【二股口の戦い】土方歳三の軍略が冴え渡った旧幕府軍のゲリラ戦

二股口の戦いは、渡島国亀田郡大野村(現在の北海道北斗市中山峠)で発生した、函館への進軍を目論む明治新政府軍と、これを阻止しようとする旧幕府軍との間で起こった2週間に亘る戦いです。

新撰組鬼の副長・土方歳三が、台場山に胸壁と陣地を構築してゲリラ戦を行い、兵数も装備も大きく劣る状況下で新政府軍を撃退したことでも有名です。

本稿では、この二股口の戦いについて、その発生の背景から順に見ていきたいと思います。

旧幕府軍の函館占拠と蝦夷共和国樹立

旧幕府軍蝦夷地上陸(1868年10月21日)

慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦い、同年4月の宇都宮城の戦い、同月以降の会津戦争などにことごとく敗れた土方歳三は、北へ北へと逃げていきます。

土方歳三は、仙台に逃れていた際に榎本武揚率いる開陽を旗艦とする8隻からなる旧幕府艦隊(当初は、開陽・蟠竜・回天・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻でしたがも、途中で咸臨丸・美賀保丸の2隻を失っています。)と合流し、蝦夷地へ向かいます。

榎本艦隊は、新政府軍の防備がある函館港を避け、その北側にある内浦湾に面する鷲ノ木を上陸地点とし、同年10月21日に約3000名で上陸します。

旧幕府軍が函館制圧(1868年10月26日)

このころ、明治新政府は、蝦夷地統治のために箱館府を設置してたのですが、度重なる東北戦争に動員され防備兵力は僅かな箱館府兵と松前藩兵のみとなっていました。

これを好機と見た蝦夷地に結集した旧幕府軍は、函館(1869年又は1876年に箱館から改称)を奪取するため、蝦夷地に上陸した後に大鳥圭介率いる隊が峠下・七重方面から、土方歳三率いる隊が鹿部・川汲峠を経て湯の川方面から、二手に分かれて函館へ向けて進軍します。

そして、明治元年(1868年)10月24日、人見勝太郎・本多幸七郎らと合流した大鳥隊が大野村と七重村で、また土方隊が川汲峠でそれぞれ箱館府軍を撃破します。

度重なる敗戦に危機を感じた箱館府は、五稜郭の放棄を決め、青森へ退却します。

これにより、旧幕府軍は同年10月26日、五稜郭へ無血入城し、榎本艦隊も箱館へ入港します。なお、旧幕府軍は、翌10月27日には旧幕府軍の函館占領を知らずに入港してきた秋田藩の軍艦高雄を拿捕しています。

旧幕府軍が接収した五稜郭の問題点

このとき旧幕府軍が接収した五稜郭は、江戸幕府が築いた当時最先端といえるフランス式の稜堡式の城であり、先端が外に突き出す形となる稜堡が相互防衛を可能とするため、360度全方向の防衛ができる鉄壁の城(のはず)でした。

ところが、五稜郭は未完成でした。

以下のような大きな欠点があったのです。

① 反撃力が弱い

当初の予定では、馬出しの役割を果たし城内からの援護を受けながら攻撃的に出ることができる施設である半月堡が当初5つ造られるはずだったのです(上記のとおり、「五稜郭初度設計図」では5つ予定されています。)。

もっとも、幕府の予算で半月堡は南側の1つしか造られませんでした。

② 場内の動線が悪い

また、驚くべきことに、旧幕府軍が五稜郭を接収した際、大砲を稜堡へ上げるための道が設置されていませんでした。

これでは、五稜郭に攻めてくる敵を迎撃することができません。

このため、五稜郭に入った旧幕府軍は、突貫工事で城内の道路整備を行い、大砲を稜堡に上げるスロープの建設などを行っています。

③ 五稜郭を守る台場が1つしか存在しない

さらに、五稜郭設計当時は、五稜郭の周囲に7箇所の台場を建設して防衛する予定だったのですが、実際には僅かに弁天台場1つが建設されたにとどまっていました。

旧幕府軍による松前藩攻略

函館を占拠した旧幕府軍は、同年10月27日、土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名にて松前城に向けて出陣します。

