【第一次上月城の戦い】羽柴秀吉による西播磨攻略戦

第一次上月城の戦いは、全国統一戦を進める織田家の中で、中国方面を任されて播磨国に入った羽柴秀吉が、播磨国内で抵抗する勢力を力攻めで滅ぼしていくために行われた最初の主要な攻城戦です。

中国方面侵攻を任された羽柴軍では、羽柴秀吉自身が山陽方面を、弟・羽柴秀長が山陰方面を担当することとなったため、羽柴秀吉が山陽方面に位置する上月城を攻撃する流れとなりました。

攻城戦自体は、羽柴軍優勢の下で順調に進んで短期間で城は陥落したため、攻城戦事態に特筆すべき点があったと伝えられてはいません。

もっとも、この戦いでは、羽柴秀吉が、上月城側からの降伏申出を拒否し、見せしめのために城内に籠った者を皆殺しにし、その遺体を毛利家との国境線上に晒すという非人道的行為を行ったことで有名です。

本稿では、この第一次上月城の戦いについて、発生に至る経緯から順に説明していきたいと思います。

第一次上月城の戦いに至る経緯

緊張していく織田・毛利関係

それぞれの勢力規模がそれ程大きくなかった時代には比較的有効な関係を築いていた織田家と毛利家でしたが、織田家が全国的に、毛利家が西にそれぞれ勢力を拡大させて領土が接近して行くと事態が動き始めます。

そして、織田家が摂津国まで、毛利家が備前国まで進出してくると、播磨国を挟んで対峙するようになります。

播磨国内の国衆たちに織田と毛利のどちらに与するかの問題を突きつけながら緊張が高まって行ったのですが、この後に織田信長により京を追放された室町幕府第15代将軍の足利義昭が毛利家を頼って亡命したことから一気に対立が表面化しました。

緊張が極限にまで高まったところで、足利義昭が全国の大名に反織田信長包囲網を呼びかけたこと、及び天正4年(1576年)7月13日に石山戦争の最中に毛利家が本願寺に兵糧を運び込んだこと(第一次木津川口の戦い)で、両家が全面戦争に突入することとなりました。

羽柴秀吉が中国方面司令官になる

この時点での毛利家の東側の勢力範囲は美作国・備前国までであり、他方織田家の西側の勢力範囲は摂津国まででしたので、播磨国が両家の緩衝地帯となっていました。

そうした中、織田家の勢力拡大に抵抗するため、毛利家が、天正5年(1576年)4月に播磨国に軍を派遣して播磨国内の国衆の制圧を進め、また同年8月には瀬戸内に水軍を派遣して三好家制圧と瀬戸内制海権の確保を進める形で東に向かって勢力範囲の拡大を図っていきました。

これに対し、織田家としても、毛利家が手にする前に播磨国を抑えてしまう必要が出たため、織田信長は、羽柴秀吉を中国方面軍司令官に任命して播磨国の制圧に向かわせます。

その結果、播磨国内で、織田家と毛利家との領地獲得戦(国衆調略戦)が行われることとなったのです。

羽柴秀吉の姫路城入り

播磨国を制圧するために東側から同国に入った羽柴秀吉は、天正5年(1577年)10月23日、まずはこの時点で織田家に与する播磨国国衆たちから人質を取り、その支配下に組み入れます。

このとき、播磨国御着城主であった小寺政職もまた、その重臣であった黒田官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を人質として差し出す形で羽柴秀吉に下りました。

また、羽柴秀吉は、黒田官兵衛から、その居城であった姫路城(出雲街道・西国街道へ繋がる交通の要衝でした)を受け取って同城本丸に入ります。

なお、このとき、黒田官兵衛は、自身は姫路城の二の丸に移り、黒田家一族は南方の国府山城(現在の兵庫県姫路市飾磨区妻鹿394−14)に移しています。

姫路城を本拠とした羽柴秀吉は、臣下に下った黒田孝高の人脈や献策を利用して播磨国内で国衆の調略を進めていきます。

その上で、羽柴秀吉は、中国方面攻略作戦の資金源を確保するため、但馬国と播磨国の境界付近に存する生野銀山(現在の兵庫県朝来市)に目をつけます。

この点、生野銀山獲得のための重要な作戦ではあったものの、入ったばかりでまだまだ不安定な播磨国内の動揺を考慮すると、羽柴秀吉自らが本拠地である姫路城を空けて竹田城攻略に向かうことはできませんでした。

そこで、羽柴秀吉は、最も信頼する弟・羽柴秀長(このころは「羽柴長秀」と名乗っていましたが、本稿では便宜上「羽柴秀長」の表記で統一します)に副官として宮部継潤を付け、数千人の兵を預ける形で竹田城攻略を任せます(竹田城の戦い)。

第一次上月城の戦い

羽柴秀吉による播磨国制圧戦開始

播磨国内では、羽柴秀吉が播磨国に入った際に人質を差し出して羽柴秀吉に下った国衆がいた一方で、人質の差し出しを拒否して羽柴秀吉と敵対する道を選んだ国衆も多くいました。

そこで、羽柴秀吉は、自ら(織田方)になびかない勢力に対しては強硬策をとり、力攻めで屈服させていくこととしました。

羽柴秀吉軍西進

北上する羽柴秀長隊を見送った後、羽柴秀吉は、天正5年(1577年)11月、兵を率いて姫路城を出陣し、自らは西に向かって進んで行きます。

このときの主目標は、備前・美作・播磨三ケ国の境(備作撫之堺目)にある上月城(現在の兵庫県佐用郡佐用町)でした。

上月城は、対毛利戦線の最前線に位置するだけでなく、交通の要衝に位置する極めて重要な城でした。

また、西播磨における赤松七条家の居城となっていたところ、城将の赤松政範が、羽柴秀吉の調略を拒否し、毛利方の宇喜多直家から援軍を借り受けて羽柴秀吉と戦うことを選択したため、羽柴秀吉の攻撃対象となりました。

羽柴秀吉隊が佐用郡へ侵入した時点で、佐用郡内で羽柴方に抵抗する城は上月城・福原城・利神城の3城であったため、羽柴秀吉は、同年11月27日、竹中半兵衛と黒田官兵衛に福原城を攻撃させて攻め落とし、翌同年11月28日に上月城に取り付きます。

上月城陥落(1577年12月3日)

上月城に取り付いた羽柴秀吉は、上月城の東側にある高倉山に本陣を置いた上で、上月城の周囲に三重の柵を巡らせることにより、上月城を外部から遮断してしまいます。

兵站の道が絶たれ、毛利方からの援軍も間に合わないと判断した上月城側は、羽柴秀吉に対して降伏の申し入れをしたのですが、羽柴秀吉はこれを拒否します。

そして、羽柴秀吉は、上月城に対する総攻撃を開始し、天正5年(1577年)12月3日、江原親次の謀反もあって上月城が陥落寸前となります。

後がなくなった上月城では、城将の首をとって羽柴秀吉に差し出し、城兵の助命嘆願を行いました。

この嘆願に対し、羽柴秀吉は、受け取った城将の首を安土城にいた織田信長の下へ送り届けて指示を仰いだのですが、織田信長は、城兵の助命は認めず皆殺しにするよう回答します(信長公記)。

織田信長としては、今後の戦局を有利に進めるために、織田方に抵抗した場合にはどのような目に遭うのかを周知させる必要があると考えたからです。

皆殺しの命を受けた羽柴秀吉は、上月城に籠った城兵を皆殺しにする形で上月城を攻め落とし、第一次上月城の戦いが終わります。

見せしめ

そして、この後に更なる凄惨な殺戮劇が行われます。

羽柴秀吉は、毛利方になびく者を減らす目的で、城に入っていた200人以上と言われる女子供までも皆殺しにし、女性は磔・子供は串刺しにして、城兵の首と共に国境地帯に並べ置いたのです(下村文書)。

 

第一次上月城の戦い後

尼子勝久に上月城を預ける

上月城を獲得した羽柴秀吉は、尼子家復興を目指す尼子勝久を上月城代に任じ、その家臣である山中幸盛ら尼子党に城の守りを任せて自らは姫路城へ引き上げました。

尼子勝久・山中鹿之助らを上月城に入れた理由は、同人らは、尼子家を滅亡させた毛利家に強い恨みを持っているため毛利方に裏切る可能性の低く、また出雲の雄であった尼子家の名で周囲の国衆の調略が期待でき、さらには新参者であるため討ち取られても大勢に影響しないことなどメリットが多く最前線の城を任せるのに最適の人選だったからです。

そして、この後、上月城が織田軍の対毛利最前線拠点として機能することとなりました。

上月城に入った尼子勝久は、山中鹿之介の補佐と羽柴秀吉の援助の下、尼子家滅亡後散り散りになっていた旧家臣の結集や周囲の協力勢力との調整を進め、織田軍の最前線の城として軍備を整えていきました。

前線で孤立する羽柴軍(1578年2月)

上月城を攻略したことにより、羽柴軍の勢力圏が播磨国西端に到達し、いよいよ本格的な毛利領侵攻を始めようとしたところで思いもかけない事態に陥ります。

天正6年(1578年)2月、東播磨の三木城主である別所長治が離反して毛利側についたのです。

別所長治が織田信長から離反したことにより、その影響下にあった東播磨の諸勢力、御着城主・小寺政職、西播磨の宇野家などが次々とこれを支援することとなり、播磨国の情勢が一変して反織田に染まります。

これにより、姫路城の羽柴秀吉と上月城の尼子勝久が、西に宇喜多、東に別所、南に瀬戸内に毛利水軍という三方を囲まれることとなり、最前線にて孤立してしまうことになりました。

苦しくなった羽柴秀吉は、畿内方面の織田軍との兵站を回復させるべく兵を東に向けたのですが、別所長治が三木城に籠って抵抗の姿勢を示したため羽柴秀吉軍は東播磨に釘付けとなります(三木合戦)。

もはや毛利攻めどころではありません。

また、さらに悪いことに、同年7月には、有岡城主・荒木村重までもが織田方から離反し、羽柴軍は危機的状況に陥ります。

第二次上月城の戦い

西播磨から羽柴軍が引いたのを好機と見た毛利輝元は、吉川元春・小早川隆景らを率いて自ら大軍を率いて出陣し、天正6年(1578年)4月18日、上月城を包囲します(第2次上月城の戦い)。

羽柴秀吉は、やむなく三木城から一部の兵を割いて上月城救援に向かわせたのですが毛利軍の上月城包囲網を突破することはできず、織田信長からも三木城攻めを優先するよう指示がなされたことから、上月城は織田軍から見捨てられます。

その後、同年7月1日、孤立した尼子勝久は城兵の助命を条件として毛利輝元に降服し、一族と共に自害して果てました(山中鹿之助は、捕らえられ備後国鞆に移送途中に備中国高梁で誅殺されています。)。

中国戦線戦局が羽柴方へ傾く(1578年11月)

以上の経過から、西播磨を失い、かつ東播磨で孤立した羽柴軍(中国方面織田軍)の敗北が決定付けられるかに思われたのですが、これを一変させる事態が起こります。

織田軍により包囲されていた石山本願寺に物資を運ぶために出陣した毛利水軍が、天正6年(1578年)11月6日、木津川口において織田水軍(九鬼水軍)の鉄甲船により壊滅し(第二次木津川口の戦い)、毛利家が瀬戸内海の制海権を失ったのです。

このことは、その反射効として織田方が瀬戸内海の制海権を得たこと(羽柴秀吉軍に海路での物資搬入が可能となったことのみならず、海路で有岡城へ毛利軍を送ることが困難となったこと)、ひいては羽柴軍の包囲が解かれたことを意味します。

こうなると、戦局は戦力に優る織田方の圧倒的優位に進んでいくこととなり、ここから羽柴軍の快進撃が始まるのですが、以降の話は長くなりますので別稿に委ねたいと思います。

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