新撰組局長として誰もが思い描く名は近藤勇だと思います。
2004年の第43作NHKの大河ドラマ「新選組」の主人公ともなった余りにも有名な人物であるため、新撰組は近藤勇が1人で作った組織であるかのように思われがちですが、実は違います。
初代新撰組(壬生浪士組)の初代筆頭局長は、芹沢鴨(せりざわかも)という人物であり、近藤勇はこの芹沢鴨を粛清して新撰組のトップになっています。
本稿では、近藤勇が新撰組のトップのなるに至ったこの芹沢鴨の粛清劇について、その発生に至る経緯から説明したいと思います。
【目次(タップ可)】
壬生浪士組結成
芹沢・近藤ら京へ(1863年2月8日)
文久2年(1862年)、江戸幕府は、庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集します。
名目上は将軍警護だったのですが、江戸幕府の実質的な目的は江戸にいる不穏分子を追放することでした。
そして、集まった200名あまりを浪士組として編成し、同年2月8日、江戸を出発し、将軍上洛に先がけて中山道を西上していきました。
壬生・八木邸に入る(1863年2月23日)
文久3年(1863年)2月23日、清河八郎に率いられて入京した浪士組のメンバーは、壬生村(現在の京都市中京区)に入り、壬生寺周辺に割り当てられた10か所の宿に分かれて入ります。
このとき、清河八郎・鵜殿鳩翁ら首脳部は新徳寺に入りました。
また、芹沢鴨・新見錦・平間重助・野口健司・平山五郎ら水戸派グループ5名と、近藤勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・山南敬助・原田左之助、藤堂平助・井上源三郎ら試衛館グループ8名の合計13人は、壬生郷士・八木源之丞邸を割り当てられ宿所とします。
壬生浪士組結成
ところが、京に到着した清河八郎は、その夜、浪士を壬生の新徳寺に集め、浪士隊の本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒になることであり、その目的遂行のために江戸に戻ると言い出しました。
この突然の清河八郎の申し出に対し、芹沢鴨と近藤勇がこれに反対し、芹沢鴨率いる5名と近藤勇率いる8名の計13人が京に残る決断をします。
そして、ここに殿内義雄や根岸友山らが合流し、最終的に24人が京に残って、「壬生浪士組」を結成します。
こうして24人もの大所帯となった壬生浪士組は、その宿所として八木邸だけでは手狭となったため、近藤勇をリーダーとする試衛館グループが、八木邸の道路を挟んだ東側向かいにある前川荘司邸に移り、他方、芹沢鴨をリーダーとする水戸派が八木邸に残ったため、壬生浪士組は八木邸と前川邸に分宿することとなりました。
会津藩預かりとなる(1863年3月12日)
もっとも、京に残った壬生浪士組には、俸禄はおろか職もありませんので、たちまち食い扶持に困ります。
困った芹沢鴨・近藤勇らは、文久3年(1863年)3月10日、壬生浪士組隊士の連名で会津藩に嘆願書を提出し、同年3月12日、壬生浪士組が会津藩の「御預かり」となることに決まり、不逞浪士の取り締まりと市中警備を任されることとなりました。
その後、同年3月25日、理由は不明ですが、殿内義雄が粛清され、根岸友山一派が脱走したため、壬生浪士組は、芹沢鴨率いる水戸派と近藤勇率いる試衛館派が牛耳ることになり、芹沢鴨・近藤勇・新見錦、副長を土方歳三・山南敬助の体制とし、「芹沢(筆頭局長)・新見(局長)組」と「近藤(局長)・土方(副長)・山南(副長)組」とでバランスをとった体制が構築されます。
そして、壬生浪士組は、ここで第一次隊士募集を行った結果、36名の集団となります。
芹沢鴨と近藤勇による主導権争い
新見錦の格下げ
二頭体制となり、表向きは良好な関係にあった芹沢鴨と近藤勇ですが、同格の2人の指導者がいる組織の例に漏れず、壬生浪士組内で水面下の主導権争いが繰り広げられます。
きっかけは、芹沢の腹心として行動を共にしていた新見錦が不祥事で格下げされたことでした。
の新見錦の格下げにより、芹沢鴨・近藤勇のパワーバランスが崩れていきます。
この格下げの理由として、士道に背いた、勝手に金策をしたためとされていますが(永倉新八の伝)、正確なところは不明です。
壬生浪士組内の主導権争い
