【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室

北政所(きたのまんどころ)は、天下人となった豊臣秀吉の正室です。

諱はねね・おね・ねいなど諸説あり、従一位を授かった際の位記では豊臣吉子とされ、また落飾後に朝廷から高台院の院号を賜っているためその呼称も様々なのですが、本稿ではもっとも知られている通称である北政所の表記で統一します(歴史上、北政所と呼ばれた女性は多いのですが、現在では豊臣秀吉の正室を指す固有名詞とされる程の知名度を誇ります。)。

養子の教育・朝廷との折衝・人質の管理など、豊臣政権下で代えのきかない重要な役割を担った有能な女性であったこともあり、姫好きで知られる豊臣秀吉が、数々の高貴な身分の女性を妻に迎えたにもかかわらず、正室の座を下級武士の娘に過ぎない北政所から変更することはありませんでした。 “【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室” の続きを読む

【日本三古橋】山崎太郎(山崎橋)・勢多次郎(瀬田の唐橋)・宇治三郎(宇治橋)について

日本三古橋は、飛鳥時代から奈良時代にかけて架けられたとされる古橋の中で、さらに歴史のある大きな3つの橋をいいます。

古来より「三大・・」が好きな日本人は、古代に架けられた橋についても日本三古橋と称してランク付けを行い、誰がどういう根拠で定めたのかは知りませんが、それらを三兄弟に例えて山崎太郎(山崎橋)、勢多次郎(瀬田の唐橋)、宇治三郎(宇治橋)と呼んで讃えました。

そこで、本稿では、それらの概略を簡単に説明していきたいと思います。

なお、文献上確認できる日本最古の橋は、仁徳天皇14年(326年)に架けられた猪甘津橋(鶴橋)とされているのですが(日本書紀)、この橋は日本三古橋に含まれておりません。 “【日本三古橋】山崎太郎(山崎橋)・勢多次郎(瀬田の唐橋)・宇治三郎(宇治橋)について” の続きを読む

【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落

宿場(宿場町)は、江戸幕府が、開幕直後に交通の要地として街道沿いに認定した上で、その統治下に置いた集落です。

古くからあった城下町などがそのまま転用された場所もあれば、江戸幕府によって新たに住民・町屋が集められて形成された場所もありました。

宿場が置かれた目的は、豊臣家及びその恩顧の大名達と対峙するための軍事的意味から公用人馬の調達・公用文書の輸送を第一とするものでした。

もっとも、豊臣家が滅亡して太平の世が訪れると、前記のような軍事目的のみならず、参勤交代の際の大名宿泊地や、一般庶民が旅する際の旅人宿泊地としても利用されるに至りました。

これらの経緯から、宿場町は、時期を経るに従って軍事的機能→政治的機能→社会的機能を獲得していくこととなり、軍事的機能(問屋場・木戸・見附・枡形・寺社仏閣)・政治的機能(本陣・脇本陣)・社会的機能(旅籠・木賃宿・茶屋・商店・高札場)などが混在する複合場所として成長していきました。 “【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落” の続きを読む

【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公

参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代に各藩主や交代寄合が交替で江戸にいる将軍の許に出仕し、門番・火番・作事などの大名課役を交代で行った制度です。

自分の領地から江戸へ赴く旅である「参勤(参覲)」と、自領に帰還する旅である「交代(就封)」とを合わせて名付けられました。

大名が江戸と藩を往復する際に家臣らが隊列を組んで歩くというそのインパクトから有名となった制度ですが、その制度目的は、豊臣家が滅亡したことにより太平の世となった江戸時代において、軍事政権たる江戸幕府に対する軍事動員に代わる奉公手段(参勤交代=平時の軍役)を果たさせることにより幕藩体制を維持するというものでした。

もっとも、この制度の下では、諸大名は1年に1度江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならないという重たい負担を強いられました。 “【参勤交代】江戸幕府封建制度下における平時の軍役奉公” の続きを読む

【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか

江戸の町は、徳川家康により開幕された江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。

また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。

そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。

では、江戸幕府は、どのようにこの問題点を解決していったのでしょうか。 “【江戸時代の海上流通革命】消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか” の続きを読む

