【長篠・設楽原の戦い】なぜ武田勝頼は織田信長の鉄砲隊に挑んだのか

武田信玄の後を継いだ武田勝頼が織田信長の鉄砲隊に敗れたことで有名な「長篠の戦い」ですが、本当の決戦は設楽原で行われています。そのため、この決戦は一般には「長篠・設楽原の戦い」(読み方は,「ながしのしたらがはらのたたかい」)です。

戦力・装備に大きく劣るにもかかわらず無謀な突撃を繰り返した武田騎馬隊が,馬防柵の後ろから繰り返し撃ってくる鉄砲に一方的にやられまくった合戦というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

実際には、そういう戦いではありません。

以下,長篠設楽原の戦いについて、そこに至る経緯から、合戦の結果まで順を追って説明します。

長篠・設楽原の戦いに至る経緯

武田信玄の西上作戦中止

甲斐国の虎・武田信玄は、室町幕府15代将軍・足利義昭の求めに応じて織田信長討伐作戦(第二次信長包囲網)に参加し、織田信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻を開始しました(西上作戦)。

武田信玄は、短期間に徳川家康方の支城を次々に攻略し、徳川家康の居城・岡崎城に迫りました。

そして、そこで武田信玄に釣り出された徳川家康が、元亀3年(1572年)12月22日に三方ヶ原の戦いで武田信玄軍に挑んで大敗し、徳川家康は絶体絶命の危機に瀕します。

ところが、その後、西上作戦の途上で武田信玄が病によって急死し、武田信玄の西上作戦は頓挫、武田勢は本国へ撤退を余儀なくされました。

武田信玄の死により、武田家は、武田勝頼が当主となり継ぐこととなったのですが、武田信玄の遺言により、あくまでもそれは仮の当主であり(陣代)、武田勝頼の子である武田信勝が元服するまでの時限的な当主とされました。このことが、武田家滅亡の悲劇を生むのですが、本稿では紹介しきれないので割愛します。

奥平貞昌の徳川方への裏切り

武田軍の撤退により難を逃れた徳川家康は、武田軍の撤退後、奪われた旧領の奪還を進めます。そして、手始めに長篠城の奪還を果たしています。

天正元年(1573年)8月、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、武田信玄の死による武田家の求心力低下を理由に、再び徳川に下ります。

そこで、徳川家康は、配下に戻った奥平貞昌に対し、武田との最前線となる長篠城に配置し、武田軍への対応を指示します。

武田勝頼による勢力拡大

他方、武田勝頼も、武田家当主(代理)となった後、積極的に勢力拡大を図ります。

天正2年(1574年)2月には、織田方の城である東美濃の明知城(同じく東美濃にある明智城と混同しやすいのですが違う城です。)を攻略します。

また、 同年7月には、徳川方の城である駿河国の高天神城を攻略しています。

武田勝頼の西上作戦

武田勝頼は、父武田信玄ですら攻略できなかった(攻略しなかった?)高天神城を攻略して自信をつけます。

そして、武田勝頼は、武田信玄が果たせなかった西上作戦を引き継ぐことを決意し、天正3年(1575年)4月、1万5000人の兵を率いて三河への侵攻を開始します。

三河国へ侵攻した武田勝頼の最初の狙いは、裏切り者奥平貞昌の守る長篠城です。

武田勝頼の誤算

ところが、このとき、それまで順調だった武田勝頼に誤算が生じます。

織田信長が、第二次信長包囲網を担う敵を1570年頃から各個撃破していき、元亀4年(1573年)7月には室町幕府15代将軍・足利義昭を京都から追放して室町幕府は滅亡させ、またその後浅井・朝倉を滅亡させるなどして第二次信長包囲網を破ったことにより、畿内周辺に敵する勢力を駆逐し、武田勝頼の西上作戦に対して、兵・武器・兵糧を大量に動員できるようになっていたのです。

余裕のできた織田信長は、石山本願寺攻めを一時中断し、西上作戦に際してなされた徳川家康からの援軍要請を武田家を叩き潰すチャンスだと考え、最新鋭の装備を整えた3万人の兵を引き連れ、自ら迎撃に向かいます。

