【竹田城の戦い】生野銀山獲得を戦略目標とする局地戦

竹田城の戦いは、全国統一戦を進める織田家の中で、中国方面を任された羽柴秀吉が、中国戦線のための軍資金を得る目的で生野銀山を手中に収めようとして山陰方面に進出したことで発生した戦いです。

この点、羽柴秀吉は、自身は山陽方面を担当することとし、山陰方面を最も信頼する弟・羽柴秀長に任せることとしたため、実際には羽柴秀長による攻城戦となりました。

この時点ではまだまだ砦の規模でしかなかった竹田城は、羽柴秀長率いる大軍での攻撃によりわずか3日で陥落し、一帯が羽柴秀長の統治下におかれることとなりました。

その結果、その領域内にあった生野銀山もまた羽柴秀吉の支配下に置かれることとなり、これが羽柴秀吉の中国戦線での資金源となり、ひいてはその後の羽柴家(豊臣家)の懐を支える大黒柱となったのです。

本稿では、この生野銀山攻略戦ともいえる竹田城の戦いについて、発生に至る経緯から簡単に説明したいと思います。

竹田城の戦いに至る経緯

緊張していく織田・毛利関係

それぞれの勢力規模がそれ程大きくなかった時代には比較的有効な関係を築いていた織田家と毛利家でしたが、織田家が全国的に、毛利家が西にそれぞれ勢力を拡大させて領土が接近して行くと事態が動き始めます。

そして、織田家が摂津国まで、毛利家が備前国まで進出してくると、播磨国を挟んで対峙するようになります。

播磨国内の国衆たちに織田と毛利のどちらに与するかの問題を突きつけながら緊張が高まって行ったのですが、この後に織田信長により京を追放された室町幕府第15代将軍の足利義昭が毛利家を頼って亡命したことから一気に対立が表面化しました。

緊張が極限にまで高まったところで、足利義昭が全国の大名に反織田信長包囲網を呼びかけたこと、及び石山戦争の最中に毛利家が本願寺に兵糧を運び込んだこと(第一次木津川口の戦い)で、両家が全面戦争に突入することとなりました。

羽柴秀吉が中国方面司令官になる

毛利家と全面戦争となったことにより、織田信長は、羽柴秀吉を中国方面軍司令官に任命して毛利軍との戦いに向かわせます。

その結果、羽柴家をあげて毛利家討伐に向かうこととなりました。

そこで、羽柴秀吉の弟である羽柴秀長(このころは「羽柴長秀」と名乗っていましたが、本稿では便宜上「羽柴秀長」の表記で統一します)もまたこの戦いに従軍することとなり、兄に従って播磨国に向かいます。

羽柴秀吉の姫路城入り

播磨国に入った羽柴秀吉は、天正五年(1577年)10月23日、播磨国の国衆たちから人質を取り、その支配下に下します。

このとき、播磨国御着城主であった小寺政職もまた、その重臣であった黒田官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を人質として差し出す形で羽柴秀吉に下りました。

また、羽柴秀吉は、黒田官兵衛から、その居城であった姫路城(出雲街道・西国街道へ繋がる交通の要衝でした)を受け取って同城本丸に入ります。

なお、このとき、黒田官兵衛は、自身は姫路城の二の丸に移り、黒田家一族は南方の国府山城(現在の兵庫県姫路市飾磨区妻鹿394−14)に移しています。

姫路城を本拠とした羽柴秀吉は、臣下に下った黒田孝高の人脈や献策を利用して播磨国内で国衆の調略を進めていきます。

中国方面攻略作戦の資金源

他方、播磨国内で調略や軍事作戦を進めるためには莫大な資金が必要となります。

織田家から支給される資金だけでは到底足りません。

そこで、この地方での金策案を検討した結果、羽柴秀吉は、但馬国と播磨国の境界付近に存する生野銀山(現在の兵庫県朝来市)に目をつけます

このとき、生野銀山は、国衆として山名家に従っていた竹田城城主である太田垣輝延の管理下にあったため、生野銀山獲得のため、まずは竹田城の攻略が必要となりました

この結果、羽柴家による竹田城攻略作戦決行が決定します。

竹田城の戦い

羽柴秀長を山陰方面軍司令官に任命

生野銀山獲得のための重要な作戦ではあったものの、入ったばかりでまだまだ不安定な播磨国内の動揺を考慮すると、羽柴秀吉自らが本拠地である姫路城を空けて竹田城攻略に向かうことはできませんでした。

