【九州という名称の由来】7県なのになぜ9州?

九州は、北海道・本州・四国とともに日本列島の主要4島の一つです。説明するまでもないですね。

この九州島には、福岡県・佐賀県・長崎県・大分県・熊本県・宮崎県・鹿児島県の7県しかありません。沖縄県を入れて九州地方としてカウントしても8県であり、まだ9には足りません。

では、7県ないし8県であるにも関わらず何故九州と言うのかについて、その歴史的経過を簡単に説明したいと思います。

九州の由来

記録上の初見

九州が最初に登場する文書は、日本最古の歴史書とされる古事記です。

九州島について、古事記では「筑紫島(つくしのしま)」と記載され、また同時期に成立した日本書紀では「筑紫洲(つくしのしま)」と表記と表記され、その中に筑紫国、火国、豊国、熊襲国(先代旧事本紀によると日向国)があったとされています。

西海道の九ヶ国成立

その後、7世紀後期から中国唐朝の律令を取り入れて法体系を整備しそれに基づいた国家制度・統治制度(いわゆる律令制)が始まり、この律令制の下で地方行政区分の整備が行われました。

この行政改革により、日本国内が律令国という基本単位で区分されることとなり、この基本単位を含めた広域地方行政区画(五畿七道・ごきしちどう)で区分することとなりました。

このとき、九州とその周辺の島々は西海道(さいかいどう、別名は鎮西)と区分されました。

そして、それまで筑紫国・火国・豊国・日向国・熊襲国に区分されていた国について以下のとおり整備されることとなりました。

【北九州】

まず、それまで筑紫・肥・豊と呼ばれていた北九州に存在した国を前・後に分割し、以下のとおりとされました。

筑紫国 → 筑前国筑後国

火国 → 肥前国肥後国

豊国 → 豊前国豊後国

【南九州】

また、南九州地域では、大宝2年(702年)に薩麻(薩摩)国が成立し、和銅6年(713年)に日向国から大隅国が分立します。

熊襲国(日向国)→薩摩国日向国大隅国

以上の結果、九州島内に九ヶ国の行政区分が成立することとなったため、これらを総称して西海道を九州と呼ぶようになりました(そのため、九州と呼ばれるに至った経緯は、律令国の整備により4ヶ国が整備され四国と呼ばれることとなった四国の名称の由来と同じ構造です。

なお、このとき、九州島の九国と周辺の附属島嶼が「九州」の範囲となり、西海道に対馬、壱岐を含めて九国二島、九州二島とも呼ばれました(なお、対馬国と壱岐国は九国に編入されていません。)。

九州が7県となった理由

では、9つあった行政区分がなぜ7つになったのでしょうか。

律令国という地理的区分は、飛鳥時代から明治初期まで使用されていたのですが、明治4年(1871年)7月14日に、中央集権を目指す明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革を行い(廃藩置県)、300弱あった藩を廃止して国直轄の県として再編成がなされました。

そして、その後、県の統廃合が進み、最終的に九州島に福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県の7県が置かれることとなったのです(なお、統廃合の過程で律令国の制度では九州に含まれなかった対馬・壱岐・奄美群島も九州に含まれることとなりました。)。

以上の統廃合が進められたものの、島名及び地方名については、それまでなじみの深かった律令制上の名称が残され、「九州」という名称が残されたため、7県であるにもかかわらず九州(沖縄県を加えた場合には「九州地方」又は「九州・沖縄地方」)と呼ばれるようになったのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA