源氏将軍から権力を奪取し、鎌倉幕府を北条氏の傀儡政権に仕上げた人物をご存知ですか。
そう、悪名高い北条義時(ほうじょうよしとき)です。強大な権力を手にしたにもかかわらず、残念ながら肖像画が残っていませんので、どのような姿形であったのかを窺い知ることができません。
北条義時は、伊豆国の在地豪族・北条時政の次男として産まれ、源頼朝の側近として政治を学び、父を追放したことにより北条氏の実権を握り、傀儡将軍を立てた上で他氏排斥をし、仲恭天皇を廃し・3人の上皇を配流にまでして2代執権として実質上の北条氏独裁政権とし、鎌倉幕府を実質的な武家政権として完成させた人物です。
権謀術数を駆使してドロドロの権力闘争を生き延びた波乱万丈の人物であり、令和4年(2022年)のNHK大河ドラマの主人公でもあります。
【目次(タップ可)】
北条義時の出自
北条義時出生(1163年)
北条義時は、長寛元年(1163年)、伊豆国の在庁官人(地方役人)であった北条時政の次男として生まれます。
同母兄弟として北条宗時・阿波局などが、異母兄弟として北条政子・北条時房・北条政範などがいます。
源頼朝との出会い
田舎の一豪族の次男として生涯を送るはずであった北条義時の人生を大きく変える出来事が起こります。
北条義時の異母姉である北条政子が、政争に敗れて伊豆に流されていた源氏の御曹司・源頼朝と恋に落ちて結婚を希望したのです。
平家全盛の時代に、平氏の流れを汲む北条家が源氏の嫡子を婿に迎えるなど一大事だったため、北条時政は一旦はこれを拒否したのですが、北条時政の反対に燃えあがった北条政子が源頼朝と駆け落ちしてしまったため、北条時政もしぶしぶ源頼朝と北条政子の結婚を認めることとなります。
これにより北条家と源氏嫡流との姻戚関係を基にした結びつきとなり、北条義時を始めとする北条家の運命が大きく変わります。
なお、北条義時は、元服時に烏帽子親の源頼朝から一字をもらって「頼時」と名乗っていたのですが、後に、相模国の豪族である三浦義明またはその子・三浦義澄から一字をもらい「義時」に改名しています。
源頼朝挙兵に従う(1180年8月17日)
治承4年(1180年)8月17日、源頼朝が、以仁王の令旨を奉じ、対平家を唱えて挙兵し、これに北条時政・北条宗時・北条義時ら北条家一門が従います。
なお、以仁王の令旨は、同年4月27日に源頼朝の下に届いていたのですが、軍事力を持たない源頼朝は、しばらくこれを黙殺していました。
ところが、治承4年(1180年)5月26日に以仁王が討たれ、同年6月19日、京にいる三善康信から、源頼朝の討伐が進められているため奥州藤原氏の庇護下に逃亡するよう勧められる使者が到着したため(ちなみに、この報は誤報でした。)、自らの命の危機が迫った源頼朝は、ついに、平家と戦うため兵を挙げる決断をしたというのが事の経緯です。
挙兵した源頼朝らは、まず平氏の代弁者である伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害したのですが、この山木館襲撃は、北条宗時の先導により行われ、北条義時も初陣として参戦しています。
兄・北条宗時の死(1180年8月23日)
山木兼隆を討ち取った源頼朝は、相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦義澄率いる三浦一族を頼みとし、その本拠地である相模国へ向かいます。
ところが、治承4年(1180年)8月23日闇夜、相模国へ向かう道中の石橋山において、平家方の大庭景親ら3000余騎が、暴風雨の中で源頼朝の陣に襲いかかります。
源頼朝軍も応戦しますが、多勢に無勢で勝ち目はなく、源頼朝は命からがら土肥の椙山に逃げ込むという大敗北を喫し(石橋山の戦い)、北条義時の兄(北条時政の嫡男)である北条宗時が討ち死にしています。
源頼朝鎌倉入り(1180年10月6日)
石橋山の戦いに敗れて山中に逃げ込んだ源頼朝は、その後、土肥実平の手引きで船を仕立て、真鶴岬(現在の神奈川県真鶴町)から海を渡って安房国に逃亡します。
北条時政・北条義時親子や三浦一族も別ルートで安房国に脱出し、現地で源頼朝と合流し、それぞれが安房国から関東全域の味方を募ることにより再起を計ります。
富士川の戦い(1180年10月20日)
安房国に降り立った源頼朝は、味方を増やしながら房総半島を北上し、治承4年(1180年) 10月6日、鎌倉に入ります。
そして、源頼朝は、甲斐国から駿河国に侵攻する武田信義と協力し、同年10月20日夜、平家の大軍を撃破します(富士川の戦い)。
源頼朝は、富士川の戦いに勝利して勢いに乗り、撤退する平氏を追撃して京に雪崩れ込もうと考えますが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄がこれに反対して東国を固めるよう主張します。