長篠・設楽原の戦いの前哨戦

長篠城攻城戦

本拠地甲斐国を出発した武田勝頼軍1万5000人は、天正3年(1575年)5月、長篠城に到着し、城の東側に鳶ヶ巣山砦を本砦と4つの支砦(中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君ケ臥床砦)の計5つの砦を築き、また東側を歴戦の諸将が取り囲んで長篠城を包囲します。の

なお、長篠城は、備えの兵が500人と寡兵ではあるものの、東西南を川で囲まれた天然の要害である上、200丁の鉄砲や大鉄砲を有して武田軍に対する備えをしていたため、力攻めをすると損害が大きくなると判断した武田勝頼は、兵糧攻めを選択したのです。

そして、武田勝頼は、長篠城の兵糧蔵に火を放って食糧を焼き、城から降伏の使者が来るのを待っていました。

鳥居強右衛門伝説

兵糧を失った長篠城主・奥平貞昌には、もはや武田軍と戦う力は残っていませんでした。

そこで、奥平貞昌は、徳川家康に援軍を要請するため、天正3年(1575年)5月14日の夜、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を長篠城から送り出し、約65km離れた徳川家康の居城・岡崎城に向かわせます。

長篠城を出た鳥居強右衛門は、夜の闇に紛れて寒狭川に潜り、武田軍の厳重な警戒線を突破して、翌15日の午後に岡崎城にたどり着いて徳川家康に現状報告と援軍要請を伝えます。

なお、このとき岡崎城には、徳川家康軍8000人と、援軍である織田信長軍3万が出撃準備をしているところでした。

徳川家康は、鳥居強右衛門の報を聞き、翌日に織田信長と共に長篠城へ向かうと答えます。

援軍の約定を取り付けた鳥居強右衛門は、この報を直ちに長篠城へ届けるべく、すぐに長篠城に向かって引き返したのですが、16日の早朝に城の目前まで戻ったところで武田軍に見付かり、捕らえられてしまいます。

鳥居強右衛門は、武田勝頼から、長篠城の前で「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と叫べ、そうすれば命を助けるし、望む所領もあたえると告げられたのですが、鳥居強右衛門は、これに応じたフリをして、長篠城の前出ると、城に向かって「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と大声で叫んだのです。

鳥居強右衛門の叫びを聞いた武田勝頼は激昂し、その場で鳥居強右衛門磔にして、槍で突き殺させました。

もっとも、この鳥居強右衛門の報告のおかげで、援軍が近いことを知った奥平貞昌と長篠城の城兵がなんとか士気を繋ぎ、徳川家康・織田信長の援軍が到着するまでの2日間、城を死守しています。

徳川家康・織田信長連合軍が設楽原に布陣

岡崎城を出発した徳川家康軍8000人・織田信長軍3万人は、天正3年(1575年)5月18日に長篠城の西側にある設楽原に着陣します。

織田信長は、この機会に武田勝頼軍を完膚なきまでに叩きのめそうと考えていたのですが、織田・徳川連合軍3万8000人に対し、武田勝頼軍は1万5000人ですので、この兵力差を見ると、武田勝頼軍が退却してしまう可能性を危惧しました。

そこで、織田信長は、布陣場所について、あえて小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる見通しの悪い場所であった設楽原を選択しました。

そこは長篠城を見渡すことができない場所であったのですが、逆に長篠城から見渡されることもない場所でもあったからです。

設楽原に布陣した織田信長は、本陣を設楽原の西にある極楽寺に定め、相手方から見通せられないことを利用して、兵を敵から見えないよう散会させて隠し、その上で連吾川を堀に見立てて防御陣の構築を始めます。

具体的には、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、その土を利用して南北2kmに亘って三重の土塁を盛り、その上に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城でした。

織田信長が見通しの悪い場所に野戦築城を行った理由については、相手の油断を誘うためという側面もありますが、大量に準備した鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため武田を誘い込むためでもありました。

