田中吉政(たなかよしまさ)は、農民から出生し、宮部継潤・豊臣秀吉・豊臣秀次・徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの際には石田三成を捕縛する大功を挙げて筑後国32万石の国持大名にまで上り詰めた人物です。
本稿では、そんな田中吉政について、転封の過程で行った近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳川(現福岡県柳川市)の現在につながる都市設計を紹介しながら見ていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
田中吉政の出自
出生(1548年)
田中吉政は、天文17年(1548年)、近江国高島郡田中村(現在の滋賀県高島市安曇川町田中)において、農夫である田中重政と竹(宮部継潤家臣の国友与左衛門姉)との間に生まれます(政重修諸家譜)。
田中家は、元々近江国守護・佐々木家の庶流であったとも言われますが、その信用性は眉唾物です。
宮部継潤に仕える
若かりし頃の田中吉政を知りした記録はほとんどなくその詳細はわかりませんが、成長した田中吉政は、母の縁をたどって浅井家の家臣であった国人領主・宮部継潤に仕え、7石2人扶持を得たようです。
その後、織田信長が近江国に侵攻を開始し木下秀吉がその先行隊を努めたのですが、宮部継潤の居城であった宮部城が小谷城攻めには欠かせない重要拠点だったこともあり、木下秀吉が、天正元年(1573年)8月ころまでに木下秀吉は、甥・治兵衛(後の豊臣秀次)を宮部継潤の養子としてその取り込みを図ります。
この結果、田中吉政と木下秀吉及び治兵衛(後の豊臣秀次)の面識ができたと考えられます。なお、治兵衛(後の豊臣秀次)は、事実上の人質であったようで、浅井氏滅亡後は秀吉の下に返還されています。
そして、この後、田中吉政は、宮部継潤に仕えつつ、その上司となった木下秀吉(羽柴秀吉・豊臣秀吉)の戦いに参戦していきます。
近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)の開発
豊臣秀次の家老となる
そして、山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなどを経て天下人に上り詰めていった豊臣秀吉でしたが、子宝には恵まれませんでした。
そこで、豊臣秀吉は、自身の後継者として甥・豊臣秀次に定め、天正13年(1585年)閏8月6日、豊臣秀次(当時は羽柴秀次を名乗っていたのですが、便宜上本稿では豊臣秀次の名で統一します。)に近江国蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡20万石と新たに近江国の国城とした八幡山城を与えます。
そして、豊臣秀吉は、このときに田中吉政を、一柳直末・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らと共に豊臣秀次の宿老(年寄)として付けたのですが、豊臣秀次は自身の所領20万石と、つけられた宿老たちへの御年寄り衆分としての23万石の合計43万石の大大名と扱われます。
近江国・八幡の開発
同じく豊臣秀次付家老格となった中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らはそれぞれ居城を持ったのですが、田中吉政だけは豊臣秀次の居城・八幡山城にあり、宮部家より5000石を与えられて、筆頭家老(関白殿一老)として政務を取り仕切っていきます。
このとき、田中吉政が、実務を担当して、八幡山城の改修や城下町の整備を行っていきます。
まず、田中吉政は、織田信長が築いた安土城下の町を八幡城下に移し町割を行います(なお、江戸時代中ごろまでは、田中久兵衛吉政にちなんで名付けられた久兵衛町という地域が近江八幡の町の一画に残っていました。)。
その上で、田中吉政は、八幡山城下に堀としての防衛機能と船舶による水運機能を持った幅員約15m、全長6kmに及ぶ人工の水路を造り上げます(八幡堀・はちまんぼり)。
この八幡堀の水運によって八幡山城下町は大いに発展し、近江商人に莫大な利益をもたらしています。
三河国岡崎(現愛知県岡崎市)の開発
三河国・岡崎5万7400石を得る
天正18年(1590年)、小田原征伐を行って関東の雄・北条氏を滅亡させて名実共に天下人となった豊臣秀吉は、大々的な諸大名の配置換えを行います。
権力を得た者が行いがちな、本拠地周辺を身内で固め外様を追いやる仕置きです。
このとき、豊臣秀吉は、畿内を一族・譜代で固めると共に、徳川家康を関東に転封し徳川包囲網を敷きます。
このとき、東の備えとして尾張国清洲城に豊臣秀次を入れ、その筆頭家老であった田中吉政は、隣国である西三河国の岡崎城5万7400石が与えられその備えとして配されます。
三河国・岡崎の開発
このとき、岡崎の地を与えられた田中吉政は、領内の整備を開始します。
