【中川清秀】武勇をもって茨木城を獲得し12万石の大名となった戦国武将

中川清秀(なかがわきよひで)は、摂津国の小豪族からその武勇によって中川家を12万石の大名に押し上げた戦国武将です。

勇猛で知られた中川清秀は、鬼瀬兵衛と呼ばれて恐れられ、織田信長や羽柴秀吉からも重宝されています。

池田勝正・荒木村重・織田信長・羽柴秀吉など、次々と主君を変えながらその腕で立身出世を果たし、また本能寺の変の直後には明智光秀の誘いを断って羽柴秀吉に与するなど、機を見る目も秀逸です。

そんな猛将・中川清秀も、賤ヶ岳の戦いにおいて、さらなる猛将・佐久間盛政の手に掛かって討ち死にするという最期を迎えています。

本稿では、そんな波乱万丈の人生を生きた中川清秀の人生を振り返っていきたいと思います。

中川清秀の出自

出生(1542年)

中川清秀は、天文11年(1542年)、摂津国中河原村(現在の茨木市中河原町)において、摂津国の有力国人である池田氏に仕える父・中川重清(元々高山姓であったのですが中川家に婿養子として入っています。)の長男として、母・中川清村(重利)の娘との間に生まれます。幼名は虎之助といいました。

なお、中川清秀の父である中山重清と高山右近の父である高山友照が兄弟であるため、中川清秀と高山右近は従兄弟関係にあたります(なお、荒木村重とも従兄弟関係にあるともいわれていますが、真偽は不明です。)。

その後、虎之介が元服して中川清秀を名乗ると(通称は「瀬兵衛/せべえ」といい、その武勇から鬼瀬兵衛と呼ばれます。)、摂津国人であった池田勝正に仕えます。

永禄11年(1568年)8月に、畿内平定戦を展開する足利義昭方(織田方)につく茨木重朝・伊丹親興連合軍と三好三人衆方につく池田勝正軍との戦い(猪名寺の戦い)が勃発し、織田方に追い詰められた池田勝正は池田城に籠城するに至ります。

その後、池田城は落城したのですが、池田勝正は抵抗の責めを負わなかったどころか善戦を評価され、織田信長から6万石を賜って織田家の家臣となりました。

摂津国を獲得した織田信長は、芥川山城に和田惟政を入れた以外は在地の国人支配をそのまま活用し、西摂津に池田勝正と伊丹親興、東摂津に和田惟政を配したいわゆる摂津三守護体制で摂津国支配を始めます。

本圀寺の変(1569年1月5日)

永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆が、京の本圀寺に籠る室町幕府15代将軍足利義昭を襲撃する事件が起こったのですが(本圀寺の変)、このとき中川清秀は、池田勝正の命を受けて足利義昭の救援のために摂津衆の1人として本圀寺に向かいます。

途中、中川清秀らは、桂川に差し掛かった際、三好三人衆の軍と戦うこととなったのですが惨敗を喫します。

もっとも、その後、三好三人衆が勝利を確信して油断していると判断した中川清秀は、翌日早朝に三好三人衆の陣に奇襲仕掛けて三好三人衆の軍に甚大な損害を与えます。

なお、この後(永禄12年/1569年)、中川清秀は、妹の仙を織田家家臣であり摂津国攻略戦にも従軍した古田重然(古田織部)に嫁がせ、織田家に接近しています。

荒木村重の謀反に参加(1569年6月)

池田勝正の下で織田家に仕えることとなった中川清秀でしたが、永禄12年(1569年)6月19日、荒木村重が、三好三人衆の援助を受けて池田知正(池田勝正の弟)を擁立して池田勝正に反旗を翻すに際し、中川清秀はこれに同調します。

そして、元亀元年(1570年)、池田知正・荒木村重・中川清秀らは、池田四人衆の池田豊後守・周防守らを殺害した上で池田勝正を大坂に追放します(荒木略記)。

こうして三好三人衆側についた池田知正・荒木村重・中川清秀らは、織田信長と対立する立場となります。

茨木城主となる

白井河原の戦い(1571年8月28日)

