【一柳直末】山中城の戦いで討死した秀吉子飼いの武将

一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)の名を聞いたことがありますか。

一柳直末は、木下姓時代から秀吉に仕え、将来の天下人・豊臣秀次を支える立場になるほど豊臣秀吉の信頼を勝ち得た人物です。

黒田官兵衛の義兄弟でもあります。

小田原征伐の一環として行われた山中城の戦いで戦死したためにその後に名を残せなかったためマイナー扱いされているのが残念です。

本稿では、そんな埋もれたマイナー武将、一柳直末について見ていきたいと思います。

一柳直末の出自

出生(1546年または1553年)

一柳直末は、天文15年(1546年)又は天文22年(1553年)、美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市西野町)において・一柳直高の嫡男として、稲葉一鉄の姪(姉の娘)との間に誕生します(一柳家記)。幼名は、熊と言いました。

一柳家は、元々は伊予国・河野家の一族だったのですが、一柳直未の祖父の代に美濃国厚見郡西野村に移って土岐氏に仕え、一柳の新姓を賜ったのが始まりです。

その後、土岐頼芸が斎藤道三によって美濃国を追われたため、一柳家は美濃国厚見郡西野村で隠遁生活を送ります。

木下秀吉に仕える

木下秀吉の黄母衣衆に選ばれる

そんな一柳直末は、隣国尾張国の織田信長が美濃国を狙っているとの聞き、織田信長に仕えるようになります。なお、美濃国を攻略した織田信長は、郡上八幡城の遠藤慶隆の南下に備えて、大洞城(岐阜県関市富之保一柳)を一柳直末に命じて改修させ、以降大洞城は一柳城と改称しています。

そして、織田信長が美濃国を制圧した元亀元年(1570年)ころまでに、まだ木下姓を称していた織田氏の家臣・木下秀吉(後の、羽柴秀吉・豊臣秀吉)に仕えます。

この後、木下秀吉は低い身分から出世街道を駆け上がっていくのですが、木下秀吉には歴代の家臣は存在せず、自身の出世に合わせて木下秀吉は、使える若武者を重用していくようになります。

一柳直末もまた、木下秀吉に創成期から仕えたいわゆる子飼いの武将となって木下秀吉からの信頼と寵愛を受け、実際多くの書状が伝えられています。

一柳直末は、浅井家との戦いでは、織田信長配下の木下秀吉軍の中で数々の武功を挙げ、250貫の知行と感状を与えられ戦後長浜城主となった木下秀吉から僅か7人の黄母衣衆(武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物の着用を許された馬廻から選抜された精鋭武者)にも選ばれています。

なお、一柳直末以外の6人は、尾藤知宣、大塩正貞、神子田正治、中西守之、一柳直秀、小野木重次です。

その後も、一柳直末は、羽柴秀吉と改名した秀吉に従って各地を転戦します。

中国遠征軍従軍

羽柴秀吉の下で順調に武功を挙げる一柳直末は、天正6年(1578年)、織田軍の中国方面軍司令官となった羽柴秀吉に従って播磨国に転戦し、三木合戦にも参戦しています。

一柳直末は、このときの活躍で播磨国に2500石の知行を得て、美濃国にいた弟・一柳直盛を呼び寄せて90石を与えて被官としています。

その後、天正7年(1579年)の羽柴秀吉の因幡国侵攻、天正9年(1581年)の鳥取城包囲戦、天正10年(1582年)の備中高松城攻め・山崎の戦いなどに従軍しています。なお、天正7年(1579年)、秀吉が姫路城の改修を行っていた際に、羽柴秀吉と一柳直末とが縄張りをめぐって言い争いになったといい、最終的に一柳直末の意見通り作られることとなった曲輪があり、「市助曲輪」と呼ばれたらしいのですが、現存していないため正確なところはわかりません。

そして、天正10年(1582年)末頃には山城国・槇島城主として1万石を与えられ、またその後、近江国勢田城に移って1万5000石を得ています。

なお、正確な時期は不明ですが、このころまでに一柳直末は、黒田官兵衛の妹・心誉を室に迎えています。

羽柴秀吉を支える

一柳直末は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには、加藤光泰とともに軍奉行として参加しており(一柳家記)、羽柴家中で戦巧者と見られていたことがわかります。

天正12年(1584年)、徳川家康との間に起こった小牧・長久手の戦いの際には、伊藤牛之助とともに織田信雄配下の不破広綱が守る竹ヶ鼻城を水攻めにしてこれを陥落させ(竹ヶ鼻城の水攻め)、戦後、一柳直未が羽柴秀吉から同城を与えられています。

その後も、一柳直未は、天正13年(1585年)の紀州征伐の際には千石堀城攻めに加わり、四国攻めや佐々成政攻めにも従軍しています。

豊臣秀次に付けられる

子のいなかった豊臣秀吉は、自身の後継者として甥・豊臣秀次を定め、天正13年(1585年)閏8月6日、豊臣秀次に近江国蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡20万石を与えます。

そして、豊臣秀吉は、このときに一柳直末・田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らを豊臣秀次の宿老(年寄)として付けます。