徳川家康生誕の地として有名な岡崎ですが、現在に繋がる岡崎の町の基礎を作ったのは、徳川家康ではなく田中吉政です。
三河国・岡崎に入った田中吉政は、城下町一帯の外周を堀や石垣をもって7つの町を総堀で囲い込むとともに(田中堀)、それまで郊外として菅生川南岸を通っていた東海道を城下中心に引き入れてこれを取り込むなどして、城下の町割を行います。
また、西側の低湿地の埋め立てを行うなどして整備し、岡崎城を近世城郭に整備していきます。
さらに、城下町の防衛と街道筋の伸長のため、城下の道路を「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道に整備しています。
秀次事件(1595年7月15日)
ところが、豊臣秀次の筆頭家老として順調に岡崎の開発を進める田中吉政の身に及ぶ大事件が起こります。
文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を生んだのです。
豊臣秀吉に実子が生まれたとなると、甥にすぎない豊臣秀次の立場は危うくなっていきます。
真偽は不明ですが、この頃から、豊臣秀吉に粛清されるのではないかと怯え始めた豊臣秀次にストレスからくる奇行が見られるようにもなったそうです。
もっとも、田中吉政は、この後も不行跡を重ねる豊臣秀次を諫め続けます。
ところが、本格的に豊臣秀次を追い出しにかかる豊臣秀吉は、豊臣秀次に謀反の疑いをかけ、文禄4年(1595年)7月15日、切腹に追い込みます。
このとき、木村重茲、前野景定、羽田正親、服部一忠、渡瀬繁詮、明石則実、一柳可遊、粟野秀用、白江成定、熊谷直之ら10名が賜死となり、そのほかにも多くの家臣が処分を受けたのですが、田中吉政に対しては諫言を続けていたとして連座処分はなされませんでした。
結局、田中吉政には処分はなく、そればかりか文禄5年(1596年)までに加増がなされ、三河国岡崎で10万石の大名となっています(さらに、このとき豊臣秀吉から偏諱を賜って名を「長政」から「吉政」と改めています。)。
不可解です。
筑後国柳川(現福岡県柳川市)の開発
関ヶ原の戦い(1600年9月15日)
田中吉政は、豊臣秀吉の死後には徳川家康に接近し、関ヶ原の戦い前の岐阜城攻略戦では黒田長政・藤堂高虎らと共に大垣城から岐阜城へ向かう西軍を河渡で殲滅しています。
また、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、3000人の兵を率いて東軍の最前線に配置され、石田三成本隊に攻め込まれた際には激戦を繰り広げて一旦は後退を始めるも、友軍であった細川忠興隊の横槍によって救われた後は石田三成本隊を押し戻すという活躍を見せています。
石田三成捕縛(1600年9月21日)
関ヶ原の戦いに勝利した後、田中吉政は、宮部長房(長煕)と共に石田三成の居城・佐和山城に搦手から突入し落城させています。
そして、その後、石田三成捜索隊に加わり、関ヶ原の戦いの6日後である慶長5年(1600年)9月21日、伊吹山中に隠れる石田三成を発見しこれを捕縛します(実際に捕縛したったのは田中伝左衛門吉忠と沢田少右衛門。)。
捕縛された際、石田三成は腹痛で病んでいたが、医師の勧める薬は拒否したため、田中吉政が熟慮の上で健康に良いという理由付けをしてニラ粥を勧めたので石田三成はそれを食し、手厚くもてなされた礼であるとして、石田三成は、太閤から給わった大小のうち、脇差しを田中吉政に授けたと言われています(寸延短刀 石田貞宗:東京国立博物館蔵)。なお、打刀(さゝのつゆ、備後貝三原正真作)は捕縛者である田中伝左衛門(田中吉忠)に渡ったと言われています。
筑後一国・柳川城を得る
田中吉政は、この石田三成捕縛の功により、筑後一国と柳川城32万石を与えられて筑後国・柳川(柳河)藩主となり、柳川に入ります。
筑後国・柳川の開発
元々は、筑後国・柳川を治めた武将として有名なのは武勇の誉高い立花宗茂ですが、現在に繋がる柳川の町の基礎を作ったのは、立花宗茂ではなく田中吉政です。
そもそも、立花宗茂は、柳川藩の藩祖でもありません。
柳川に入った田中吉政は、柳川の掘割を整備することで水運や稲作のための用水路を整備し(かつて、自信が手がけた八幡山城下の八幡堀を模しています。)、また慶長本土居と呼ばれる約32kmにも及ぶ潮留堤防を設け、柳川と久留米を結ぶ田中街道(現福岡県道23号)や柳川と八女福島・黒木を結ぶ街道を作るなど、陸路の整備にも力をいれます。
また、収入の増加のため有明海の干拓にも取り組み、筑後10郡の庄屋・百姓に耕地を広めることを奨励したりもしています。
さらに、隣国の鍋島直茂に頼んで焼物使の家長彦三郎方親を招き、これに66石を与えて筑後国焼物司役として陶業を起こして柳川焼を始めたりもしています。
田中吉政の最期(1609年2月18日)
田中吉政は、慶長14年(1609年)2月18日、京都伏見で没した。享年62歳でした。
田中吉政の後を継いだのは、田中忠政だったのですが、田中忠政が男子を残さぬまま死去したために、元和6年(1620年)に田中家は改易され、柳川城は立花宗茂に与えられています。