そして、以下のとおり、芹沢鴨による狼藉が目立つようになってくると、壬生浪士組内でも、これをよしとしない浪士が近藤勇方に近づいていくようになります。
芹沢鴨粛清に至る経緯
芹沢鴨の蛮行
① 力士との乱闘(1863年6月3日)
芹沢鴨や近藤勇らは、文久3年(1863年)年6月3日、大坂の奉行所の依頼で反幕府浪士を取り締まりの仕事を終え、近藤ら2人を除いた8名で北新地の住吉楼で宴会を催すこととしました。
そのため、店に向かった一向でしたが、道中で差し掛かった北新地・蜆橋(しじみばし)上で小野川部屋の力士の集団とかち合いました。
このとき、蜆橋の上で芹沢鴨らと力士達とが睨み合いとなり、芹沢鴨が、重さ1kgとも言われる鉄扇で力士達を払い退け、悠々と店に向かっていきました。
苦痛とプライドが傷つけられたことに怒った力士達は、仲間を引き連れ、角棒を持って芹沢鴨らがいる住吉楼を取り囲みます。
これを見た芹沢鴨らは、店外に出て力士らと諍いとなり、その際に芹沢鴨が、力士に斬りつけて死亡させています。
このときの騒動は、小野川部屋が事件を奉行所に届け出たところで、相手が京都守護職預かりの壬生浪士組だと知ると、小野川部屋の年寄が、弟子の非を認めて金50両と酒樽を持って謝罪することで解決しています。
② 角屋での暴挙(1863年6月)
文久3年(1863年)年6月、水口藩公用方が会津藩邸にて会津藩公用方に新選組の所業の悪さを訴えるという事件が起こります。
この事実が会津藩を通して芹沢鴨に伝えられると、芹沢鴨は激怒します。
芹沢鴨は、すぐさま永倉新八・原田左之助・井上源三郎・武田観柳斎の4人を水口藩邸に派遣し、当事者の身柄引き渡しを求めます。
水口藩担当者は、この行為に驚き、平身低頭謝罪して詫び証文を書き、その場を納めました。
もっとも、この詫び証文が問題となります。
詫び証文は、脅迫に屈した水口藩の担当者の独断で書かれたものだったのですが、詫び証文を書いたことが水口藩主の耳に達せば、事と次第によれば会津藩公用方の断罪も逃れられなくなるからです。
ことの露見を恐れた会津藩公用方が芹沢鴨を説得し、詫び証文の返還を求めたところ、芹沢鴨から、会議の場所を提供すること(宴会の場を設けること)を条件返却するとの回答がなされます。
早速、翌日に、島原の角屋で宴席が設けられて証文の返却がなされたのですが、そこで、芹沢鴨は、店の対応が気に入らないとして暴れ、一方的に店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を申しつける暴挙に及びました。
③ 大和屋焼討ち(1863年8月13日)
京都葭屋町一条下ル所に生糸・反物・縮緬などを扱う大和屋という商家があったのですが、芹沢鴨は、この大和屋が尊王攘夷派の天誅組に多額の軍資金を提供したという情報を聞きつけます。
ここで、芹沢鴨は、天誅組に資金提供しているということは壬生浪士組にも資金提供をすべきだという理由をつけ、文久3年(1863年)8月12日、大和屋に対して壬生浪士への活動資金の借用を申し入れます。
事実上のカツアゲです。
ところが、大和屋は、主人の不在を理由に芹沢鴨の要求を断ります。
怒った芹沢は、いったん壬生の屯所に戻って準備を整え、同日深夜、35人の隊士を連れて再び大和屋へと向かい、大和屋に火をつけます。
突然の出火のため火消しが駆けつけたのですが、消火にあたろうとする火消し達を芹沢鴨率いる壬生浪士が刀を振りまわして脅すので近寄ることができませんでした。
最終的には、会津藩の軍奉行が駆けつけてその場を収めたのですが、ついに大和屋の建物はほぼ全焼してしまいました。
④ 吉田屋での狼藉(1863年9月)
文久3年(1863年)9月、新選組は幕府の要人警護の任務で大阪に出張し、京屋という宿に宿泊していました。
このとき、芹沢鴨と永倉新八の2人が遊郭・吉田屋から女性(芹沢鴨は芸妓の小寅・永倉新八は仲居のお鹿)を呼び、食事を共にします。
他方、他の隊士は、吉田屋へ遊びに出かけました。
夜になり、吉田屋の芸妓小寅が芹沢鴨に肌を許さなかったため、立腹した芹沢鴨は小寅らを送り返したのですがそれでも怒りが収まらず、芹沢鴨は、翌朝吉田屋に乗り込んで主人を脅し、小寅とお鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる狼藉を行いました。
会津藩による処置命令?
