【小谷城の戦い】浅井長政が切腹し浅井氏が滅亡した戦い

小谷城の戦いは、北近江の覇者となった浅井家が、織田信長に敗れて滅びた戦いです。

徐々に追い詰められていく浅井家を見ていくと滅びの悲しさが見てとれます。

本稿では、そんな浅井家の滅びの戦いについて見て行きましょう。

小谷城の戦いに至る経緯

織田信長と浅井長政との同盟

織田信長は、妹であるお市の方を浅井長政に嫁がせて近江国浅井氏と同盟関係を結び、北近江の安全を確保した後、足利義昭を奉じて上洛します。

上洛を果たした織田信長は、足利義昭を室町幕府15代将軍に任命させると、その名を使って全国の大名に上洛要請の書状を送ります。

事実上の織田信長への臣従圧力です。

ところが、浅井氏の別の同盟相手である越前朝倉氏が、この織田信長の上洛要請を無視します。

この織田信長からの上洛要請に無視を決め込んだ越前朝倉氏を討伐するため、織田信長は、元亀元年(1570年)、織田・浅井同盟の条件であった浅井氏に対する事前連絡なしに越前国へ侵攻を開始します。

織田信長と浅井長政の断交(1570年4月)

浅井長政は、織田信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田家よりも朝倉家との同盟関係を優先し、織田氏との断交を決意します。

そして、浅井長政は、織田信長かわ越前国に侵攻している最中の元亀元年(1570年)4月、織田信長に宣戦を布告し、背後から織田信長軍を攻撃します。

北側に朝倉氏、南側に浅井軍に挟まれ窮地に立たされた織田信長は、木下秀吉・明智光秀らを殿に残して、命からがら京に逃げ帰ります(金ヶ崎の退き口)。

織田信長による反撃準備

織田信長は、反旗を翻した浅井長政に対抗するため、元亀元年(1570年)5月、佐久間信盛を近江永原城に、柴田勝家を長光寺城に配置します。

また、織田信長は、佐久間信盛・柴田勝家に命じて六角氏を追い払って南近江を平定(野洲河原の戦い)します。なお、このころの近江国付近の大体の勢力図は上のとおりです(赤が織田方,青が浅井方です。)。

姉川の戦い(1570年6月28日)

小谷城を攻略したい織田信長ですが、小谷城は堅城である上、北側から朝倉軍の援軍が予想されるため、力攻めで攻略することは簡単ではありません。

そこで、織田信長は、浅井長政を野戦に挑ませるための策をとります。

まず、小谷城の南側にある支城・横山城を包囲して、浅井軍が後詰めに出ざるを得ない状況を作り出します。

その上で、元亀元年(1570年) 6月21日、佐久間信盛らに命じて、小谷城下を焼き払い浅井長政を挑発します。

これらの状況に耐えられなくなったこと、越前朝倉氏より援軍が派遣されたことから、浅井長政も決戦を決意し、小谷城を出て織田方に挑みます。

そして、1570年(元亀元年)6月28日、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が、姉川を挟んで対峙し、姉川の戦いが始まり、結果、織田・徳川連合軍が、浅井・朝倉軍を破ります。

浅井・朝倉連合軍を破った織田・徳川連合軍は、敗走する浅井軍を追って小谷城まで追撃をかけますが、姉川の戦いで少なくない損害を被っていた織田・徳川連合軍にも小谷城に籠ってしまった浅井軍を殲滅する力までは残っておらず、このときの小谷城攻めは断念します。

横山城攻略

小谷城攻略を諦めた織田軍は、姉川の戦い前から包囲していた小谷城の南方拠点である横山城を攻略します。

そして、織田信長は、攻略した横山城の城番として木下秀吉を配置し、小谷城と南方の支城との分断、浅井家の監視と牽制役を担わせます。

その後、朝倉義景・浅井長政らが志賀の陣で比叡山に籠って織田信長と対峙したりしますが、その後は両者ともに本拠地に戻った後、陣取り合戦の形で戦いが具体化します。

佐和山城調略(1571年2月)

織田方が横山城を獲得したことにより、北近江浅井氏の領土は、小谷城がある北側と佐和山城がある南側に分断されます。

ここで、織田信長は、孤立無援となった佐和山城主・磯野員昌に圧力をかけ、元亀2年(1571年)2月、調略により織田方に下らせて佐和山城を開城させます。

この佐和山城獲得により、織田方は、織田信長の本拠地岐阜と、京都の交通網が安全化します。

虎御前山砦建築(1572年7月)

元亀3年(1572年)7月、織田信長は、5万の大軍を率いて小谷城のすぐ南側にある虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から横山城まで長大な要害を築き始めます。

これに危険を感じた浅井長政は、直ちに朝倉義景に後詰めを要請します。

これに対し、朝倉義景は、2万人の兵を率いて小谷城に赴いたものの、朝倉義景軍ほとんど攻勢に出ず、むしろ朝倉勢から前波吉継父子、富田長繁・戸田与次・毛屋猪介が織田方に寝返る始末でした。

結果として、虎御前山に織田方の要害が完成するに至ります。

そして、織田信長は、同年9月16日、最前線となる完成した虎御前山砦に木下秀吉を入れ、自身は代わりに横山城に下がります。

これにより、織田方は、小谷城近辺の町を放火・刈田狼藉をするなどして、徐々に浅井方を追い詰めていきます。

宮部城調略(1572年10月)

虎御前山を押さえられ、本城である小谷城との連携を阻害された宮部城主・宮部継潤も、元亀3年(1572年)10月、木下秀吉の調略に応じて浅井方から離反し、木下秀吉のその与力となっています(浅井三代記)。

なお、織田方についた宮部継潤は、そのまま近くにある浅井方の国友城攻めの先兵とされ、銃撃を受け負傷しています。

そして、この後同年11月3日、追い詰められてきた浅井・朝倉軍がようやく動き出し、虎御前山砦に攻撃を仕掛けますが、守将の木下秀吉に撃退され、朝倉軍は、同年12月3日に越前国へ撤退しています。

武田信玄死去(1573年4月)

西上作戦を展開し三方ヶ原の戦いで徳川家康を蹴散らして西進してくるはずよ武田信玄が、体調悪化により甲斐国に撤退を開始し、元亀4年(1573年)4月12日、甲斐国に戻る途中で病没します。

武田信玄の死により、ひとまず東側の脅威がなくなります。

室町幕府滅亡(1573年7月)

第2次信長包囲網の盟主であった足利義昭が元亀4年(1573年)3月に挙兵すると、同年4月に足利義昭を京から追放するとの内容で両者の間に和睦が成立します。

その後、同年7月に足利義昭が再度山城国宇治の槇島城で再挙兵したのですが、同年7月20日にまたも足利義昭が敗れて追放され、ここで15代続いた室町幕府が滅亡します(槇島城の戦い)。

足利義昭追放により畿内方面の安全も確保した織田信長は、いよいよ本格的に浅井・朝倉の攻略に取り掛かります。

小谷城の戦いの前哨戦

織田軍による小谷城包囲

周囲の支城を攻略し、いよいよ小谷城攻略の時期が来たと判断した織田信長は、3万人の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始し、虎御前山の砦に本陣を布きます。

もっとも、浅井軍5000人が籠る小谷城の堅牢さを熟知している織田信長は、無理な力攻めは避け、小谷城の包囲を続けます。

一方、浅井長政は居城の小谷城に5千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ、小谷城の孤立は益々強まっていきます。

後がなくなった浅井長政には越前国朝倉氏しか後詰を期待できず、実際にすぐに朝倉義景に対して援軍要請を行います。

そして、浅井長政から援軍要請が届いた朝倉氏では、家中から上がった一部の反対意見を押し切り、朝倉義景自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出して余呉に本陣を置き、小谷城の背後に位置する北西の田上山に戦陣を構築、逆「V」字型の小谷城の楔の部分(上図の最上部)にあたる大嶽砦などからなる小谷城守備の城砦群を築き織田軍と対峙します。

なお、大嶽砦は、山田山から南に下がった位置にあり、小谷城本丸部よりも高地にあり、小谷城の曲輪配置を望める絶好の場所でした。

ところが、この後も浅井家からの離反者は後を絶たず、また残る支城も次々と織田軍に攻略されます。

田中城調略(1573年8月)

天正元年(1573年)8月、織田信長は、琵琶湖西側にある田中城とその周囲の城を攻略してこれを明智光秀に与え、琵琶湖西岸を確保します。

山本山城調略(1573年8月8日)

天正元年(1573年)8月8日、小谷城のすぐ西山本山城主・阿閉貞征が織田信長に下り、その後月ヶ瀬城をも失います。

越前国・朝倉氏滅亡(1573年8月20日)

天正元年(1573年)8月12日、戦の気運が高まる中で近江一帯を暴風雨が襲います。

織田信長は、この暴風雨により朝倉軍が油断しているはずと判断し、これを好機見て自ら1000人兵を率いて朝倉方が守る大嶽砦を奇襲します。

不意をつかれた朝倉軍は直ちに降伏して大嶽砦を明渡し、朝倉義景のいる本陣に引き返していきます。なお、織田信長は、この後、越前平泉寺僧兵が守備していた丁野山砦(城)をも攻略し小谷城を丸裸にします。

大嶽砦の陥落を知った朝倉義景は、兵数に劣る上、士気も低い状況下で織田軍と決戦しても勝ち目はないと判断し、天正元年(1573年)8月13日、浅井家を見捨てて越前国に撤退するとの判断を下します。

そして朝倉義景軍が撤退を開始すると、織田信長は、自ら先陣を切って朝倉義景軍を追撃します。なお、このとき、事前に追撃を命じられていた織田方の諸将が朝倉義景軍への追撃に遅れ、後に織田信長に叱責され、特に筆頭家老の佐久間信盛は口答えをして織田信長を大いに怒らせたことは有名な話です。

この撤退戦は余呉→刀根坂→敦賀に亘って織田軍に押されながら続き、その間に、朝倉景行・朝倉道景などの一門衆、山崎吉家、河合吉統、斎藤龍興などの朝倉方の武将の多くが戦死し、朝倉軍はほぼ壊滅します。

