織田信長亡き後、天下統一事業を進めていった羽柴秀吉は、小牧・長久手の戦いにおいて徳川家康の強さを痛感させられました。
そこで、羽柴秀吉は、徳川家康の同盟者であった織田信雄を調略することで小牧・長久手の戦いを終わらせ、その後、周囲の敵対勢力を各個撃破することで徳川家討伐の下準備を整えました。
その上で、羽柴秀吉は、天正13年(1585年)11月13日、徳川家の対羽柴家取次であった石川数正を調略して寝返らせることで、徳川家攻撃の準備を完了します。
この結果、徳川家は存亡の危機に陥ったということは余りにも有名です。
もっとも、ここで大きな疑問が生じます。
徳川家から羽柴家に寝返った石川数正は、人質時代から徳川家康を支えた糟糠の家臣の1人であり、簡単に羽柴家に鞍替えするような人物とは到底言えなかったからです。
実際、徳川家には、これ以前にも三河一向一揆・武田信玄の西上作戦などの数々のお家存亡の危機が訪れていたのですが、石川数正は、先頭に立ってこれを覆してきました。
では、なぜ、徳川家康の腹心中の腹心であった石川数正が、このときに羽柴家に寝返ったのでしょうか。
以下、石川数正出奔について、それに至る状況から順に説明していきます。
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拡大していく徳川領
徳川家康独立(1560年)
徳川家康(当初の名乗りは松平元康ですが、便宜上、以下「徳川家康」の表記で統一します。)は、三河国の国人領主の家に生まれ、生まれた直後から織田弾正忠家と今川家との軍拡競争に巻き込まれ、織田弾正忠家で2年、今川家で11年もの長きに亘る人質生活を強いられています。
そして、石川数正は、徳川家康が今川家の人質になっていた時代から近侍として仕え、幼少期から側近中の側近としてこれを支えました。
その後、徳川家康は、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れて岡崎城に入り、紆余曲折を経てなんとか独立にこぎつけます。
このとき、石川数正は、独立してすぐの苦しい状況下にあった徳川家康を支え、徳川家の維持存続に尽力をしています。
三河国平定(1566年5月)
永禄5年(1562年)正月15日、徳川家と織田家との間で軍事同盟が締結されます(清洲同盟、徳川実記・武徳編年集成など)。
この同盟により西側の安全を確保した徳川家康は、永禄9年(1566年)5月に牛久保城の牧野成定を降伏させ、これをもって織田領となった加茂・碧海両郡の西部地域を除いた三河国の統一を果たします。
三備の制
三河国を統一した徳川家康は、天野康景・高力清長・本多重次の3人を岡崎三奉行(三河三奉行)に任命して三河国内の内政・訴訟の一切を取り仕切らせるなどして富国策を実行していきました。
また、徳川家康は軍制改革にも着手して強兵策も進めます。
具体的には、三河国内を3分することで3軍団(備)を構築し、その中央に徳川家康直轄の旗本衆を置き、西三河一帯を西三河衆として石川家成に、東三河一帯を東三河衆として酒井忠次に委ねました。
これにより三河国内の軍を3つの備として再編成し、3つの作戦行動を同時並行で行えることを可能としたのです。
また、松平一門衆・国衆らを含めた全ての者をこの指揮系統下に入れることとしたため、徳川家康直属部隊以外は、松平一門衆・有力国衆に至るまで西三河衆(旗頭は石川家成→後に石川数正)と東三河衆(旗頭は酒井忠次)という徳川家家老の下に位置付けられ、序列が明確化されたのです。
この制度を三備の制といいます。
徳川家康が遠江国獲得(1569年5月)
徳川家康は、永禄11年(1568年)12月6日、武田信玄と協力して今川領を切り取るとの密約の下、武田信玄による駿河国侵攻に呼応して遠江国への侵攻を開始します。
そして、徳川軍は、永禄11年(1568年)12月に曳馬城を、永禄11年(1568年)12月27日、懸川古城(後の掛川城)を囲みます。