土方隊は、同年11月5日に松前城に到達したのですが、在城兵がわずかであったため松前城は数時間で落城します。

また、同年11月12日、旧幕府軍の星恂太郎率いる額兵隊を先鋒とする500名が松前から江差に向けて進撃し、大滝陣屋を陥落させます。

さらに、開陽を中心とする旧幕府海軍により、江差が無血占領されます。

開陽丸座礁・沈没(1868年11月15日)

ところが、順調に蝦夷地を占拠していく旧幕府軍に一大事件が起こります。

1868年(明治元年) 11月15日夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽が座礁してしまったのです。

また、座礁した開陽を救助すべく函館から回天と神速丸が江差に到着したのですが、開陽の救助どころか助けに来たはずの神速丸までも座礁してしまいます。

結局、開陽は数日後に沈没してしまい、旧幕府軍は虎の子の軍艦を失います。

開陽を失ったことにより、旧幕府軍は制海権を失います。旧幕府軍にとってこれが致命的でした。

開陽=制海権を失ったことにより、旧幕府軍は、蝦夷地攻略の最大の武器を失うと共に、本州から新政府が送り込んでくる兵・武器・兵糧を止めることができなくなったからです。ジリ貧確定となります。

函館政権(蝦夷共和国)樹立

1868年(明治元年) 12月15日、旧幕府軍は箱館政権(蝦夷共和国)を樹立し、選挙により榎本武揚が総裁に決まります(なお、上の写真は、後列左から小杉雅之進・榎本対馬・林董・松岡磐吉、前列左から荒井郁之助・榎本武揚です。)。

そして、蝦夷共和国では、来たる新政府軍の攻勢に備えて、軍事組織を再編成して陸軍(陸軍奉行:大鳥圭介、陸軍奉行並:土方歳三)及び海軍(海軍奉行:荒井郁之助)を組織し、江差、松前、鷲ノ木など支配地域の沿岸部に守備隊を配置します。

新政府軍による函館侵攻作戦

新政府軍の動き

明治新政府としては、旧幕府軍の勝手な独立宣言を許しておくことはできません。

そこで、新政府軍も雪解けを待って動き出します。

まず、明治2年(1869年)2月には松前藩、弘前藩兵を中心に約8000人の陸上兵力を青森に集結させます。

また、海軍についても品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄を購入するとともに、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成し、同年3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・陽春・丁卯)の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆させます。

宮古湾海戦(1869年3月25日)

旧幕府軍は、新政府軍の艦隊が宮古湾(現在の岩手県)に入るとの情報を受けると、制海権を失ったことによる不利を解消するため、甲鉄を奪取する作戦を立てます。

その上で、同年3月20日、海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天、蟠竜、高雄の3艦で宮古湾に向けて出航しました。

もっとも、同年3月23日、暴風雨に遭って、蟠竜が合流できず、また高雄が蒸気機関のトラブルで速力が半分に落ちてしまったために、回天だけで甲鉄奪取計画を決行することになりました。

そして、同年3月25日早暁、回天は、宮古湾へ突入するとアメリカ国旗を降ろし日章旗を揚げて、全速力で甲鉄へ向かいます。

このとき、奇襲は成功したが、外輪船である回天が甲鉄に横付けできなかったために甲鉄の側面に艦首を突っ込ませて『丁字』の形という不利な体勢になった事や、甲鉄より船高が3m高いこともあり、兵が甲鉄へ乗り移りにくく、思うように戦えませんでした。

その上、回天の艦首から飛び降りた旧幕府軍の兵が、甲鉄に装備されていたガトリング砲や小銃にて次々と撃ち倒され、戦闘準備を整えた宮古湾内の他の艦船や反撃が始まったため、作戦は失敗し宮古湾を離脱します(宮古湾海戦)。

