【徳川家康の人質時代】人質竹千代が清洲同盟を後ろ盾にして独立するまで

江戸幕府を創設した徳川家康は、その人生において数々の苦難に見舞われています。

三河一揆・三方原の戦い・神君伊賀越えなど数えればキリがありません。

その他にも3歳で生母と離され、6歳で人質に出され、挙句の果てに政争の駒としてたらい回しにされるなど、人生のスタートから悲惨です。

本稿では、そんな徳川家康(竹千代・松平元信・松平元康時代)の人生のスタートであった、人質時代について、そこに至る経緯から人質を脱して独立するに至るまでを紹介したいと思います。

人質となった経緯

出生(1543年12月26日)

徳川家康は、天文11年12月26日(1543年1月31日)寅の刻(午前4時)、三河国の土豪である松平氏の第8代当主であった松平広忠の嫡男として、岡崎城 にて誕生します。

母は水野忠政の娘・於大(伝通院)であり、幼名を竹千代(たけちよ)といいました。

この頃の三河国では、西三河岡崎を治める松平家と、三河国幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市吉良町)を治める足利家御一家の吉良家が強大化していたものの突出した勢力とはなっておらず、国衆・土豪が乱立しているような状況でした。

松平広忠が今川義元に下る

そんな中、三河国に対して、東側から今川義元が、西側から織田信秀が領土拡大を目指して侵攻を続けていました。

東西からの双方の侵攻に対応することはできないと判断した松平広忠は、今川義元に与することに決めます。

なお、天文13年(1544年)に水野家当主となっていた水野信元(松平広忠の正室・於大の兄)が尾張国の織田信秀と同盟を締結したため、松平広忠は、今川家との関係維持のため於大を離縁したことから、竹千代は3歳にして母と生き別れになっています。

織田信秀の下へ(1547年8月)

竹千代(後の徳川家康)は、数え6歳になった天文16年(1547年)8月2日、今川家への人質として駿府へ送られることとなったのですが、その護送の途中に三河渥美郡田原(現在の愛知県田原市)にあった田原城立ち寄ったところで義母の父・戸田康光(戸田宗光)に騙されて船に乗ったところで裏切りにあって身柄を奪われ、尾張国の織田信秀の下へ送られることとなります。

なお、以上の通説に対し近年では、同年9月に岡崎城が織田信秀によって陥落し、そのときに降伏の証として松平広忠が織田信秀に竹千代を差し出したとする説も提起されています。

いずれにせよ、松平広忠を取り込むということは西三河統治の大義名分を得ることとなりますので、織田信秀にとってはその嫡男竹千代の奪取は三河侵攻の絶好の口実となるはずでした。

織田人質時代

織田家によって幽閉される

尾張国に送られてきた竹千代は、熱田の豪族であった加藤図書助順盛の屋敷「羽城」に幽閉されます。

そして、織田信秀は、この竹千代の身柄を交渉材料として、松平広忠に対して臣従を迫ります。

ところが、松平広忠は、この織田信秀の要求を拒否し、今川家の臣下としての立場を貫きます。

織田信秀は、この松平広忠の対応を評価し、竹千代を殺害することはせず、織田家の菩提寺である万松寺に預け出て生活を送らせることとします。

今川家による報復

他方、竹千代を織田信秀に奪われた今川義元は激怒します。

すぐさま太原雪斎率いる軍を編成して進軍させ、天文16年(1547年)9月5日、竹千代を織田信秀の下に送った戸田宗光が守る田原城を陥落させます。

その後、今川義元は、獲得した田原城に伊東祐時(いとうすけとき)を入れ、さらに西に向かって進軍していったのですが、その後、織田信広(織田信秀の長男)が守る安祥城を境として一進一退の戦いが続きます。

なお、この戦いの最中である天文18年(1549年)3月6日、竹千代の父・松平広忠が死去し、松平家の本拠地であった岡崎城は今川家から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配されることとなります。

人質交換

天文18年(1549年)11月8日、太原雪斎率いる今川軍は、安祥城を攻略し、城主であった織田信広(織田信秀の長男)を生け捕りにします(第四次安城合戦)。

ここで、太原雪斎は、織田信秀に対し、織田信広と竹千代との人質交換を提案します。

その後、織田方と今川方との間において、三河国の西野笠寺にて交渉が行われ(「徳川実紀」東照宮御実記巻一・天文十八年)、ついに人質交換交渉が成立します。

この結果、織田信秀は、三河国支配の橋頭堡となる安祥城を失った上、三河国支配の大義名分となる竹千代までも失うこととなり、織田家による三河国への求心力は大きく失われていくこととなりました。

