【承久の乱】後鳥羽上皇が北条義時に敗れ公武のパワーバランスが逆転した合戦

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権であった北条義時討伐の兵を挙げたところ、北条義時個人ではなく鎌倉幕府を挙げての反抗が起こって後鳥羽上皇が敗れた戦いです。

朝廷が朝敵に敗れた初めての戦いであり、それによって朝廷が事実上武士の軍門に下り名目的存在に成り下がった戦いでもあります。

本稿では、朝廷・公家階級が無力化し、以降武士が国家の実効支配権(行政権、立法権、司法権)を奪取するに至った一大クーデターである承久の乱について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。

承久の乱に至る経緯

皇族将軍下向の奏上(1219年2月13日)

初めての武家政権として成立した鎌倉幕府でしたが、成立当初の鎌倉幕府の支配力は主に東日本には及んでいたものの、西日本についてはいまだ強く及んでおらず、東日本には幕府の、西日本には朝廷の力が強く及ぶという二元統治体制となっていました。

朝廷にとっても鎌倉幕府を討伐できるだけの力はない一方で、源氏が清和天皇の血を引くいわば身内の関係にあったことから、鎌倉幕府の将軍が源氏の者であった間は微妙なパワーバランスが維持されることとなり両者の間に武力衝突は発生しませんでした。

ところが、建保7年(1219年)1月に第3代鎌倉殿であった源実朝が暗殺されて鎌倉幕府が北条家の支配下に置かれると、一御家人に過ぎない北条家(北条義時)が執権の立場で実質支配する鎌倉幕府と共存することが朝廷の勘気に触ったこともあり、朝廷と鎌倉幕府(鎌倉幕府を実質的に支配する執権・北条義時)との関係が急速に悪化します。

この緊張関係は北条義時にとっても望むものではなく、北条義時は、建保7年(1219年)2月13日、源氏将軍不在となった鎌倉幕府の権威を高めて朝廷との関係を改善するため、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)又は頼仁親王のいずれかを第4代鎌倉殿として迎えたいと奏上します。

ところが、後鳥羽上皇は、頂点に立つはずの将軍・鎌倉殿が暗殺されるような物騒な場所に大事な皇子を下向させることなどできないと判断し、同年閏2月4日、皇子を鎌倉殿とすれば国を二分することにつながりかねないとの理由を付けて、皇子の下向を拒否します。

そればかりか、後鳥羽上皇は、北条義時に対し、北条義時が領主を務める摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭の改補を命じたのですが、これに怒った北条義時は、同年3月、北条時房に1000騎を率いて上洛させ、後鳥羽上皇の要求を拒否した上で、再び皇族将軍下向の圧力をかけます。

摂家将軍下向(1219年7月19日)

軍事力をもって圧力をかけられた後鳥羽上皇は、無下に北条義時の提案を突っぱねることができなくなり、やむなく交渉を進めた結果、皇子ではなく摂関家の子弟を下向させるとの結論に落ち着きます。

そして、最終的には、このとき2歳であった九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)を後の第4代鎌倉殿として下向させることとなり、同年7月19日、三寅が鎌倉に送り届けられます。

もっとも、鎌倉殿(摂家将軍)となることが決まったとはいえ、このとき僅か2歳の三寅に政治などできようはずがなく、三寅が幼少の間は、北条政子がその後見として鎌倉幕府を主導し、北条義時がこれを補佐するという政治形態が作られます。

こうして、三寅の下向により、朝廷と鎌倉幕府との関係はなんとか維持されたのですが、これらの将軍継嗣問題は、北条義時と後鳥羽上皇の双方にしこりとして残り、特に、この将軍後継問題において御家人に過ぎないはずの北条義時の介入により政治が動かされることに不満をもった後鳥羽上皇が北条義時の排除を画策するようになります。

流鏑馬揃え(1221年5月14日)

