヨの渡櫓とカの渡櫓です。これらの渡櫓の内部には、この渡櫓の内部は、城外に向かっては、石落、狭間、煙出窓などが敷設されており、櫓としての防衛構造を有してはいるものの、城側には、廊下を挟んで8畳ほどの部屋が19室も連なり、ここで千姫の女中23人及び下女16人、娘の勝姫の女中3人が起居する局(長局)として使用されました。
人が住む場所となっていたため、長局とされた各部屋には、屋根が張られたり納戸が付属したりするなどの造作が付されています。
つまり、この渡櫓の北部分(ヨの渡櫓とカの渡櫓)は、千姫をサポートする女中・下女の長屋だったのです。
なお、千姫が姫路城を去った80年後に作成された絵図では,渡櫓内のいくつかの部屋に干飯有との書き込みがなされていることから、千姫が去った後はヨとカの渡櫓も本来の目的である備蓄倉庫と使用されるようになったことがわかっています。
御殿
なお,西の丸には御殿群があったのですが、千姫は,西の丸にあった中書丸と三の丸にあった武蔵野御殿の両方を使っていたようです(いずれも滅失して現存していません。)。
余談
何度も述べていますが、姫路城の藩主本多忠政は、千姫から見ると家臣筋です。
千姫が息子の嫁であってもこの関係性は変わりません。
そこで、姫路城内に、西の丸という名の、千姫の本宅、別荘を造り、それを支える侍女の生活スペースなども整えてたのです。
そうして千姫を西の丸に入れたのですが、藩主とはいえ家臣である本多忠政が千姫よりも高い場所で生活をすることはできません。
そこで、その後、藩主である本多忠政は西の丸よりも下にある三の丸で生活をすることとしたのです。
藩主が息子と息子の嫁より下になる。
なんとも切ない話ですね。