【太閤下水】豊臣秀吉が原型を造り一部現在も使用されている大阪の背割下水

太閤下水(たいこうげすい)は大阪市に存在する江戸時代またはそれ以前に造られた下水道及び下水溝網です。

大坂の町の整備を始めた豊臣秀吉が、最初に整備を始めたことからその名が付されました。道路に面して建てられた町屋の裏側に下水溝が掘られたことから、建物の裏口(背中)に沿って流れるという意味で背割下水とも呼ばれます。

もっとも、現存する背割下水は、豊臣時代のものではなく、江戸時代前期に素掘りで掘られた下水道が江戸時代後期に石組溝に改造され、さらに明治期の改修を経て現在に継承されたものであり、豊臣秀吉により築造されたものとは別物と考えられています。 “【太閤下水】豊臣秀吉が原型を造り一部現在も使用されている大阪の背割下水” の続きを読む

【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍

徳川吉宗(とくがわよしむね)は、第2代紀州藩主の四男として生まれながら、和歌山藩の第5代藩主となった後、徳川宗家を継ぎ江戸幕府第8代将軍にまで上り詰めた幸運な人物です。

将軍職在任中に江戸幕府三大改革の第一弾となる享保の改革を進め、大赤字を垂れ流していた幕府財政を再建したことから、江戸幕府中興の祖と呼ばれることもあります。

他方で、幕府財政再建のために米価の引き上げや大増税を繰り返したため、庶民の生活を苦しくしたことからマイナス評価も強い将軍でもあります(享保の改革は、あくまでも幕府財政とそれを支える武士の生活を維持するためのものであり、庶民の生活を向上させることが目的ではありませんでしたので、政策目標という意味では達成している改革でした。)。 “【徳川吉宗】紀州徳川家末男から宗家当主となった幸運将軍” の続きを読む

【日本における文字の歴史】文字の始まり・種類・現在の指針などについて

現在の日本では、中国文字を日本の言語体系にアレンジした漢字と、そこから生み出したカタカナ・ひらがなを文字とし、これらを併用して使用されています。

このうちの漢字は、訓読み・音読みという別個の基本的な読み方がある上、熟字訓・国訓などの特殊な読み方もあり、さらにら固有名詞ではさらなる例外も存在していることから、とても複雑なものとなっています。

また、諸外国では通常1種類しか存在しない1人称の表記を例にしても、私・僕・麿・当方・小生など思いつくだけでも何十通りもの表現があります。

これらの文字種類・複数読み・単語の多さなどが複雑に絡み合った結果、日本語は世界一複雑な言語となってしまいました。

本稿では、世界一難しい言語となるに至った日本の文字の成り立ち等についての歴史的経緯を簡単に解説していきたいと思います。 “【日本における文字の歴史】文字の始まり・種類・現在の指針などについて” の続きを読む

【伏見宿】東海道五十七次の54番目の宿場町

伏見宿(ふしみじゅく) は、57次に延伸された東海道の54番目の宿場町です。古くから発展していた京南方の港湾都市であったのですが、隠居地として伏見に入った豊臣秀吉の手により大改修がなされ、さらにその後に徳川家康により更なる整備がなされた後、元和5年(1619年)に東海道の宿場町として指定されました。

京と大坂の間に位置する水陸交通の要衝地として大発展をした東海道最大級の大都市だったのですが、鳥羽伏見の戦いの戦火によりその大部分が焼失してしまったため、ほとんど遺構が残されていないのが残念です。 “【伏見宿】東海道五十七次の54番目の宿場町” の続きを読む

【三種の神器の所在】天皇の証はどこにあるのか

三種の神器とは、天照大神(アマテラス)が、天孫降臨する邇邇芸命(ニニギ)に対して授けた①八咫鏡(やたのかがみ)・②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・③八尺瓊勾玉という3つ宝物の総称です(古事記)。

神器は、一般に「じんぎ」と呼ばれることが多いのですが、「しんき」・「しんぎ」・「じんき」などと呼ばれることもあります。

これらは、邇邇芸命と共に地上世界に降りてきた後、その子孫である天皇に引き継がれていき、代々の天皇が神の子孫であることの証明とされる宝物となりました。

三種の神器とひとまとめにされているのですが、その格式に序列があることや、それらの所在、三種と言いながら実際には5つ存在していることなどはあまり知られていないように思いますので、その辺りを踏まえて三種の神器の所在について解説していきたいと思います。 “【三種の神器の所在】天皇の証はどこにあるのか” の続きを読む