この将軍継嗣問題のトラブルや、その後の鎌倉幕府の内紛(源頼茂謀反事件)により内裏や宝物が焼失してしまったことなどから、後鳥羽上皇の鎌倉幕府(ひいてはそれを実質的に支配する北条義時)に対する不満がさらに溜まっていきます。

そして、承久3年(1221年)ころ、後鳥羽上皇はついに北条義時を討伐する意志を固め、後鳥羽上皇は毎月のようにどこかの寺社で密かに北条義時調伏の祈祷を行うようになり、同年4月28日には、後鳥羽上皇は、後鳥羽上皇の御所であった高陽院(かやのいん)において、土御門上皇・順徳上皇・六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王などの皇族をはじめとする名だたる外戚・近臣・僧侶を招集した上、大々的に北条義時調伏の祈祷を行います。

その上で、後鳥羽上皇は、鳥羽離宮内の城南寺で行う予定の「流鏑馬揃え」を口実として、御所の警備を担う北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士らの招集を命じます。

そして、承久3年(1221年)5月14日、「流鏑馬揃え」の場に、以下のよう北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士ら1700余騎が集まったのを見た後鳥羽上皇は、北条義時討伐決行を決めます。

【院の近臣(西面の武士・北面の武士)】

① 藤原秀康(西面の武士)

② 藤原秀澄(西面の武士・藤原秀康の弟)

③ 藤原能茂(西面の武士・藤原秀康の甥)

④ 後藤基清(西面の武士)

⑤ 大江能範(西面の武士)

⑥ 佐々木広綱(北面の武士・京都守護・近江守護)

【幕府の在京御家人】

① 大内惟信(源氏一門・門葉)

② 佐々木高重

③ 佐々木広綱(近江守護)

④ 大江親広(京都守護・大江広元の子)

⑤ 大江能範

⑥ 三浦胤義(検非違使・三浦義村の弟)

⑦ 五条有範(検非違使)

⑧ 八田知尚

⑨ 小野盛綱(尾張守護)

⑩ 山田重忠

⑪ 河野通信

他方で、京都守護の1人であった伊賀光季(妹が北条義時の後妻)や公家の西園寺公経(妻が源頼朝の姪)や一条頼氏は、後鳥羽上皇の勧誘を拒絶しました。

後鳥羽上皇は、抵抗の意思を示した西園寺公経(大納言)・西園寺実氏(中納言・西園寺公経の子)を捕えて弓場殿に幽閉します。なお、西園寺親子が捕えられたのを見た一条頼氏は、北条義時を頼って鎌倉に逃亡しています。

もっとも、院宣を出せば鎌倉幕府は戦うことなく内部崩壊するとたかをくくっていた後鳥羽上皇は、単に集った諸将に兵を集めることを指示するのみで、具体的な京の防衛策や、鎌倉幕府御家人に対する事前調略工作を検討することはありませんでした。

後鳥羽上皇挙兵(1221年5月15日)

多くの将兵が集まったことに気を良くした後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日朝、ついに北条義時討伐を掲げて挙兵します。なお、このときの後鳥羽上皇の目的が鎌倉幕府という組織の打倒であったのか、北条義時個人の討伐であったのかは必ずしも明らかではありません。

後鳥羽上皇が最初のターゲットに選んだのは、自身の誘いを断った伊賀光季と定め、後鳥羽上皇は、藤原秀康・大内惟信・佐々木広綱・三浦胤義ら800騎を高辻京極邸の伊賀光季討伐に向かわせました。

このとき伊賀光季が率いていたのはわずか85騎でしたので、多勢に無勢で勝負になりませんでした。

次男・伊賀光綱の死を見届けた伊賀光季は、北条義時宛に事の顛末を伝える使者を送りだした後、討ち死にしてしまいます。

院宣・官宣旨の発布(1221年5月15日)

緒戦に勝利してほぼ京を制圧した後鳥羽上皇は、近国の関所を固めさせた上で、承久3年(1221年)5月15日、畿内及びその近隣諸国を中心とする守護・地頭を含めた不特定の人々に対して、北条義時追討の官宣旨をしたためます。