元亀元年(1571年)7月、三好長逸が、阿波国から畿内に再上陸し、畿内全域で三好三人衆方と幕府・織田方との勢力争いが繰り広げられていくと、摂津国で勢力を高める荒木村重・中川清秀は、当然三好三人衆方に味方します。

その結果、摂津国では、三好三人衆方の荒木村重・中川清秀と、幕府・織田方の和田惟政との対立として三好対織田の戦いが具体化します。

この対立は激化し、ついに元亀2年(1571年)8月、西国街道上の白井河原を挟んで、和田惟政・茨木重朝連合軍約500人が耳原古墳西側の糠塚(幣久良山)に、荒木村重・中川清秀連合軍が郡山北側の馬塚に約2500人でそれぞれ布陣して対峙します。

圧倒的な寡兵であった和田惟政・茨木重朝連合軍は、和田惟長(和田是政の息子)や高山友照からの援軍が到着する時間を稼ぐため、郡山城主であった郡正信を荒木村重・中川清秀の下に派遣し時間を稼ぎます。

もっとも、圧倒的に有利な立場にいた荒木村重と中川清秀は、郡正信との交渉を拒否し、元亀2年(1571年)8月28日、和田惟政・茨木重朝連合軍への攻撃を開始します。

攻撃を受ける立場となった和田惟政型では、郡正信が和田惟政に対し、多勢に無勢であるため退却するよう進言したのですが、和田惟政はこの進言を退けて200騎を引き連れて馬塚に突撃を仕掛けます。

和田惟政が攻撃してくるのを見た荒木村重は、和田惟政の首を挙げた者に呉羽台という名の所領(現在の池田市旭丘2丁目周辺、300~500石)を与えると述べたため、中川清秀が名乗り出て和田惟政の首を挙げて戻ってきます。なお、和田惟政に進言を退けられた郡正信もまた山脇源太夫に討ち取られています(陰徳太平記)。

また、茨木重朝もまた荒木村重軍に取り囲まれ討ち取られます。

この結果、大将を2人とも討ち取られた和田惟政・茨木重朝連合軍は壊滅し、白井河原の戦いは荒木村重・中川清秀軍の大勝利に終わります。

勢いに乗る荒木村重・中川清秀は、そのまま茨木城を攻め落とし、和田惟長・高山友照・高山右近父子が守る高槻城を囲みます。

その後、松永久秀・久通父子と阿波三好家の重臣・篠原長房も高槻城攻囲に加わり、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊します。

これに対し、織田信長は、同年9月9日に佐久間信盛を使者として派遣し、三好方に対して高槻城から撤兵を勧告したが受け入れられなかったため、同年9月24日に明智光秀が再度1000人の兵を率いて調停に乗り出したところ、三好方もようやく包囲を解いて撤退しました。

これら一連の戦いの結果、荒木村重が池田城・茨木城を獲得し、中川清秀は一番鑓の称号と呉服台の所領を得ます。

他方、包囲を解かれた高槻城には、和田惟長と高山友照父子とが入ることとなったのですが、すぐに両者が対立し、元亀4年(1573年)3月、荒木村重と通じた高山父子によって和田惟長が高槻城から追放されています。

茨木城主となる(1577年)

池田勝正を追放して摂津国の領主となった池田知正は、その後、足利義昭と織田信長に接近していきます。

ところが、天正元年(1573年)頃から室町幕府15代将軍・足利義昭と織田信長の仲が険悪となると、池田知正は諫める細川藤孝の説得を振り切って足利義昭方に属します。

その結果、足利義昭の没落につられて池田知正も没落していき、遂には荒木村重によって摂津国から追放されます。

天正2年(1574年)11月15日、荒木村重が摂津国人・伊丹氏が治める伊丹城を落とすと、荒木村重は織田信長から摂津一国を任されるようになり、織田信長に下った荒木村重に従い、中川清秀もそれに従い織田信長に下ります。

この結果、天正5年(1577年)、中川清秀は茨木城主に任じられてそれまでの新庄城(大阪市東淀川区)から茨木城に移り、荒木村重(有岡城)や高山右近(高槻城)らと共に摂津国における大勢力となります。

