【井伊直政】外様大名でありながら徳川四天王に上り詰めた出世頭

外様大名でありながら、徳川家臣団の中で最大知行を得るまで出生した井伊直政。

幼くして父の謀反の疑いに連座して殺されかけ、家臣団の取り計らいによって徳川家康に仕え、その後の武功・政治力により最終的に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主となり30万石の基礎を築いた大人物です。

井伊の赤鬼という渾名で知っている人が多いかもしれません。

本稿では、そんな波乱万丈だった井伊直政の人生について見ていきたいと思います。

井伊直政の出自

出生(1561年2月19日)

井伊直政は、永禄4年(1561年)2月19日、今川家家臣であった遠江国・井伊谷城主の井伊直親の嫡男として、遠江国井伊谷近くの祝田(ほうだ・現在の浜松市北区細江町中川)で生まれます。幼名は虎松と言いました。

ところが、永禄6年(1563年)、父・井伊直親が松平元康(後の徳川家康)との内通の嫌疑をかけられ、今川氏真に誅殺されてしまいます。

当然に井伊直政も命を狙われますが、僅か2歳であったこと、新野親矩が助命嘆願したため井伊直政の命を助けられ、永禄11年(1568年)に浄土寺、続いて三河国の鳳来寺に入ります。

直系男子を失った井伊家は、かつての井伊家当主であった井伊直盛の娘に当たる次郎法師が井伊直虎と名乗って仮当主となり家を守ります。

徳川家康の小姓となる(1575年)

その後、井伊直政が、父井伊直親の13回忌のために龍潭寺を訪問した際、井伊直虎・祐椿尼・龍潭寺住職・南渓瑞聞らがが相談の上で、井伊直政を徳川家康に仕えさせるよう画策します。

まずは井伊直政を徳川家家臣の松下清景の養子にし、その上で、天正3年(1575年)、徳川家康に小姓として仕え、井伊氏に復することと井伊谷の領有を認められます(なお、このときに名を虎松から万千代に改めています。)。

井伊直政は、「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」と言われ、美男子であったために徳川家康の男色の相手として出世したと陰口を言われ悔しい思いをしたそうです(なお、真偽は不明ですが、徳川家康は、自邸の庭近くに井伊直政の家居を作らせて折々通っていたとの記録もあります『徳川実紀』、『天元実紀』。)。

また、井伊直政が、徳川家康に仕えて1年が経った頃、徳川家康の寝所に忍び込んだ曲者(武田勝頼の放った者とされています。)を討ち取り、その功によって所領を10倍の3000石に加増されたというエピソードが残されています(井伊家伝記)。

井伊直政の初陣(1576年)

井伊直政は、天正4年(1576年)に発生した徳川家康と武田勝頼との戦いである芝原の戦いで初陣を果たします。

このとき、井伊直政は先鋒隊として「突き掛かり戦法」で敵陣を突き進み活躍したと伝わっています。

また、井伊直政は、その後も徳川家康の下で様々な合戦に出陣し、武功を挙げていきます。

徳川家康の下で武功を挙げる

神君伊賀越え(1582年6月)

天正10年(1582年)、京の本能寺において、織田信長が明智光秀に襲われて横死するという事件が起こります(本能寺の変)。

このとき徳川家康は、その事件が起こった京へ向かうため、堺から北上している途中でした。

僅かな供回りしか連れていなかった徳川家康は、命の危険を感じ、直ちに本拠地に戻るため、伊賀国を経由して三河国に戻ります。

このときの徳川家康の逃避行は神君伊賀越えと呼ばれ、徳川家康の人生3大危機の1つと言われています。

この神君伊賀越えの際、井伊直政は徳川家康に付き従ってその身を献身的に守ります。

徳川家康は、このときの井伊直政の献身に感謝し、後に、当時極めて貴重であった孔雀の羽で織られた羽織(孔雀尾具足陣羽織)を褒美に井伊直政に与えています。

そして、この後、井伊直政は元服して、名を井伊万千代から井伊直政と改名しています。

また、この年に、長年井伊家に尽くした井伊直虎が亡くなっています。

天正壬午の乱(1582年6月~10月)

織田信長の横死により統治者空白地帯となった甲斐国、信濃国の切り取り戦である天正壬午の乱では、北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、徳川家康の甲斐国・信濃国併合に尽力します。

また、徳川家康は、三方ヶ原の戦いの大敗の経験から、武田家配下の武将たちを高く評価しており、天正壬午の乱の際に積極的にその登用を行ったのですが、その取りまとめを行った中心人物の1人が井伊直政でした。

