【八幡山城(続日本100名城157番)】天下人となるはずだった豊臣秀次の居城

八幡山城(はちまんやまじょう)は、本能寺の変の後の後継者を巡る争いに勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、天正10年(1585年)に織田家の居城としてのシンボル的存在であった安土城を廃城して、その代わりとして近江国の国城として築かれた山城です。

徳川家康との間で小牧・長久手の戦いの講和を模索している時期の築城であったため、まだまだ防衛面での機能が重要視されており、八幡山という急峻な山が選地され、戦国期によく見られる城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は2本の尾根に挟まれた谷筋にある場所に設けるという二次元分離構造とされました。

城下には、八幡堀と呼ばれる全長6kmにも及ぶ運河が巡らされ、回船業を営むことができる親浦の一つである八幡浦と共に発展したのですが、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、その名残を消すかのようにかつての居城であった八幡山城までもが廃城とされました。

八幡山城築城

八幡山城の立地

八幡山城は、琵琶湖東岸に位置する現在の近江八幡駅の北西へ約2.5kmにある、通称八幡山と呼ばれる独立丘鶴翼山(標高283m、比高100m)の南半分に築城された山城です。

現在の八幡山は独立丘となっているのですが、築城当時の八幡山は東に西の湖、西に津田内湖を抱えてこれらと急峻な崖で守られる構造となり、平野部となっている南側に城下町を配した構造となっていました。

この構造は、直前の近江国の国城となっていた安土城と類似した構造となっています。

観音寺城廃城(1568年ころ)

八幡山城がある南近江(現在の滋賀県南部)は、鎌倉時代以降、近江源氏の流れをくむ佐々木氏(後に近江守護六角氏)により治められてきた地であり、佐々木六角家が、繖(きぬがさ)山の山上に築いた観音寺城を本拠とし、目加田城・箕作城・和田山城・垣見城・小川城・佐生城・山路城・新村城・伊庭城・木村城・浅小井城・金剛寺城・長光寺城などの支城群とのネットワークを利用し、南近江を支配していました。

もっとも、永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛軍を興すと、六角義賢・六角義治がこれに敵対して、侵攻して来る織田軍を迎え討ちます。

ところが、同年9月13日に支城であった箕作城・和田山城が陥落すると、六角義賢・義治父子は戦うことなく観音寺城から逃亡します(観音寺城の戦い)。

この結果、織田信長が観音寺城を接収したのですが、織田信長は観音寺城を用いることなく廃城としてしまします(なお、元亀年間に観音寺城の石垣が改修された可能性があるため、しばらくは織田方の城として用いられた可能性もあります。)。

安土城廃城(1585年)

京に上った織田信長は、京や石山に近く、それらと織田家の当時の本拠地である岐阜城との導線上にある近江国安土山に新城を築いて本拠を移転とすることに決め、天正7年(1579年)5月、天守完成を待って岐阜城から新城となる安土城に移り住みます。

この結果、南近江と統治する城が、安土城ということとなりました。

もっとも、安土城は、1582年(天正10年)6月の本能寺の変・山崎の戦いの後に焼き払われてその機能を失います。

その後、清洲会議の結果、織田家当主となった三法師(後の織田秀信)が安土城に入ることとなったのですが、後見人となった叔父の織田信孝によって岐阜城に留め置かれます。

その後、三法師は、織田信孝が羽柴秀吉に敗れた後に一応の整備がなった安土城仮屋敷に移されて織田家の家督代行となった織田信雄の後見を受けたのですが、小牧・長久手の戦いの結果として織田信雄も羽柴秀吉と講和した後、羽柴秀吉が三法師を取り込み、安土城→坂本城→京→坂本城の順に移し、天正10年(1585年)には織田家の居城としてのシンボル的存在であった安土城の廃城を決めてしまいます。

八幡山城築城(1585年)

安土城が廃城に伴い、これに代わる近江国の国城として新たに築城されることとなったのが八幡山城です。

このとき新城の場所として八幡山が選ばれました。

新城の場所として八幡山という急峻な山が選地されたのは、この時期が小牧・長久手の戦いが勃発した後で徳川家康との講和を模索している段階であったため、まだまだ防衛面での機能が重要視されていたことが理由として挙げられます。

