【三備の制】三河国統一後に編成された徳川家康の軍制

三備の軍制(みつぞなえのぐんせい)とは、三河国を統一した松平家康(後の徳川家康)が、系統を明確にして機動的な軍の編成をすると共に、宗家の座を巡って度々反乱を起こしていた松平一門衆に序列を認識させるために構築されたピラミッド型の軍事支配システムです。

三備の軍制により、それまでバラバラに戦っていた兵を指揮官の指揮の下で効率的に運用できるようになり、野戦に強い三河武士の礎となりました。

本稿では、徳川家康躍進を支えた三備の軍制について簡単に説明したいとおもいます。

三備の制創設の経緯

三備の軍制以前の軍政

三備の軍制以前の徳川家(松平家)の軍制は、臣下の将や各小領主が、それぞれの領内から兵を動員する形で集められた混生軍で成り立っていました。

徳川家康(当時は、松平元康と名乗っていましたが、本稿では徳川家康で統一します。)の指揮する直臣団は、桶狭間の戦いの後の200騎程度から三河一向一揆鎮圧後には600騎になり、勢力の拡大に伴ってその数が膨れ上がっていったのですが、その本質に変わりはありませんでした。

これに従属した国衆の兵も加えるため、総数が多くなっても、それらは、それぞれの小集団の主の命によって戦うにすぎない、いわゆる烏合の衆の集団という性質を持っていました。

三河国平定(1566年5月)

徳川家康は、永禄9年(1566年)5月に牛久保城の牧野成定を降伏させ、これをもって織田領となった加茂・碧海両郡の西部地域を除いた三河国の統一を果たします。

三河国を統一した徳川家康は、富国強兵を目指して様々な改革に着手します。

まずは、天野康景、高力清長、本多重次の3人を岡崎三奉行(三河三奉行)に任命して三河国内の内政・訴訟の一切を取り仕切らせ、富国を目指していきます。

次に、徳川家康は、三河国統治の正当性を明らかにするために三河守任官の申請をします。

軍政改革

その上で、徳川家康は、強兵を目指して軍政改革を行います。

目的は、さらなる領土拡大のために指揮系統を明確にして機動的な軍の編成をすると共に、宗家の座を巡って度々反乱を起こしていた松平一門衆に序列を認識させることにより徳川家康を頂点とするピラミッド型の支配システムを作り上げることでした。

備(そなえ)とは

ここで、三備の説明の前提として、その構成単位である「備」について簡単に説明します。

戦国時代以前の合戦では、律令制に基づく軍団制の時期を除き、領主が自身の治める領地から動員して兵を集めており、共同作戦が展開される場合であっても部隊編成が行われたり、緻密な作戦行動が行われたりすることはほとんどありませんでした。

これは、律令制崩壊以降は御恩と奉公という主従関係に基づいた、人的繋がりを重視する部隊編成を行わざるをえなかったためです。

そのため、源氏や平家という武家の棟梁と呼ばれる人物が大軍を率いるような場合であっても、それぞれの小領主が領民を率いて集まったものの集合体という存在にすぎず、いわば大軍の烏合の衆に過ぎず、合戦でもバラバラに戦うのが常識でした。

ところが、時代が下って戦国期になっていくと、小領を次々と併合して大領主となっていく者が現れ始め、これらの者はその領内で中央集権化を進めていき、動員できる兵も多くなっていきました。

また、頻発していく領国間の紛争に伴う恒常的な臨戦態勢が必要となり、足軽といった新たな戦力が加わってくると、大領主の中から、兵を各種足軽(弓・鉄砲・槍)隊、騎馬武者隊、小荷駄隊などに編成した上で、戦闘可能な部隊として作り上げる者が現れ始めます。

このうち、部隊編成のうちで、その集団で独立した作戦行動を採れる基本単位とされたものを備(そなえ)と呼ぶようになりました。

イメージでいうと、近代軍の師団みたいなものです。

1つの備の人員は300〜800人、本陣備の場合は1500人前後であることが多いのですが、率いる者の石高等によって増減します。なお、余談ですが、石高1万石の領主を大名と呼ぶのは、1万石が自分の家臣だけで 1つの備を編成して作戦行動ができる最低石高であったことに起因しています。

戦国期になると、この備を強調するために甲冑や旗指物の色を統一する「色備え」が行われることもあり、それらのうちでは赤備えや北条五色備などが有名です。

三備の軍制

徳川家康は、軍制改革の手始めに自身の指揮下にある全軍を、3つの備に分けました。

統治下に治めた西三河一帯を西三河衆として石川家成に、東三河一帯を東三河衆として酒井忠次に委ね、これとは別に編成した徳川家康直轄の旗本衆を編成することにより、三河国内の軍を3つの備として再編成したのです。

これにより、3つの作戦行動を同時並行で行えることとなりました。

また、松平一門衆・国衆らを含めた全ての者をこの指揮系統下に入れることとしたため、徳川家康直属部隊以外は、松平一門衆・有力国衆に至るまで西三河衆(旗頭は石川家成)と東三河衆(旗頭は酒井忠次)という徳川家家老の下に位置付けられ、序列が明確化されたのです(三備の制)。

この効果は絶大で、それまで反抗的態度を繰り返してきた松平一門衆や国衆たちを徳川家康の家臣に過ぎない旗頭の下に配置することにより、身分の序列を明確化して一族間の宗家争いを封じ、徳川家康を頂点とするピラミッド構造が作り上げられました。

そして、西方面戦線の場合には西三河衆が最前線で戦い、他方で東方面戦線の場合には東三河衆が最前線で戦うこととなります。

では、以下、編成した3つの備につき、旗本衆・西三河衆・東三河衆の順に紹介します。

旗本衆

まず、徳川家康の直属部隊として編成された旗本衆です。

その名は、本陣旗を守る近さで徳川家康の傍に付き従っていたことに由来します。

旗本衆には、当時の徳川家康に直接従っていた小領主が割り当てられました。

これらの者たちは、松平一門衆や国衆らとは異なり、単独で率いる兵は少数でしたが信頼度は高く、後の徳川家を担っていく人材達でした。

そこで、徳川家康は、選抜した家臣を旗本衆として重用し、これにその他の直臣衆を与力として付属させることによって弱体勢力であった旗本衆の権限強化を図っています(寄騎同心制)。

① 馬廻衆

馬廻衆は、旗本衆のうちの徳川家康の周囲(馬廻り)に付き従った護衛・伝令等に部隊です。

側近として取次などの吏僚的な職務を果たすこともあったのですが、本陣に危機が迫ったときには、徳川家康を守る最後の砦となる部隊として機能したりしますので武芸に秀でた者で構成されました。

徳川家康直轄の馬廻衆としては、服部半蔵・蜂谷貞次・渡辺守綱など挙げられます。

② 旗本先手役

旗本先手役は、旗本衆のうちの徳川家康直属の機動部隊として新たに編制された部隊です。

先手役は旗本部隊の先手として徳川家康指揮下の備としての戦闘を行うだけでなく、総指揮をとる徳川家康の命により即応部隊として全軍としての徳川軍の帰趨を決める働きを果たすことも多くありました。

旗本先手役に属した者は、能力が高いにもかかわらず身分がそれほど高くない者を中心として抜擢人事が行われ、日常から徳川家康の居城に常駐し、徳川家康の本拠地移転の際もそれに従って岡崎城→浜松城→駿府城とその居を移しています。

旗本先手衆の多くは幼少期から徳川家康に仕えていた側近衆であり、これらを将に抜擢して重用することで、松平一門衆や国衆達をけん制する役割をも担わせていました。

徳川家康直轄の旗本先手役としては、大久保忠世本多忠勝(55騎の寄騎付属)・鳥居元忠・大須賀康高・植村家存・小栗吉忠・柴田康忠・榊原康政(永禄10年/1567年に追加、4騎の寄騎付属)・本多重次(天正4年/1576年に追加、100騎の寄騎付属)などが挙げられます。

西三河衆

西三河衆は、徳川家(松平家)の本拠地がある西三河一帯に分布する松平一門衆・国衆・城持家臣らで編成された備です。

西三河衆のトップとして、熱心な一向宗信徒であったにもかかわらず三河一向一揆の際には改宗までして徳川家康を支えた石川家成を旗頭と定め、その下に西三河に分布する松平一門衆・国衆・城持衆を配置しました。

① 松平一族

西三河衆旗頭の下に置かれた松平一門衆としては、松平親乗(大給)、松平直勝(佐々木)、松平信一(藤井)、松平重吉(能見)、松平家忠(吉良東城)などが挙げられます。

② 国衆

③ 城持衆

西三河衆旗頭の下に置かれた城持衆としては、酒井正親(西尾)などが挙げられます。

④ 直臣衆

岡崎城下にいた徳川家康の直臣衆もまた、旗頭の下に置かれます。

このとき、西三河衆旗頭の下に置かれた直臣衆としては、平岩親吉、内藤家長・夏目広次・榊原清政などが挙げられます。

東三河衆

東三河衆は、徳川家(松平家)の本拠地がある東三河一帯に分布する松平一門衆・国衆・城持家臣らで編成された備です。

東三河衆のトップとして、酒井忠次を旗頭と定め、その下に西三河に分布する松平一門衆・国衆・城持衆を配置しました。

① 松平一門衆

東三河衆旗頭の下に置かれた松平一門衆としては、松平忠正(桜井)・松平親俊(福釜)・松平伊忠(深溝)・松平清善(竹谷)・松平康忠(長沢)・松平景忠(五井戸)・松平康孝(三木)などが挙げられます。

② 国衆

東三河衆旗頭の下に置かれた国衆としては、牧野康成(牛久保城)・菅沼定盈(野田)・西郷正勝(八名郡)・奥平定能(作手亀山城)・設楽貞通(設楽郡)・戸田忠重(二連木城)などが挙げられます。

③ 城持衆

東三河衆旗頭の下に置かれた城持衆としては、本多広孝(田原)などが挙げられます。

4 西三河旗頭交代(1569年)

徳川家康は、武田信玄との共同作戦として徳川家康が遠江国・武田信玄信玄が駿河国を切り取るとの約束で始まった今川領攻め(徳川家康による遠江国侵攻)に成功し、永禄12年(1569年)には掛川城を獲得して、三河国と遠江国という2ヶ国を治める大大名となります。

遠江国を得た徳川家康は、それまで西三河旗頭を務めていた石川家成を掛川城主に任命します。

この結果、空席となった西三河旗頭には、石川家成の甥である石川数正が任命されることとなりました。

三備の制の発展解消

旗本先手役が城持衆に出世

徳川家康の勢力拡大にともない、旗本先手役の中から天正3年(1575年)に大久保忠世が二俣城を、天正10年(1582年)には大須賀康高が横須賀城を与えられるなど、城持衆に格上げとなる家臣が現れ始めます。

また、新たに傘下に下った国衆達を旗本先手役の下に付けていった結果、旗本先手役の勢力が拡大していきます。

二頭体制による混乱

徳川家康の嫡男であった松平信康が、9歳となった永禄10年(1567年)7月に元服し、また12歳となった元亀元年(1570年)に岡崎城を与えられると、平岩親吉がその傅役に任じられ、石川数正・本多重次・高力清長・天野康景・中根正照らと共にその指揮下に入ります。

ここから東(浜松)の徳川家康と西(岡崎)の松平信康との二頭体制となっていったのですが、岡崎城に入った松平信康が、三備の軍制を無視して国衆達に岡崎城(松平信康)への出仕を求めたことからこの指揮系統に混乱が生じ始めます。

また、これに加えて、東進作戦を進めていた徳川家では、前線が近く武功を挙げる機会に恵まれていた東三河衆(浜松派)・旗本衆と比較して、後方支援に回ることが多かったところで、松平信康がたまっていた西三河衆の不満の受け皿となったために、この対立が顕在化していきます。

この動きに危険を感じた徳川家康は、天正6年(1578年)9月22日、松平信康の統治範囲であるはずの西三河国衆に対して、岡崎にいる松平信康の下への出仕は不要であるとの指示を出し(家忠日記)、天正7年(1579年)9月15日に松平信康を切腹させるお家騒動に発展しています。

変貌していく三備の軍制

その後、徳川家康が治める領地として、武田家滅亡後に駿河国が、天正壬午の乱により甲斐国・信濃国が加わったことにより徳川家の軍制が変貌を求められ、新たに併呑した領国支配の為に旗本先手役に対して次々と城が与えられて城持衆となっていきました。

また、武田旧臣が徳川家臣団に配属されたのですが、ここで井伊直政に対して武田旧臣を中心とした諸士を付属させた2000人規模の備(後の赤備え)が編制されます。

また、この頃には他の旗本先手役についても、次々と寄騎が付属され、それぞれが1000〜2000人規模の兵を指揮する様になっていきます。

石川数正出奔(1585年)

変革を迫られていた三備の軍制でしたが、終焉に向かう決定的な事件が起こります。

天正13年(1585年)、西三河衆旗頭であった石川数正が突然出奔し、豊臣秀吉に寝返ったのです。

この結果、徳川家の軍制が豊臣家に筒抜けとなり、軍事機密を握られることとなり、徳川家存亡の危機を迎えることとなったのです。

三備の軍制の終焉

そこで、徳川家康は、急ぎ旧来の三備の軍制を改めることを迫られ、急遽、武田式軍制を参考とした新たな軍制を施行していくこととなったのです。

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