【小山城】武田家の遠江国侵攻の橋頭保となった平山城

小山城(こやまじょう)は、武田信玄が、徳川家康との密約(大井川より西は徳川領・東は武田領とする約束)を破って大井川西側に攻め込み、そこから遠江国侵攻の橋頭保とする目的で遠江国榛原郡に築かれた平山城です。

密約を破って遠江国へ侵攻する武田家と、それに抗する徳川家との争奪戦の舞台となった城です。

同じ争奪戦が繰り広げられた近くの高天神城や諏訪原城などと比べるとやや知名度が劣るのですが、これらの城とは異なり徳川軍の攻撃では陥落しなかったという実績を残す堅固な城ですので、その詳細について本稿で紹介したいと思います。

小山城築城

小山城の立地

小山城は、駿河国と遠江国との国境となる大井川の西岸(遠江国の東端)の湯日川に面した舌状台地(牧之原市台地の支脈である南原台地)の東南端に位置します。

現在は、小山城跡の北側から東側に向かって湯日川が流れ、南側と西側は平地となっているのですが、当時は城の南側は湿地帯でした。

また、これに加え、北側・東側・南側は急峻な崖に守られていたことから、これらの三方向から小山城を攻めることはほぼ不可能な構造となっていました。

武田信玄と徳川家康の密約

永禄11年(1568年)3月に今川氏真の祖母・寿桂尼が死亡すると、武田信玄が駿河国への野望を顕在化させていき、今川家臣の調略や三河国を治める徳川家康へ接近していきます。

そして、武田信玄は、徳川家康との間で、大井川を境にして東部を武田信玄が、西部を徳川家康がそれぞれ攻め取るという内容の今川領分割の密約を締結します。

この密約に従って、三河国から徳川家康が遠江国へ、甲斐国から武田信玄が駿河国へ侵攻を開始したのですが、永禄11年(1568年)12月、武田信玄が徳川家康との密約を反故にして大井川を超え、徳川家康が支配することとなるはずであった大井川西側(遠江国)への侵攻を開始します。

そして、このとき小山城が建っていた場所に建っていた山崎の砦(築年不明)を武田信玄が攻め取ってしまいます。

これに怒った徳川家康は、元亀元年(1570年)4月、松平真乗に命じて山崎の砦を攻撃させ、その奪還に成功します。

この後、それぞれの戦いを経て、結果的には当初の密約のとおりに徳川家康が遠江国を、武田信玄が駿河国を切り取ります(結果的には密約のとおりとなったのですが、武田と徳川の関係は最悪なものとなりました。)。

駿河国を得た武田信玄は、獲得した田中城、新たに築いた清水城(永禄12年/1569年築城)・江尻城(永禄13年/1570年築城)などを本拠として念願だった港と海上輸送路を確保し、更なる領土的野心を高めます。

小山城築城(1571年2月)