また、関東の鎌倉幕府有力御家人に対しては、官宣旨に加え、特別に後鳥羽上皇の院宣(葉室光親に命じて作成されたようです。)が添えられることとなりました。

もっとも、この院宣・宣旨については、実物が現存していないため、それらが正式文書としての「官宣旨」であったのか、略式の「院宣」に過ぎなかったのかなど、詳細は不明です。また、その発布目的についても、北条義時という個人の排除目的だったという説が有力ですが、鎌倉幕府の否定まで目指していたという説もありますので、正確なところはわかっていません。

いずれにせよ、後鳥羽上皇は、院宣や官宣旨の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって後鳥羽上皇方に味方すると考えて戦局を楽観視していました。

そして、この北条義時討伐の院宣は、同年5月16日、藤原秀康の所従であった押松丸に託され、鎌倉へ運ばれていきます。

上皇挙兵の報(1221年5月19日)

以上のように、京から鎌倉に向かって、鎌倉幕府方の伊賀光季の使者と、後鳥羽上皇方の院宣・官宣旨の双方が送られたのですが、先に鎌倉に着いたのは、鎌倉幕府方の伊賀光季からの使者でした。

承久3年(1221年)5月19日、西園寺公経の家司・三善長衡と伊賀光季からの使者が北条義時の下に到着し、北条義時が、自らが朝敵とされたこと、上皇が挙兵したことを知ります。

院宣が鎌倉に届く(1221年5月19日)

伊賀光季による上皇挙兵の報の到達から少し遅れて、後鳥羽上皇の使者・押松が鎌倉に入ります。

もっとも、三善長衡・伊賀光季からの報告を受けて鎌倉全域を警戒させていた北条義時は、鎌倉葛西谷にいた押松丸を捕らえ、院宣と共に、院宣配布対象を記載した名簿を没収します。

このとき、三浦義村の下には、別途、後鳥羽上皇に与した弟・三浦胤義から密使が届いていたのですが、三浦義村はこれを追い返し、届いた密書を北条義時の下に届けています。

関東の有力御家人に届く前に「北条義時追討の院宣」を回収できた北条義時でしたが、事情が分からない御家人たちは、後鳥羽上皇挙兵の報を聞いて大いに動揺します。

このときまで、朝廷軍に勝利した(朝敵となって勝利した)武士はいなかったからです。

混乱した御家人たちは、後鳥羽上皇挙兵の理由を聞くために、北条政子・北条義時の下に続々と集まってきます。

もっとも、北条政子・北条義時としては、後鳥羽上皇が、「北条義時追討」のために挙兵したなどとは口が裂けても言えません。

そんなことを言えば、北条義時が御家人たちに捕えられて京に送られ、北条家が滅亡する可能性があるからです。

直ちに北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによって軍議が行われ、攻勢派(京に攻め上って速戦即決するべきとする意見、北条政子・大江広元・三善康信ら)と守勢派(箱根・足柄で待ち受けて防衛戦をすべきとする意見、北条時房・三浦義村・足利義氏ら)とにわかれて議論がなされましたが、北条政子と大江広元が自らの意見であるが攻勢論を押し通します。

その上で、北条政子が、承久3年(1221年)5月19日、起死回生の歴史的演説を行います。

北条政子の演説(1221年5月19日)

このとき行われた北条政子の演説は、「吾妻鏡(六代勝事記をもとに編集したもの」と「慈光寺本・承久記」にその概略が記載されています。

簡単に言うと、鎌倉幕府創設以来の源頼朝の恩顧を強調した上で、讒言に基づき鎌倉幕府を滅ぼそうとしている後鳥羽上皇を追悼しなければならないという内容でした。

この北条政子の演説により、御家人たちは北条義時の下で一致団結して後鳥羽上皇と戦う決意を固めたのです。

「北条義時追悼」の院宣であるにもかかわらず、「鎌倉幕府の危機」であるかのように読み替え、事情を知らない御家人たちの協力を取り付けた北条政子のしたたかさが際立っています。