その後、永禄12年(1569年)5月17日、北条家の仲介の下で、どさくさに紛れて占領した駿府今川館を明け渡すのと引き換えに懸川城を無血開城させることに成功し、これを接収してしまいます(なお、このときの仲介を基礎として、同時に徳川氏と北条氏の同盟が締結されます。)。
この結果、徳川家康は、三河国と遠江国という2ヶ国を治める大大名となります。
徳川家の外交関係
そして、徳川家康は、新たに獲得した掛川城を、以降、対武田・対今川の最前線拠点定め、西三河旗頭を務めていた石川家成をスライドさせて城主として入れることとし、西三河旗頭にその甥である石川数正を任命します(これにより、三備の制が一部発展し、徳川家康をトップとし、西三河は石川数正が、東三河は酒井忠次が、遠江国は石川家成がそれぞれ取りまとめるという体制となりました。)。
徳川家における取次
ここで、話を少し遮って、戦国大名の外交関係について見てみます。
戦国時代の日本では、各大名が自らの支配領地を拡大させるため、全国各地で血で血を洗う戦いが繰り広げられていました。
もっとも、戦国時代でも戦争だけが行われていたわけではなく、各勢力間で外交交渉も頻繁に行われていました。
そして、大名同士の外交交渉は、特定の外交担当者においてなされるのが一般的であり、各大名家における他家との外交担当者を取次と呼んでいました。
この点については、後に天下を統一した徳川家も同様であり、徳川家康もまた他家との外交関係を構築するため取次を駆使していました。
そして、三河及び遠江を獲得した時点での徳川家では、東三河旗頭を務めていた酒井忠次が、小田原北条家・尾張織田家・甲斐武田家・越後上杉家などとの取次を一手に担っていました。
もっとも、天正3年(1575年)ころから、酒井忠次に次ぐ徳川家宿老として石川数正もまた尾張織田家との取次を務めるようになっていったため(当代記など)、織田家に対しては酒井忠次及び石川数正という徳川家2大宿老で周辺大名との外交が行われていたことがわかります。
徳川家康が駿河国獲得(1582年)
天正10年(1582年)3月に武田家が滅亡すると、織田信長の主導によって武田遺領の分割が行われます。
このとき、織田信長は、武田遺領のうち、信濃国を森長可と毛利秀頼に、甲斐国を河尻秀隆に、上野国を滝川一益にそれぞれ与えたのですが、徳川家康にもまた駿河国が与えられました。
このときの駿河国付与は、徳川家康が安土城にいた織田信長の下に赴いて賜るという形で行われていることから、この時点では、徳川家が織田臣下の一大名に下っていたことがわかります。
織田信長死後の織田・徳川関係
天正10年(1582年)6月2日に織田信長が死去したのですが(本能寺の変)、織田信長死後も織田・徳川の同盟関係は継続し、徳川家側では石川数正と酒井忠次が続けてその取次を務めています。
他方、織田家中では羽柴秀吉が台頭し、徳川家との取次についても羽柴秀吉がこれを担うようになりました。
もっとも、羽柴秀吉が、天正10年(1582年)11月1日付で石川数正宛に送った書状が残されているところ、そこには同日よりも前から石川数正と羽柴秀吉が親しい関係にある旨が記載されています。
その後、羽柴秀吉が、織田家中における織田信雄と織田信孝との争いに便乗して織田家筆頭家老の地位に上り詰め、ついには事実上の当主となっていた織田信雄を凌駕する力を獲得します。
そんな羽柴秀吉に対し、徳川家からはその後も主に石川数正が取次を務めました。
この結果、羽柴秀吉と石川数正との仲はますます親密なものとなっていきます。
徳川家康が甲斐国・信濃国獲得
他方、織田信長の死亡により武田旧臣などが一斉に反乱を起こし、織田氏の領国支配体制が固まっていなかった旧武田領国(甲斐・信濃・上野西部)は混乱し、権力の空白状態となります。
この権力空白地帯となった旧武田領国をめぐって、隣接する北条家・徳川家・上杉家が争奪戦を繰り広げ、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽家や真田家らの国衆などの動きが絡んで大きな起きた争いとなりました。
すったもんだの戦いが続いたのですが(天正壬午の乱)、最終的には徳川家康が甲斐国・信濃国を平定することに成功します。
この結果、徳川家康は、5ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)を領する大大名となりました。
徳川家康と羽柴秀吉の戦い
小牧・長久手の戦い
本能寺の変で織田信長が横死した後、謀反人・明智光秀を討った豊臣秀吉が力をつけた羽柴秀吉が、織田信長宿老であった柴田勝家を破り、織田信長三男の織田信孝を切腹させるなどして織田家の乗っ取りを進めていきました。
そして、羽柴秀吉が織田家乗っ取りの総決算として織田信長二男の織田信雄の排除に取り掛かったところで、織田信雄が、羽柴秀吉に対抗するために天正壬午の乱を有利に進めて大きく勢力を強めた徳川家康に接近したことから羽柴秀吉と徳川家康が対立することとなりました。
この結果、織田信雄と徳川家康が反豊臣秀吉を掲げて挙兵したのですが、その際、同じく豊臣秀吉の勢力拡大に危機感を持っていた長宗我部元親・北条氏政・佐々成政・雑賀衆らもこれに呼応して蜂起したため、秀吉包囲網が構築されることとなりました。
後に小牧・長久手の戦いと呼ばれるこの戦いは、羽柴軍が、織田信雄の本拠地であった尾張国に攻め込む形で始まったのですが、機先を制していち早く小牧山城を確保した徳川家康が優位な立場をとることから始まりました。
その後、徳川家康が、徳川家康の拠点の1つである三河国攻撃を目指した豊臣方の池田恒興・森長可らを巧みな戦術で打ち取るなどの局地的戦果を挙げたものの(長久手の戦い)、徳川方に豊臣家の物量を覆すほどの決定力はありませんでした。
他方で、羽柴秀吉としても、尾張国を中心に続いていた徳川家康と豊臣秀吉との戦いが秀吉包囲網により全国に波及し、連動した戦いが北陸・四国・関東など全国各地で行われた結果、全戦力を投入して徳川家康を討ち果たすことができませんでした。
この結果、互いに決定力を欠き、戦線が膠着していたずらに時間だけが過ぎていくこととなりました。
羽柴秀吉と織田信雄との和睦
尾張国戦線が膠着して大きな動きがなくなったところで、羽柴秀吉が奇策に出ます。
徳川家康に手を焼いた羽柴秀吉が、天正12年(1584年)11月11日、織田信雄に対し、伊賀国と伊勢半国の引き渡しを条件に講和を申し入れたのです。
織田信雄が徳川家康に無断でこの申し出を受諾してしまったため、総大将の脱落により戦いの大義名分を失ってしまいます。
そのため、徳川家康は、同年11月17日に小牧山城を出て帰国することとなり、その結果小牧・長久手の戦いが痛み分けで終わります。
この小牧・長久手の戦いを総合的に見ると、戦術的には局地戦で勝利を重ねた織田信雄・徳川家康連合軍の勝利と言えるのですが、戦略的に見ると美濃国・伊賀国・伊勢国南部において織田信雄の影響力を排除した羽柴秀吉の戦略的勝利と言える結果に終わっています。
豊臣秀吉と徳川家康との和睦
織田信雄との和睦を成立させた羽柴秀吉は、続けて滝川雄利を使者として浜松城に送り、徳川家康に対して和睦条件として人質を差し出すよう求めます。
織田信雄という大義名分を失った羽柴秀吉と対立する理由が無くなってしまった徳川家康は、次男である於義丸(後の結城秀康)を羽柴秀吉の養子(羽柴秀吉側の認識は人質)として大坂に差し出すことで両者の対決もまた終結に至りました。
なお、於義丸が大坂に送られる際、徳川家取次として石川数正が供をしています。
秀吉包囲網各個撃破
こうして織田信雄及び徳川家康と和睦した羽柴秀吉は、尾張方面の安全が確保したことにより軍を反転させ、秀吉包囲網を構成していた勢力の各個撃破作戦を始めます。