いまだ自身では大きな力を持たない源頼朝は、これら東国武士たちの意志に逆らうことができず、結局は鎌倉に戻るという選択をし、この選択に北条義時も従います。
江間家に出される(1180年12月頃)
北条時政の嫡男であった北条宗時が石橋山の戦いで死亡したのですが、生母の身分が低いために庶子にすぎなかった北条義時が北条家の嫡男に繰り上がることはなく、北条義時は、鎌倉に戻った源頼朝から、治承4年(1180年)12月から翌治承5年(1181年)4月までの間に、江間の地を与えられ、江間小四郎義時と名乗ることとなります(なお、江間の地は、同地の豪族・江間次郎が治めていたのですが、同人が伊東祐親に味方して討たれ、統治者不在となっていた場所です。)。
こうして、江間家に分家として出された北条義時は、父・北条時政と微妙な関係を持つこととなり、後年、北条時政が北条義時ではなく牧の方との間の子である北条政範を後継者としようと考え出したころから、北条家は、北条時政の先妻派閥(北条政子・北条義時・阿波局ら)と、継室派閥(北条時政・牧の方・平賀朝雅ら)とのわだかまりが生まれていきます。
亀の前事件(1182年11月)
もっとも、分家に出されたとはいえ、北条義時は、北条家に連なる人間として源頼朝の側近となり、北条本家とは別ルートで、源頼朝に接近して人脈を築いて力をつけ、さらには政治の天才源頼朝の下で政治のイロハを学んでいきます。
その結果、北条義時は、養和元年(1181年)4月、源頼朝の寝所祗候衆11人の筆頭に選ばれ、源頼朝の側近・親衛隊として位置づけられ、また「家子」と呼ばれる、門葉(源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置する極めて高い格付けとなります。
1 | 門葉 | 源氏一門 |
2 | 家子 | 源頼朝股肱の御家人 |
3 | 侍 | 一般御家人 |
そして、寿永元年(1182年)11月、源頼朝が女性問題を起こして北条政子とその父北条時政を怒らせ、北条時政が一族を率いて伊豆へ帰ってしまった事件が起きたのですが(亀の前事件)、北条義時は、北条時政の指示に従わずに鎌倉に残って源頼朝に忠義を尽くすなどしたため、源頼朝の最大の寵愛を受けて、家子の中でも筆頭の「家子専一」と評価されるに至ります。
鎌倉幕府の勢力拡大
そして、北条義時は、鎌倉において統治構造を作り上げていく源頼朝に教えられ、また源頼朝を補佐する形で成長していきます。
源頼朝は、東国武士をまとめながら、鎌倉を切り拓き、公家の都である京に匹敵する武家の都を築くとともに、必要に応じて侍所・公文所・問注所などの機関を、大倉御所内に順次設置して、東国統治を完成させていきます。
また、北条義時は、元暦2年(1185年)の源範頼の山陽道・九州遠征に従軍して平氏追討のために西国へ赴いて転戦し、葦屋浦の戦いなどで武功を立てています。
さらに、源頼朝は、奥州藤原氏の藤原泰衡に圧力をかけて、文治5年(1189年)閏4月30日、源義経を討伐させた上(衣川の戦い)、これまで源義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして藤原泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発して奥州に出撃してくのですが、文治5年(1189年)7月、北条義時もこれに従って奥州合戦に従軍します。
その後、源頼朝は、建久元年(1190年)11月7日に入京し、全国守護地頭任命権の継続、源頼朝の権大納言・右近衛大将の任官などが決まったのですが、北条義時は、このとき武官の最高位でる右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ、源頼朝の参院の供奉をしています。
姫の前との結婚(1192年9月25日)
その後、北条義時は、比企朝宗の娘で幕府女房でもあった「姫の前」にのぼせ上ってしまい1年以上もの間恋文を送り続けていたのですが、袖にされ続けていました。
これを見かねた源頼朝が、北条義時と姫の前との間を取り持ち、北条義時に絶対に離婚しない旨を神仏への誓わせて起請文を書かせた上で、建久3年(1192年)9月25日、2人を結婚させました。
その結果、正室となった姫の前が建久4年(1193年)に産んだ北条朝時が嫡男となりました(もっとも、建暦2年(1212年)5月7日、20歳になった北条朝時が、源実朝の御台所に仕える官女であった佐渡守親康の娘に恋文を送り口説き続けていたのですが、佐渡守親康の娘が一向になびかないことに業を煮やし、深夜に佐渡守親康の娘の寝所に忍び込み、これを連れ出して手篭めにしてしまうという事件を起こして勘当されたことから、後に北条義時の後を継いだのは、北条朝時ではなく庶子として儲けた北条泰時でした。)。