北条義時挙兵(1221年5月21日)

その後、承久3年(1221年)5月21日、院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきたのですが、北条義時は、軍勢の終結を待っていては再び守勢派が盛り返してくると考え、鎌倉幕府の御家人たちが院宣の内容(北条義時追討)を知る前に出陣しようとして、まずは北条泰時率いる先発隊として鎌倉から出立させることに決めます。

承久の乱

北条泰時出陣(1221年5月22日)

そして、承久3年(1221年)5月22日未明、北条泰時は、長男の北条時氏を含めた18騎を率いて鎌倉を出発します。なお、北条泰時が僅かな兵を率いて急ぎ鎌倉を出立した理由は、北条泰時自身が守勢派であったため一刻も早く北条泰時を鎌倉から出す必要があったためとも言われているのですが(承久記)、北条泰時の出陣を見た御家人たちは、鎌倉幕府の危機であると誤解し、次々と参戦の意思を表明したため、対後鳥羽上皇の大軍勢が編成されていきます。

また、同日、少し遅れて同じく守勢派であった北条時房・足利義氏・三浦義村らも、先行して出陣した北条泰時を追って鎌倉を出立しています。

この直後、朝廷に弓引くことを危惧する北条泰時が、途中で一旦鎌倉へ引き返して後鳥羽上皇が自ら兵を率いた場合の対処を北条義時に尋ねたのですが、このとき北条義時は、後鳥羽上皇が出陣してきた場合は降伏し、後鳥羽上皇が出陣しなかった場合は戦えと命じたといわれています(増鏡)。

後鳥羽上皇の対応

他方、北条義時が捕らえていた後鳥羽上皇の使者に宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返したため、後鳥羽上皇はこの使者から事の次第の報告を受けます。

院宣を出せば鎌倉中の武士が北条義時討伐に動いて瞬く間に北条義時が討ち取られると信じ込んでいた後鳥羽上皇は、鎌倉武士が大挙して京に向かって進軍していると聞いて驚愕します。

焦った後鳥羽上皇は、ようやく、全国各地の在地豪族や御家人たちに自らに味方するように求める院宣を乱発し、また防衛のための兵をかき集める作業に入ります。

鎌倉幕府軍が3軍に(1221年5月25日)

北条泰時らが出陣した後、鎌倉幕府から各御家人に対して招集がかけられ、先行組を追って鎌倉を出立していきます(なお、吾妻鏡によると、このとき集まった軍はその後西上していく際に加わった兵も合わせると総勢19万人にも膨れ上がったとされていますが、当時の人口を考えるとおよそあり得ない数であり、せいぜい1万数千騎程度であったと考えます。)。

このとき、鎌倉から京に向かうルート上にいる在地勢力が鎌倉幕府方と後鳥羽上皇方のどちらに味方するかがわからなかったため、西上していく軍は、途中の在地勢力の去就を明らかにしこれらが敵対する場合には討伐する必要があると考えられました。

そこで、鎌倉に集められた武士達は、北陸道・東山道・東海道の三軍に分け、途中の在地勢力を制圧し(場合によっては取り込んで)、京に向かって進軍していくこととなりました。

このときの陣容は、北陸軍は北条朝時を総大将とする4万騎、東山道は武田信光を総大将とする甲斐源氏主体の5万騎、東海道軍は北条泰時・北条時房を総大将とする主力の10万騎であったといわれています。

鎌倉幕府軍が京に向かって侵攻

(1)5月29日

3軍に分かれた幕府軍でしたが、北陸道軍は一番の問題ルートでした。

京までの道のりが他と比べて遠いだけでなく、北陸道が平氏残党である城一族や木曾義仲の残党が残る地域であったためです。

鎌倉を出陣した北条朝時率いる北陸道軍4万騎は、越後国府のある日本海近くまで北上し、承久3年(1221年) 5月29日、後鳥羽上皇の近臣である藤原信成の家人・酒匂家賢らが籠る越後国加地荘の願文山城を撃破し、初戦を飾ります。

