【天下茶屋の地名由来】天下人・豊臣秀吉の茶屋

大阪市西成区「天下茶屋」や、大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の「天下茶屋」駅の由来をご存じですか。

大阪の天下人ゆかりの茶屋があったことからその名が付されました。

本稿では、この「天下茶屋(てんがちゃや)」という地名の由来について、簡単に説明していきたいと思います。 “【天下茶屋の地名由来】天下人・豊臣秀吉の茶屋” の続きを読む

【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉

低い身分から成り上がり、ついには天下人にまで上り詰めた人物として有名な豊臣秀吉ですが、実は死ぬまで羽柴秀吉だったことご存知ですか。

羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したかのようなイメージを持ちがちですが、実際には違います。

豊臣=氏・羽柴=名字(苗字)であり、豊臣氏を下賜された後も羽柴という名字を変更していないため、豊臣秀吉は死ぬまで羽柴秀吉だったのです。

死ぬ直前の名乗りは、豊臣朝臣太閤羽柴秀吉であり、羽柴という名字を最期まで使用しています。

本稿では、戦国時代頃の名前の付け方を踏まえて、豊臣秀吉の名前の変遷について説明したいと思います。 “【豊臣秀吉の名乗り変遷】実は最後まで羽柴秀吉だった豊臣秀吉” の続きを読む

【大阪「鶴橋」の由来】文献上に残る日本最古の橋の名残

大阪市生野区「鶴橋」や、近畿日本鉄道(近鉄)・西日本旅客鉄道(JR西日本)・大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の「鶴橋」駅の由来をご存じですか。

これらは、旧自治体名の東成郡「鶴橋」町由来するのですが、この行政区画がその名のとおりの「つる」の「はし」に由来し、さらにはその前の猪甘津の橋にまで遡ります。

本稿では、この「鶴橋」という地名の由来について、簡単に説明していきたいと思います。 “【大阪「鶴橋」の由来】文献上に残る日本最古の橋の名残” の続きを読む

【現存12三重櫓】江戸時代から残る8城12基の三重櫓について

これまでに日本国内に2万とも3万とも言われる城が築かれました。

そのうち、現在、城址としてその名残が残っているのは僅かであり、さらに一般人が見学して楽しめるのは数百城程度しかありません。

また、このうち、江戸時代以前に建てられた三重櫓が現存しているのは、僅か8城12基しかなくとても貴重です。

本稿では、この現存する貴重な12の三重櫓について簡単に紹介していきたいと思います。 “【現存12三重櫓】江戸時代から残る8城12基の三重櫓について” の続きを読む

【日本三大仏】鎌倉東大寺大仏・鎌倉高徳院大仏+α

日本に点在する寺院には当たり前のように仏像が祀られているのですが、その中にはとてつもなく大きな仏像が祀られている寺院もあります。

このとてつもなく大きな仏像を、略して大仏と呼んでいます。

古来より「三大・・」が好きな日本人は、大仏についても日本三大仏と称してランク付けをしてきました。

この日本三大仏については、その概念が出来上がったとされる江戸時代の時点では、すでに奈良大仏と鎌倉大仏が存在していましたので、これらが三大仏に含まれることに異論はありません。

もっとも、最後の3尊目の大仏については定説がなく、その候補がいくつも存在します。

また、時代ごとにその変遷も見られます。

本稿では、日本三大仏について、その時代的変遷を踏まえて簡単に紹介していきたいと思います。 “【日本三大仏】鎌倉東大寺大仏・鎌倉高徳院大仏+α” の続きを読む

【丸亀城(日本100名城78番)】石垣総高日本一の城

丸亀城(まるがめじょう)は、かつての讃岐国・現在の香川県丸亀市一番丁4番地乙にある平山城です。

高松城の支城として築城された後、瀬戸内へ島原の乱の影響が波及することを封じるために大改修がなされました。

そのため、丸亀藩6万石という小藩の政庁でありながら、4段に分けて積み上げられた総高日本一となる雛壇状の高い石垣を持つ壮大な城となっています。

また、江戸時代から残る現存十ニ天守の1つが残る歴史的価値が高い城なのですが、小藩ということもあって、実際の天守は天守を持たない・持てない城で天守の代用とされた最高格式の特別な櫓(三重櫓)であり、現存十二天守の中で最小のものとなっています。

以上の結果、現在の丸亀城は、壮大な石垣の上に、小さな天守がぽつんと残るアンバランスさが印象的な城となっています。 “【丸亀城(日本100名城78番)】石垣総高日本一の城” の続きを読む

明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?

天正10年(1582年)6月2日に京の本能寺において織田信長を殺害したことで有名な明智光秀ですが、その前半生の経歴ほとんど明らかになっていません。

また、室町幕府の幕臣を辞して織田家に仕官し、その後に織田家筆頭家老の地位にまで上り詰めた大人物であるにもかかわらず、織田家家臣団に編入された時期やその経緯についても明らかなことはほとんどわかっていません。

そこで、本稿では、明智光秀が織田家家臣団に編入されるに至った時期について、明智光秀・足利義昭・織田信長らの周囲に起こった事実関係を基に考察していきたいと思います。 “明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?” の続きを読む

【日本三大三門】南禅寺三門・知恩院三門・久遠寺三門について

伝統的な日本の仏教寺院には山門と呼ばれる門が設置されていることが一般的であり、その山門のうち、当該寺院の正門に配された中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものを「三門」といいます。特に、禅宗寺院に多く見られる建築物です。

このうち、南禅寺・知恩院・久遠寺は日本三大三門と呼ばれており、考えられない巨大さで見る者を圧倒するスケール感があり、これを見るためだけに観光として訪れる価値があるのではないかと考えられます。

この他にも、京都三大三門と呼ばれる区分けがあったり、それらに含まれてはいないものの、同等クラスの歴史ある巨大な三門が全国各地に点在したりしてますので、本稿では、これらの三門についてもあわせて簡単に紹介していきたいと思います。 “【日本三大三門】南禅寺三門・知恩院三門・久遠寺三門について” の続きを読む

【懐良親王】南朝征西大将軍として九州を制圧した後醍醐天皇の末子

懐良親王(かねよししんのう・かねながしんのう)は、後醍醐天皇の皇子(八宮)として生まれ、衰退する南朝の勢力を取り戻すために幼くして征西大将軍に任命されて九州に送られた親王です。

傑物揃いの後醍醐天皇皇子の中でもひときわ際立った軍事的才能を持ち、肥後国の菊池武光の協力を得て、領地無しから九州統一に迫る覇業を築きました。

他方で、裸一貫から九州統一に迫った軍才を持ちながら、明(中国)から日本国王に冊封されたことから歴史家の評価は必ずしも芳しくない人物でもあります。

本稿では、南朝が低迷していた南北朝時代初期の段階で唯一南朝優位の状況を作り上げた名将・懐良親王の生涯について紹介していきたいと思います。 “【懐良親王】南朝征西大将軍として九州を制圧した後醍醐天皇の末子” の続きを読む

【建武中興十五社】建武政権に尽力した皇族・武将を主祭神とする15神社

建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)は、建武中興(建武政権樹立・維持)に尽力した皇族・武将を主祭神とする15社の神社です。

建武中興十五社は、明治維新を成功させた明治新政府が、かつて鎌倉幕府を倒して天皇親政を開始した建武政権を持ち上げることにより、国民に明治天皇(明治新政府)への忠義を植え付けようとして整備されました。 “【建武中興十五社】建武政権に尽力した皇族・武将を主祭神とする15神社” の続きを読む