【穴山信君(穴山梅雪)】駿河方面の外交官として活躍した武田御一門衆筆頭

穴山信君(あなやまのぶただ )は、甲斐武田家の家臣であった穴山氏7代当主であり御一門衆の筆頭でもあった武将です。

出生後に梅雪斎不白と号したため、穴山梅雪の名の方が知られているかもしれません。

武田信玄時代には、主に駿河方面の外交官として暗躍し、後に武田二十四将の一人に数えられる程の人物でした。

もっとも、武田信玄の死後に武田家を継いだ武田勝頼との関係が悪化し、織田信長の甲州征伐が始まると武田家から出奔して織田方に下ったことにより武田家滅亡のきっかけを作るに至っています。

その後、武田勝頼の死後に武田宗家を継ぐことを許されたのですが、本能寺の変の後に本拠地に戻ろうとする途中で落武者狩りによって命を落としたと言われています。

穴山信君の出自

出生(1541年)

穴山信君は、天文10年(1541年)、甲斐国南部の河内地方を治める有力国人・穴山信友の嫡男として生まれます。

幼名は、勝千代といい、通称は、彦六郎・左金吾・左衛門大夫などと呼ばれました(この後、信君→梅雪と改名しますが、本稿では便宜上「穴山信君」の名で統一します。)。

複数の金山を擁する河内地方を治める穴山家は、そこから生み出される富を基に、下山館を本拠として武田家による支配とは異なる独自の家臣団組織や行政組織を持っていました。

河内地方が甲斐国と駿河国の国境部に位置するため、穴山信懸(穴山信君の曾祖父)の代の穴山家は、駿河国・今川氏親や相模国・伊勢宗瑞(北条早雲)らと関係を保つ一方で、武田信虎とも友好的関係を築くなどし、これらに両属するような立場にありました。

もっとも、永正10年(1513年)5月27日に当時の当主・穴山信懸を殺害するというお家騒動が起こり、これに武田家が介入したことをきっかけとして穴山家は武田家の臣下に組み込まれることとなりました。

そして、その後に武田家による穴山家取り込みの一環として穴山信友が武田信虎の娘(武田信玄の姉)である南松院殿を室に迎えたことから、穴山家は単なる武田家家臣とではなく、武田姓を名乗ることを許された武田家御一門衆として家中で大きな力を持つ家となります(なお、穴山信友と南松院殿との間に生まれた穴山信君もまた、後に武田信玄の次女である見性院を室に迎えていることから、穴山家は武田信虎・信玄・勝頼の三代に亘って武田家御一門衆の地位を保つこととなります。)。

武田宗家への人質となる(1553年)

穴山信君は、天文22年(1553年)1月15日、武田宗家に対する人質として甲府館に移され(高白斎記)、その後に元服します。

元服に際しては、武田家重臣であった万沢君泰・君基の偏諱を受けて、名を「穴山信君」に改めます。

なお、「信君」の読みは、かつては「のぶきみ」とされていたのですが、駿河臨済寺の僧・鉄山宗鈍が記した法語録である鉄山集に「ノブタヽ」とのルビが記されていること、偏諱を受けたと思われる重臣・万沢君泰、君基がそれぞれ「タヽヤス」・「タヽモト」という名であったことなどからあることから、今日では、「のぶただ」であったと考えるのが通説となっています。

穴山家の家督相続(1558年)

正確な時期は不明ですが、永禄元年(1558年)の6月~11月頃に穴山信君の父である穴山信友が出家し、また同年11月には穴山信君の名で河内領支配に関する文書発給がなされていることから、この頃に穴山信君が穴山家の家督を相続したと考えられます。

そして、穴山家の家督を相続した穴山信君は、その後の武田信玄による領土拡張戦に穴山衆を率いて従軍します。

武田信玄の下で活躍

また、穴山家は、今川家にも服属していた経歴があったため、今川家との人脈がある上、今川領についての知識も豊富でした。

そこで、穴山信君もまた、今川家との外交(情報収集・交渉・調略など)を任されることとなり、そこでその本領を発揮します。

遠州忩劇に介入(1563年)