その後、北陸道軍は、宮崎定範が守る蒲原の難関、宮崎城も落として越中国へと侵攻していきます。

他方、東海道を進む主力軍は、同年5月30日に遠江国橋本宿に到着し、さらに西に向かって進んでいきます。

対する後鳥羽上皇は、このころ鎌倉幕府軍の西上と北陸方面での敗報を耳にしたため、急ぎ藤原秀康を総大将とする1万7500余騎の軍を編成させ、進軍ルートと予想される東海道と東山道との合流地点である美濃国へ差し向けました。

そして、美濃国に到達した後鳥羽上皇軍は、東海道を上ってくる鎌倉幕府軍を取り囲めるよう、大井戸に大内惟信、鵜沼に神土蔵人、板橋に朝日頼清、池瀬に土岐光行、摩免戸に藤原秀康、稗島に矢野治郎右衛門、食に山田左衛門尉、墨俣に山田重忠・藤原秀澄、市脇に加藤光定が分かれて布陣します。

(2)6月5日(美濃・尾張の戦い)

これに対し、東海道を進んできた北条泰時・北条時房率いる主力の東海道軍10万人は、承久3年(1221年)6月5日に尾張国一宮に到着した際、後鳥羽上皇軍が分散配置していることを知ると、直ちに軍を5軍に振り分け(鵜沼渡に毛利季光・板橋に狩野宗茂・池瀬に足利義氏・摩免戸に北条泰時と三浦義村・墨俣に北条時房と安達景盛)、各個撃破を試みます。

この結果、後鳥羽上皇軍と鎌倉幕府軍の主力の戦いが始まります。

始まりは、池瀬と摩免戸からでした。

また、同日夜、武田信光率いる東山道軍5万人も美濃国に到達し、大井戸渡に布陣した後鳥羽上皇方の大内惟信軍2000騎を撃破して大井戸渡を渡河していきます(なお、承久記によると、この戦いで戦死した後鳥羽上皇方の高桑大将軍が、幕府軍、朝廷軍を通じての戦死第一号とされています。)。

大井戸渡を突破されたことを見たことにより鵜沼渡を守っていた後鳥羽上皇方の神土蔵人が鎌倉幕府方に内応したため、鵜沼渡も早々に突破されます。

(3)6月6日

承久3年(1221年)6月6日に入ると、美濃国・尾張国一体に押し寄せてきた東海道・東山道軍計15万人の勢いに押され、後鳥羽上皇軍が総崩れとなり、布陣していた全ての隊が我先にと京に向かって逃げ帰ってしまう結果となりました(唯一、摩免戸の山田重忠のみが奮戦していましたが、多勢に無勢で支えきれませんでした。)。

その結果、承久3年(1221年)6月6日に墨俣の陣に到達すると、もぬけの殻となった陣にそのまま入ることとなりました。

(4)6月7日

美濃尾張方面を制した鎌倉幕府東山道・東山道軍は、承久3年(1221年)6月7日、合流して野上宿・垂井宿に布陣し、以降の作戦を立てるため軍議を開きます。

ここで、北陸道軍の合流を待つかどうかが協議されたのですが、三浦義村の意見に従い、これを待たずして東海道軍・東山道軍のみで京に向かうことに決まります。

(5)6月8日(砺波山の戦い)

承久3年(1221年)6月8日、京の後鳥羽上皇の下に、美濃国・尾張国において後鳥羽上皇軍が大敗北を喫したとの報が届きます。

この敗報を聞いた後鳥羽上皇は混乱し、自ら比叡山に登って数千人の僧兵を擁すると言われた延暦寺の協力を求めたのですが、それまでの後鳥羽上皇による厳しい寺社抑制政策に恨みを持つ延暦寺に僧兵派遣を拒絶されます。