結局、制海権を取り戻せなかった旧幕府軍は、以降新政府軍の蝦夷地接近・上陸を防げなくなってしまいます。

新政府軍の蝦夷地上陸(1869年4月9日)

旧幕府軍残党を追って北海道に向かった新政府軍は、明治2年(1869年)4月9日、台場がある函館付近への上陸を避け、先遣隊が乙部への上陸を開始します。

これに対して、旧幕府軍は上陸を阻止すべく江差から一聯隊150人を派遣したのですが、到着したころには新政府軍の上陸が終わっていたために新政府軍先鋒の松前兵によって撃退されます。

また、春日を中心とする新政府軍軍艦5隻が江差を砲撃して旧幕府軍は松前方面に撤退させ、江差も新政府軍に奪われます。

江差を奪還した新政府軍は、同年4月12日には陸軍参謀・黒田清隆率いる2800名の増援が江差へ上陸します。

大軍に膨れ上がった新政府軍は、ここで隊を4つに分けて、松前口ルート(海岸沿いに松前に向かう)、木古内口ルート(山越えで木古内に向かう)、二股口ルート(乙部から鶉・中山峠を抜け大野に向かう)、安野呂口(乙部から内浦湾に面する落部に向かう)の4つのルートから箱館へ向けて進軍を開始します。

旧幕府軍の対抗策

蝦夷地への新政府軍の上陸を許した旧幕府軍では、対応の協議がなされます。

ここで、前記のとおり、五稜郭の防衛力が不十分だと知った旧幕府軍は、五稜郭での籠城戦を諦め、野戦で新政府軍と戦う道を選びます。

旧幕府軍は、新政府軍が前記の4つのルートを通ってくると予想し、それぞれに迎撃隊を派遣することとします。

二股口の戦い

土方歳三の防衛準備(1869年4月10日)

このうち、土方歳三は、300人(衝鋒隊2個小隊と伝習歩兵隊2個小隊)の兵を率いて、二股口ルート(乙部から鶉・中山峠を抜け大野に向かう)の防衛を担当します。

新政府軍が、二股口ルートを通って五稜郭に向かうためには、谷を穿つ大野川沿いの道を進み、川が二又に分かれる地点で渡河し正面の台場山を越えるルートを通る以外に方法がなかったため、土方歳三にとっては新政府軍の進軍ルートが簡単に予想できました。

実際、新政府軍は、軍監・駒井政五郎が松前・長州藩兵などからなる500の兵を率いてこのルートを進撃してきます。

迎え撃つ土方歳三は、明治2年(1869年) 4月10日、二股口に到着し、台場山に本陣を置きます。

そして、土方歳三らは、台場山到着後すぐさま新政府軍が侵攻してくる同年4月13日までの3日間で、天狗山を前衛として、新政府軍が侵攻してくるであろう一本道を挟み込むようにしてその両側の高台に数多くの塹壕を張り巡らせると共に、周辺の要地に16箇所の胸壁を構築して新政府軍を待ち構えます(これにより、上から下の道に向かって射撃できるようになります。)。

二股口の戦い(1869年4月13日〜)

(1)4月13日

明治2年(1869年) 4月13日午後3時、天狗山に陣を敷いた後に進軍してきた新政府軍が、土方歳三がいる台場山本陣に対して攻撃を開始します。

これに対し、旧幕府軍は胸壁を盾にし、塹壕に身を隠しながらゲリラ的に反撃を繰り返し、ここから新政府軍・旧幕府入り乱れた、壮絶な撃ち合いが展開されます。

毎日3万5000発の撃ち合いとなったと記録される銃撃戦の始まりです。

余りに多くの銃弾が発射されたため、現在でも二股口では、至る所に当時の銃弾(指サック様の形をした弾丸が多く、この弾丸の形状から土方隊が旧式のエンフィールド銃を多く使用していたこともわかっています。)が埋まっているそうです。もっとも、埋蔵文化財包蔵地であるため、発掘行為となる地面を掘る行為には届け出が必要です。勝手な行為は控えましょう。

