【塙直政(原田直政)】異例の出世を遂げたが本願寺との三津寺砦の戦いで討ち取られた武将

塙直政は、織田信長の下で異例の出世を遂げ、一時期は宿老達に匹敵する知行を得ていた武将です。読み方は「ばんなおまさ」であり、「はなわ」ではありません。

出世街道を駆け上っていたにも関わらず、本願寺との戦いで討ち死にした上、その責を負わされて一族郎党追放されたためその後の歴史に名を残さずマイナー扱いされています。

本稿では、そんな歴史に埋もれた武将である塙直政について見ていきましょう。

塙直政の出自

出生

塙直政は、尾張国春日井郡比良村で生まれたとされますが父母が誰であったか定かではありません(父は、大野木城主・塙右近とも言われています。)。

また、生年や幼名についても不明です。

織田信長に仕える

もっとも、はじめは織田信長に馬廻り(小部隊長)として仕え、その後、9人ないし17人しかいない赤母衣衆(親衛隊)に抜擢されますので、織田信長に近い位置にいたエリートであったことは間違いないようです。なお、同じ赤母衣衆としては前田利家などが有名です。

永禄10年(1567年)に織田信長が岐阜に移った際には、塙直政もこれに随伴して岐阜に移り住んでいます。

永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を伴って上洛すると、吏僚に抜擢されて畿内の政務を担当するようになります。そのため、塙直政の名がこの頃から行政文書に出てくるようになります。

天正2年(1574年)3月の蘭奢待下賜の際には御奉行(監督役)を務めています。

もっとも、塙直政は、行政官としてだけでなく、戦働きでも優秀だったようです。

異例の大出世

塙直政は、伊勢長島攻め、高屋城の戦いなどの数々の戦いに参戦し武功を挙げ、天正2年(1574年)5月には南山城守護に任じられています。山城国は京を擁する日本の中心であり、そこに近い南山城を任されていることから塙直政がいかに織田信長から重用されていたかがわかります。

そして、天正3年(1575年)3月には大和守護の兼務を命じられ2ヶ国を治めるに至ります。

大和国は、元々大名ではなく大寺院などの宗教勢力が治める難治の国であったのですが、織田信長の臣下となった松永久秀がこれを統治することで治めていました。

ところが、松永久秀が織田家から離反したため、このころには再度大和国で混乱が起きていたのです。

そこで、織田信長は、この大和国の混乱を収め、織田家の支配を大和国に及ぼすために塙直政の手腕に期待し、塙直政に大和の国を与えたのでした。

塙直政は、山城の槙島に本拠を置き、反抗する大和国の国人を攻めつぶしたり説得したりして懐柔していきます(塙直政の与力に興福寺にゆかりのある筒井順慶がついていたのがよかったのかもしれません。)。

また、塙直政は、南山城と大和国に加えて河内国の城割を行うなどしており、河内国も含めると三カ国に広範な影響力を及ぼす人物に成長します。

この勢力は、同年代の柴田勝家ら宿老クラスと同程度の破格の出世でした。

長篠設楽原の戦い(1575年5月)

天正3年(1575年)5月の長篠設楽原の戦いでは5人の鉄砲奉行の1人として(その他は、佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝)、与力を引き連れて参戦しています(与力の筒井順慶も、織田信長に鉄砲隊50人を供出したそうです。)。

備中守に任じられる(1575年7月)

天正3年(1575年)7月3日、備中守に任官されるとともに、九州の名族の原田姓を下賜され、以降原田備中守直政となります。

なお、このときの叙任は、羽柴秀吉、明智光秀、簗田広正ら極少数に対してのみなされたものであり、塙直政の重要性が際立っています。

越前一向一揆との戦い

また、同年8月の越前一向一揆攻略にも参戦しています。

このとき、織田軍は一揆勢の根切りを目指しており、塙直政を含む織田軍諸将が農民を含む一揆勢の首を次々とはねていたと記録に残されています。

織田信長の攻勢により伊勢長島と越前を失った本願寺は、本願寺顕如が織田信長に対して自らの行為を侘び、さらに条書と誓紙を納める形で織田信長と和議を結び、ここで一旦織田と本願寺との間に戦いが中断します。

なお、天正4年2月21日に興福寺で行われた薪能の際、塙直政は、松永久秀筒井順慶を両側に従えていたとされており、大和国での塙直政の地位が窺い知れます。

塙直政討死

石山本願寺再蜂起(1576年4月)

和議により一応の平穏を取り戻していた織田信長と石山本願寺ですが、天正4年(1576年)、毛利輝元に保護されていた足利義昭の呼びかけに応じて、石山本願寺がまたも蜂起します。

これに対し、織田信長は、同年4月14日、陸上に6つの砦を築いて石山本願寺を北・東・南の三方から包囲を試みました。

なお、明智光秀・細川藤孝軍が東南の守口・森河内に、荒木村重軍は海上から攻め寄せて北方の野田に、塙直政軍は南方から進んで天王寺に配置されます。

ところが、本願寺の北にある楼岸砦(現在の大阪市中央区)と南側にある木津砦(現在の大阪市浪速区)に阻まれて、織田方としては石山本願寺の補給路を遮断できませんでした。

