【長尾為景】主を2人殺した天下に例なき奸雄である上杉謙信の実父

長尾為景(ながおためかげ)は、越後長尾家第7代当主として、1506年から1536年まで越後の国を治めた戦国大名です。

元々は、越後守護代・越中国新河郡分郡守護代から始まり、越後守護・上杉房能と、関東管領・上杉顕定という2人の主を殺害してのし上がるという類を見ない下克上を行った人物です。

戦国時代の下克上の先駆者です。

上杉謙信の実父でもあります。

長尾為景の出自

出生(1486年)

長尾為景は、文明18年(1486年)、越後守護代であった越後長尾家第6代当主・長尾能景の子として、信濃国の在地豪族であった高梨氏の娘(法名:玉江正輝)との間に生まれます。幼名は六郎でした。

越後国は、守護・上杉家が治めていたのですが、守護は在京するという原則により上杉家当主が代々越後を離れていたため、越後国においても例に漏れず守護上杉家の力が弱まり守護代である越後長尾家が次第に勢力を伸ばしていました。

その後、元服し、長尾為景を名乗ります。

越後長尾家の家督相続(1506年)

永正3年(1506年)の般若野の戦いで父・長尾能景が戦死したために、同年、長尾為景は越後長尾家の家督を相続します。

長尾家が越後国内で勢力を伸ばしつつある中で越後長尾家当主が急死したのですから、直ちに越後長尾家に抑圧されていた中越地方の五十嵐氏・石田氏らが反乱を起こします。

もっとも、これらの反乱は、長尾為景によってまもなく平定されています。

また、若い長尾為景は、越後国守護に恭順の姿勢を示していた父・長尾能景とは違い、国人領主層の不満を代弁して越後国守護・上杉房能の政策や方針に反発したため、対立は必至となっていきます。

下克上1(越後守護・上杉房能殺害)

越後守護・上杉房能殺害(1507年8月)

そして、長尾為景が越後長尾家の家督相続をした翌年の永正4年(1507年)春頃、ついに越後守護・上杉房能が、長尾為景討伐のために動き始めます(謀反の気配ありという理由で、討伐軍編成準備を始めます。)。

ところが、越後国守護が討伐軍を編成しようとしているとの動きを察知した長尾為景は、逆に機先を制して、同年8月1日に越後国府中にあった越後守護・上杉房能の居館を襲撃します。

上杉房能は、何とか居館からの脱出は果たし、兄である関東管領上杉顕定を頼って落ち延びようとしたのですが、途中の松之山郷天水越で長尾為景方の追討を受け、同年8月7日、自刃して果てています。

傀儡の越後守護・上杉定実擁立(1508年11月6日)

越後国守護を討ち果たした長尾為景でしたが、そのまま自身が越後国守護の立場に立つと、越後国内の国人衆の反発を招きます。

そこで、長尾為景は、永正5年(1508年)11月6日、越後守護・上杉房能の徒弟(養子)であった上杉定実に長尾為景の妹を娶らせた上で傀儡の越後守護に擁立し、体裁を整えます。

もっとも、この長尾為景の一方的な新守護擁立には、相当な反発が起き、永正5年(1508年)9月には、特に揚北(阿賀北・あがきた)地方の本庄時長・色部昌長・竹俣清綱らが一斉蜂起する事態に陥ります。

阿賀北地方の反乱の話を聞いた長尾為景は、直ちに伊達家・蘆名家に鎮圧協力を要請し、同年10月に本庄時長の拠点本庄城を、翌永正6年(1509年)5月には色部昌長の拠点平林城を、同年6月には竹俣清綱の拠点岩谷城をそれぞれ鎮圧してこれらを鎮めます。

残った反乱勢力も会津に逃亡したり、蘆名家や中条藤資の仲介により順次長尾為景と和睦し、反乱が治まっていきます。

そして、同年8月に長尾為景が銭貨80貫文を室町幕府に献上し、同年11月6日には幕府から上杉定実の越後守護就任が正式に認められ、長尾為景も上杉定実を助け補うことを命じられ、既成事実が整います。

長尾為景が、越後国内で下克上を達成した瞬間でした。

下克上2(関東管領・上杉顕定殺害)

関東管領・上杉顕定の越後国侵攻(1509年7月28日)

何とか、越後国内で、主である守護殺しによる混乱を治めつつあった長尾為景に更なる試練が訪れます。

永正6年(1509年)7月28日、上杉房能の実兄である関東管領・上杉顕定とその子・上杉憲房が、弟の報復を名目として、8000人もの大軍を率いて越後国に侵入してきたのです。

関東管領軍の侵攻に対し、長尾為景の一族である上田長尾家・長尾房長が同調したため、坂戸城が関東管領・上杉顕定勢の関東軍の拠点となります。

また、関東管領軍の動きを見た揚北衆(本荘房長・色部昌長・竹俣清綱)や上条定憲らも関東管領軍にに味方します。

こうなると、長尾為景では、関東管領軍を押し返すことができず、支えきれなくなった長尾為景は、新越後国守護である上杉定実を連れ、越後国を捨てて越中国に逃亡します。

その結果、越後国に入った関東管領・上杉顕定は、越後上田荘を拠点として越後府中(現在の上越市)を落とし、中越・上越地方を抑え、越後国をほぼ手中におさめます。

越後国へ戻る(1510年4月20日)