また、敵対していた織田信雄領との境に位置するという当時の戦略的重要性から、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとる形で築城が始まり(縄張、築城工事の都督、作業工程まで具体的な指示が書状で示されていることから、諸将の配置、場所の選定なども含めてすべて豊臣秀吉の指図により行われたと考えられています。)、天正13年(1585年)に八幡山城が完成します。

豊臣秀次入城(1585年)

八幡山城が完成すると、豊臣秀吉は、天正13年(1585年)閏8月6日、次期天下人に指名した当時18歳であった豊臣秀次に20万石(近江国蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡)を与え、またその宿老として田中吉政一柳直末・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らを付けてこれらに合計23万石を与えます。なお、秀次に豊臣姓が下賜されたのは、天正14年(1586年)11月25日であるため、このころは羽柴秀次を名乗っていたはずですが、本稿では便宜上「豊臣秀次」の表記で統一します。

この結果、豊臣秀次は、与力を合わせて43万石を治める大大名となって八幡山城に入ります。

このとき、八幡山城は、同城を本城とし、またその支城として水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配することにより近江国を軍事的・経済的に支配し、陸運のみならず琵琶湖水運をもその手中に治めることについての中心的役割を果たします。なお、豊臣秀次の宿老のうち、田中吉政だけは豊臣秀次の居城・八幡山城にあり、宮部家より5000石を与えられて、筆頭家老(関白殿一老)として政務を取り仕切っています。

そして、八幡山城に入った田中吉政が実務を担当し、安土城の建物や城下町を移築する形で八幡山城の改修や城下町の町割(整備)を行っていきます。

また、田中吉政は、八幡山城下に堀としての防衛機能と船舶による水運機能を持った幅員約15m、全長6kmに及ぶ人工の水路(八幡堀)を造り上げ、安土城下から城下町を移転させ、この八幡堀の水運によって八幡山城下町は大いに発展し、近江商人に莫大な利益をもたらしています。

京極高次入城(1590年)

小田原攻めの論功行賞に際して織田信雄が東海道5カ国への移封を拒否して改易されたため、その旧領であった尾張国・伊勢国北部5郡などが、次期天下人となる予定の豊臣秀次に与えられました。

これにより、豊臣秀次は、旧領と合わせて100万石を領する大大名となります。

これに伴い、豊臣秀次は、関東に入った徳川家康への防壁となるため、自らの居城を清洲城に移し、あわせて年寄衆らも東海道に移封します。

こうして豊臣秀次が本拠を移したことにより城主不在となった八幡山城には、代わって京極高次が2万8000石を与えられて入城します。

八幡山城の縄張り

八幡山城は、標高283m・比高100mの独立丘鶴翼山(通称・八幡山)の南半分に築かれた山城です。

前記のとおり、八幡山城築城期は、小牧・長久手の戦い後の徳川家康との講和を模索している緊迫した段階であったため、防衛力を重視して険しい山に築城することとなったのですが、険しい山であったがために山頂付近の斜面を広く平坦化して十分な平地を確保することができませんでした。

そこで、八幡山城では山頂部に居館を含めた城郭建築物を固めて配置することは見送られ、城郭防衛部のみを山頂部に設け、居館部は2本の尾根に挟まれた谷筋にある場所に設けるという二次元分離形態で城域が構成されることとなりました。

山城部分と居館部分は共に、総石垣作り、礎石立ち建物、瓦葺き建物など近世的な構造を持っているものの、この二次元分離形態は、戦国期には多く見られる城郭構造ですが、築城技術の進んだ近世城郭では珍しい時代に逆行した形態と言えます。

また、麓から山頂山城部へ続く西側には西尾根曲輪群が、南東側には南東尾根曲輪群が設けられるなど、尾根沿いに防衛ラインが構築されると共に、山頂山城部にも尾根を上ってきた攻城兵から本丸を防衛する曲輪が配置されています。

谷筋居館部

八幡山城の山麓に設けられた居館部は、標高約130mの地点から谷地形の中央部分に雛壇状に配置された曲輪群です。

北側を山頂山城部、東西を西尾根曲輪群・南東尾根曲輪群で囲み、南側を八幡堀で守る構造となっていました。

最上段に豊臣秀次の居館が配され、そこから下に向かって、麓から一直線に伸びる大手道沿いに家臣団の屋敷が置かれていたのですが、ここから多数の桐紋の金箔瓦が出土しています。