武田軍設楽原へ

3万8000人の大軍勢ですので、織田信長・徳川家康連合軍が設楽原に到着したとの報は、長篠城を取り囲む武田勝頼の下にすぐに知られます。

もっとも、設楽原に布陣している織田信長・徳川家康連合軍は、巧みにその全貌を隠しているため、武田勝頼には、相当の兵数がいると想定できるものの正確な数がわかりません。

武田軍が1万5000人であり、これに対する徳川軍が8000人ですので、織田軍の数が雌雄を決することは容易に想定できるものの武田勝頼にはそれを知る術がなかったのです。

かつての武田信玄の西上作戦の際の援軍の程度(3000人)よりは多いのであろうことはわかりますが、実際にどれくらいか考えあぐねます。

この状況下で、武田軍で軍議が開かれますが、臣下の意見も真っ二つに割れます。

曲者揃いの武田軍をまとめ上げるためには強いところを見せなければならない武田勝頼は、高天神城を落としたことによる自信もあって、設楽原での決戦を主張します。武田勝頼子飼いの武将達もこれに同調します。

これに対し、武田四天王をはじめとする武田信玄以来の歴戦の重臣たちは、兵数も正確な布陣も明らかとなっていない織田信長・徳川家康連合軍に攻撃を仕掛けることは自殺行為であるとして撤退を主張します。

軍議の場での意見は割れたのですが、最終的には、当主(代行)である武田勝頼が、設楽原での決戦を決定します。

そして、武田勝頼は、長篠城包囲軍として3000人(5つの砦に計2000人,その他の包囲に1000人)を残し、残る1万2000人を運命の設楽原に向かって進軍させます。

なお、一説には、このとき、譜代の重臣たちが敗戦・討死を覚悟し、一堂に会して最後の盃を交わしたとも言われていますが、真偽の程はわかりません。

鳶ヶ巣山攻防戦

この武田軍の動きを見て、武田勝頼が餌に飛びついてきたことを知った織田信長が動きます。

煮え湯を飲まされ続けてきた武田軍を殲滅する機会到来です。

織田信長は、天正3年(1575年)5月20日の深夜、徳川家康の配下である酒井忠次の献策を採用して、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2000ほどを選び出して酒井忠次に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500人と金森長近らを加えて4000人の別働隊を組織させ、西進してくる武田軍を南側から迂回して豊川を渡河し、さらに尾根伝いに進んで長篠城を囲む砦群を奇襲するように命じます。

酒井忠次率いる別動隊は、命令通りに5月21日早朝、南側から回り込んで鳶ヶ巣山砦を強襲して攻略し、その後さらに4つの支砦(中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦)も攻略します。

酒井忠次隊の活躍によって長篠城は解放され、ここに長篠城の城兵を加えた軍が、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したため、設楽原に進んだ武田本隊は退路を断たれることとなりました。

また、この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方では、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友など名のある武将が討死し、また長篠城の西岸・有海村においても高坂昌信(春日虎綱)の嫡男・高坂源五郎昌澄が討ち取られています。

設楽原決戦

設楽原決戦布陣

長篠城の囲みを解いて西に向かった武田軍1万2000人は、鶴翼の陣を敷いて左右(南北)に展開しつつ連吾川の東側まで進んで合図を待ちます。なお、圧倒的に兵数に劣る武田軍がセオリーに反して鶴翼の陣を敷いていることから、この段階でもまだ武田方は織田・徳川連合軍の兵数を把握できていなかったのではないかと考えられます。

なお、後世の我々には、防御を整えて待ち構えていた3倍もの敵兵に対して突撃していくなど自殺行為にしか見えません。もっとも,互いに情報の乏しい当時は、相手方の状況がわからないのに決断を求められることはよくあることであり一概に武田勝頼の判断を非難することもできません。

ただおそらく、対峙した際、大軍で待ち構えていた織田・徳川連合軍を見て武田軍は驚愕したでしょう。もしかすると、この段階で勝ち目がないことを悟ってしまったかもしれません。