今川人質時代

駿府に移される(1549年11月)

織田家から今川家の下に送られることとなった竹千代は、駿府に移されて人質生活を送ることとなりました。

駿府に入った竹千代は、太原雪斎が住職を務める臨済寺においてその教育を受け、今川氏真を支える人材となるべく英才教育を受けます。

なお、この後、太原雪斎の生前死後を通じて12年に亘って竹千代が教育を受けたとされる竹千代手習の間が、臨済寺と清見寺において復元され、また駿府城公園東御門巽櫓2階においても復元展示されています。

元服(1555年3月)

弘治元年(1555年)3月、14歳になった竹千代は元服し、今川義元から偏諱を賜って「松平次郎三郎元信」と名乗ります。

人質でありながら今川義元の偏諱を賜っていることから、竹千代が今川家で特別待遇を受けていたことがわかります。

その後、徳川家康は、弘治3年(1557年)年、今川義元の勧めによって、今川一族の武将関口親永の娘(今川義元の義妹の娘)である瀬名姫を妻に迎えます。

この瀬名姫は、後に築山殿と呼ばれる人で、このとき16歳であった徳川家康よりも10歳も年上でしたが、今川義元の姪を妻に持つということは、松平元信が今川家の一門待遇であったことを示しています。

そして、松平元信は、この結婚を機会に、「松平蔵人佐元康」に改名します。

このときの改名理由は不明ですが、この頃は、主家である今川家が西進して織田家を滅ぼそうとしている時期であり、そんな時期に織田家当主である織田信長と同じ「信」の字を使っていることが不都合だったのかもしれません。

なお、この改名に際しては、松平家の中興の祖であり徳川家康の祖父である松平清康の「康」をもらったとも言われていますが、正確な理由は不明です。

初陣・寺部城の戦い(1558年2月5日)

今川義元は、永禄元年(1558年)ころに、今川家の家督を嫡子・今川氏真に譲ります(このころから、今川氏真が、駿河国・遠江国に文書を発給しているため、この前後に家督相続がなされたと考えるのが一般的です。)。

そこで、今川家では、当主となった今川氏真が駿河国・遠江国の統治を開始して勢力を安定させ、隠居した今川義元が三河国から西に向かって版図を広げるという政策を進めていきます。

今川義元の狙いは、三河国の平定と、その先にある尾張国侵攻です。

当然ですが、駿河・遠江から尾張国に侵攻するためには、その手前にある三河国を鎮める必要があります。

そのため、今川義元は、三河忩劇の鎮圧にもってこいの人物として、三河国を治めていた安祥松平家の松平元康を選択し、三河忩劇の鎮圧を命じます。

松平元康にとっては、この戦いが初陣でした。

初陣は、通常、親族や家臣に軍才を見せるために勝てる戦が準備されるのですが、人質であった松平元康にそんな配慮はありません(とは言っても、負けない戦として準備されたとは思います。)。

ここで松平元康は、後に天下を取る大器の片鱗を存分に見せつけます。

松平元康は、三河忩劇を鎮めるために鈴木重辰が守る寺部城を攻略する必要に迫られ、永禄元年(1558年)2月5日、寺部城に兵を進めて攻城戦を開始します。

もっとも、寺部城は矢作川と周囲の支城群で守られた要害であり、容易に攻略できる城ではありませんでした。

そこで、松平元康は、まず、寺部城の城下を焼き払って寺部城への連絡網を遮断し、かつ周囲の寺部城の支城寺である広瀬城(北東)、伊保城(北西)、海坪城(北西)、挙母城(南西)などを次々と陥落させて寺部城を孤立させるという大戦果を挙げます。

なお、寺部城主・鈴木重辰はこの戦いで討ち死にしたものの寺部鈴木氏は滅亡は免れ、その後に一族が寺部城主に復帰しているらしいのですが、戦いの経過・結果・その後についての詳細は不明です。

今川義元は、大戦果を挙げた松平元康を高く評価し、その旧領のうち山中300貫文の地を返付するとともに、腰刀を贈っています。

人質の立場から脱却

大高城への兵糧入れ

永禄2年(1559年)、織田信秀から織田弾正忠家の家督を相続した後で尾張国を統一した織田信長が、今川方の支城であった鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周囲に丸根砦・鷲津砦を築いて、両城に攻撃を仕掛けてきます。