茨木城に入った中川清秀は、茨木城の整備・拡張を進め、最終的には総構え構造を持つ巨大城郭に造り替えていきます。

織田信長に下る

もっとも、天正6年(1578年)10月、荒木村重が織田信長の下から離反します。

きっかけは、荒木村重に謀反の疑いがかけられたため、釈明のために有岡城から安土城に向かう途中で茨木城に立ち寄ったところで、中川清秀が、荒木村重に対して、織田信長は一度疑いをかければ考え直すことはないので安土城に行けば殺されると進言したからであると言われています。

そして、織田家から離反した荒木村重に従い、中川清秀もまた織田信長から離反します。

このとき、織田信長は、中川清秀の武勇を惜しみ、また有岡城への兵站を確保する意味もあり、中川清秀の妹婿であった古田重然を通じて12万石の所領と自身の娘・鶴姫を中川清秀の嫡男・中川秀政に嫁がせるという条件での寝返り工作をしています。

これに対し、中川清秀は織田信長に対して返事をすることなく、その条件をそのまま荒木村重に伝えると、荒木村重から敗戦濃厚であるために織田に下るよう勧められたため、中川清秀は高槻城主の高山右近と共に織田信長に下り12万石を得ています。

織田信長に下った後、中川清秀は、明智光秀の与力大名とされますが、中国方面司令官となっていた羽柴秀吉にも接近し、天正8年(1580年)6月5日には、羽柴秀吉と義兄弟の契りまで交わしています(中川氏年譜・付録)。

羽柴秀吉に下る

羽柴秀吉に与する(1582年6月)

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が、謀反を起こして本能寺を襲撃して織田信長を討ち取り(本能寺の変)、またその後二条御所に籠った織田信忠をも打ち取るという一大事件が起こります。

そして、その後、畿内の制圧を進める明智光秀は、茨木城主である中川清秀を含めた周囲の大名・国衆らに対し、自身に味方するよう誘う書状を送り届けます。

もっとも、明智光秀の誘いに応じる者は少なく、与力であった中川清秀・高山右近(高槻城主)・筒井順慶大和郡山城主)はおろか、姻戚関係にあった細川藤孝・細川忠興までもこの誘いを拒否します。

なお、このとき、明智光秀だけでなく、羽柴秀吉からも自身に味方するよう誘う書状が送られており、羽柴秀吉から中川清秀に対して送られた書状には、織田信長が無事であるとの偽情報を記載した書状が送られており(梅林寺蔵)、この時点で、明智光秀と羽柴秀吉とにおいて諸将を味方に引き込むための情報戦が行われていたことがわかります。

備中高松城から西国街道を引き返してきた羽柴秀吉軍が、同年6月12日、摂津国富田(大阪府高槻市)に着陣すると、中川清秀は、池田恒興や高山右近らを含む摂津国の諸将と共に羽柴秀吉陣営にはせ参じ、羽柴方に与することとなります。

山崎の戦い(1582年6月13日)

摂津衆を取り込んだ羽柴秀吉は、山崎の集落・天王山を占拠させた上、翌天正10年(1582年)6月13日、摂津衆を最前線に配置します。

このとき、最前線の中央部に中川清秀2500人・高山右近2000人、右翼に池田恒興・池田元助5000人、左翼の天王山に堀尾吉晴・堀秀政らが配されることとなりました。

そして、同日午後4時頃、中川清秀隊が、雨天の中、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた際、小泉川対岸に布陣していた明智方の伊勢貞興隊が中川清秀隊に襲い掛かります。

また、これに呼応した明智方の斎藤利三隊もまた高山右近隊に攻撃を仕掛け、山崎の戦いが始まります。

最前線中央部に配されていた中川清秀隊・高山右近隊は、勢いに乗る明智方の攻撃に苦しめられますが、羽柴秀吉本隊から後詰として派遣された堀秀政を防衛隊に加えて何とか戦線を維持します。

その後、各所で戦いが始まり、一進一退の攻防が続きます。

もっとも、羽柴方の池田恒興・池田元助・加藤光泰率いる部隊が、密かに円明寺川を渡河して明智方の側面を突き、またこれに丹羽長秀隊・織田信孝隊が続いたことから明智方は大混乱に陥ります。