井伊直政の活躍もあって、徳川家康は、武田旧臣から800名(天正壬午甲信諸士起請文の人数)以上を登用しています。

そして、甲斐国・信濃国併合により徳川家康が武田家の旧臣を一手に引き取ると、このときの功により、井伊直政には、かつての飯富虎昌・山県昌景が率いた精鋭部隊の赤備えが割り当てられ、井伊直政は晴れて一部隊を編成する侍大将になります。

小牧長久手の戦い(1584年3月~11月)

その後、織田信長亡き後の覇権を巡り、豊臣秀吉と徳川家康とが争うようになります。

そして、直接の決戦となった天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際、井伊直政は3000人の赤備えの兵を率いて出陣します(このときが、井伊の赤備えの始まりです。)。

赤備えを率いてはやる井伊直政は、大将であるにも関わらず、単身敵陣に突撃しようとして配下の兵に止められます。

このとき、止める配下の兵に対し、井伊直政は、「我に負けたる士は重ねて男させまじ」(自分に遅れる者は今後男と言わせない)と述べ、これを振り切り突撃していきました。

井伊直政がこんな無茶な突撃をしたのは、外様大名でありながら徳川家康の下で異例の出世を遂げる自分に対する家中のやっかみを払拭するためには、後ろで偉そうに陣取っているわけにはいかなかったからです。

このときの井伊直政とその麾下の赤備え部隊が長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され豊臣方の諸大名から恐れられました。

第1次上田城の戦い(1585年8月)

この後、井伊直政は、天正13年(1585年)8月には、徳川家康の命により、徳川方の先行隊が大敗した第1次上田城の戦いの援軍として上田城に赴き、大須賀康高、松平康重と共に撤退戦の指揮をとっています。

大政所の世話役となる(1586年10月)

天正14年(1586年)10月、家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、その条件として、豊臣秀吉の母である大政所が人質として徳川家に寄越されます。

もっとも、大政所は豊臣秀吉の母という大人物であり、実際はとても人質なんていう立場ではありません。

何らかの不手際が有れば豊臣秀吉から難癖を付けられるに決まってますので、徳川家康は、大政所という貴賓を預からねばならない立場となってしまいました。

このとき、徳川家康は、大政所の世話を井伊直政に任せます。

そのため、井伊直政は、この後、珍しい菓子等を手に入れては頻繁に大政所の下を訪れるという面倒くさい役回りを強いられることとなってしまいます。

もっとも、小牧・長久手の戦いでの武勇に加え、自らの母を丁寧に扱い魅了した井伊直政の政治的手腕を豊臣秀吉が高く評価し、天正14年(1586年) 11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜します。

さらには、天正16年(1588年)4月の聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次を始め、古参の重臣達が諸大夫に留まる中、井伊直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官されるなど、徳川家中で最も高い格式の重臣となります。

小田原合戦(1590年)

天正18年(1590年)の小田原征伐では、豊臣政権によって動員された諸大名による小田原城包囲戦が行われ(小田原合戦)、徳川軍は小田原城の東側にある山王川と酒匂川の間を担当します。

徳川家康の本陣は、現在「徳川家康陣地跡の碑」が建つ現在の寿町に置かれたのですが、井伊直政隊は徳川隊の中でも最も海岸近くに布陣しました。

小田原征伐では、取り囲む豊臣方に対し、局地的にゲリラ戦を仕掛けた北条方との間で散発的な小規模戦闘はあったのですが、大規模な戦闘はほとんど行われませんでした。

その中で唯一といっていい大規模戦闘が、井伊直政が行った同年6月22日の小田原城外郭の山王口に築かれた出丸・篠曲輪(別名捨て城と言われ、敵に占領されることを前提に造られた敵の注意を引くための曲輪でした。)への夜襲でした。

井伊直政は、豊臣方で唯一小田原城内に攻め入って篠曲輪を占領したのですが、篠曲輪の防衛力のなさを理解し、そこにとどまることなく撤退しています(北条五代記)。

また、井伊直政は、九戸政実の乱にも従軍し仕置軍の先鋒を務めています。

上野国・箕輪12万石移封(1590年8月)

その後、徳川家康が関東に移封され北条氏に代わって江戸に入ると、それに伴って井伊直政は上野国箕輪(群馬県高崎市)12万石に加増され、徳川家臣団の中で最高石高となります。

箕輪に入った井伊直政は、慶長3年(1598年)、箕輪城を廃し南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城とします。