そこで、羽柴秀吉は、最も信頼する弟・羽柴秀長に副官として宮部継潤を付け、数千人の兵を預ける形で竹田城攻略を任せます。

羽柴秀長出陣

羽柴秀長は、天正5年(1577)11月、数千人の兵を率いて姫路城を出陣し、竹田城目指して北上していきます。

真弓峠(生野峠)を越えて但馬へ進軍した羽柴秀長軍は、道中にある岩洲城を陥落させた後で竹田城に向かいます。

竹田城攻城戦

竹田城は険しい山上に築かれた城ではあったのですが、この時点では、物見を主目的とする土塁と木柵で構築した砦程度の規模の山城に過ぎず、現在の竹田城趾からイメージするような石垣で囲まれた強固な防御構造をもった城ではありませんでした(現在残る竹田城趾は、後に入った赤松家により造られたものです。)。

そこで、竹田城に取り付いた羽柴秀長隊は、300挺を擁する鉄砲隊を投入して城に向けて打ち続け、その後に竹田城への総攻撃を敢行しました(信長公記・武功夜話)。なお、居相政貞の案内により奇襲を成功させたとも言われますが、真偽は不明です。

羽柴秀長隊による攻撃は3日間続き、ついに竹田城主であった太田垣輝延が降伏したため、竹田城が陥落します。

竹田城の戦い後

羽柴秀長が竹田城代となる

竹田城を接収した羽柴秀長は、羽柴秀吉から同城の城代と但馬国南半国の制圧を任されます。

その結果、羽柴秀長は、但馬国内の国衆の懐柔と共に、新たに入ってきた羽柴家に対する反発から起こる一揆の鎮圧などに追われることとなりました。

羽柴秀長による竹田城の整備

また、前記のとおり、羽柴方の戦略目的は生野銀山の確保ですので、これを守るための竹田城の維持が必須となりました。

ところが、このときの竹田城は、羽柴秀長が率いた数千人の兵での攻撃によりわずか3日間で陥落する程度の防御力しかなく、生野銀山を守るためには脆弱過ぎました。

そこで、竹田城に入った羽柴秀長は、脆弱な防御力を一新するため、直ちに竹田城の普請に取り掛かりました。

その上で、竹田城と生野銀山を含む一帯の交通網を整備すると共に、生野銀山経営にも積極的に関わっていきました。

そして、この後に生野銀山から上がってくる収益が羽柴秀吉による中国攻めに(ひいてはその後の天下統一事業にも)、おおいに利用され、その助けとなっていきます。

羽柴秀吉による播磨国制圧

播磨国内では、羽柴秀吉が播磨国に入った際に人質を差し出して羽柴秀吉に下った国衆がいた一方で、人質の差し出しを拒否して羽柴秀吉と敵対する道を選んだ国衆も多くいました。

この点、羽柴秀吉は、自ら(織田方)になびかない勢力に対しては強硬策をとり、西播磨の上月城や福原城など力攻めで攻略するなどして服従させていきました。

この結果、羽柴秀吉は、一旦播磨国全域を支配下に治めます。

こうして播磨国を掌握した羽柴秀吉は、姫路城を拠点とし、さらに宇喜多直家の治める備前国への侵攻準備に取り掛かります。

戦局一変

もっとも、この後、別所長治(三木城主)・荒木村重有岡城主)が立て続けに織田家から離反したため、羽柴秀吉・羽柴秀長らによる中国方面侵攻は危機を迎えることとなるのですが、長くなりますので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA