【長篠・設楽原の戦い】なぜ武田勝頼は織田信長の鉄砲隊に挑んだのか

武田信玄の後を継いだ武田勝頼が織田信長の鉄砲隊に敗れたことで有名な「長篠の戦い」ですが、本当の決戦は設楽原で行われています。そのため、この決戦は一般には「長篠・設楽原の戦い」(読み方は,「ながしのしたらがはらのたたかい」)です。

戦力・装備に大きく劣るにもかかわらず無謀な突撃を繰り返した武田騎馬隊が,馬防柵の後ろから繰り返し撃ってくる鉄砲に一方的にやられまくった合戦というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

実際には、そういう戦いではありません。

以下,長篠設楽原の戦いについて、そこに至る経緯から、合戦の結果まで順を追って説明します。

長篠・設楽原の戦いに至る経緯

武田信玄の西上作戦中止

元亀3年(1572年)10月、武田信玄が、室町幕府15代将軍・足利義昭の求めに応じて織田信長討伐作戦(第二次信長包囲網)に参加し、織田信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻を開始します(西上作戦)。

武田信玄にとっては、今川領切り取りの際に苦杯をなめさせられたリベンジでもありました。

東美濃・奥三河・遠江という3方向から侵攻を開始した武田軍は、それぞれが短期間に徳川家康方の支城を攻略し、徳川家康の居城・岡崎城に迫ります。

ここで、老練な武田信玄に釣り出されて待ち伏せにあった徳川軍が、元亀3年(1572年)12月22日、三方ヶ原において武田軍に挑んで大惨敗を喫します(三方ヶ原の戦い)。

もっとも、武田軍としてもそのまま徳川家康の本拠地であった浜松城を攻略するには至らず、さらにはその後の西上作戦の途上で武田信玄が病によって急死してしまったことから、武田信玄の西上作戦は頓挫、武田軍は本国へ撤退を余儀なくされました。

武田信玄の死により、武田勝頼が武田家の当主となったのですが、武田信玄の遺言により、武田勝頼の子である武田信勝が元服するまでの時限的な仮当主(陣代)とされてしまいました。このことが、武田家滅亡の悲劇を生むのですが、本稿では紹介しきれないので割愛します。

徳川家康が奥平家を調略(1573年8月)

武田軍が甲斐国に撤退したことにより滅亡の危機を逃れた徳川家康は、何とか軍備の再整備を行い奪われた旧領の奪還を進めていきます。

手始めは、奥三河・長篠城の奪還でした。

徳川家康は、天正元年(1573年)8月、自身の長女であった亀姫を嫁がせることを条件として、武田方に下っていた奥三河国衆であった長篠城主・奥平家を調略します。

武田勝頼の西上作戦

他方、甲斐国に戻った武田勝頼もまた、家督相続に伴う諸雑務を処理した後、積極的な勢力拡大策を進めていきます。

天正2年(1574年)2月には、武田信玄の西上作戦の際に攻略した岩村城の南西部にある明知城(同じく東美濃にある明智城と混同しやすいのですが違う城です。)を攻略します。

また、 武田勝頼は、同年7月、それまで父・武田信玄でも攻略が叶わなかった高天神城を攻略します。

高天神城攻略により自信をつけた武田勝頼は、武田信玄が果たせなかった西上作戦を引き継ぐ決意をし、天正3年(1575年)4月、1万5000人の兵を率いて再び徳川領への侵攻を開始します。

このときの武田勝頼の最初の狙いは、裏切者である奥平貞昌が守る長篠城でした。

武田勝頼の誤算

ところが、武田勝頼の西上作戦と、武田信玄の西上作戦とでは決定的な違いがありました。

武田対徳川という関係において武田軍が圧倒的優位にあった点に違いはなかったのですが、徳川家康の同盟者であった織田信長の戦況が全く異なっていたのです。

武田信玄の西上作戦が行われた元亀3年(1572年)頃の織田信長は、畿内において足利義昭・浅井・朝倉・本願寺などに包囲され(第二次信長包囲網)苦しい状況下にいたため、武田軍と対峙する徳川家康に大規模な後詰を出せるような状況下にありませんでした。

そのため、元亀3年(1572年)12月22日に寡兵であった徳川軍が武田軍に挑んで大敗しています。

ところが、その後、織田信長は、元亀4年(1573年)7月には室町幕府15代将軍・足利義昭を京都から追放して室町幕府は滅亡させ、またその後浅井・朝倉を滅亡させるなどして第二次信長包囲網を担う敵を各個撃破していったことにより、畿内周辺に織田信長をひきつけることができるような軍事力を持った敵がいなくなったため、武田勝頼の西上作戦に対し、織田軍の将兵・武器・兵糧を大量に動員できるようになっていたのです。

そこで、武田勝頼の西上作戦に対する徳川家康からの援軍要請を受けた織田信長は、当時行っていた石山本願寺攻めを一時中断し、武田家を叩き潰すため、最新鋭の装備を整えた3万人の兵を引き連れて武田討伐に向かいます。

この結果、武田信玄の西上作戦のように多勢で寡兵の徳川軍を蹴散らすつもりであった武田勝頼は、期せずして大軍の織田・徳川連合軍を相手にしなければならなくなってしまったのです。

長篠の戦い

長篠城包囲戦(1575年5月1日)

天正3年(1575年)5月1日に長篠城に到着した武田軍1万5000人は、城の東側に本砦たる鳶ヶ巣山砦と4つの支砦(中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君ケ臥床砦)の計5つの砦を築き、また東側には諸将を布陣させることにより、長篠城を取り囲んで包囲します。

長篠城は、入っている兵が500人と寡兵ではあったものの、東西南を川で囲まれた天然の要害である上、200丁の鉄砲や大鉄砲を有して武田軍に対する備えをしていたため、力攻めをするのが難しい堅城でした。

そのため、長篠城を力攻めすると損害が大きくなると判断した武田勝頼は、兵糧攻めを選択し、長篠城の兵糧蔵に火を放って食糧を焼き、城から降伏の使者が来るのを待つこととしました。

鳥居強右衛門伝説(1575年5月14日)

大軍に包囲された上、兵糧までもが失われた長篠城に武田軍と戦う力はありません。

困った長篠城主・奥平貞昌は、徳川家康に援軍を要請するため、天正3年(1575年)5月14日の夜、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を長篠城から送り出し、約65km離れた徳川家康の居城・岡崎城に向かわせます。

不浄門を通って長篠城を出た鳥居強右衛門は、夜の闇に紛れて寒狭川に潜り、武田軍の厳重な警戒線を突破して、翌同年5月15日午後に岡崎城にたどり着いて徳川家康に現状報告と援軍要請を伝えます。

なお、このとき岡崎城には、徳川家康軍8000人と、援軍である織田信長軍3万が出撃準備をしているところでした。

徳川家康は、鳥居強右衛門の報を聞き、翌日に織田信長と共に長篠城へ向かうと答えます。

援軍の約定を取り付けた鳥居強右衛門は、この報を直ちに長篠城へ届けるべく、すぐに長篠城に向かって引き返したのですが、同年5月16日早朝に城の目前まで戻ったところで武田軍に見付かり、捕らえられてしまいます。

鳥居強右衛門は、武田勝頼から、長篠城の前で「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と叫べ、そうすれば命を助けるし、望む所領もあたえると告げられたのですが、鳥居強右衛門は、これに応じたフリをして、長篠城の前出ると、城に向かって「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と大声で叫んだのです。

鳥居強右衛門の叫びを聞いた武田勝頼は激昂し、その場で鳥居強右衛門磔にして、槍で突き殺させました。

もっとも、この鳥居強右衛門の報告のおかげで、援軍が近いことを知った奥平貞昌と長篠城の城兵がなんとか士気を繋ぎ、徳川家康・織田信長の援軍が到着するまでの間、城を死守しています。

織田徳川が設楽原へ(1575年5月18日)

岡崎城を出発した徳川家康軍8000人・織田信長軍3万人は、天正3年(1575年)5月18日に長篠城の手前(西側)約2.5kmにある設楽原に到着し対応を検討します。

この戦いは形式的には武田軍と徳川軍との戦いであり、織田軍は徳川軍の後詰に過ぎないのですが、動員兵力の違いやこの時期には既に徳川家康が織田信長に臣従していたことなどから、実質的には武田軍対織田軍となったため、戦闘指揮は織田信長が取ることとなりました。

織田信長は、この機会に武田軍を完膚なきまでに殲滅しようと考えていたのですが、織田・徳川連合軍3万8000人に対し、武田勝頼軍は1万5000人という戦力差を見せると武田勝頼軍が決戦に挑むことなく退却してしまう可能性が危惧されました。

そこで、織田信長は、長篠城の近くまで進むことはせず、あえて小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる見通しの悪い場所であった設楽原に布陣します。設楽原は長篠城を見渡すことができない場所であったのですが、逆に長篠城から見渡されることもない場所であったため武田軍に手の内を明かすことなく隠れていることが出来る場所であったからです。

その上で、本陣を設楽原の西にある極楽寺に定めた織田信長は、武田軍から見られないようにしながら兵を散会させて隠した上、連吾川を堀に見立てて防御陣の構築を始めます。

具体的には、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、その土を利用して南北2kmに亘って三重の土塁を盛った上、その上に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城を行いました。

織田信長が見通しの悪い場所に野戦築城をした理由については、相手の油断を誘うためという側面もありますが、大量に準備した鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため武田を誘い込むためでもありました。

武田軍も設楽原へ(1575年5月20日)

織田・徳川連合軍はとてつもない大軍ですので、これらの大軍が設楽原に到着したとの報は、長篠城を取り囲む武田勝頼の下にもすぐに届けられます。

もっとも、設楽原に布陣している織田信長・徳川家康連合軍が巧みにその全貌を隠しているため、武田勝頼には、織田・徳川連合軍の合計兵数がわかりません。

武田軍が約1万5000人であり、これに対する約徳川軍が8000人であったことから織田援軍の兵数が雌雄を決することは容易に想定できたのですが、武田勝頼には織田援軍の兵数を知る術がなかったのです(かつての武田信玄の西上作戦の際に織田信長がよこした援軍数である3000人よりは多いのであろうことはわかったのですが、実際にどれくらいの兵数であるのか考えあぐねます。)。

そのため、この状況下で開かれた武田軍の軍議では臣下の意見が真っ二つに割れます。

高天神城を攻略して自信を強めた武田勝頼は、曲者揃いの武田軍をまとめ上げるために虚勢を張る必要性もあって設楽原での決戦を主張します。また、イエスマンであった武田勝頼子飼いの武将達もこれに同調します。

他方、武田信玄以来の歴戦の猛将たちは、兵数も正確な布陣も明らかとなっていない織田信長・徳川家康連合軍に攻撃を仕掛けることは自殺行為であるとして、決戦を避けて長篠城の包囲を解き本国に撤退すべきであると主張します。

こうして意見が真っ二つに割れたのですが、最終的には、当主(代行)である武田勝頼の意見によって設楽原決戦をすることで決定します。

その結果、武田勝頼は、長篠城包囲のために3000人(長篠城包囲に1000人・東側の5つの砦に2000人)を残し、天正3年(1575年)5月20日、残る1万2000人を率いて運命の設楽原に向かって進軍していきます。

なお、一説には、このとき、譜代の重臣たちが敗戦・討死を覚悟し、一堂に会して最後の盃を交わしたとも言われていますが、真偽の程はわかりません。

鳶ヶ巣山攻防戦(1575年5月21日)

設楽原に向かって進軍して来る武田軍を見て、武田勝頼が餌に飛びついてきたことを知った織田信長が動きます。

煮え湯を飲まされ続けてきた武田軍を殲滅する機会到来です。

まず、織田信長は、徳川家康の配下である酒井忠次の献策を採用して、天正3年(1575年)5月20日深夜、4000人(徳川軍2000人と織田軍2000人)の兵を選抜してこれを酒井忠次に預け、西進してくる武田軍を南側から迂回して豊川を渡河した上で、尾根伝いに進んで長篠城東側を封じている砦群を奇襲するように命じます。

酒井忠次率いる別動隊は、命令通りに5月21日早朝、南側から回り込んで鳶ヶ巣山砦を強襲して攻略し、その後さらに4つの支砦(中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦)も攻略します。

酒井忠次隊の活躍によって長篠城は解放されたのですが、ここに長篠城の城兵を加えた軍が、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したため、設楽原に進んだ武田本隊は退路を断たれることとなりました。

また、この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方では、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友など名のある武将が討死し、また長篠城の西岸・有海村においても高坂昌信(春日虎綱)の嫡男・高坂源五郎昌澄が討ち取られています。

設楽原の戦い

設楽原決戦布陣

長篠城の囲みを解いて西に向かった武田軍1万2000人は、鶴翼の陣を敷いて左右(南北)に展開しつつ連吾川の東側まで進んで合図を待ちます。

なお、圧倒的に兵数に劣る武田軍がセオリーに反して鶴翼の陣を敷いていることからしても、この段階でもまだ武田方は織田・徳川連合軍の兵数を把握できていなかったのではないかと考えられます。

歴史を知っている後世の我々からすると、防御を整えて待ち構えていた3倍もの敵兵に対して突撃していくなど自殺行為にしか見えません。もっとも,互いに情報の乏しい当時は、相手方の状況がわからないのに決断を求められることはよくあることであり一概に武田勝頼の判断を非難することもできません。

ただおそらく、対峙した際、大軍で待ち構えていた織田・徳川連合軍を見て武田軍は驚愕したでしょう。もしかすると、この段階で勝ち目がないことを悟ってしまったかもしれません。

ただ,ここで敵に背を向けて退却すると、後ろから織田・徳川連合軍に猛追されて武田軍が壊滅することは明らかですので、退却の選択も困難です。

結果、背後(東側)で鳶ヶ巣山攻防戦が行われているころ、設楽原では、武田勝頼の合図の下、武田軍による織田信長・徳川家康連合軍3万4000人への総攻撃が始まります。

三段撃ちの真偽

俗説として、このときに武田騎馬隊による突撃を防ぐため、馬防柵で食い止め、1000挺を3段に分けて3交代制で順に一斉射撃をして突撃してくる武田騎馬隊を殲滅したとのストーリーが紹介されることがありますが、これは江戸時代初期に小瀬甫庵による創作とされており、おそらく真実ではありません。

まず、馬に乗って突撃するなどという戦法が戦国時代にとられることはありませので、武田騎馬隊の突撃などありません。

また、鉄砲についても、当時の火縄銃は、弾を込め、火薬を込め、そこに着火するのですが、火種は燃やした縄の先であり、これを消えないようにくるくる回して酸素を送り込まないと使えないという代物でした。

すなわち,鉄砲を運用する場所というのは、多くの火薬が置かれた場所で皆が火のついた縄を振り回している暴発・爆発の危険の高い場所なのです。

このような危険な状況下で3000挺もの鉄砲を密集させて集中運用などできようはずがありません。3交代制で運用するなど物理的に不可能です。

設楽原の戦いでの鉄砲は確かに効果的な武器となりましたが、勝負を決めた決定的な武器ではなかったのです。

合戦経過

武田軍の主力は両翼であり、左翼(南側)の山県昌景隊と、右翼(北側)の馬場信春隊です。

左翼の山県昌景隊が馬防柵の外側から横撃を試みますが失敗し、中央の武田信豊隊・小幡信貞隊が中央突破を試みるもこれも失敗、さらに内藤昌豊隊も突破を図るが失敗と全く戦果が挙がりません。

武田方で唯一戦果を挙げているのが右翼(北側)でした。700人の馬場信春隊が、馬防柵の外側に回り込んで、6000人を擁する織田方の左翼(北側を守る佐久間信盛隊・滝川一益隊)を撃破します。

馬場信春隊の戦果を見た、真田信綱隊・真田昌輝隊・土屋昌次隊は、それに続いて突撃するも、馬防柵を越えたところで織田方に囲まれ壊滅します。

続いて山県昌景隊が馬防柵を突破したところで、本多忠勝隊に壊滅されます。

主力武将を次々と失った武田軍は、陣形を維持できなくなって混乱し始めたのですが、それを見た織田信長・徳川家康連合軍は、満を持して武田勝頼本隊に向かって総攻撃を仕掛けます。

織田・徳川連合軍が馬防柵から出てきて総攻撃に移ったことから、敗北を悟った武田信廉隊・穴山信君隊が退却を始め、それを見た武田軍は総崩れとなります。

設楽原決戦の決着

武田勝頼の危機を見てとった馬場信春が、急ぎ武田勝頼の救援に駆けつけ、自ら殿となって武田勝頼を逃して討ち死にします。

40年に亘り、70超える戦で傷1つ負わなかった不死身の鬼美濃の最後です。

結局、設楽原決戦は、早朝から昼過ぎまでの約8時間で終了し、武田軍は、1万人以上の死傷者を出します。

また、武田軍は、譜代家老の内藤昌豊、山県昌景、馬場信春を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、三枝守友、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣やその他の歴戦の指揮官にも及びその被害は甚大なものとなりました。

これに対し、織田・徳川連合軍も、死者6000人とも言われる損害を出しましたが、主だった武将に戦死者が見られませんでした。

惨敗を喫した武田勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら武節城に篭ったものの、支えきれないと判断して信濃の高遠城に撤退し、長篠・設楽原の戦いは織田信長・徳川家康連合軍の大勝利に終わります。

なお、この大敗によって求心力を失った武田勝頼の転落が始まりますが、長くなりますので、その紹介は割愛します。