当初予定していた鎌倉幕府軍からの離反者がなく、西国武士の動員も間に合っていなかった後鳥羽上皇にとって、比叡山延暦寺の僧兵の協力が得られなかったことは鎌倉幕府軍に対する抵抗力を失ったことを意味しました。

同日、北陸道を進む北条朝時率いる北陸道軍が越中国・般若野荘に到達したところで後鳥羽上皇から北条義時追討の宣旨を受け取りますが、北条朝時はこれを無視して京に向かって進んでいき、砺波山で後鳥羽上皇方の糟屋有久・糟屋有長兄弟を撃破します(吾妻鏡)。

なお、この戦いは、後鳥羽上皇方の糟屋有久・糟屋有長、仁科盛遠、宮崎定範といった指揮官が戦死するほどの大激戦であったと言われています。

その後、砺波山の戦いを制した北陸方面軍は、加賀国、越前国を経て近江国に侵攻し、琵琶湖東岸を南下していきます。

(6)6月12日

比叡山から高陽院殿に戻った後鳥羽上皇は、美濃尾張方面から15万人、北陸方面から4万人が迫るという絶望的な状況に対応するため軍議を行います。

軍議の結果、後鳥羽上皇は、京に残る全兵力を集めて大きな川沿いである宇治・木津(南西側)・瀬田(東側)・芋洗・淀(南側)などに布陣させ、これらを最終防衛ラインとして京を死守するという決断を下します。

そして、宇治に源有雅・藤原範茂・佐々木広綱、瀬田に山田重忠・大江親広・藤原秀康・三浦胤義、芋洗に一条信能、淀渡に坊門忠信を派遣します。

10倍以上の戦力差があったため、後鳥羽上皇方の防衛手段は、梅雨時期であったために増水した川を天然の堀とし、これらを橋に戦力を集中して防衛する作戦でした。

他方、これに対する鎌倉幕府軍は、承久3年(1221年)6月12日、北条義時・北条時房率いる東海道・東山道軍が野路駅に到達し、最後の戦いが近づきます。

(7)6月13日(瀬田の戦い)

京に向かう鎌倉幕府は、ここで瀬田橋へ北条時房を・宇治橋方面へ北条泰時を総大将とする軍を向かわせこれらの橋を突破する作戦を立案します。

瀬田方面に向かった北条時房率いる鎌倉幕府軍でしたが、承久3年(1221年)6月13日は梅雨時であったため瀬田川が増水し、また川底に渡河を阻むための縄が貼られていたために鎌倉幕府軍が瀬田川を渡ることが出来ない状態となっていました。

そこで、鎌倉幕府軍は瀬田川に架かる瀬田の唐橋に殺到することとなります。

もっとも、鎌倉幕府軍が瀬田の唐橋に殺到することがわかっていた後鳥羽上皇は、瀬田の唐橋の中央二間の橋板を外し、楯を並べ鏃を揃えるなどして瀬田の唐橋にて待ち受けていました。

瀬田の唐橋に到達し後鳥羽上皇が待ち受けていたことを知った鎌倉幕府軍ですが、瀬田川を渡ることが出来ない以上、瀬田の唐橋を渡るしかありません。

そこで、鎌倉幕府軍は、橋桁のみとなった瀬田の唐橋の強行突破を始めます。

一本道となった瀬田の唐橋を通る鎌倉幕府軍は格好の的となり、雨のように大量に射かけられた矢により犠牲ばかり増えていきます。

もっとも、鎌倉幕府軍は大軍ですので、大量の矢を突破して対岸に渡りきる者が現れ始めます。

そして、対岸に渡りきった鎌倉幕府軍の兵が一定の数に達すると後鳥羽上皇方の弓兵が討ち取られるようになり、次第に後鳥羽上皇軍の矢の勢いが衰えていきます。

こうなると、瀬田の唐橋を渡る鎌倉幕府軍を止めることが出来なくなり、雪崩を打った鎌倉幕府軍により後鳥羽上皇軍が殲滅され、翌同年6月14日には瀬田の唐橋を突破されて大江親広・藤原秀康・佐々木盛綱・三浦胤義が陣を放棄し勝敗が決してしまいます。なお、唯一、佐々木高重が退却を拒否して瀬田にとどまり討ち死にをしています。

