【一乗寺下り松】宮本武蔵と吉岡一門の戦いの地(観光用)

一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)は、京都市左京区一乗寺花ノ木町にある松の木です。

古くから、京と近江を結ぶ街道上の目印として親しまれた松であり、その歴史の古さから数々の逸話を持っています。

その中でも特に有名なのが、宮本武蔵と吉岡一門との戦いです。

本稿では、観光の際に有していると有用な簡単な説明として、この宮本武蔵と吉岡一門との戦いの経緯もあわせて一条寺下り松の歴史を簡単に説明したいと思います(なお、余談ですが、最も有名な宮本武蔵と吉岡一門との決闘話が、実は最も真偽が怪しい話でもありますので、)。

「一乗寺下り松」の概略

所在

一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)は、曼殊院道と狸谷不動明王道の分岐点(現在の京都市左京区一乗寺花ノ木町)に植えられた松の木です。

古くは平安時代から京から比叡山や近江国に通じる交通の要衝に位置しており、比叡山を経て近江へ通じる道を通る旅人の目印として植え継がれてきた松です。

本稿執筆時点で植えられているものは5代目だそうです。

平安時代中期から南北朝時代頃までの間、同地にあった一乗寺にちなんで名付けられました。

逸話

前記のとおり古くから交通の要衝となっていた一乗寺下り松には、多くの逸話や伝承が伝わっています。

① 敦盛遺児伝説(1184年2月)

有名なものとしては、源平合戦に際し、一の谷の戦いで討ち死にした平敦盛の遺児が一乗寺下り松の下に捨てられていたところ、これを法然上人が拾い上げ立派な僧に育てあげたという敦盛遺児伝説が伝えられています。

② 第一次京都合戦(1336年1月)

また、建武政権から離反して京に入った足利尊氏を討伐するため、楠木正成が同地に陣を構えます。

このとき、後醍醐天皇に与した官軍が、楠木正成が名和長年・結城宗広らと共に一乗寺下り松から、北畠顕家が山科から、延暦寺は鹿ケ谷から京を攻撃し、足利尊氏を京から追い払って京を奪還しています。

③ 宮本武蔵・吉岡一門の決闘

これについては、以下で詳述します。

一乗寺下り松の戦い

一乗寺下り松の戦いに至る経緯

宮本武蔵の養子である宮本伊織が、承応3年(1654年)、宮本武蔵の菩提を弔うために豊前国小倉藩(現北九州市小倉北区)手向山山頂に建立した顕彰碑文によると、一乗寺下り松において、宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行ったと記されています(なお、小倉碑文は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られるため真偽は不明です。)。

宮本武蔵が記した五輪書・宮本伊織が建立した小倉碑文の記録を要約した経過は概ね以下のとおりです(なお、真偽は不明なのですが、これにさらに着色した吉川英治著の宮本武蔵の記載が話として面白いので創作が多分に含まれていることを理解した上で以下をお読みください。)。

① 吉岡清十郎との決闘

京に上った宮本武蔵は、洛外蓮台野において、足利将軍家の剣術師範として名をはせ「扶桑第一兵術者」を号していた吉岡家の当主・吉岡清十郎と戦った。

吉岡清十郎が宮本武蔵と戦うに至った理由は、かつて足利義昭の面前で、吉岡清十郎の父である吉岡憲法が宮本武蔵の父である新免無二に敗れたことがあり、その遺恨を果たすためでした。

もっとも、宮本武蔵と吉岡清十郎との勝負もまた、木刀の一撃で吉岡清十郎を打ち破った宮本武蔵の勝利に終わります。

予め一撃で勝負を決する約束での勝負であったため、勝った宮本武蔵は、吉岡清十郎の命を奪うことをせず、敗れた吉岡清十郎は板に乗せられた上で、弟子に運ばれて吉岡道場に戻ります。

この後、治療を受けた吉岡清十郎は、剣を捨てて出家します。

② 吉岡伝七郎との決闘

当主が敗れたことを知った吉岡道場では、吉岡清十郎の弟であった吉岡伝七郎が仇討ちのため、宮本武蔵との決闘を申し出ます。

そして、洛外にて、宮本武蔵と吉岡伝七郎とが戦うこととなります。

そして、この戦いの中で吉岡伝七郎の五尺の木刀を宮本武蔵が奪い取り、その木刀をもって宮本武蔵が吉岡伝七郎を打ち殺したことにより宮本武蔵の勝利に終わっています。

一乗寺下り松の戦い

当主・吉岡清十郎と、その弟である吉岡伝七郎が敗れた吉岡道場では、足利将軍家剣術師範が一介の武芸者に続けて敗れたという評判が広がることを防止しようと策が講じられます。

そして、吉岡道場では、一乗寺下り松において、吉岡清十郎の子である吉岡亦七郎と宮本武蔵の決闘を申し出ます。

もっとも、幼い吉岡亦七郎が宮本武蔵に勝てるはずがありませんので、吉岡道場側では、決闘の場に弓・鉄砲で武装させた吉岡道場の門弟を忍ばせ、これら全員でかかって宮本武蔵を討ち取ろうと考えます。

この事実を知った宮本武蔵は、一乗寺下り松の約250m東側にある八大神社に立ち寄り戦勝を祈願しようと考えたのですが、拝殿前で、神仏は尊むものであり神仏に頼る弱い心を持っては戦で勝つことはできないと考え直します。

そこで、そのまま八大神社でのお祈りをすることなく一乗寺下り松まで下りていき、吉岡伝七郎を含む吉岡一門を一人で打ち倒しています。

なお、八大神社には、若き日の宮本武蔵の銅像とこの当時の「下り松古木」が御神木として祀られていますので観光の際には是非。

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