【山崎城(山城国)】羽柴秀吉の大坂城移転前の居城

山崎城(やまざきじょう)は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎にあった天王山に築かれた山城です。

天王山山麓に築かれ、宝積寺を取り込んだ城郭となっていることから、天王山城、天王山宝寺城、宝寺城、山崎宝寺城、宝積寺城、鳥取尾山城との別名も持っています。

古くは室町時代初期ころから使用されていたようですが、山崎の戦いの舞台となり、また長浜城・姫路城の次に羽柴秀吉が山崎の戦いの後に柴田勝家と戦うために使用して大坂城に入るまで居城としたことでも有名です(長浜城→姫路城→山崎城→大坂城)。

山崎城築城

山崎城の立地

山崎城は、古くから交通の要衝であった西国街道及び淀川水運と、また一大商業拠点でもあった大山崎を支配するため、天王山(標高270.4m)山頂部に築かれた山城です。

天王山山麓には西国街道が通り、そのすぐ南側には宇治川、木津川、桂川の合流地点があり、さらにその先には男山があるなど、軍事、経済、交通の要衝であることが一目でわかる場所です。

また、立地が京への入り口でもあったため、古来より度々戦場となった城でもあります。

文献上の初見(1338年頃)

山崎城の文献上の初見は、南北朝時代の延元3年/暦応元年(1338年)頃、当時摂津守護であった赤松範資が南朝方から防衛するため林直弘への軍忠状にて鳥取尾城(山崎城)の警護を命じたものとされます。

また、その後.文明2年(1470年)、応仁の乱時に大内政弘軍が摂津国に侵入してきた際、山名是豊が京を防備するため鳥取尾城(山崎城)に陣を構えたことが、山城の国人野田泰忠の軍忠状にて明らかとなっています。

細川晴元入城(1482年)

その後、文明14年(1482年)には細川政元が山崎城に入城していることがわかっています。

また、大永7年(1527年)には、細川晴元が、細川高国方の薬師寺国長が籠っていた山崎城を攻撃して落城させた後、細川晴元が、天文7年(1538年)3月、山崎城に入って修築をしています。

また、細川晴元は、天文8年(1539年)に三好長慶が反乱を起こした際には、本拠地である芥川山城の支城として、山崎城を京との繋ぎに利用しています。

豊臣秀吉入城(1582年6月)

その後、天下の覇権が、三好長慶、織田信長へと移った後、天正10年(1582年)6月2日に発生した本能寺の変の後、織田信長を討ち取った明智光秀と、中国大返しで中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉と住吉・堺から戻ってきた織田信孝の連合軍との決戦の舞台となります。

明智光秀は、決戦の直前、一旦、山崎城と男山城に陣取ったのですが、何故か戦線を北に下げ、淀古城と勝竜寺城に入ります。

その結果、中国から戻ってきた羽柴秀吉は、難なく山崎城を獲得し、天王山麓の宝積寺に本陣を置くこととなります。

その後、山崎の戦いにおいて、羽柴秀吉が明智光秀を打ち破ったため、山崎城はそのまま羽柴秀吉のものとなりました。

 

豊臣秀吉の居城となる

清洲会議(1582年6月27日)

山崎の戦いの後の天正10年(1582年)6月27日、織田家の重臣が集まって織田家の家督と織田信長の旧領の分配についての話合いが行われます(清洲会議)。

清洲会議の結果、以下の所領分配となりました。

(1)一門衆

①新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を取得。

②織田信雄が尾張国1国に国替え。

織田信孝は美濃国1国に国替え。

④羽柴秀勝(織田信長の4男で秀吉の養子)は丹波国を取得。

(2)家臣団

①柴田勝家は越前国を安堵の上で、勝家の希望で秀吉の領地である長浜城と北近江3郡12万石の割譲が認められ、長浜城は養子の柴田勝豊に与えられます。

②丹羽長秀は若狭国を安堵の上で、近江国2郡を加増。

③池田恒興は摂津国3郡を加増。

④羽柴秀吉は河内国と山城国が増領され、丹波国も含めると28万石の加増。

羽柴秀吉が山崎城を居城とする

柴田勝家を仮想敵とする羽柴秀吉ですが、本拠地長浜城を柴田勝家に割譲したため、柴田勝家領との国境線に備えの城を持たない結果となってしまいました。

また、仮想敵国を相手にするには、もう1つの本拠地である姫路城は遠すぎます。

そのため、羽柴秀吉は、いずれくる柴田勝家との決戦に備え、最前線となりうる山城国に居城を築くことを考えます。

もっとも、この時点では、羽柴秀吉にも、また、既に城主がいる城を国替え・城替えさせて接収する程の力はありません。

そこで、羽柴秀吉は、清洲会議直後の時点において城主がいない城の中から柴田勝家との決戦の際に防衛拠点となるべき地を選定し、天王山に目をつけて山崎城を本拠とすることを決定します。