武田・今川・北条という三大超大国間の巨大軍事同盟である甲相駿三国同盟によって北に向かって勢力を広げていた武田家でしたが、永禄3年(1560年)5月19日に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に打ち取られると、後を継いだ今川氏真が家中の統制に失敗し、三河国岡崎城主・松平元康(後の徳川家康)が独立したり、その後も領内で騒乱が頻発したりするなどして今川家は大きく力を落とします。

永禄6年(1563年)には、遠江国において大規模な今川家臣団の反乱(遠州忩劇)が勃発します。

このとき、穴山信君は、佐野主税助泰光を通じて情報収集を行い、これを武田信玄に報告しています。

また、穴山信君は、反乱を起こした遠江国衆に対して書状を送付しその取り込みを試みています。

義信事件(1565年)

今川家の力が落ちていくのを目の当たりにした武田信玄は、北進(越後)ではなく、南進(駿河)を考えるようになり、駿河国・今川家攻略の布石として、永禄8年(1565年)9月ころから西側(美濃国)で勢力を伸ばしつつあった織田信長との同盟交渉を開始し(甲陽軍鑑)、同年11月には武田信玄の4男である諏訪勝頼(後の武田勝頼)と織田信長の姪であり養女(遠山直廉の娘)でもある龍勝院と婚姻同盟の形でまとまります。

武田・織田の接近は、そのまま武田・今川同盟の破局を意味しますので、武田・織田同盟交渉に、武田信玄の嫡男・武田義信(武田義信は、今川氏真の妹・嶺松院を正室としていました。)が反対します。

そればかりか、武田義信は、武田・織田同盟が纏まる直前に家臣である飯富虎昌・長坂勝繁・曽根周防守らと謀って謀反を計画します(甲陽軍鑑)。

このクーデター計画についての穴山家当主たる穴山信君の立場は不明なのですが、穴山家中においても意見が分かれていたと言われています。

もっとも、このクーデター計画は事前に露見し、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌は切腹をすることとなったのですが、永禄9年(1566年)には穴山信君の弟である穴山信嘉が自害していることから、このクーデター計画に穴山家にも何らかの関与があったものと考えられています。

いずれにせよ、武田義信も永禄10年(1567年)10月19日に30歳で死去し(切腹か病死かは不明)、武田義信に嫁いでいた今川氏真の妹・嶺松院が駿河国に返還されたことから、武田・今川の甲駿同盟関係が破綻します。

今川家臣団の調略

以上の結果、本格的な駿河侵攻準備を始めた武田信玄は、今川家の内情に詳しい穴山信君に命じて今川家臣の調略を進めていきます。

このときに武田家に下ることを約した今川家臣からは、人質を差し出させ、穴山信君が下山で預かっていたとされています(甲陽軍鑑)。

駿河侵攻(1568年12月〜)

また、武田信玄は、徳川家康との間で、大井川を境にして東部を武田信玄が、西部を徳川家康がそれぞれ攻め取るという内容の今川領分割の密約を締結した上で、永禄11年(1568年)12月6日、武田軍による駿河国侵攻作戦を開始します。

このときの武田軍による駿河国侵攻作戦に際しては、今川家臣団の調略を進めた穴山信君が先発隊となって1万2000人の兵を率いて駿河国へ入ります。

これに対し、今川氏真は、庵原忠胤に1万5000人の兵を預け、武田軍を迎撃するために薩埵峠に向かわせたのですが、このときまでに穴山信君の事前調略が功を奏しており、今川家の有力家臣である瀬名信輝・朝比奈政貞・三浦義鏡・葛山氏元ら21人の武将が次々と武田信玄に内通します。

こうなると、今川方は戦線を維持できず、武田軍は難なく薩埵峠を突破し(第1次薩埵峠の戦い)、同年12月13日に駿府・今川館に突入し陥落させてこれを占拠してします。

今川館を攻略した武田軍は、続けて周辺支城の攻略に取り掛かり、穴山信君は、葛山氏元と共に、富士信忠が籠城する大宮城の攻撃を担当します。

他方、今川館を脱出して掛川城に入った今川氏真は、北条氏政に対して援軍を要請します。

援軍要請を受けた北条氏政は、4万5000人もの大軍を編成して西進してきたため、今川館から迎撃に向かった武田軍と薩埵峠で対峙することとなりました(第2次薩埵峠の戦い)。