そこで、今川方としては、まず永禄3年(1560年)に、鵜殿長照が大高城の包囲を破って守備につき、その後、同年5月18日夜に松平元康が鷲津砦と丸根砦の間を突破して同城に兵糧を届け、そのまま鵜殿長照に代わって城の守備につきます。

そして、そのまま松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を同時攻撃してこれらを攻め落としたため、翌同年5月19日未明には大高城が解放されます。

今川義元討死(1560年5月19日)

大高城を解放した今川軍は、続けて鳴海城を解放するために動き出し、他方で今川義元率いる本隊5000人が解放された大高城に入るために遅れて進軍をしていました。

永禄3年(1560年)5月19日、大高城を解放した松平元康は、大高城内で今川義元が到着するのを待っていたのですが、夜になっても今川義元が大高城にやって来ませんでした。

それどころか、大高城の松平元康の下に、途中の桶狭間で織田信長の奇襲を受けて今川義元が討ち取られたとの報が届きます。

この報を聞いた松平元康は、落武者狩りを免れるため、一晩大高城に籠り、翌朝城を出ることに決めます。

同日夜、松平元康の下に、織田方の水野信元(松平元康の叔父)からの使者が訪れたのですが、松平元康はこの使者を拘束し、翌朝この使者を連れて、さも水野信元の兵であるかのように装って堂々と東に向かって逃亡を始めます。

岡崎城に入る

大高城から東に向かい岡崎に入った松平元康でしたが、この時点ではまだ今川方の兵が岡崎城に残っていたため、そのまま岡崎城に入ることはせず、一旦松平家の菩提寺である大樹寺に駐屯して住職の登誉天室にその後の相談をします。

このとき、松平元康は、今川兵が去った後の岡崎城を接収し、今川家からの独立を果たすことを決心します。

なお、このとき、松平元康は、登誉天室から「厭離穢土 欣求浄土」という言葉をかけられ、後の旗印とすることにしたと言われています。

そうこうしているうちに、岡崎城に入っていた今川兵が今川義元討死の報を聞いて岡崎城からの撤退を始めたため、それと入れ代わる形で松平元康が岡崎城に入ります。

もっとも、ここで簡単に今川家から独立を果たすことはできません。

松平元康の正室の瀬名姫と、嫡男の竹千代(後の松平信康)、長女の亀姫を駿府に残してきているからです。

また、織田信長と今川氏真との力関係を探っていたという意味もあったのかもしれません。

そこで、松平元康は、今川氏真に疑われないように理由をつけて岡崎城に残り、他方で、叔父の水野信元を通じて織田信長にも接近して生き残りをのための地盤固めを始めていきます。

清洲同盟締結(1562年1月15日)

そして、松平元康は、今川氏真と手切をして織田信長と結ぶという決断をし、永禄5年(1562年)正月15日、清洲城にて会談の上、清洲同盟が締結されます(なお、この会談による清洲同盟成立がかつての通説だったのですが、今日ではこの会談はなかったとする異論が有力となっています。)。

対等の形式をとった同盟とは言うものの、事実上の織田信長への臣従です。

人質交換

清洲同盟によって織田信長という後ろ盾を得た松平元康は、永禄5年(1562年)2月4日、鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻撃してこれを討ち取ると共に、その子の鵜殿氏長・鵜殿氏次を生捕りにします。

そして、松平元康は、この2人を交渉材料として、駿府にて人質となっていた瀬名姫・竹千代(後の松平信康)・亀姫を人質交換で取り戻します。

このとき松平元康がとった人質交換の手法は、かつて太原雪斎が織田家から幼い自分を取り戻した際に用いた方法です。

そして、瀬名姫・竹千代(後の松平信康)・亀姫を取り戻した松平元康は、永禄6年(1563年)3月に、竹千代と織田信長の娘である徳姫と婚約を結び、さらに織田信長との関係を強化させます。

今川家からの独立と改名(1563年)

こうして織田信長という後ろ盾を得た松平元康は、いよいよ今川家との手切れを決断します。

そして、松平元康は、今川家との決裂の証として、今川義元からもらった「元」の字を捨てることとし、永禄6年(1563年)6月から10月の間に、「元」を「家」に改め、「松平家康」に改名します。

なお、「家」の字を選んだ理由としては、源氏の祖とも言える源義家から一字をもらったとも、「書経」の中にある「家用平康」から取ったとも言われていますが、正確なところはわかりません。

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