(8)6月14日(宇治川の戦い)

また、承久3年(1221年)6月13日には、宇治方面に向かった北条泰時率いる鎌倉幕府軍もまた宇治橋に到達します。

もっとも、宇治川も増水しており、また瀬田橋と同様に宇治橋も橋板が外されて骨組みだけとなっていたのですが、ここでも鎌倉幕府軍の足利義氏と三浦泰村が抜け駆けして橋桁だけとなった宇治橋の強行突破を始めます。

もっとも、一本道となった宇治橋を渡る鎌倉幕府軍に大量の矢が射かけられ、多数の犠牲者を出した鎌倉幕府軍は一旦撤退し、平等院に入ります。

初戦の敗戦を聞いた北条泰時は、陣を敷いていた栗子山(栗駒山)から宇治に陣を移し、その日の戦闘を終了させます。

翌同年6月14日、北条泰時は、近隣の家を打ち壊して筏を作り、宇治川の渡河を始めます。

また、近侍の芝田兼義に浅瀬を探させ、春日貞幸・佐々木信綱・中山重継・安東忠家らに浅瀬を渡らせます。

浅瀬を見つけたとはいえ、激しい矢を避けながら急流の宇治川を渡ることは簡単ではなく、鎌倉幕府軍の兵が次々と濁流にのみ込まれ流されていきました。

その後、相当数の犠牲を重ねた後、北条時氏と佐々木信綱が宇治川を渡りきります。

また、この2人に続いて次々と鎌倉幕府軍が宇治川の渡河を果たし、後鳥羽上皇軍に襲い掛かります。

こうなると、寡兵の後鳥羽上皇軍は防ぎきれません。

結果的に、乱戦に飲み込まれた後鳥羽上皇軍は、敗走を始めます。

鎌倉幕府軍の京乱入

敗将が上皇の下へ(1221年6月15日朝)

承久3年(1221年)6月15日の日の出頃、戦いに敗れた藤原秀康・三浦胤義らが、後鳥羽上皇が移っていた四辻都に駆け付け、宇治と瀬田で後鳥羽上皇軍が敗れ、京に鎌倉幕府軍が迫っていることを報告します。

敗報を聞いた後鳥羽上皇は狼狽し、土御門上皇・順徳上皇・頼仁親王・雅成親王を賀茂や貴船に避難させます。

その上で、後鳥羽上皇は保身のため、後鳥羽上皇は、使者を鎌倉幕府軍に送り、この度の挙兵と北条義時追討の院宣は謀臣の企てによるものであり本意ではなかったとして、北条義時追討の院宣を取り消し、あらためて自らに与して戦った藤原秀康・三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を出し、北条泰時の下に届けさせます。

保身のために後鳥羽上皇に切り捨てられた藤原秀康・三浦胤義・山田重忠らは東寺に籠り、京になだれ込んでくるであろう鎌倉幕府軍と戦う構えを見せます。

鎌倉幕府軍の京乱入(1221年6月15日)

もっとも、承久3年(1221年)6月15日の昼頃から続々と入京して来る北条泰時・北条時房率いる大軍を見た三浦胤義は、もはや抵抗は無意味であると悟り自刃して果てます。なお、三浦胤義の首は兄である三浦義村の下に届けられ、その後北条義時の下へ届けられています。

また、山田重忠も嵯峨般若寺山に逃亡し、そこで自害しています。

同日夜には、鎌倉幕府軍の兵は、京中を探し回って後鳥羽上皇に与した者を虐殺すると共に略奪して回るようになります(余りの虐殺により白刃を拭う暇さえなかったと吾妻鏡に記載されています。)。

