【佐久間盛政】肥後一国よりも斬首を選んだ鬼玄蕃

豊臣秀吉から肥後国一国を与えることを条件に配下になるよう求められたのに、これを断って斬首を望んだ猛将をご存知ですか。

栄養状態の良くない戦国時代に180cmもの体躯を持つ巨漢で、戦場で無類の強さを発揮して鬼玄蕃と恐れられた佐久間盛政です。

織田家中の重臣一家に生まれ、金沢の基礎を築いた人物でもあります。

数々の伝説を残し、太く短い人生を走り切った佐久間盛政の人生について見ていきましょう。

佐久間盛政の出自

出生(1554年)

佐久間盛政は、天文23年(1554年)、 尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)にて、父・佐久間盛次、母・柴田勝家の姉との間に生まれます。

幼名は、理助(理介)と言いました。

織田家筆頭家老の柴田勝家を叔父とし、もう1人の筆頭家老である佐久間信盛の従兄弟にあたるエリートです。

元服した頃には、身長六尺(約182セcm)もあったとされ(佐久間軍記)、数値の真偽は不明ですが相当の巨漢であったようです。

初陣(1568年9月)

佐久間盛政は、永禄11年(1568年)9月の織田信長の上洛作戦初戦の観音寺城の戦いに参戦し、箕作城攻めで初陣を果たします。

佐久間盛政の戦歴

若くして武功を積む

その後も、元亀元年(1570年)の越前手筒山城攻め(対朝倉義景)、野洲河原の戦い(対六角承禎)、天正元年(1573年)の槇島城の戦い(対足利義昭)などに参戦します。

天正3年(1575年)に叔父である柴田勝家が越前一国を与えられた際、佐々成政や前田利家と共にその与力に配され、以降は北陸侵攻作戦を展開する柴田軍の先鋒を務めます。

天正4年(1576年)には加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の後詰めに向かってこれを奪還し、天正5年(1577年)には越後の上杉謙信の侵攻に対して加賀国に赴いて北国街道の重要拠点である加賀国中央部にある御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築いて在番するなどしています。

加賀半国・金沢城を得る(1580年11月)

天正8年(1580年)閏3月に石山本願寺が織田信長に降伏したのですが、その後も加賀一向一揆は、尾山御坊を本拠として織田信長と戦いを続けます。

柴田勝家は、尾山御坊に攻め込みますが、その際正面軍を柴田勝家が務めて敵を引きつけ、その隙に背後に回り込んだ佐久間盛政軍が搦手から尾山御坊に侵入してこれを攻略します。

佐久間盛政は、この尾山御坊攻略の功により、同年11月、加賀半国を与えられます。

そして、佐久間盛政は、獲得した尾山御坊の跡地を改修し、金沢城と名付けて本拠地とします。

鬼玄蕃と呼ばれ恐れられる

天正9年(1581年)2月28日に、織田信長が京で馬揃えを行ったために、柴田勝家ら重臣達が京に向かい北陸方面軍が手薄になります。

この隙をついて上杉景勝家臣の河田長親らが加賀国に侵入して加賀国衆や一向一揆残党を率い白山城(舟岡城)・ニ曲城を攻め落としたのですが、この時北陸に残っていた佐久間盛政が救援に駆けつけて、上杉軍からこれを奪還しています。

また、尾山御坊陥落後の加賀一向一揆の最大拠点となっていた鳥越城を鳥越城の戦いで壊滅させています。

このときの佐久間盛政の戦いぶりが、鬼のように強かったと恐れられ、以降佐久間盛政は「鬼玄蕃」と恐れられるようになったと言われています。

本能寺の変(1582年6月)

北陸方面軍主力は越中国・魚津城を、佐久間盛政は上杉方の越中国・松倉城を攻撃中だった天正10年(1582年)6月2日、佐久間盛政は、明智光秀の裏切りにより織田信長が横死したとの報を聞かされます。

柴田勝家は魚津城を攻略した後、佐久間盛政は松倉城攻略を中断していずれも加賀国に引き上げます。

ところが、天正10年(1582年)6月下旬に能登国の温井景隆をはじめとする国衆らが上杉景勝の扇動により蜂起して荒山城に籠城したため、能登国を治めていた前田利家が佐久間盛政に救援を要請したため、佐久間盛政は荒山城を攻撃しこれを攻略しています(荒山合戦)。

清洲会議後の柴田勝家と豊臣秀吉との確執

その後、中国侵攻作戦を中断して戻った豊臣秀吉により、天正10年(1582年)6月13日、山崎にて明智光秀軍が撃退され(山崎の戦い)、敗れた明智光秀は落ち延びる途中で落武者狩りに遭って命を落とします。

この山崎の戦いの後、天正10年(1582年)6月27日、当主を失った織田信長の時期当主後継者を決める重臣会議が清洲城で行われます。いわゆる清洲会議です。

会議では、織田信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と当主織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じました。

会議の結果、主君の仇をとった豊臣秀吉の言に重きがおかれ織田家をまだ幼い三法師が継ぐことに決まります。

その後、織田家内で柴田勝家・滝川一益と羽柴秀吉・丹羽長秀との間で主導権争いが表面化し、それに織田信長の次男織田信雄と三男織田信孝の対立との対立も加わって豊臣秀吉と柴田勝家との関係が悪化し、一触即発の状態となります。

そして、天正11年(1583年)3月、柴田勝家が、豊臣秀吉の横暴に耐えきれなくなり兵を挙げたことをきっかけに賤ヶ岳の戦いが始まります。

賤ヶ岳の戦い

余呉湖を挟んだ両軍の布陣と築城戦

兵を挙げた柴田勝家は、本拠地である北ノ庄城から出陣し、天正11年(1583年) 3月12日、3万人の兵を率いて近江国柳ヶ瀬に布陣しました。

これに対し、豊臣秀吉は、同年3月19日、近江国木之本に5万人の兵で布陣します(なお、直前まで滝川一益が篭る長島城を包囲していた豊臣秀吉は、織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残しています)。

