毛利元就によって巨大化したものの、関ヶ原の戦いの責によって長門国・周防国に押し込められて立藩したのが毛利宗家が藩主を務める長州藩です。
明治維新の立役者となった藩として有名ですが、この長州藩には、3つ?4つ?の支藩(長府藩、清末藩、徳山藩、岩国領)があります。
本稿では、長州藩の支藩の概略について、立藩の経緯から順に見ていきたいと思います。
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長州藩立藩
毛利家の躍進
毛利家は、安芸国の国人勢力の1つに過ぎなかったのですが、戦国時代に毛利家中興の祖となった毛利元就の代に急成長し、その後織田家との戦いで若干領土を削られたものの、孫の毛利輝元の代には中国地方8か国112万石を領有する大大名にまでのし上がります。
この毛利元就は、正室との間に嫡男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景を儲けていたのですが、その他側室との間に四男であった穂井田元清を儲けるなど、10人以上の子供を儲けています。
そして、毛利元就は、毛利隆元を毛利宗家の嫡男として毛利家に残し、次男以下の子を順に他家に養子に出し、その家を乗っ取る駒として使いました。
毛利秀元が分家を創設(1599年6月)
その後、毛利家の当主が毛利輝元の代になると、他家へ養子に出た一門をも活用し、大きくなった領地を統治していくこととなります。
もっとも、毛利輝元はなかなか子宝に恵まれなかったため、天正13年(1585年)、後の内紛防止策として穂井田元清(毛利輝元の叔父)の次男として穂井田家の嫡男となっていた穂井田宮松丸(後の毛利秀元・毛利輝元の従兄弟)を毛利輝元に男子が生まれた場合には廃嫡して分家するという条件の下で養子とします。
なお、文禄2年(1593年)、毛利輝元に実子がいないことを好機と見た豊臣秀吉が、正室おねの甥であった羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を毛利輝元の養子にして毛利家を取り込もうと画策したのですが、この話を耳にした小早川隆景が、毛利宗家の危機を防止するべく豊臣秀吉に対して羽柴秀俊を毛利宗家ではなく小早川家で貰い受けたいと願い出て、文禄3年(1594年)に羽柴秀俊を小早川隆景の養子として貰い受けたことにより毛利宗家の危機を回避しています。
その後、文禄4年(1595年)10月18日に、毛利輝元に待望の嫡男・松寿丸(後の毛利秀就)が生まれ、また、慶長3年(1598年)8月1日に豊臣政権が毛利秀就を毛利家の後継者として承認したことから毛利秀元は事実上廃嫡されます。その後、慶長7年(1602年)9月3日には、次男の百助(後の毛利就隆)も生まれています。
この結果、当初の約定通り、慶長4年(1599年)6月、毛利秀元は、毛利輝元から長門国一国と安芸国佐伯郡・周防国吉敷郡の計17万石を与えられて、叔父である小早川隆景の例に倣って毛利家臣でありながら豊臣大名としての身分が認められることとなりました。
長州藩立藩(1600年)
安芸広島を本拠に山陽道・山陰道の8か国を領有していた毛利家でしたが、豊臣秀吉の死後、豊臣政権下での石田三成と徳川家康との確執に巻き込まれます。
石田三成と徳川家康との確執は武力衝突へと進展していくこととなったのですが、毛利輝元は石田三成方に与し西軍の総大将に担ぎ上げられました。
ところが、この毛利輝元の動きとは別に、石田三成方が敗れると考えていた吉川広家が事前に黒田長政を通じて徳川家康方に内通し、毛利家の所領安堵を条件として毛利家を戦いに参加させないという密約を取りつけるという独自の動きを行います。
そして、慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発したのですが、徳川家康方に内通していた吉川広家が防波堤となって毛利軍が本戦に参加できず、そのせいもあって石田三成率いる西軍は敗北を喫します。