そして、この混乱に乗じて中川清秀隊・高山右近隊も勢いを取り戻し、伊勢貞興隊・斎藤利三隊を押し返します。

その結果、戦線を維持できなくなった明智軍は総崩れとなって退却を開始します。

羽柴軍は、退却を始めた明智軍の追撃に向かいますが、疲弊の大きい中川清秀隊・高山右近隊は追撃戦には加わらず、明智方の城である丹波亀山城に向かい、明智光秀の息子明智光慶を自刃させて同城を占拠しています。

中川清秀の最期

 賤ヶ岳の戦い

山崎の戦いの後、同年6月27日、当主を失った織田信長の時期当主後継者を誰とするか決める重臣会議が清洲城で行われます(清洲会議)。

清州会議では、織田信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と前当主織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じましたが、会議の結果主君の仇をとった豊臣秀吉の言に重きがおかれ織田家をまだ幼い三法師が継ぐことに決まり、織田家領地の再配分がなされます。

そして、この会議の後、織田家内で、柴田勝家及び滝川一益と羽柴秀吉及び丹羽長秀の主導権争いが表面化し、それに加えて、織田信長の次男織田信雄と三男織田信孝の対立との対立も加わって豊臣秀吉と柴田勝家との関係が悪化し、一触即発の状態となります。

そして、天正11年(1583年)2月、柴田勝家が、豊臣秀吉の横暴に耐えきれなくなり兵を挙げたことをきっかけに賤ヶ岳の戦いが始まると、中川清秀は、この戦いに際しても羽柴秀吉につき、羽柴方の将として参戦します。

柴田勝家は、本拠地である北ノ庄城から出陣し、同年3月12日、3万人の兵を率いて近江国柳ヶ瀬に布陣し、他方、豊臣秀吉は、同年3月19日、近江国木之本に5万人の兵で布陣します。

このとき、中川清秀は、羽柴軍の二番手として大岩山砦に布陣します。

佐久間盛政の奇襲(1583年4月19日)

1か月ほど経過しても両軍に動きがなかったのですが、同年4月16日、羽柴秀吉が、織田信孝が伊勢の滝川一益と結んで挙兵し岐阜城下へ進出したことに対処するために主力を率いて大垣城に向かったことで戦局が動き始めます。

羽柴秀吉が大垣城にむかったことを好機と見た柴田軍の佐久間盛政隊6000人が、天正11年(1583年)4月19日、中川清秀隊3000人が守る大岩山砦を急襲します。

中川清秀討死(1583年4月20日)

佐久間盛政隊の急襲を受けた中川清秀隊は大混乱に陥ったため、共に防衛にあたっていた高山右近は撤退を進言します。

もっとも、中川清秀が徹底抗戦を主張したため撤退は叶わず、翌天正11年(1583年)4月20日、佐久間盛政隊の攻撃に耐えきれず大岩山砦は陥落します。

そして、このとき中川清秀も奮戦の後に討死します(討死場所は、砦入口の前にあった坂虎口の上であったとも言われています【上絵の場所】が、真偽は不明です。)。享年42歳でした。

その後の中川家

中川清秀の死後、長男の中川秀政が中川家の家督を相続し、茨木城主となります。

もっとも、天正13年(1585年)に中川秀政は播磨国・三木城に転封とされます。

その後、中川秀政は、天正20年(1592年)の朝鮮出兵時に鷹狩をしていたところで敵方の待ち伏せに遭って討死したのですが、改易を恐れた家臣たちがこの事実を隠蔽しようとしたため、豊臣秀吉の怒りを買います。

もっとも、豊臣秀吉は、中川清秀の功に免じて中川家の改易は行わず、播磨国6万石に減じた上で、中川秀政の弟である中川秀成に中川家の家督を継がせます。

その後、中川秀成は、文禄2年(1593年)に豊後国岡に転封とさたのですが、中川秀成がその後の関ヶ原の戦いの際には東軍に与したことにより、中川家は、岡藩主として幕末まで存続していきます。

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