これにより、豊臣秀次は自身の所領20万石と、つけられた宿老たちへの御年寄り衆分としての23万石の合計43万石の大大名と扱われます。

そして、豊臣秀次は、蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることとし、安土を見下ろす琵琶湖にも近い場所に、八幡山城を築き入ります。

このときの一柳直末の所領は美濃国大垣城に2万5000石であったのですが、豊臣秀次の「折々見廻申候様」として八幡山城付近に1000石を加増されます。

なお、同年11月29日の天正地震で大垣城が倒壊・炎上し、一柳直末は辛うじて難を逃れたのですが、このときに浅井攻めで得た感状を失っています。

その後、天文17年(1589年)3月には賀留美(軽海西城、現在の岐阜県本巣市軽海)に6万石を与えられています。

一柳直末の最期

小田原征伐開始

豊臣秀吉は、天正7年(1589年)12月13日、北条家討伐を決断して陣触れの上、全国統一の総決算である小田原征伐を始めます。

このとき、豊臣秀吉は、20万人とも言われる大軍を準備し、これを3軍に分け、北側から上杉景勝・真田昌幸ら、東側から豊臣秀次・徳川家康ら、海路から九鬼嘉隆らに命じて北条家の居城・小田原城に向かわせます。

これに対し、迎え討つ北条家は、進軍してくるであろう豊臣秀吉の大軍に備え、領内で防備を整えていきます。

このとき、北条方は、東進してくる豊臣軍を迎え討つため、箱根旧街道の要衝である山中城にて豊臣軍を迎えることとなり、豊臣秀次・徳川家康ら率いる豊臣軍6万8000人に対応するため、北条一族の北条氏勝(猛将・北条綱成の孫)を派遣されて防衛することとなり、山中城の戦いが始まります。

山中城の戦い布陣

天正8年(1590年)3月27日に沼津城に入った豊臣秀吉は、豊臣秀次と徳川家康に6万8000人を預けて先行隊とし山中城攻略に向かわせます。

このとき山中城に向かった豊臣軍は、軍を2手に分けて豊臣秀次率いる本隊が出丸曲輪群へ、徳川家康率いる別動隊が本城曲輪群の西の丸へ向かいます(さらに、丹波長秀・堀秀政らを城の南側に回り込ませてもいますので、3手に分けたと言う方が正しいかもしれません。)。

そして、豊臣軍本隊は、まずは出丸攻略を目指して豊臣秀次の家老衆が一柳直末隊、山内一豊隊、中村一氏隊の順に進軍してそれぞれが出丸に取りつきます。

他方、別動隊は徳川家康の指揮の下、山中城の搦手となる西の丸に取りつきます。

一柳直末討死(1590年3月29日)

そして、天正18年(1590年)3月29日午前8時30分頃、豊臣軍本隊先遣隊であった一柳直末が、出丸曲輪群の岱崎出丸へ突入を開始したことにより山中城の戦いが始まります。

圧倒的に寡兵であった北条方でしたが、守将・間宮康俊の指揮の下、岱崎出丸に取りついた一柳直末隊に、岱崎出丸と三の丸南櫓から挟撃を仕掛けます。

このときの鉄砲隊による十字砲火を受け、豊臣軍の先鋒隊を指揮していた一柳直末が戦死します。享年は、寛永譜・寛政譜では45歳、一柳家史紀要では38歳とされています。

なお、一柳直末の首は、敵の手に落ちないよう従僕が持ち去り、山中城攻めの拠点であった長久保城にほど近い下長久保村(現在の静岡県駿東郡長泉町長久保)に埋められたと言われており、現在も同地に一柳直未のものと伝わる首塚が残されています。

一柳直末の討死に動揺した一柳軍でしたが、弟・一柳直盛がなんとかとりまとめて奮戦しており、その日のうちに山中城を陥とすことに貢献しています。

沼津城にいた豊臣秀吉は、一柳直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほど口をきかなかったと言われています(一豊公記)。

一柳直末亡き後の一柳家

嫡男・松千代

一柳直末の死後、黒田官兵衛は妹・心誉と一柳直末の嫡男・松千代を引き取ります。

黒田官兵衛は、松千代をたいそう可愛がり、長らく子に恵まれなかった黒田長政の後継者と決めます。

もっとも、黒田長政の継室・栄姫が男子(後の黒田忠之)を生んだ翌年である慶長8年(1603年)、一柳直末の嫡男・松千代は謎の事故死を遂げ、一柳直末の嫡流が途絶えています。

弟・一柳直盛

一柳直末の死により、弟・一柳直盛が兄から家督を継いで遺領の中から尾張国・黒田城を与えられ3万石を知行したとされています(一柳家記)。

この点、一柳直末には、幼少の息子・松千代がいたため、一柳直盛は兄の遺領のうち3万石のみを継ぐことになったとも、所領を預かっただけとも言われています。

もっとも、一柳直末の嫡男・松千代が早世したため、一柳直盛が尾張国葉栗郡の黒田城主として近世大名と一柳家を残していくこととなります。

母・らく

一柳直末の死を悼んだ豊臣秀次は、一柳直未の母・らくに対して508石の知行地が与えられました。

この際の豊臣秀次の所領宛がい状は、女性相手に対するものという配慮から主にひらがなで書かれています(一柳文書)。

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