吉川広家としては、密約のとおり毛利家の本領安堵がなされると考えていたのですが、徳川家康は、大国取り潰しの好機と考えて毛利家本領安堵の約束を反故にし、毛利家を取り潰した上で周防国及び長門国に吉川広家を入れようと画策し始めます。
この徳川家康の動きに対し、毛利輝元はもちろん、本家をだました形となった吉川広家も驚愕します。
吉川広家は、事態収拾のために奔走し、徳川家康から自らに与えられるとされた周防国及び長門国を毛利輝元に回すことで主家滅亡を回避してほしいと願い出て認められ、すんでのところで毛利本家は改易を免れます。
この結果、なんとか改易を免れた毛利本家でしたが、それまでの山陽山陰8か国計112万石の大大名から、長門国・周防国2カ国計29万8000石(慶長15年/1610年の検地後36万9千石に高直し)というわずか2カ国持ち大名レベルへと減封されてしまいました。
そして、毛利輝元は、失意のまま長門国萩に本拠を置き、形式上の初代藩主を毛利秀就、実質上の初代藩主を毛利輝元(毛利宗家の家督はいまだ毛利輝元のままでした。)とする長州藩(萩藩)が成立するに至ります。
長州藩の支藩立藩
岩国領成立(1600年)
また、毛利宗家が関ヶ原の戦いに敗れたためその家臣である吉川広家もまた、出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及んでいた14万石の領地を召し上げられるという事実上の改易処分を受けます。
毛利輝元側からすると、吉川広家の行動によって大幅減封処分にあったとの思いがあるのですが、吉川広家自身も領地を召し上げられていたこと、吉川広家の働きにより毛利宗家の改易自体は免れることができたことなどから、吉川広家にも何らかの対処が必要と考えます。
そこで、毛利輝元は、慶長5年(1600年)、吉川広家に対して玖珂郡南半の岩国3万石を与えて、長州藩の東側の守りを担わせることとします。
もっとも、3万石を与えたといっても、毛利宗家側からすると大幅減封の戦犯とも言える吉川広家に対する批判が強かったため独立の藩として扱うことはせず、以降も吉川家は毛利宗家の陪臣として扱い、江戸幕府に対しても藩としての申請をしなかったために幕府公認の藩として扱われることはありませんでした。
そのため、この結果、岩国領主は、長州藩内では一領主に過ぎないものと扱われて伺候席は定められず従五位下の叙位もなかったために守名乗りもできず将軍に直接御目見することも許されないという状態となり、3万石もの大領を有しながら岩国藩とはされず、岩国領と称されます。
他方、江戸幕府からすると吉川広家は関ヶ原の戦い勝利の殊勲者の1人であり、また3万石もの領地を有する者であったため藩に準じた外様大名格として扱い、参勤交代義務はなかったものの江戸に屋敷を持ち将軍への四季の献上を行い、当主の継嗣時には登城謁見が行われ、江戸では特別待遇を受けるという異例の事態が続くこととなりました。
この複雑な歴史的経緯により、長州藩と岩国藩の間は微妙な関係となり、江戸時代を通して長州藩と岩国藩は対立することが多くなります。
なお、岩国藩が正式な藩として認められるのは、明治元年(1868年)、明治政府から幕末の当主であった吉川経幹が長州藩主であった毛利敬親に協力をして四境戦争(第二次の長州征討)で芸州口の幕府軍と戦い戦果をあげた功績を評価されて認可されたときのことでした。
長府藩立藩(1600年)
さらに、毛利宗家が関ヶ原の戦いに敗れたためその家臣である毛利秀元もまた、分知された領土17万石余を没収されるという事実上の改易処分を受けました。
これを哀れに思った毛利輝元は、毛利秀元に対しても、新たに長門国の豊浦郡と厚狭郡計6万石を内分分知し、長州藩の支藩として成立させた上でその藩主(長府藩主)として櫛崎城に入れて長州藩の西側の守りを担わせることとします。
下松藩立藩(1617年)→徳山藩に改称