この点、秀吉包囲網を形成していた各勢力は、個別の勢力としては豊臣家の攻撃を耐え得るほど強大なものではなく、紀州(1585年3月)・四国(1585年6月)・富山(1585年8月)が続けて各個撃破されていきました。
天候不順による徳川領の疲弊
他方、徳川領では、小牧・長久手の戦いが始まる前である天正11年(1583年)7月に発生した3ヶ月間にも及ぶ大雨により領内が疲弊し(家忠日記では50年来の大水と記載)、さらに小牧・長久手の戦いによる負担がさらに経済状況を悪化させていました。
そのため、徳川領では、小牧・長久手が終わる頃には田畑の荒廃により大規模な飢餓が広がっていくような状況であり、領国の立て直しが急務となっていました。
第一次上田合戦(1585年8月)
羽柴秀吉が越中国の佐々成政討伐(富山の役)に向かっていた天正13年(1585年)8月、豊臣秀吉を牽制する意味もあって、徳川家康は、豊臣方に与する真田家討伐に軍を派遣します。
甲斐国から諏訪道を通って北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開した徳川軍は、合計1200人の兵で真田方は約1200人であったと言われ、上田城(真田昌幸)、戸石城(真田信幸)、矢沢城(矢沢頼康)への攻撃を試みます。
もっとも、真田方の巧みな戦術や、上杉家からの援軍などにより城攻めが難航し、戦線が膠着してしまい、小牧・長久手の戦い以後の羽柴秀吉快進撃を尻目に徳川家にとって苦しい時代が続いていきました。
羽柴秀吉による徳川討伐準備
羽柴秀吉からの臣従圧力
快進撃を続ける羽柴秀吉は、苦しい状況となっていた徳川家を見て、徳川家康に対して追加で人質を差し出して臣従するよう要求します。
意見が二分する徳川家中
小牧・長久手の戦いの際には局地戦で勝利した徳川家康でしたが、このような劇的な勝利を繰り返すことは容易ではなかった上、同戦後の秀吉包囲網崩壊によってさらに戦力差が大きく開いてしまったため苦しい立場に立たされます。
このとき、羽柴秀吉からの追加の人質要求に対し、主に羽柴家との取次担っていた石川数正が羽柴秀吉の要求に応じるべきと主張し、他方で主に北条家などの大大名との取次担っていた酒井忠次が羽柴秀吉の要求を拒否するべきと主張し、徳川家中で意見が二分していきました。
石川数正が政争で敗北
そして、徳川家中では、石川数正に同調する穏健派と、酒井忠次に同調する武闘派に分かれ政争に発展していきました。
このとき、本来であれば、徳川家当主である徳川家康が争いを調整し、議論を軟着陸させるべきなのですが、徳川家康はどちらに与することもできず、何もすることなく家中の混乱を放置してしまいました。
その結果、徳川家中の対立が対応不能な程度にまで拡大し、最終的には武闘派が穏健派を無理矢理押さえ込む形で決着するに至りました。
羽柴秀吉と再対立決定
この結果を受け、徳川家康もまた武闘派の主張を受け入れざるを得なくなり、最終的には、徳川家康の判断ということとして羽柴秀吉による臣従申し出を拒絶し、敵対することに決まります。
そして、政争に敗れた穏健派は、徳川家中での立場を失ってしまうこととなりました。
石川数正出奔
羽柴秀吉による調略
この徳川家中のゴタゴタを、羽柴秀吉が見逃すはずがありません。
羽柴秀吉は、羽柴・徳川間の関係を維持しようと奔走していた徳川家取次役の石川数正に対し、破格ともいえる10万石の条件を提示すると共に徳川家滅亡の危険をちらつかせて寝返りを促します。
石川数正出奔(1585年11月13日)
直前の徳川家中での政争に敗れていた石川数正は、そのまま徳川家に止まったとしてもその立場が弱まって行くことは明らかでしたので、羽柴秀吉の申し出に思い悩みます。
そして、石川数正は、悩み抜いた末、天正13年(1585年)11月13日、徳川家から出奔し、10万石を条件として豊臣秀吉の下に下るという決断を下しました。