本格的な戦闘が始まることなく対峙が続くこととなったのですが、こうなると長期遠征をしていた武田軍に兵糧の不足が見え始めます。

永禄12年(1569年) 4月、戦線を維持できなくなったことから、武田信玄は、駿河国からの撤退を決断します。

そこで、武田信玄は、甲府への帰路を確保するべく穴山信君に横山城を改修させた上で(永禄12年4月19日付穴山信君宛武田信玄掟書)、同城に穴山信君を入れ、久能山城と横山城に兵を籠城させて甲斐国へ撤退しています。

なお、このとき穴山信君は、横山城において万沢氏や臣従した望月氏などに対して知行を与えて在地支配を試みています。

この後、武田信玄は、さらに2度の駿河国侵攻作戦を展開し、ついに今川家を滅ぼして駿河国を獲得します。

武田勝頼の下での活動

武田勝頼の武田宗家相続

駿河国を獲得した武田信玄は、徳川領への侵攻を開始したのですが(西上作戦)、その途中で病により死去します。

武田信玄が死去すると、その遺言に従い、諏訪家を継いでいた武田勝頼が宗家に戻り、陣代として武田信玄の後を継ぐこととなりました。

もっとも、武田家中には、他家に出ていたはずの武田勝頼が武田宗家を継ぐことへの異論が多く、特に武田御一門衆筆頭を自認していた穴山信君の不満は格別でした。

穴山信君からすると、武田宗家を継ぐのは、他家に出ていた武田勝頼ではなく、武田御一門衆筆頭である自分であるはずと考えたからです。

また、この後、武田家中において、武田信玄以来の家臣と武田勝頼生え抜きの家臣との対立が生じ始め、武田信玄期には御一門衆筆頭の立場にあった穴山信君も、武田勝頼期になると次第に武田家中の中枢から外されていったため、その不満はさらに増大していきます。

長篠・設楽原の戦い(1575年5月21日)

武田信玄の死後も、諏訪原城を築城し、第一次高天神城の戦いに勝利して高天神城を攻略するなどして徐々に遠江国へ侵食していった武田家は、天正3年(1575年)5月には、奥三河へ侵攻して長篠城を包囲します(長篠の戦い)。

これに対し、同年5月21日、織田・徳川連合軍が長篠城を解放するために後詰として向かってきたため、武田軍において決戦をすべきか否かの軍議が開かれ、武田勝頼の判断により設楽原において織田・徳川連合軍と決戦をすることに決まります(設楽原の戦い)。

もっとも、決戦に乗り気でない穴山信君は、設楽原決戦に際して武田信豊・小幡信貞らと共に中央に布陣したものの積極的な攻撃を行うことはせず、戦局が劣勢になると奮戦する部隊を残して早々に退却をしてしまいます(甲陽軍鑑・甲陽軍鑑末書など)。

劣勢な状況下で本隊近辺の穴山信君が率いる部隊が退却を開始したため、武田軍は総崩れとなり大敗北を喫します。

敗れた武田軍は、多くの有力家臣を失うと共に、武田勝頼討死の危機に見舞われたのですが、上杉家への備えとして海津城に残っていた高坂昌信が8000人の兵を率いて、落ちてくる武田勝頼を駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)まで出迎え、その安全を確保した上で敗残兵に見えないようにするために衣服・武具を整えさせた上で、同年6月2日に甲府まで送り届けています。

なお、高坂昌信は、このときに武田勝頼に対して、北条家との同盟を強化すること、戦死した内藤昌秀・山県昌景馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、設楽原決戦での敗戦の原因を作った一門衆の穴山信君と武田信豊を切腹させるよう申し立てたと言われています。

江尻城代となる

設楽原の戦いで多くの将が討死にした武田家では、急ぎ領内の再編成を行う必要に迫られます。

このとき、穴山信君は、山県昌景が討死したことにより城主不在となった駿河国江尻城代を任されます。

設楽原決戦での敗戦の一因を作った穴山信君が、逆に治める領地が増えるという結果をもたらしたのですが、このようなことをしなければ領内を抑えられないほど設楽原決戦において武田家中の将が多く失われてしまったのです。

この結果、穴山信君は、甲斐河内領にある本領とは別に、支城領としての「江尻領」を形成していきます(江尻領に対する穴山家の支配については、これを否定するものから強固な支配力であったとするものまで諸説あります。)。