① 大手道

居館部には、麓から最上段の豊臣秀次居館まで一直線に伸びた270mにも及ぶ大手道(安土城大手道の約2倍の長さがあります。)が設けられています。

② 家臣屋敷跡

大手道沿いには、両側に曲輪群(居館曲輪)が配置され、下部の家臣屋敷曲輪は誰が居を構えていたかは史料が残っていないため判明しておらず、また近世の改変をうけている部分もある。

居館曲輪には大型の礎石建物跡と考えられる礎石列、それに伴う溝、建物に葺かれていた金箔瓦が出土しています。

礎石の柱間が約2mであるため書院造の御殿が建っていたと推定されています。

③ 豊臣秀次居館跡

谷筋居館部の最上部には、豊臣秀次居館が設けられていました。

豊臣秀次居館の正面は、巨大な内枡形の食い違い虎口となっており、その西側には二段、東側には四段の高石垣を構えていました。

また、豊臣秀次居館は非常に大きな石を用いた石垣に囲まれた切土と盛土によって構築された東西300m×南北100m余りの大平坦地となっており、権威の象徴となっていたことがわかります。

西尾根曲輪群

西尾根曲輪群は、麓から山頂山城部・出丸に繋がる西尾根上に設けられた曲輪群です。

南東尾根曲輪群

南東尾根尾根曲輪群は、南東尾根(現在ロープウェーが通っているルートであり、かつその下の登山道となっているのがおおむね南東尾根ルートです。)を上ってくる攻城兵から城を守るための曲輪(大平・小平など)です。

山頂山城部

八幡山城の山頂山城部は、本丸を中心に配置し、そこに向かう尾根沿いに二の丸、北の丸、西の丸、出丸がY字形に放射状に配置されています。

そのため、八幡山城は連郭式山城に区分されます。

山城であるにも関わらず、山頂部にも総石垣による高石垣構造にて築かれていることが特徴的です。

なお、山頂山城部には、天正期の他の織豊系城郭に見られず文禄・慶長の役の倭城やその後の国内城郭に多く見られる石垣手法(雉城状の突出部や矢穴石垣など)が用いられている一方で、谷筋居館部にはこれらが見られないことから豊臣秀次期の谷筋居館部よりも後(京極高次期?)に山頂山城が築かれた(または改修された)と推定されます。

(1)出丸

出丸は、麓から西尾根上に設けられた西尾根曲輪群を突破してきた攻城兵を防ぐために設けられた曲輪です。

(2)西の丸

西の丸は、西尾根曲輪群と出丸を突破してきた攻城兵や直接西側から上ってきた攻城兵から防衛するために設けられた曲輪です。

西の丸の地表面には建物礎石跡が露出しており、なんらかの建物が建っていたと考えられます。

(3)北の丸

北の丸は、北側尾根を越えてきた攻城兵を防ぐために設けられた曲輪です。

北の丸と北側尾根は堀切によって遮断されていました。

北の丸の地表面には建物礎石跡が露出しており、なんらかの建物が建っていたと考えられます。

(4)二の丸

二の丸は、南東尾根曲輪群を突破してきた攻城兵を防ぐために設けられた曲輪であり、西側に大手が設けられた曲輪でもあります(大手虎口の位置は八幡山ロープウェーの八幡城址駅辺りと推定されているのですが、二の丸内の石垣が大きく崩れてしまっているためにその正確な位置は明らかとなっていません。)。

(5)本丸

本丸は、標高約283mの山頂部を利用して築かれた八幡山城の最重要曲輪です。

本丸と西の丸に接する西北隅に、15m四方の天守台が設けられているため当時は天守が建っていたと推定されているのですが、現存しておらず、また資料も乏しいためその詳細は不明です。