この時点で53歳であった石川数正は、当時としては最晩年に近い年齢と言え、徳川家中での政争に敗れたことを理由として隠居して次世代に委ねるという選択もあったはずです。
ところが、石川数正は、隠居ではなく寝返りを選択したのです。
この石川数正出奔の主たる理由は、必ずしも明らかとはなっておらず、今日に至るまで様々な説が唱えられています。
一次資料が存在しないために確定的な判断はできません。
羽柴秀吉と徳川家康との対立決定
もっとも、主たる理由が何であるにせよ、石川数正出奔という事実が何を意味するかは明らかです。
徳川家における羽柴家との取次を担っていた石川数正の出奔は、羽柴家と徳川家との外交ルート遮断を意味します。
そのため、石川数正出奔により羽柴秀吉と徳川家康との再対決が決定するに至りました。
また、徳川家の軍事機密を多く知る数正の出奔は徳川家にとって大きな痛手でとなり、家中の動揺が頂点に達します(参州実録御和談記)。
石川数正が岡崎城代を務めていたため、国境の防衛情報が筒抜けとなったことも問題となりました。
徳川家存亡の危機
豊臣秀吉による徳川討伐準備
石川数正を迎え入れることにより徳川軍の全容を理解した羽柴秀吉は、すぐさま得た情報を基に徳川領侵攻作戦を立案します。
そして、羽柴秀吉は、徳川領侵攻準備のため、天正13年(1585年)11月18日、最前線基地となる大垣城に兵糧蔵を建築した上で、15万人分・5000俵とも言われる大量の兵糧の備蓄を開始します(一柳文書)。
徳川家康討伐を宣言(1585年11月19日)
その上で、羽柴秀吉は、天正13年(1585年)11月19日、徳川家康討伐を宣言します。
羽柴軍が大垣城に集結
徳川領侵攻のため、羽柴秀吉は、400万石程度と言われた自領から召集した兵のみならず毛利家・宇喜多家・制圧したばかりの四国勢に動員を命じ、小牧・長久手の戦いを遥かに超える兵の準備を進めていきました。
そして、羽柴秀吉は、これらの兵を兵站基地と定めた大垣城に向かわせ、同城を中心として前線となる城に10万人とも言われる兵を集結させていきました。
これに対し、徳川家では、140万石程度と言われる直轄領から4万人程度(1万石あたり250人と仮定)を動員すると共に、娘の嫁ぎ先であった北条家に援軍要請を行なって迎撃準備を進めていきました。
以上の状況を見ると、徳川家側は、動員兵数が豊臣家の半数に満たない上、小牧長久手の戦いのときのような秀吉包囲網もなく、さらにはかつて味方であった万単位の兵を動員できる織田信雄が敵に回るという圧倒的に不利な状態で戦わなければならなくなってしまいました。
徳川家康に勝ち目があるとは到底考えられません。
天正大地震発生(1585年11月29日)
羽柴秀吉は、徳川領侵攻について自ら指揮をとることを決め、京から出陣してまずは前線基地となっていた大垣城を目指して東進していきました。
ところが、東進していた羽柴秀吉が、道中の坂本城に入っていた際にまさかの事態が起こります。
天正13年11月29日(1586年1月18日)夜、中部地方を震源とする巨大内陸地震(天正大地震)が発生したのです。
この大地震により、羽柴方の兵站基地としていた大垣城が倒壊・焼失し、そこに集めていた15万人分の兵糧などが失われます。
そればかりか、羽柴秀吉の下に、対徳川最前線となる近畿・中部地方にある領地に甚大な被害が出ているとの報告が次々と届けられます。
こうなると、豊臣秀吉に求められるのは領内復興であり、徳川家康征伐を行う余裕はなくなります。
そこで、羽柴秀吉は、武力による徳川家康征伐を諦め、外交政策により徳川家康を臣従させる方法へと政策変更することとしたのです。
その後の石川数正
徳川家康との戦いを回避することとなった羽柴秀吉は、利用価値の低下した石川数正に河内国内8万石を与えて、一旦手元にとどめおきます。
そして、羽柴秀吉は、天正18年(1590年)に徳川家康を関東に移封すると、石川数正に信濃国筑摩郡・安曇郡8万石に加増移封しました。