そして、元亀2年(1571年)2月、武田信玄は、再び2万5000人の兵を率いて遠江国へ攻め入り、山崎の砦を再度攻略します。

再度山崎の砦を再取得した武田信玄は、名称を山崎の砦から「小山城」に変更し、同城に大熊朝秀(長秀)を城主として入れます。

その上で、小山城を遠江国侵攻の橋頭保として活用するため、馬場信春に命じて大規模改修を行います。

小山城の縄張り

小山城は、北側・東側を湯日川で、南側を湿地で守られている上、これらの三方には急峻な崖がそびえているため、その攻城経路は西側に限定されることとなります。

そこで、小山城は、高さと水で守られる東端部に本曲輪を配し、そこから西に向かって二の曲輪・三の曲輪を一直線に並べて守る連郭式平山城に分類されることとなります。

そして、本曲輪を守る二の曲輪・三の曲輪には、その攻城経路となる西側にいくつもの三日月堀を巡らして厳重に守られていました。

特に、三の曲輪に築かれた三重の三日月堀は、日本の城郭唯一のものとして有名です。

三の曲輪

三の曲輪は馬出状の形状をしており、その前方を三重の三日月堀で、脇を更なる堀で防衛する構造となっています。

三の曲輪の三重三日月堀は、内側からそれぞれ幅7m・9m・10mを擁する巨大な堀であり、その突破は困難を極める堅固な防衛力を有していました。

内側2か所の堀には土塁が設けたものの、一番外の堀には土塁は設けられませんでした。

小山城放棄の際に武田方の婦女子がこの堀に身を投げたため、その化身となった赤い唇の蛭が住み着くようになったとの伝説が残されています。

二の曲輪

能満寺曲輪

本曲輪

本曲輪は、言うまでもなく小山城の最重要曲輪です。

城域で最も防衛力の高い東端部に設けられ、廃城までの間に天守の建築はなされませんでした。

① 三日月堀と丸馬出

本曲輪虎口前には、二の曲輪内に収まる形となる三日月堀と丸馬出が設けられていました。

② 井戸

③ 模擬天守

本曲輪には、昭和62年(1987年)9月に犬山城天守を参考に築かれた望楼型3層5階の模擬天守(鉄筋コンクリート造)が建てられ、史料展示室や展望室として利用されています。

小山城廃城

諏訪原城築城と高天神城攻略

そして、元亀3年(1572年)10月、徳川領を獲得するために武田信玄が自ら軍を率いて遠江国・三河国方面に向かって3方面からの同時侵攻を開始します。いわゆる武田信玄の西上作戦です。

破竹の勢いで徳川領を攻略していった武田軍でしたが、武田信玄の体調不良によって西上作戦は中断され、武田信玄は甲斐国へ帰還中であった元亀4年(1573年)4月12日に信濃国伊那郡駒場にて死去します。

この結果、武田信玄の四男であった武田勝頼が武田家の家督(仮当主・陣代)を相続し、徳川領侵攻作戦を引き継ぐこととなりました。

武田勝頼は、天正元年(1573年)、小山城からさらに西側に進んだ牧之原台地の舌状台地の先端部に諏訪原城を築き、さらなる徳川領東遠江侵攻の足掛かりを得ます。

そして、武田勝頼は、天正2年(1574年)6月、諏訪原城・小山城を足掛かりとして武田信玄すらなし得なかった高天神城攻略を達成します(第一次高天神城の戦い)。

徳川方からの猛攻に晒される

戦局を有利に進めて徐々に遠江国へ侵攻していく武田軍だったのですが、天正3年(1575年)5月21日に、設楽原において織田・徳川連合軍に大敗すると状況が一変します(長篠設楽原の戦い)。

設楽原決戦に勝利して勢いに乗った徳川軍は、その直後に小山城に攻め寄せたのですが、このときは城番の岡部元信らの奮戦により撃退されます。

もっとも、設楽原決戦において多くの将兵を失った武田家が大きく国力を落としたため、反転攻勢をかけてくる織田軍・徳川軍に苦しめられるようになり、遠江国戦線は徳川軍有利に進んでいくようになり、天正3年(1575年)8月14日には諏訪原城が徳川方に降伏開城します。

諏訪原城が奪われたことにより高天神城が徳川領に残される結果となってしまったため、武田勝頼は、天正4年(1576年)、同城への兵站拠点となる相良古城を築城し、高天神城の維持を図ります。

小山城陥落(1582年2月)

もっとも、ジリ貧状態となっていた武田家は多方面の戦線を維持できず、天正9年(1581年)3月に徳川方の攻撃によって遠江国の武田方の最前線拠点であった高天神城や、高天神城と小山城との繋ぎの城であった相良古城を失います(第二次高天神城の戦い)。

この結果、小山城が対徳川遠江戦線の最前線基地となったのですが、大井川を渡った西側に単独で存在することとなった小山城の防衛は困難を極めます。

それでも、小山城の守りは堅く、徳川軍の攻撃により陥落することはありませんでした。

ところが、天正10年(1582年)2月、織田・徳川連合軍による本格的な武田討伐戦(甲州征伐)が始まると、勝ち目がないと悟った小山城の将兵は城に火を放って逃亡したため、最終決戦をすることなく小山城は陥落してしまいました。

小山城廃城(1582年)

甲州征伐の結果として武田家が滅亡すると、駿河国が徳川家康に与えられたため、駿河・遠江の国境防衛拠点としての小山城の戦略的価値が失われます。

そこで、天正10年(1582年)、役目を終えた小山城は廃城となりました。

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