【南禅寺が五山之上という別格扱いにされている理由】

南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山であり、臨済宗寺院である京都五山・鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院として日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つとされています。

もっとも、南禅寺が五山之上という別格扱いにされた理由は、宗教的な理由ではなく、後醍醐天皇の政治的思惑と足利義満のわがままによるものです。

本稿では、南禅寺が五山之上に位置することに至った経緯・理由について簡単に説明します。

ランク外時代(鎌倉時代)

南禅寺建立(1291年)

南禅寺が五山の上の別格とされた理由を説明する前提として、まずは南禅寺建立の概略を説明します。

南禅寺は、文永元年(1264年)に亀山天皇が造営した離宮である禅林寺殿(ぜんりんじどの)の跡地に建てられた寺院です。

この禅林寺殿は、「上の御所(上の宮)」と「下の御所(下の宮)」に分かれていたのですが、弘安10年(1287年)に「上の御所」に亀山上皇が持仏堂を建立し「南禅院」と名付けました。なお、この持仏堂=南禅院は、南禅寺の塔頭・南禅院となっています。

そして、亀山上皇が正応2年(1289年)に落飾(出家)した亀山法皇が、正応4年(1291年)に禅林寺殿を寺に改め、当時80歳であった東福寺の住持・無関普門を開山としてこれを「龍安山禅林禅寺」と名付けたことから南禅寺の歴史が始まります。

開山間も無く無関普門が死去したため、二世住職の規庵祖円(南院国師)の指揮の下で伽藍建設が行われ、「下の御所」の整備が完了した永仁7年(1299年)頃に寺観が整いました。

そして、その後、正安年間(1299年〜1302年)に寺号が「龍安山禅林禅寺」から「太平興国南禅禅寺」に改められ、通称として南禅寺と呼ばれるようになりました。

五山制度の始まり(1299年)

次に、日本における五山制度の概略を説明します。

五山制度は、元々は南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所(天竺五精舎)の故事に倣って径山・霊隠・天童・浄慈・育王の5寺を「五山」として保護した制度と言われています。

この寺院保護制度が、鎌倉時代後期に禅宗の普及に伴って日本にも広まり、正安元年(1299年)には鎌倉幕府執権北条貞時が浄智寺を「五山」の1つとするように命じたのが日本における五山制度の始まりです。

鎌倉幕府が五山制度を採用した目的は、誤りを承知でざっくり言うと、臨済宗寺院の格付をして(上位より、五山・十刹・諸山・林下)その保護を図ると共に、それらの寺院を鎌倉幕府の統制が下に置くことでした。

五山のランク外だった南禅寺

このとき鎌倉幕府は五山として5つの寺を選定します。

選ばれた五山は、順位は不明ですが、①浄智寺(鎌倉)・②建長寺(鎌倉)・③円覚寺(鎌倉)・④寿福寺(鎌倉)・⑤建仁寺(京)であったとされています。

その下の格付けもまた不明ですが、少なくとも鎌倉時代には南禅寺は五山のランク外扱いだったのです。

京都五山の第一時代(建武新政期)

五山の第一に昇格(1334年)

ところが、その後に南禅寺の格付けが一気にランクアップする事態となります。

建武元年(1334年)、鎌倉幕府を滅ぼして天皇親政(建武の新政)を開始した後醍醐天皇が、南禅寺(及び大徳寺)を五山の第一と定めたのです。

五山第一への昇格理由

なぜ後醍醐天皇が南禅寺を五山の第一に据えたかというと、後醍醐天皇が属していた大覚寺統が持明院統よりも優位であると世間に知らしめるためでした。

当時の天皇家では、後深草天皇を祖とする持明院統と亀山天皇を祖とする大覚寺統とが皇位継承を巡って争っていたのですが(両統迭立)、持明院統の後醍醐天皇が新政を開始したことで大覚寺統が優位となります。

このとき、後醍醐天皇は、皇統を大覚寺統に統一するため、様々な手段を講じます。

このとき行われた宗教面での大覚寺統への統一策が南禅寺の五山第一への昇格でした。

どういうことかと言うと、前記とおり、南禅寺は大覚寺統の祖である亀山法皇(後醍醐天皇の祖父)を開基とする寺であり、この寺が臨済宗寺院の頂点に君臨することで、宗教面から大覚寺統の優位性を世に知らしめることができたのです。

そこで、後醍醐天皇は、建武新政の一貫として、「五山」を選び直して南禅寺(及び大徳寺)を五山の筆頭と定めたのです。

五山之上=別格時代(室町時代)

別格に昇格(1386年7月10日)

建武新政期に五山制度内での頂点に君臨することとなった南禅寺ですが、その後、さらにその枠内から飛び出して別格上位となる事態が起こります。

至徳3年(1386年)7月10日、室町幕府第3代将軍・足利義満が、五山を京都五山と鎌倉五山に分割した上で、南禅寺をこれらの「五山之上」に位置するとして全禅林の最高位と定めたのです。

この結果、京都五山と鎌倉五山とがあり、かつその上に南禅寺が存在するという日本独自の五山制度が成立し、このとき定められた格付けが現在まで固定化して残されているのです。

五山之上=別格への昇格理由

このとき南禅寺が五山之上=別格とされた経緯はやや複雑ですので、後醍醐天皇時代→足利尊氏→足利義詮→足利義満と時代順に説明します。

(1)足利尊氏が定めた序列(1341年)

五山南禅寺(京)・建長寺(鎌倉)
天竜寺(京)・円覚寺(鎌倉)
寿福寺(鎌倉)
建仁寺(京)
東福寺(京)
准五山浄智寺(鎌倉)
十刹・・・
諸山・・・
林下・・・

後醍醐天皇を追放して室町幕府を開いた足利尊氏は、後醍醐天皇の死後にその菩提寺として天龍寺を建立し、同寺を五山に加えることを望みます。

この希望に対し、暦応4年(1341年)に北朝から一任する旨の院宣が出されたことから足利尊氏に五山決定が与えられます(なお、この院宣が先例となり、以降の五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例が成立しています。)。

この結果、足利尊氏は、天龍寺を五山の序列に組み込むために五山制度を改訂し、前記の序列を作り上げます。

(2)足利義詮が定めた序列(1358年)

五山南禅寺(京)・建長寺(鎌倉)
天竜寺(京)・円覚寺(鎌倉)
寿福寺(鎌倉)
建仁寺(京)
東福寺(京)・万寿寺(京)・浄智寺(鎌倉)・浄妙寺(鎌倉)
十刹・・・
諸山・・・
林下・・・

その後、延文3年(1358年)、室町幕府第2代将軍・足利義詮がさらに五山制度を改訂し、浄智寺を第五位に昇格させるとともに同じく第五位に鎌倉から浄妙寺、京から万寿寺を加えたため、この時点で前記の序列となります。

なお、永和3年(1377年)に管領・細川頼之の要望により臨川寺がむりやり五山に加えられたこともあったのですが、康暦の政変で細川頼之が失脚したことにより康暦元年(1379年)臨川寺は十刹に格下げされています。

(3)足利義満が定めた序列(1386年7月10日)

別格南禅寺
鎌倉
五山天龍寺建長寺
相国寺円覚寺
建仁寺寿福寺
東福寺浄智寺
万寿寺浄妙寺
十刹・・・・・・
諸山・・・・・・
林下・・・・・・

足利義詮により京と鎌倉の双方で5寺を選定して計10寺で五山制度が運用されるようになったのですが、室町幕府第3代将軍・足利義満が、自らが建立した相国寺を五山に加えることを望みます。

もっとも、この時点では、既に京五山も鎌倉五山も既に5寺存在しており、新たに追加をすることが妥当とは考えられませんでした。

ここで、足利義満は、義堂周信・絶海中津らの意見を聞き、相国寺を京五山に組み込む打開策を考えつきます。

それは、京五山の第一位にあった南禅寺を別格に位置させることにより京五山の席を1つ空け、空いた枠に相国寺をねじ込むというものでした。

そこで、足利義満は、至徳3年(1386年)7月10日、五山制度の大改革を断行し、五山を京都五山と鎌倉五山に分割した上でそれぞれ5寺の序列をつけ、その上でそれらの上位に全ての禅林の最高位とする「五山之上」の序列を設け、そこに南禅寺を据えたのです。

これが、南禅寺が「五山之上」として別格扱いされるに至った理由です。

一言でいうと、南禅寺が別格扱いされるに至った理由は、自らが創建した相国寺を五山に組み入れたいという足利義満のわがままによるものだったのです。

そして、このとき決められた京・鎌倉の五山格式が固定され現在に至っていますので、今日まで南禅寺が「五山之上」として別格扱いされることに繋がっているのです。

その後の南禅寺

南禅寺の衰退

以上の結果、「五山之上」として日本の禅寺の頂点に位置したとはいえ、そのことによって南禅寺が現在に至る立派な寺院として残ったわけではありませんでした。

南禅寺では、明徳4年(1393年)と文安4年(1447年)の2度に亘る大火によって主要伽藍を焼失しただけでなく、ようやく再建を果たした応仁元年(1467年)には応仁の乱により再び伽藍が焼失します。

そして、この頃になると室町幕府の権威も低下していたことから、室町時代中期以降は再建も思うように進まず、南禅寺は荒れ果てていきました。

南禅寺再興

その後、南禅寺が現在のような立派な寺院として復興を遂げたのは、慶長10年(1605年)3月に以心崇伝(後の金地院崇伝)が270代住職として入寺したためです。

日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である「僧録」の地位にあっただけでなく、慶長13年(1608年)から徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれ絶大な権力を手にした以心崇伝が、豊臣秀頼や江戸幕府に働きかけ、次々と立派な建築物・庭園を作り上げたため、現在のような立派な姿になったのです。

また、藤堂高虎の正室である久芳院が以心崇伝と親戚関係にあった縁でその尽力を得ることができたため、寛永5年(1628年)に藤堂高虎に大坂の陣での戦没者供養の名目で南禅寺三門(日本三大三門の1つとして有名です)を再建させた上でその寄進を受けています。

なお、南禅寺自体の遺構ではないのですが、その境内には明治21年(1888年)に田邉朔郎が設計・デザインを行い建設された琵琶湖疏水の赤煉瓦アーチの水路橋が観光スポットとなっており、また南禅寺の近くには、高低差約36mの琵琶湖疏水の急斜面で船を引き上げるために明治24年(1891年)に敷設された全長582mの傾斜鉄道の跡地(蹴上インクライン)がありますので観光の際にはついでに是非。

また、南禅寺周辺は精進料理であった湯豆腐発祥の地として有名であり、その周囲には湯豆腐専門店がたくさんありますので、観光のついでに食べてみてください。

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