名目上長州藩の初代藩主となっていた毛利秀就は、実質上の人質として江戸で生活をしていました。
そのため、長州藩の政治は、父である毛利輝元と毛利秀就の弟である毛利就隆によって行われていたのですが、藩主の弟である毛利就隆にも大名格を与えてあげたいという毛利輝元の親心により、元和3年(1617年)、周防国下松(現在の山口県下松市)に3万石を与えられ立藩します(江戸幕府から藩として認められたのは寛永11年/1634年3月です。)。なお、寛永2年(1625年)の藩内検地では、実質的な石高は4万石余りとされています。
その後、下松は不便であるという理由で、藩庁を同国徳山(改称前は野上村、現在の山口県周南市)に移し、徳山藩と呼ばれるようになりました。
なお、徳山藩は3代藩主毛利元次(もうりもとつぐ)の代に毛利宗家と争いを起こし一時改易状態となったのですが、すぐに許されて再興されています。
清末藩立藩(1653年)
慶安3年(1650年)、初代長府藩主であった毛利秀元が死亡したのですが、死亡に際し、毛利秀元は三男の毛利元知に1万石を与えて立藩させるよう遺言を残します。
これにより、毛利元知は、長州藩の支藩であった「長府藩」から1万石の分知を受けて立藩した、支藩の支藩という異例の立藩として成立しました。
また、知行地も長府藩の内部に交雑する微妙な位置関係となります。
長州藩と支藩との関係
以上の経緯で成立した長州藩とその4つ?3つ?の支藩ですが、毛利宗家の長州藩とその支藩との関係は劣悪なものとなっていきます。
岩国藩との関係が微妙であることはその成立の経緯からおわかりいただけると思うのですが、その他3つの支藩との関係も良いものではありませんでした。
長州藩 | 長府藩 | 徳山藩 | 清末藩 | 岩国領 | |
初代藩主 | 毛利秀就 | 毛利秀元 | 毛利就隆 | 毛利元知 | 吉川広家 |
当初石高 | 29.8万石 | 6万石 | 3万石 | 1万石 | 3万石 |
参勤交代 | 要 | 要 | 要 | 要 | 不要 |
出萩 | ー | 要 | 要 | 要 | 不要 |
関係が悪化した最も大きな理由は、長州藩の毛利宗家が、岩国藩を除く3つの支藩に対し、江戸への参勤交代とは別に、長州藩への出萩(参勤交代の長州藩版)を課したからです。なお、岩国藩は長州藩の家老扱いであったために岩国藩主は萩在住が義務付けられていた関係で出萩義務はありませんでした。
江戸への参勤交代に加えた萩への出府及び在住は、3藩の負担となり、次第にこれら3藩から長州藩に対する不満が高まっていきます。
この不満は幕末まで200年にも亘って続き、常に爆発の危険をはらんだものとなっていました。
この不満が解消されたのは尊王攘夷運動であり、外国及び徳川憎しのため、それまでの確執を脇において長州藩と4支藩が一体となり維新へと突き進んでいったのです。
なお、余談ですが、毛利宗家と吉川岩国藩を除く3つ支藩は、いずれも「一文字三星」を使用しているのですが、伊達家の「竹に雀」や徳川一門の「三葉葵」と同様にそれぞれが僅かに異なるものとなっていますので注意が必要です。
興味深く読ませて頂きました。幕末はいざ知らず、太平の世の中では長州藩がどうだったのかあまり知られていないと思われますが、支藩に出萩が課せられていたことやそれによる本家との確執があったこと、陪臣にて岩国藩ではなく岩国領だったこと、にも関わらず幕府からは特別待遇等、初めて知りました。そこに至る迄の各人の思い、意地、宿命•••様々な歴史ドラマを垣間見させて頂きました。
こう考えると国学において安来と安芸は神話時代から因縁のある土地柄なんですね。戦国武将の山中鹿之助の講談、江戸幕府が肩入れして流行らせた感もありますね。戦後の考古学論争で出雲VS大和なんかもこの流れなんですかね。古事記VS日本書紀なんかも。令和になったんだから、グローバル社会における多神教国家日本という大局観から構築される新たな哲学を期待したいものです。