また、京中の寺社、公家・武士の屋敷に火が放たれ、このとき死傷した人馬や荒らされた建築物が辺り一面に散乱し、通行もままならない状態となったと言われています。

このとき、上皇の近臣の多くも捕えられ、北面の武士・西面の武士が壊滅したことから、朝廷の存続すら危ぶまれる状態となりました。

なお、先行した東海道軍・東山道軍に数日遅れた北陸道軍は、戦いの帰趨が決した後に入京しています(承久記・慈光寺本では6月17日、百練抄では6月20日、武家年代記では6月24日の入京とされています。)。

戦後処理

後鳥羽上皇に与した者に対する処分

承久の乱に加担した上皇・公家・武士の多くが捕まり、鎌倉幕府においてその処遇の協議がなされます。

① 上皇配流

朝廷の法である律令に天皇や上皇を処罰する規定はなったため、協議が進められます。

そして、承久3年(1221年)6月23日、北条義時と大江広元は、平家滅亡時の文治元年の沙汰にならって、王家・公家の処罰を決定します。

後鳥羽上皇は、死刑を除いた中では最も厳罰とされる配流(遠島への島流し)とされ、承久3年(1221年)7月に出家させられた後、同年7月13日に逆輿(罪人用の手輿)に乗せられて隠岐に流されました(承久記)。

また、後鳥羽上皇に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、後鳥羽上皇に関与しなかった土御門上皇は自ら望んで土佐国に流れていきました(後に阿波国へ移されています。)。

さらに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ流されています。

また、仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降に送られたものです。)は廃され、行助法親王の子が後堀河天皇として即位します。

あわせて、院政の財政的基盤であった八条院領などの所領も鎌倉幕府に没収されて形式的には後堀河天皇に引き継がれたのですが、その後の実質的な所有権は鎌倉幕府に帰属することとなったため、朝廷は経済基盤を失い名目だけの存在となりました。

② 公家の処分

討幕計画に参加した一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂らは、「合戦張本公卿」と名指しされ、鎌倉に送られる途上で処刑されます。

また、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪または謹慎処分となりました。

これらの公暁や院近臣の多くは、後鳥羽上皇の支持を受けて家格の上昇を目指した者たちだったのですが、逆に承久の乱の敗北により衰退もしくは没落していくこととなります。

他方、親幕派であったために戦前に後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経は、鎌倉幕府の意向により戦後に内大臣に任じられ、朝廷を主導する立場にのし上がっていくことになりました。

③ 院の近臣・御家人らの処分

また、承久の乱における戦いで、後鳥羽上皇方に与した廷臣の藤原朝俊・平保教、御家人の大内惟忠(源氏一門・御門葉)・多田基綱・佐々木高重・八田知尚・小野成時らが各地で討死したのですが、生き残った藤原秀康(逃亡先の河内国で捕縛)・藤原秀澄・後藤基清・佐々木経高・河野通信・加藤光員・山田重継、佐々木勢多伽丸らも、その多数の御家人が粛清、追放されました。

なお、大江親広だけは、父である大江広元の嘆願により赦免されています。

この結果、後鳥羽上皇に与した公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任され、これにより多くの東国御家人が西国に所領を獲得して幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになりました。

なお、乱の論功行賞により甲斐源氏の一族もまた畿内・西国の所領を与えられて西国へ進出しています。

六波羅探題設置

承久の乱の後、朝廷が再びこのような企てを起こさないようにするため、北条泰時と北条時房を京に残し、京都守護を廃して朝廷監視の機関として六波羅探題を設置してその長に任命します。

この六波羅探題の設置により、朝廷は鎌倉幕府の監視を受けるようになり、皇位継承をも含めた活動一切について鎌倉幕府の統制を受けることとなりました。

その結果、以降、朝廷は幕府をはばかって細大漏らさず鎌倉幕府に伺いを立てることを強いられるようになり、それまでの鎌倉幕府と朝廷による二元政治が終わり、事実上朝廷が鎌倉幕府に従属するという武家政権が樹立される結果となりました(承久の乱の翌年に生まれた日蓮は、このことを先代未聞の下剋上と評しています。)。

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