穴山信君の最期

出家(1580年)

その後も、武田家一門衆として武田家を支えた穴山信君でしたが、老いが見られるようになったため、天正7年(1579年)ころには、河内領・江尻領の政務を嫡男である穴山勝千代名に任せるようになり、このころから穴山勝千代名での発給文書が見られるようになります。

そして、穴山信君は、天正8年(1580年)に出家し、梅雪斎(ばいせつさい)と号します。

徳川家康に接近

その後、穴山信君は、後継者となる嫡男・穴山勝千代も武田家における自分同様の一門衆筆頭の地位につけるべく、穴山勝千代と武田勝頼娘との話を進め、一旦この婚姻話がまとまります。

ところが、後に武田勝頼が、この話を反故にして、娘を武田信豊の子に嫁がせてしまったため、穴山信君は激怒し、武田勝頼と穴山信君との関係が壊れてしまいます。

穴山信君は、これらの事件や、長坂長閑、跡部勝資らを重用する政治姿勢に嫌気がさし、武田勝頼を見限って徳川家康に接近していきます。

徳川家康に内応(1582年2月)

天正10年(1582年)2月、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が織田方に内応すると、穴山信君もまた徳川家康に内応の意思を示します。

そして、穴山信君は、同年2月25日に人質として甲府に送っていた妻子を助け出した後、甲斐一国拝領と武田家の名跡継承を条件として、徳川家康の誘いに乗る形で織田方に下ります。

御礼言上のため安土城へ(1582年5月)

天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼が自刃して武田家が滅亡すると、穴山信君は、織田信長から甲斐国河内郡と駿河国江尻郡安堵の沙汰を受け、織田家の従属国衆という位置付けとなって徳川家康の与力となります。

穴山信君は、本領を安堵されたことに対する御礼言上のため、天正10年(1582年)5月、徳川家康に随行して安土城に向かい、織田信長に謁見します。

その後、穴山信君は、に赴いて同地を巡った後、京に向かったのですが、同年6月2日、京に向かう途中で、明智光秀が謀反を起こして織田信長が討ち取られた旨(本能寺の変)の報告を受けます。

宇治田原で討死(1582年6月2日?)

織田信長横死の報を聞いたとき、穴山信君は、わずかな手勢を連れて徳川家康と共に行動していたのですが、ここから穴山信君と徳川家康は別行動にてそれぞれの本拠地へ向かうこととしました。

この後、徳川家康は何とか三河国への帰国を成功させたのですが(神君伊賀越え)、穴山信君は途中の宇治田原で落ち武者狩りに遭って討ち取られたと考えられています(ルイスフロイス日本史・信長公記)。

なお、穴山信君の死因については、前記落ち武者狩り説の他に、自害とする説(家忠日記)、徳川家康と誤認されて殺害された説(東照宮御実紀)などがあり、正確なところは明らかになっていません。

穴山信君死後の穴山家

徳川家康に臣従(1582年6月)

穴山信君が横死したことにより、その嫡男であった穴山勝千代(武田信治)が武田家の当主となります。

その後、天正10年(1582年)6月に信濃・甲斐を巡る天正壬午の乱が勃発すると、穴山衆は徳川家康に従う決断を下し、従属の証として於都摩の方(おつまのかた・下山殿、武田一門であった秋山虎康の娘)を養女とした上で側室として徳川家康に差し出します。なお、一説には、於都摩の方の輿入れは、武田信玄の娘であった松姫の身代わりと言われています。

関東移封(1590年)

その後、天正15年(1587年)に武田信治が死去すると、徳川家康と於都摩の方との間に生まれた子(徳川家康の五男)である万千代(武田信吉・天正11年/1583年生)が甲斐武田家の名跡と穴山家の家督を継承します。

もっとも、甲斐武田家を継いだ武田信吉でしたが、天正18年(1590年)に徳川家康の関東入封に伴って甲斐河内領から下総国小金城3万石分封になった後、常陸国水戸25万石に封ぜられたことにより穴山衆を中心とする武田遺臣を付けられて武田家の再興を果たしたのですが、慶長8年(1603年)に水戸で死去し、武田宗家が失われてしまいました。

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