関ヶ原の戦い

事前の政治工作

慶長3年(1598年)8月18日、井伊直政が番役として京都にいる徳川家康の下にいた際、豊臣秀吉が死去します。

これにより、豊臣家内で、武断派、文治派に分かれて政治抗争が始まります。

ここで、徳川家康が武断派勢力を取り込んでいくのですが、このときに井伊直政は豊臣方の武将との交渉を引き受け、徳川家康の味方に引き入れています。

特に大きかったのが、黒田如水・長政父子を引き入れたことでした。黒田家を通じてその他の武将も徳川方に組み込まれていくこととなったからです。

また、関ヶ原の戦い直前には、全国の諸大名を東軍につける工作を行い、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉一鉄、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを徳川方に取り込んでいます。

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)

そして、井伊直政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い本線にも参戦し、徳川家康本軍に随行して本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となります。

ところが、井伊直政は、関ヶ原本戦の先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、井伊直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされています(なお、実際は抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦であり、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃に求めるべきとされています。)。

島津義久を追って銃撃される

関ヶ原の戦いの雌雄が決した後は、井伊直政は、西軍残党軍の掃討作戦を決行し、島津義弘の甥である島津豊久を討ち取った上、更に退却する島津軍を百余騎率いて追撃しています。

このときの井伊直政の猛追に護衛の配下が追い付けず、単騎駆けのような状態であったといわれています。

ところが、井伊直政が、島津義弘の目前まで迫り、島津義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤に足を狙撃されて重傷を負い(なお、このとき井伊直政に向かって発射された銃弾は、井伊直政の右脇腹に当たったものの、赤備えの鎧が頑丈であったために貫通せずに跳ね返り、それが井伊直政の右足に当たったと記録されています。井伊家慶長記)、井伊直政の関ヶ原の戦いが終わります。

なお、このとき井伊直政を撃ったと伝えられる火縄銃は、現在も鹿児島県にある博物館・尚古集成館に保管・展示されています。

戦後処理

井伊直政は、関ヶ原の戦いによって足に大怪我を負ったのですが、その政治能力の高さから痛む体をおしてその後の戦後処理を任されます。

そのため、西軍に味方した大名の処置についての徳川家康からの指示を各大名に伝えたり、または交渉したりするなどつらい仕事をこなしていきます(このとき井伊直政が執務を行う上で大量にやりとりした書状が数多く残されています。)。

このとき、井伊直政が最も難航した戦後処理が、苦しくも井伊直政を銃撃した島津家との戦後交渉でした。

徳川家康は、島津義久に対し、まずは西軍についたことの説明と謝罪のために江戸に来るよう命じたのですが、徳川家康の下に赴けば何をされるかわからない島津義久としてはこれに応じられず、戦後処理が進みません。

その後、井伊直政は、あの手この手を尽くし、なんとか徳川家と島津家との和平交渉を仲立ちし交渉をまとめています。

近江国・佐和山18万石移封(1600年)

井伊直政は、関ヶ原の戦いの前・本戦・戦後処理と大活躍したため、その軍功により石田三成の旧領である近江国北東部・佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられ、佐和山城に入城します。なお、井伊直政は、このとき従四位下にも任官されています。

佐和山は、豊臣方が関東に攻め込んで行く場合に必ず通過する交通の要衝であり、ここを任された井伊直政に対する信頼がいかに大きなものであったかがわかります。

佐和山城に入った井伊直政は、佐和山城が古い縄張りであったことや、敵将であった石田三成の居城であったことを理由にこれを嫌い、佐和山城入城直後から彦根に居城を移すことを計画します(もっとも、井伊直政が1602年(慶長7年)3月24日に死去したため、実際に彦根城の築城と居城移転事業については、井伊家家老の木俣守勝が徳川家康の許しを得た1603年(慶長8年)から始まっています。)。

井伊直政の最期

井伊直政死去(1602年2月1日)

関ヶ原の戦いの後の島津義久追撃戦(島津の退き口)の際、銃撃を受けて体内に鉛玉を残した井伊直政は、その後鉛中毒(または感染症とも)によって体調を崩し、1602年(慶長7年)2月1日に佐和山城にて41歳の若さで死去します。

遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に長松院が建立されました。

近江国・彦根藩30万石となった井伊家

井伊直政死亡により井伊家の家督は、長男の井伊直継(後の直勝)が継いだのですが、病弱であったため大坂冬の陣にに際して徳川家康の直命により、次男である井伊直孝が家督を継ぎます。

その後、彦根城が完成すると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、代わって新たに彦根藩(30万石)が置かれ、井伊家がこれを治めることとなります。

それ以来、彦根藩は明治時代に至るまで井伊家の下で栄えることとなります。

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