芹沢鴨が、短期間に問題行動を繰り返していたことから、その預かり人となっていた会津藩もこれを持て余すようになります。
そして、真偽は不明ですが、芹沢鴨のこれらの所業に対して朝廷から芹沢の逮捕命令が出たため、会津藩は芹沢鴨の処置を近藤勇に命じたとも言われています。
内部で権力を握るために芹沢鴨が邪魔であったこともあり、近藤勇は、会津藩から処置命令を受け、芹沢鴨を暗殺するという決断を下します。
芹沢鴨暗殺
角屋での宴会(1863年9月16日)
決行日は、島原にあった角屋(すみや)で芸妓総揚げの宴会が開かれることとなった文久3年(1863年)9月16日とされました(なお、日時については、かつては墓碑の記載を基に9月18日が通説となっていたのですが、9月16日が雨であったことやいくつかの風説書に基づき現在では9月16日説が主流となっています。もっとも、まだ日時を確定させる確固たる史料がないため意見は分かれているものの、本稿では9月16日説を採用します。)。
この宴会は、近藤勇はもちろん、芹沢鴨ら新撰組のほとんどが出席する大きなものでした。
芹沢鴨が八木邸に戻る
長時間の宴会を経てすっかり酔っ払った芹沢鴨は、文久3年(1863年)9月16日午後6時ころ、平山五郎、平間重助、土方歳三らと共に角屋を出て、大雨の中、八木邸に戻ります。
八木邸に着いた芹沢鴨は、待たせていた芹沢鴨の愛妾・お梅、平山五郎の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間重助の馴染みの輪違屋糸里らと共に再度酒宴を催しました。
角屋で酒を飲んだ後八木邸でも酒を飲んだ芹沢鴨らは、すっかり泥酔し、待たせていた女性たちと同衾します。
このときの並びは、芹沢鴨とお梅、平山五郎と吉栄が同室でその間を仕切り、平間重助と糸里は別室という状況でした。
なお、芹沢鴨らと一緒に戻ってきた土方歳三は、八木邸での酒宴には参加せず、芹沢鴨らが寝入るのをずっと待っていました(このとき、八木源之丞の妻であった「まさ」が、土方歳三がしきりに芹沢鴨らの様子をうかがっているのを目撃しいたそうです「新選組遺聞」。)。
芹沢鴨暗殺(1863年9月16日深夜)
芹沢鴨らが寝入ったことを確認した土方歳三は、芹沢鴨の襲撃を決行します。なお、このときの襲撃者は複数人であり、その中に沖田総司と原田左之助がいたのは間違いないようですが、その他に誰がいたのかは必ずしも明らかとなっていません。
土方歳三らは、芹沢鴨の寝ている部屋に押し入り、まずは手前で寝ていた平山五郎の首を掻き切ります。
そして、そのまま芹沢鴨とお梅、平山五郎と吉栄の間に置かれていたついたてを芹沢鴨が寝ている方向に向かって倒して、芹沢鴨とお梅の上にかぶせ、その上から一気に刀を突き立てます。
これにより、芹沢鴨と同衾していたお梅が首を切られて即死しますが、芹沢鴨はこの初撃では命は奪われませんでした。
このとき、騒ぎを耳にした別室で寝ていた平間重助・糸里と、平山五郎と同衾していた吉栄は何とか難を逃れ、現場から逃走します。
一人残された芹沢鴨は、咄嗟に床の間に置いていた刀を取って防戦しようとしたのですが果たせず、逃げようとして庭に出た後、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込みます。
ところが、大雨の夜で辺りが真っ暗であったため、芹沢鴨は、隣室の入り口(縁側との境部)に置かれていた文机に気が付かずにこれにつまずいて隣室で寝ていた八木家の息子・勇之助の上に倒れ込み、そのまま討ち取られてしまいました。
なお、襲撃者は、八木勇之助の上にいる状態で芹沢鴨に一斉に切りつけたため、八木勇之助も巻き添えに遭って右足に怪我を負わされています。
また、このとき芹沢鴨を追って隣室に向かった襲撃者の誰かがつけたとされる刀傷が、隣室に残されています。
芹沢鴨らの葬儀(1863年9月18日)
こうして土方歳三らによって粛清された芹沢鴨ですが、翌日、表向きは長州藩士による暗殺として会津藩に報告されて処理されます。
そして、文久3年(1863年)9月18日には【9月18日暗殺説をとった場合には9月20日】、芹沢鴨と平山五郎の死を悼んで葬儀が執り行われ、近藤勇が芹沢鴨の仇を必ず討つという弔辞を読むという茶番劇が行われています。
残る水戸派の野口健司が同年12月に切腹させられたことにより芹沢鴨一派は殲滅され、同年9月25日には新撰組(新選組)の名を与えられて、近藤勇を局長、土方歳三・山南敬助を副長とする体制が確立していきます。
なお、襲撃の場となった八木邸は公開されているため観光することができます。
また、京都市中京区の壬生寺には、暗殺された芹沢鴨と平山五郎の墓がありますので、興味がある方は是非。