同年8月15日に命からがら越前国・一乗谷に戻った朝倉義景は、寡兵では一乗谷を守り切れないと判断した朝倉義景は、一乗谷を捨てて越前国・大野郡山田庄に向かいますが、途中一族の朝倉景鏡の裏切りにより自刃して果て、11代(戦国5代)続いた名門・越前朝倉氏が滅亡します。

小谷城の戦い本戦

小谷城総攻撃開始(1573年8月26日)

越前国を制圧した織田信長は、一部の兵を越前国の戦後処理に残し、自身とその本隊は急ぎ小谷城へと引き返します。

そして、虎御前山本陣に帰還した織田信長は、天正元年(1573年)8月26日、全軍に小谷城の総攻撃を命じます。

木下秀吉隊・京極丸占拠(1573年8月27日)

天正元年(1573年)8月27日夜、木下秀吉率いる3000人の兵が、小谷城西側の清水谷を北上した後、急峻な崖である西側斜面を駆け上がって京極丸(浅井長政の籠る本丸と、浅井久政が籠る小丸との間の曲輪)を奇襲します。

まさか崖を登ってくるとは思っていなかった浅井方は完全に虚を突かれて混乱し、木下秀吉隊に京極丸を奪われてしまいます。

そして、この京極丸攻略戦の際、浅井方の重臣である三田村定頼、海北綱親らが討死しています。

木下秀吉隊が小谷城中央部に位置する京極丸を占拠したことにより、浅井久政の籠る北側の小丸と、浅井長政の籠る南側の本丸とが分断され、相互防衛をが行えなくなって小谷城の防衛力が急激に低下します。

木下秀吉隊・小丸攻略(浅井久政自害)

京極丸を攻略した木下隊は、そのまま北側の曲輪である小丸の攻撃に移ります。

木下秀吉隊の攻撃に対し、800人の兵で小丸を守っていた浅井長政の父・浅井久政は小丸を持ちこたえることができないと判断し、井口越前守・脇坂久右衛門らに命じて時間を稼がせ、舞楽師の森本鶴松大夫と共に盃を傾けた後に切腹しています。享年48歳でした。

小谷城総攻撃

木下秀吉隊が京極丸を攻略したことを確認した織田信長は、小谷城に総攻撃をかけます。

南側の本丸には柴田勝家隊・佐久間信盛隊が、北側の山王丸には滝川一益隊が一斉に攻撃を開始します。

また、織田信長は、丹羽長秀と共に、木下秀吉隊を追って西側から京極丸に入り指揮を取ります。

そして、まずは小丸に続いて山王丸を攻略して小谷城北側の攻略を完了します。

その後、織田軍全軍で本丸攻めが始まるのですが、その際に浅井長政は、護衛をつけて嫡男・万福丸を城外へ逃がすと共に、お市の方と3人の娘(浅井三姉妹)を織田軍に引き渡します。

この行動に感銘を受けた織田信長は、浅井長政に対して、最後の情けとして大和一国を与える事を条件に降伏・再従順するよう勧告しましたが、浅井長政はこれを拒否します。

浅井長政の最期(1573年9月1日)

その後、2日間に亘って本丸で抗戦を続けたものの、本丸の維持が不可能と悟った浅井長政は、天正元年(1573年)9月1日、京極丸にいる織田軍本隊を目指して200人の兵を率いて本丸から総攻撃に出ますが、多勢に無勢で返り討ちに遭い、総崩れとなって退却します。

最期を悟った浅井長政は、撤退先の袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に自害して果てます。

そして、まもなく本丸も制圧されて落城し、北近江の戦国大名浅井氏も滅亡します。

戦後処理

浅井家への仕置き

金ヶ崎の退き口で辛酸をなめさせられたこともあって織田信長は、敗れた浅井氏に対し苛烈極まる仕置きをします。

浅井久政・浅井長政親子の首は京で獄門にされた上、その頭蓋骨は朝倉義景のと共に薄濃にします。

また、浅井長政の嫡男・万福丸の捜索は徹底的に行われ、敦賀に潜伏していたところを発見し捕らえられた後、関ヶ原で磔にされます。

さらに、一族の浅井亮親、浅井井規、家臣の大野木秀俊も処刑され、浅見道西など寝返った将も処分されました。

小谷城廃城(1574年)

そして、小谷城については、浅井家重臣の調略や京極丸攻略の功などによって、浅井氏の旧領湖北3郡(坂田・東浅井・伊香)12万石と共に木下秀吉に与えられます。

初めて城を得た木下秀吉でしたが、翌天正2年(1574年)、織田信長の命により、交通の不便な小谷城を廃し、湖北平野の要の位置にあり、朝妻の港(今浜港)を擁する北国街道の要衝の地であった今浜城跡地に新城たる長浜城を築くこととし、城下町も小谷から長浜に移しました。なお、このときに、織田信長の「長」の字を貰って、地名・城名を今浜から「長浜」に改めています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です