ただ,ここで敵に背を向けて退却すると、後ろから織田・徳川連合軍に猛追されて武田軍が壊滅することは明らかですので、退却の選択も困難です。

結果、背後(東側)で鳶ヶ巣山攻防戦が行われているころ、設楽原では、武田勝頼の合図の下、武田軍による織田信長・徳川家康連合軍3万4000人への総攻撃が始まります。

三段撃ちの真偽

俗説として、このときに武田騎馬隊による突撃を防ぐため、馬防柵で食い止め、1000挺を3段に分けて3交代制で順に一斉射撃をして突撃してくる武田騎馬隊を殲滅したとのストーリーが紹介されることがありますが、これは江戸時代初期に小瀬甫庵による創作とされており、おそらく真実ではありません。

まず、馬に乗って突撃するなどという戦法が戦国時代にとられることはありませので、武田騎馬隊の突撃などありません。

また、鉄砲についても、当時の火縄銃は、弾を込め、火薬を込め、そこに着火するのですが、火種は燃やした縄の先であり、これを消えないようにくるくる回して酸素を送り込まないと使えないという代物でした。

すなわち,鉄砲を運用する場所というのは、多くの火薬が置かれた場所で皆が火のついた縄を振り回している暴発・爆発の危険の高い場所なのです。

このような危険な状況下で3000挺もの鉄砲を密集させて集中運用などできようはずがありません。3交代制で運用するなど物理的に不可能です。

設楽原の戦いでの鉄砲は確かに効果的な武器となりましたが、勝負を決めた決定的な武器ではなかったのです。

合戦経過

武田軍の主力は両翼であり、左翼(南側)の山県昌景隊と、右翼(北側)の馬場信春隊です。

左翼の山県昌景隊が馬防柵の外側から横撃を試みますが失敗し、中央の武田信豊隊・小幡信貞隊が中央突破を試みるもこれも失敗、さらに内藤昌豊隊も突破を図るが失敗と全く戦果が挙がりません。

武田方で唯一戦果を挙げているのが右翼(北側)でした。700人の馬場信春隊が、馬防柵の外側に回り込んで、6000人を擁する織田方の左翼(北側を守る佐久間信盛隊・滝川一益隊)を撃破します。

馬場信春隊の戦果を見た、真田信綱隊・真田昌輝隊・土屋昌次隊は、それに続いて突撃するも、馬防柵を越えたところで織田方に囲まれ壊滅します。

続いて山県昌景隊が馬防柵を突破したところで、本多忠勝隊に壊滅されます。

主力武将を次々と失った武田軍は、陣形を維持できなくなって混乱し始めたのですが、それを見た織田信長・徳川家康連合軍は、満を持して武田勝頼本隊に向かって総攻撃を仕掛けます。

織田・徳川連合軍が馬防柵から出てきて総攻撃に移ったことから、敗北を悟った武田信廉隊・穴山信君隊が退却を始め、それを見た武田軍は総崩れとなります。

設楽原決戦の決着

武田勝頼の危機を見てとった馬場信春が、急ぎ武田勝頼の救援に駆けつけ、自ら殿となって武田勝頼を逃して討ち死にします。

40年に亘り、70超える戦で傷1つ負わなかった不死身の鬼美濃の最後です。

結局、設楽原決戦は、早朝から昼過ぎまでの約8時間で終了し、武田軍は、1万人以上の死傷者を出します。

また、武田軍は、譜代家老の内藤昌豊、山県昌景、馬場信春を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、三枝守友、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣やその他の歴戦の指揮官にも及びその被害は甚大なものとなりました。

これに対し、織田・徳川連合軍も、死者6000人とも言われる損害を出しましたが、主だった武将に戦死者が見られませんでした。

惨敗を喫した武田勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら武節城に篭ったものの、支えきれないと判断して信濃の高遠城に撤退し、長篠・設楽原の戦いは織田信長・徳川家康連合軍の大勝利に終わります。

なお、この大敗によって求心力を失った武田勝頼の転落が始まりますが、長くなりますので、その紹介は割愛します。

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