豊臣秀吉による山崎城大改築

もっとも、この時点での山崎城は規模が小さく、大勢力となった羽柴秀吉が動員できる軍を配置できる程の規模・構造を持っていませんでした。

そこで、羽柴秀吉は、清洲会議から約3週間後の天正11年(1583年)7月17日に、天王山の麓にある宝積寺に入り、大規模改築をするため山崎城の普請を開始します。

そして、約1年の期間を経て山崎城の大改築が終了したのですが、このとき羽柴秀吉が滞在していた麓の宝積寺も山崎城郭の一部に取り込まれます(そのため、現在でも宝続積寺が山崎城の登山口になっています。)。

なお、1年間もの長期滞在の礼に羽柴秀吉が一夜で建てたとされる三重塔が今も宝積寺に残されています。

 

山崎城の縄張り等

前記のとおり、山崎城は、①山頂部の曲輪群と、②麓の宝積寺をもって城郭とし、③その間の道に虎口、枡形、土塁、堀、土橋と連続した防御システムを構築するという3つの部分に分けられた構造となっています(なお、山崎城の発掘調査はそれほど進んでいないため、本稿は作成時点で明らかとなっている限りにおいて縄張り等を紹介します。)。

そして、羽柴秀吉は通常は麓の宝積寺にて執務を行っていたため、山頂部の曲輪群は詰めの城として機能したと考えられています。

宝積寺

山崎城の入り口は、天王山麓にある宝積寺です。

山崎城在城中も、羽柴秀吉は麓の宝積寺にて執務を行っていたため本来の山崎城とは、この宝積寺をいうのかもしれません。

宝積寺の境内には、山崎合戦の勝利後、羽柴秀吉が一夜で建立したといわれる三重塔があり、重要文化財に指定されています。

また、同寺は、現在天王山ハイキングコースの入り口ともなっています。

宝積寺から山頂部曲輪群までの登城路

麓の宝積寺から山頂部の曲輪群に向かうまでの間は、虎口、枡形、土塁、堀、土橋と連続した防御システムが構築され、それらによって守られています。

①登城ルート

②旗立松

道中、旗立松は、羽柴秀吉が山崎の戦いの際、軍勢を鼓舞すべく樹上に旗印を掲げたと伝えられる旗立松があり(もっとも、初代は明治中期頃までに朽ち果て、その後植えられた松も枯れていることから現在ある松の木は昭和63年に植えられた5代目のものです。)、そのすぐ横には山崎合戦之地と掘られた石碑が建っています。

③酒解神社

山頂部曲輪群

羽柴秀吉により大改築された山崎城の山頂部曲輪群の最大幅は、東西約250m、南北約200mです。

山頂部には、本丸とその北側にある東西35m、南北20mの小曲輪である天守台を中心として、北側を断崖で守り、東側、南側、南西側に曲輪を配置する構造となっています。

①山頂曲輪虎口

②主郭東側曲輪群

③主郭虎口

④主郭南側曲輪跡

⑤主郭西側曲輪群

西側曲輪群には、石積井戸の跡が残されています。

⑥主郭(本丸)

主郭(本丸)は、天守郭のすぐ南側にある曲輪です。

門柱や建物の礎石が残されていますので、門で守られた中に建物が建てられていたことがわかります。

⑦天守郭

天守郭は、天王山頂にある曲輪であり、ここが落ちれば山崎城陥落です。

天守郭になんらかの天守が存在していたようですが、天正11年(1583年)4月に山崎城の天守を破却が指示され、天正12年(1584年)3月25日に天守が取り壊されたとの記録(兼見卿記)がありますので、その構造は今となっては明らかではありません。

現在は、天守郭石垣がわずかに残るだけです。

 

山崎城廃城(1584年3月25日)

柴田勝家を破った羽柴秀吉は、天正11年(1583年)から大坂城の築城に着手したため、同年4月に山崎城の天守破却を指示し、天正12年(1584年)3月25日に天守を取り壊し(兼見卿記)廃城とされました。

 

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