対して、越中国に逃れた長尾為景は、伊達尚宗に援軍を要請したり、越後や陸奥、信濃、能登、飛騨の諸将さらに幕府とも情報を交換しつつ越後国奪還の機会をうかがいます。

軍勢を立て直した長尾為景は、永正7年(1510年)4月、越中国から佐渡国へ渡り、同年4月20日には海上から蒲原津(現在の新潟市)に上陸して決戦の準備を整えます。

長尾為景が越後国に戻るという報を聞いた関東管領・上杉顕定は、これを討つために府中から出陣します。もっとも、上条定憲の寝返りなどもあって状況は長尾為景に有利に展開し、同年5月20日には長尾為景方の村山直義が今井・黒岩で関東管領の軍勢に勝利しています。

その後、同年6月12日には、上条氏が調略により長尾為景に下ったことなどにより、上杉顕定の養子・上杉憲房の軍勢を破って妻有荘まで後退させています。

長森原の戦い(1510年6月20日)

度重なる敗戦で越後国国衆の評価を得られなかったこと、留守にしていた関東で北条早雲や長尾景春の動きが活発になるなどしていたことなどから、管領・上杉顕定は、遂に越後国の支配を諦めて関東への撤退を開始します。

そうした動きの中で、坂戸城主の長尾房長までもが長尾為景方に寝返り、関東管領軍は退路を遮断されることとなりました。

こうなると、関東管領軍の士気は地に落ちます。

長尾為景は、撤退する関東管領軍を追撃するため軍を編成し、永正7年(1510年)6月20日、坂戸城北方の六万騎山麓の長森原で関東管領軍に追いつき、戦闘となります。

このときの関東管領軍800余騎・長尾為景軍500余騎と数において勝る関東管領軍でしたが、士気が低下しきっており、有利に戦局を展開できず、ずるずると劣勢になっていきます。

そして、激戦の結果、信濃国から長尾為景の援軍に駆け付けていた高梨政盛が、関東管領・上杉顕定の首級を挙げ、長森原の戦いは長尾為景の大勝利に終わります。

この合戦によって関東管領を追い出し、越後府中を取り戻した長尾為景が、名実共に越後国の支配者となりました。

越後国統治

越後国を治めるに至った長尾為景ですが、その後も領内での相次ぐ反乱に悩まされます。

永正9年(1512年)5月、揚北衆の鮎川氏が反逆するが、山吉氏・築地氏らを使わしてこれを鎮圧しています。

また、永正10年(1513年)には、お飾りの越後守護・上杉定実までもが宇佐美氏・上条氏・揚北衆などに擁立して長尾為景の居城春日山城を攻撃し、失敗してお灸を据えられています。

大永元年(1521年)2月には、長尾為景は無碍光衆禁止令(むげこうしゅうきんしれい)を発布し、一向宗の信仰することを禁止しました。

その後、越中国や加賀国に転戦して、神保慶宗・椎名慶胤らを滅ぼし、越中の新河郡守護代を任されるなど勢力を拡大したています。

長尾為景の最期

三分一原の戦い(1536年4月10日)

享禄4年(1531年)6月、長尾為景が後楯となっていた幕府の有力者細川高国が自刃します(大物崩れ)。

この隙をついて、上杉定実の実弟である上条定憲(じょうじょうさだのり)が、上田長尾氏や揚北衆など国内勢力に加え、会津蘆名氏や出羽国砂越氏といった国外の勢力も味方につけて長尾為景への攻勢を強めます。

そして、上条定憲は、天文5年(1536年)4月10日、長尾為景の居城・春日山城に向かって進軍していくのですが、これに対し、長尾為景も迎撃の軍を出し、保倉川にかかる三分一橋の付近一帯で両軍が対峙します。

そのまま、両軍は激突し、当初は上条定憲方が有利に戦いが展開したのですが、このとき事前に調略を受けていた上条定憲方の武将・柿崎景家が突如長尾為景方に寝返って、上条定憲の本陣を急襲したため、戦局が一変し、この戦いは長尾為景の勝利に終わります。

また、このときの長尾為景の見事な手腕を見た名将・宇佐美定満も、戦後、長尾為景への帰順を決めています。

長尾為景隠居(1536年8月)

もっとも、このころになると老いが見え始めた長尾為景は、天文5年(1536年)8月、嫡子・長尾春景に越後長尾家の家督を譲り隠居します。

隠居の理由として、強制的に隠居させられたとか、反乱を繰り返す国人対策に専念するために形式的に隠居したとから色々な説がありますが、正確な理由はわかっていません。

もっとも、この年には朝廷より内乱平定を賞する綸旨を受けたり、三分一原の戦いで勝利するなど優勢下での隠居のため、長尾為景が越後長尾家の実権を握ったまま、形だけの家督相続だったものと考えるの普通なのかもしれません(上杉氏年表、定本上杉謙信)。

長尾為景死去(1543年12月24日)

そして、天文11年(1543年)12月24日、越後長尾家を一守護代から戦国大名に発展させた奸雄・長尾為景が死去します。

没地は不明ですが、富山県砺波市に一向一揆に敗れた長尾為景のものとされる長尾塚が残されていますので、その辺りかもしれません。この後、表面上は越後長尾家と協調路線をとっていた上杉定美が、国衆との融和路線をとる長尾晴景の指導力に疑問を持ち、敵対の意思を示します。

このとき、越後長尾家と敵対路線にシフトした上杉定実でしたが、上杉定実には子がなかったため、養縁戚である伊達稙宗の息子・時宗丸(後の伊達実元)を養子に迎え、上杉と伊達との関係を強化して越後長尾家に対峙しようと考えます(もっとも、この計画は伊達晴宗の反対により頓挫しています。)。

また、上杉定実の配下であった黒田秀忠が、長尾為景死去直後の混乱を狙って安田城にて反越後長尾家の兵を挙げますが、上杉謙信の手によって鎮圧されています。

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