余呉湖を挟んで北部に柴田勝家が、南部に豊臣秀吉がそれぞれ布陣する形となったのですが(上は、説明に必要な範囲での大まかな布陣であり、本説明に不要な軍の記載は省略しています。)、双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、睨み合いが1カ月に亘って続くことになります。

そして、この睨み合いの間に、両軍とも、防衛のための陣地や砦を盛んに構築しています(このときの遺構は、多々現存しています。)。

豊臣秀吉本隊が美濃へ行軍

布陣後1か月ほど動きがなかったのですが、天正11年(1583年)4月16日、豊臣秀吉の下に、一度は豊臣秀吉に降伏していた織田信孝が挙兵し、岐阜城下へ進出したとの報が届きます。

これにより、豊臣秀吉は、滝川一益に対する伊勢戦線、柴田勝家に対する近江戦線、織田信孝に対する美濃戦線の3方面作戦を強いられることになりました。

このとき、豊臣秀吉は、まずは美濃戦線を抑えるという決定をし、柴田勝家を弟豊臣秀長に任せて自身は本隊2万5000人の兵を引き連れて翌4月17日に岐阜城の西に位置する大垣城まで移動します。

そして、この豊臣秀吉不在の報が、柴田勝家の養子で豊臣秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣から密かに佐久間盛政の陣にもたらされます。

これを聞いた佐久間盛政は、柴田勝家に対して、中川清秀の砦を急襲する作戦を提案します。

当初はこれに反対した柴田勝家でしたが、佐久間盛政の強い要望により妥協し、砦を落としたらすぐ戻るという条件つきで承諾しました。

佐久間盛政の奇襲

そして、佐久間盛政は、天正11年(1583年)4月19日、中川清秀が守る大岩山砦を急襲します。

このとき、不意をつかれた中川清秀は佐久間盛政の攻撃に耐えきれず、大岩山砦は陥落して中川清秀も討死してしまいます。

勢いに乗る佐久間盛政は、続いて黒田孝高隊を攻撃しますがこれは凌がれたため、攻撃目標を岩崎山に陣取っていた高山右近に変更し、高山隊を木之本の羽柴秀長の下まで壊走させます。

その後、佐久間盛政は、羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかり、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴に対して「降伏して砦を明け渡すよう」命令し、対する桑山重晴は「抵抗は致さぬが日没まで待って欲しい」と返答するなど賤ヶ岳砦の陥落も間近となっていました。

ところが、桑山重晴が撤退を始めたところ、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、桑山隊と合流して攻勢に出たことから、佐久間盛政の賤ヶ岳砦の確保は失敗に終わります。

豊臣秀吉の美濃大返し

ここで、佐久間盛政は、さらに驚くべき光景を目にします。

大垣城に向かっていたはずの豊臣秀吉本隊2万5000人が木之本の陣に戻ってきたのです。

大垣城にいた豊臣秀吉は、4月20日の午後2時ころに大岩山砦等の陣所の落城を知り直ちに軍を引き返させ、大垣から木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動して戻ってきました(美濃大返し)。

佐久間盛政は、丹羽長秀隊・桑山重晴隊に加え、豊臣秀吉本体からも攻撃を受け、次第に厳しい戦いとなっていきます(もっとも、豊臣秀吉は、52kmを5時間で走破してきたために疲れ切っている豊臣秀吉本軍では佐久間盛政隊を直接は崩せないと判断し、佐久間盛政の実弟である柴田勝政に攻撃対象を変更したところ、この柴田勝政・佐久間盛政連合軍との激戦となっています。)。

そんな佐久間盛政隊に更なる悲劇が襲います。

前田利家の戦線離脱

佐久間盛政隊の後方に位置し、本来であれば攻撃を受ける佐久間盛政隊の救援に向かうべき立場にいる前田利家が、事前の豊臣秀吉の内奥工作に応じて戦線を離脱して本拠地に戻ってしまったのです。

前田利家の退却を見た佐久間盛政隊は、後方の守りを失ったことにより士気が急降下し、豊臣方の猛攻撃をしのぎ切れなくなって佐久間盛政隊は撃破されてしまいます。

そして、その後、勢いに乗った豊臣軍は、一気に柴田勝家本隊を攻撃し、柴田勝家を越前・北ノ庄城に撃退し、賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉の勝利で終わります。

敗れた柴田勝家はら北ノ庄城に逃れるも、同年4月23日、前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害しました。

佐久間盛政の最期

捕縛

敗れた佐久間盛政は、本拠地である加賀国に向かって落ち延びますが、途中で越前国・府中付近の山中で郷民に捕らえられ、豊臣秀吉の前に連れて行かれます。

なお、このときに浅野長政から切腹せずに逃れるなど恥であると愚弄されたのに対して、佐久間盛政は、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成した」と言い返して黙らせたとの逸話が残っています。

佐久間盛政を前にした豊臣秀吉は、その武勇を高く買い、九州平定後に肥後一国を与えるの家臣になるように誘いますが、佐久間盛政は、織田信長や柴田勝家から受けた大恩を忘れることはできないため、死罪を申しつけるようにと述べてこれを拒絶します。

これを聞いた豊臣秀吉は、佐久間盛政の説得を諦めてせめてもの情けとして名誉の切腹を求めましたが、佐久間盛政はこれも拒絶して敗軍の将としての処刑を望みます。

斬首

結局、佐久間盛政は、宇治・槙島に連行され、天正11年(1583年)5月12日に同地で斬首されました。享年30歳でした。

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