昭和38年(1963年)に本丸全域に京から村雲門跡瑞龍寺が移設されたため、城郭としての遺構はほとんど残されていません。

①  埋門・弁慶橋

往時には本丸の西側には埋門があり、これと西の丸との間には通称「弁慶橋」と言われる櫓の土台石があったと言われているのですが、昭和28年(1953年)の台風で石垣が崩壊した後にコンクリートで固めてしまったため、その遺構は失われています。

② 本丸虎口

八幡山城の本丸虎口は、二の丸がある南東方向に設けられ、方形の空間を設け右に折れを設けた内枡形構造となっています。

前記のとおり、現在は八幡山城の本丸全体が瑞龍寺の寺域となっているため、現在は、八幡山城の本丸虎口部に移築後の瑞龍寺の門が位置しています(往時の門の形状は不明です。)。

③ 天守台

本丸と西の丸に接する西北隅に、15m四方の天守台があり天守がそびえていたと推定されているのですが、現存していないためその詳細は不明です。

④ 瑞龍寺(1963年移築)

豊臣秀次の死後、母である瑞龍院日秀尼公(豊臣秀吉の姉)によって京の村雲に村雲門跡瑞龍寺が創建されてその菩提が弔われていたのですが、昭和38年(1963年)に同寺が八幡山城本丸跡に移されました。

このときの瑞龍寺移築の際に八幡山城本丸の発掘調査が行われ、建物礎石(五輪塔や宝篋印塔、層塔などの流用礎石を含む)・鬼板・軒丸瓦などの多くの遺物が検出されています。

八幡堀

八幡山城とその麓では、堀を巡らして琵琶湖から水を引き入れ、さらに土塁を設けて防衛ラインを構築しています。

このとき掘られた堀は、堀幅11〜18m・深さ約1.4m・長さ6kmに及ぶ巨大なものであり、防衛ラインであると同時に運河としても利用され、八幡堀と呼ばれました。

八幡堀は、琵琶湖から直接舟入できるように造られ、豊臣秀時代には往来する舟は八幡に立ち寄らなければならない決まりとなっていました。

これにより、回船業を営むことができる親浦の一つとして八幡浦が発展しました(琵琶湖では八幡浦・大津浦・堅田浦の3ヵ所のみ)。

こうして水運の一大拠点となった八幡浦でしたが、後に北前船が開設されると急速に減退していきました。

もっとも、その後も八幡堀は運河として利用され、大正時代まで同地の動脈として利用されました。

城下町

八幡山城城下町は、廃城とされた安土城の城下町や近隣から町民を移すことによりその造成が始まります。

町並みは横筋(東西)4通り、縦筋(南北)12通り構造とされ、城下町の造成が始まったころには徳川家康との和議も成立して近江国に平和が訪れていたことから、町筋をジグザグにして防備能力を高めたりする工夫はなされず、商業振興のために碁盤の目状に町割りがなされました。

そして、城下町のうち、東から二筋を職人居住区(大工町・鍛冶屋町・畳屋町・鉄砲町など)、三筋目から十筋目までを職人居住区(仲屋町筋・為心町筋・魚屋町筋・新町筋・小幡町など)として整備されました。

また、八幡山城下においても、安土城下と同様に中世の特権商人組織であった座や市を廃して八幡楽市楽座とした(天正14年/1586年6月発令の13条の掟書)。

この結果、同地より多くの商人が全国で活躍することとなり、後に全国的に近江商人として有名になりました。

八幡山城廃城

八幡山城廃城(1595年)

文禄4年(1595年)に豊臣秀次が謀叛の疑いをかけられて切腹させられると、その名残を消すかのように、豊臣秀吉の手によって豊臣秀次の縁のあったものが次々と破壊されていきます。

このとき、京の聚楽第や、かつての居城であった八幡山城までもが廃城とされます(この結果、八幡山城に入っていた京極高次は大津城に移されます。)。

その後

昭和28年(1953年)には台風の影響で本丸の西側の2ヵ所の石垣が崩壊し、その後にコンクリートで固められたり、昭和42年 (1967年)の集中豪雨にともなう土砂崩れによって本丸から山麓の居館部分への大規模な土砂崩れが発生したりするなど、近年にいたるまでその遺構が徐々に失われていきます。

もっとも、近江八幡市において、史跡指定も視野に入れ、現在も遺構の残存状態の確認のため発掘調査が行われています。

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