土方隊のゲリラ戦に苦戦させられる新政府軍ですが、数で勝る新政府軍は、根本から弾を装填する最新のスナイドル銃を装備し、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返します。

他方、迎え撃つ旧幕府軍は、前から弾を装填する旧式のエンフィールド銃を装備した2小隊ずつが交替で休憩をとりながら攻撃をけます。

これにより、果てしない銃撃戦が続き、日没頃から雨が降り出すと旧幕府軍では弾薬が濡れないように上着を掛けて守り、雷管が湿ると懐に入れて乾かすなどして、戦い続けます。

なお、土方隊の装備である銃口から弾を込める方式のエンフィールド銃は、連続して弾を発射すると銃身が熱くなり手で持つことができなくなってしまうという問題があり、土方隊では桶に水を準備し、銃身を冷やしながら銃撃を続けたと言われています。

(2)4月14日

夜が開けた同年4月14日午前7時頃、手持ちの銃弾を撃ちつくした新政府軍が、疲労困憊状態で稲倉石まで撤退します。

前日か、16時間に及んだ戦闘で、旧幕府軍は3万5000発の弾丸を消費したそうです。

初回の大規模戦闘が終わった後、装備と兵数の差に危険を感じた土方歳三は、報告と援軍要請のために一旦五稜郭へ戻ります。

(3)4月16日

もっとも、旧幕府軍が増員されるよりも先に、同年4月16日、新政府軍の第二陣2400人が江差に上陸します。

その結果、土方隊が守る二股方面にも薩摩・水戸藩兵などからなる援軍が派遣され、弾薬と食糧の補給もされてしまいます。

(4)4月17日

他方、初戦で苦戦したことにより二股の堅塁を抜くことが容易ではないと判断した新政府軍は、4月17日以降、厚沢部から山を越えて内浦湾に至る道を作って兵と銃砲弾薬を送り込んで、旧幕府軍の背後から二股口を攻める作戦を考えますが、道を切り拓く作業に手間取ります。

新政府軍が道を造っている間に、旧幕府軍も滝川充太郎率いる伝習士官隊2個小隊が増強されます。

(5)4月23日

同年4月23日、福山藩が警備していた新政府軍の天狗山陣地に旧幕府軍の斥候が近づいたため、またもや大規模な戦闘が始まる。

同日午後4時頃、胸壁突破を断念した新政府軍が急峻な崖によじ登って、旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となります。

(6)4月24日

日が変わった同年4月24日未明、旧幕府軍の滝川充太郎率いる伝習士官隊が新政府軍陣地に突撃を敢行します。

不意を付かれた新政府軍は大混乱となり、自軍の敗走を単身食い止めようとした駒井政五郎は銃弾を受けて戦死し、一気に士気が下がります。

新政府軍はその後も旧幕府軍を攻略しようと兵を繰り出しますが、指揮官を失った穴を埋めることができず、同年4月25日未明、ついに二股口突破を断念します。

そのため、新政府軍は、台場山を迂回するからルートの確保を試みることとなりました。

土方歳三隊が二股口から撤退

二股口以外のルートが突破される

前記のとおり土方歳三隊は、二股口で新政府軍の進撃を食い止めていたのですが、その間に、松前ルート・木古内ルートが新政府軍に突破されます。

また、守勢に回っていた矢不来ルートも、同年4月29日に突破されます。

二股口からの撤退(1869年4月29日)

旧幕府軍のうち、唯一残る二股口の守備軍は、新政府軍が矢不来ルートを突破したため二股口に残れば退路を絶たれる恐れが生じてしまいます。

そのため、土方歳三はやむなく土方隊を五稜郭へ撤退させることを決定します。

結果、2週間に亘った二股口の戦いは、戦術的には旧幕府軍が勝利したものの、戦略的には新政府軍の勝利に終わります。

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