そこで、織田信長は、本願寺を支援する城砦群から潰していくことにより補給路を断ち切ろうと考えます。

そして、まずは石山本願寺の近くの海沿いにある三津寺砦を目標とし、その奪取を大和、山城、和泉の3カ国から召集した1万人の兵を擁する塙直政に命じます。

三津寺砦の戦い(1576年5月3日)

塙直政は、天正4年(1576年)5月3日早朝、織田信長の命を受けて、明智光秀、佐久間信栄らに天王寺砦の留守を任せ、三好康長を先鋒として三津寺砦に対する攻撃を開始します。

これに対し、本願寺側も近接する楼岸砦から援軍を出し、大規模な戦闘に発展します。

このときの本願寺側の援軍として雑賀衆を中心とする数千の鉄砲隊があったため、鉄砲の一斉射撃により三好康長隊が崩れ逃走します。

本願寺側は、織田軍先鋒隊の三好康長隊が崩れたのを好機と見てこれを追撃し、そのまま塙直政の本陣に襲いかかります。

塙直政隊は、襲い来る本願寺軍を押し返そうと奮闘しましたが、力尽きて隊が崩壊し、総大将の塙直政も本願寺勢に取り囲まれて討ち取られます(雑賀衆の鈴木重秀の軍に討ち取られたといわれています。)。

また、このとき、塙直政と一緒に、塙直政の伯父の塙安弘、弟の小七郎など一族の武将の多くが討ち死にしています。

塙直政討死後

天王寺砦の戦い(1576年5月3日〜7日)

塙直政を討ち取って勢いに乗る本願寺勢は、その勢いのまま明智光秀らが守る天王寺砦にまで押し寄せて力攻めを行います。

この天王寺砦が石山本願寺を囲むために急遽築かれた急造の砦にすぎなかったため、防御力も防衛物資も不十分なものでした。

そのため、天王寺砦に籠る明智光秀らは、直ちに全滅の危機に直面します。

塙直政が討ち取られた翌日である天正4年(1576年)5月4日、京都にいた織田信長の下に塙直政討死と天王寺砦の危機の報が届けられます。

織田信長は、石山合戦の趨勢を左右する戦いであると判断し、直ちに諸国に触れを出して兵を募った上、自身は翌同年5月5日早朝、軍勢の集結を待たず100騎余りの共廻りのみを引き連れて京を出立します。

織田信長は、同日中に若江城に入り、後続の兵を待ったが翌日になっても集まったのは3000人程度でした。

ここで織田信長は、集まった3000人の兵を3つに分け、先鋒隊を佐久間信盛松永久秀細川藤孝・若江衆、次鋒隊を滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就、大将を織田信長として、同年5月7日、続けて天王寺砦を攻める本願寺勢に突撃していきます。

本願寺勢は、突撃してくる織田軍に一斉射撃を行ったため織田軍にも甚大な損害が出ます(織田信長自身も、足に銃弾を受けています。)。

もっとも、織田軍の再三の突撃により本願寺勢の陣形を崩すことができ、織田信長らはなんとか天王寺砦を攻める本願寺勢を本願寺内に押し戻すことに成功します。

佐久間信盛を石山合戦総大将に任命する

織田信長は、天王寺砦の戦いの結果、本願寺勢の脅威を痛感し、筆頭家老の佐久間信盛に7ヶ国に及ぶ広域武将を与力として付け、3万人~4万人に及ぶ大軍で石山本願寺を囲ませます。

塙一族追放処分

また、織田信長は、石山合戦敗退の危機、自身が討ち死にの危険に至った危機の原因が塙直政の敗退にあると判断します。

このとき、塙直政と共に一族の有力な人物を失ったことをいいことに、織田信長は、天王寺砦の戦いまでの敗戦の責任を全て塙一族に押し付けます。

そして、織田信長は、塙一族に苛烈な処置を申し渡します。

具体的には、塙直政の南山城国・大和国の所領は全て没収し、その腹心であった丹羽二介・塙孫四郎は罪人として捕縛、残る一族郎党も織田領国内において寄宿厳禁としました。

これにより、塙一族は全てを失って追放されます。

歴史のif

本願寺により、一族郎党と共に散った塙直政ですが、その驚異的な出世の早さからすると相当な能力を持っていたであろうことが推測できます。

そのため、ここで死亡していなければ、本願寺を制圧して畿内方面の軍団長となり、明智光秀に代わる役割を担っていた可能性もあります。

そうすると、本能寺の変も起こっていなかった可能性も否定できません。

討ち死にという事実のみならず、一度の敗北でお家取り潰し処分を受けたということが、織田譜代家臣に与えた影響も無視できません(これに、後の佐久間信盛追放事件が家内の混乱に追い討ちをかけます。)。

なお、後の大坂の陣で戦死した塙直之は塙直政の一族出身であるとも言われていますが、詳細は不明です。

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