北条時政による他氏排斥に従う
源頼朝死去(1199年1月13日)
武家政権を樹立したカリスマ源頼朝ですが、建久9年(1198年)12月2日に、重臣の稲毛重成が相模川に掛けた橋の落成供養に赴いた帰りに落馬し、その後症状が悪化して約2週間後の建久10年(1199年)1月13日に53歳で死去します(吾妻鏡)。
将軍権力の制限(13人の合議制)
初代鎌倉殿・源頼朝の死により、その嫡男である源頼家が、建久10年(1199年)1月20日、18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就きます。
源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、建久10年(1199年) 4月12日、有力御家人によるクーデターが起き、源頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、将軍権力を抑制するために13人の合議体制を確立します。
この13人の合議制は、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムでした。
選ばれた13人は以下の人物であり、将軍近親者3名、有力御家人5人,高級官僚5人という人選でバランスを取っています。なお、メンバーは初期から源頼朝を支えた忠臣や幕府政治の中心人物達という年配者がほとんどだったのですが、唯一これらの実績のない北条義時が37歳の若さで参加しているのが注目されます。
【将軍・源頼家の親族関係者】
①比企能員【源頼家の乳母父、信濃・上野守護】
②北条時政【源頼朝の外祖父、伊豆・駿河・遠江守護】
③北条義時【家子専一、寝所警固衆、北条時政の子】
【有力御家人】
④安達盛長【三河守護】
⑤八田知家【常陸守護】
⑥三浦義澄【相模守護】
⑦和田義盛【侍所別当】
⑧梶原景時【侍所所司、播磨・美作守護】
【鎌倉幕府の高級官僚】
⑨大江広元【公文所別当→政所別当】
⑩二階堂行政【政所執事】
⑪中原親能【公文所寄人→政所公事奉行人、京都守護 】
⑫足立遠元【公文所寄人】
北条家による有力御家人排斥政策
① 梶原景時の変(1199年)
この頃から、北条時政による有力御家人排斥運動が始まります。
最初は梶原景時であり、梶原景時排斥のきっかけは、源頼朝の寵愛を受けていた結城朝光が、北条時政の娘である阿波局から、梶原景時が結城朝光の悪口を源頼家に吹き込んでいたと告げ口をしたことでした。
この話を聞いて怒った結城朝光が、梶原景時に反目する三浦義村や和田義盛に対応を求めたことから御家人間に反梶原景時排斥運動が起こり、結果的には、総勢66名もの有力御家人が結託して、源頼家に梶原景時排斥を直訴する事態に発展します。
多くの有力御家人から自身の排斥申出があると聞いた梶原景時は、正治元年(1199年)、一切弁明することなく身を引き鎌倉を去り(梶原景時の変)、その後、正治2年(1200年)正月20日、梶原景時は京への道中で一族もろとも暗殺されています。
この梶原景時の変については、北条氏が直接排斥運動をしたわけではないのですが、きっかけを阿波局が作っていますので、北条氏が暗躍していたことは間違いないと思います。
また、正治2年(1200年)に安達盛長と三浦義澄が病死したため、3人ものメンバーを失ったことにより僅か1年で13人の合議制は解体します。
② 比企能員の変(1203年9月2日)
合議制の解体したことにより、鎌倉幕府の御家人内で、源頼家を巻き込んだ北条氏と比企氏との権力闘争が起こります。
源頼朝が死去しその後を源頼家が継いだことにより、鎌倉幕府内では、源頼家の乳母である比企尼の実家であり、また娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から鎌倉幕府内で比企能員の権勢が強まっていました【源頼家の後ろ盾は比企氏】。
源頼朝の外戚である北条氏から、源頼家の外戚である比企氏に権力が流れていくことを恐れた北条時政と北条政子は、比企能員を亡き者とするための謀を練ります。
建仁3年(1203年)7月に源頼家が病に倒れたため、万一があった場合に時期将軍をどうするかの話し合いがなされます。
このとき、本来は源頼家の嫡子である一幡が将軍職を継ぐはずなのですが、同年8月27日、北条時政の主導で、家督・日本国総地頭職・東国28ヶ国の総地頭は一幡としつつも、西国38ヶ国の総地頭を源頼朝の次男・千幡(源頼家の弟・後の源実朝)に分割することとしたのです。
事実上、東国は一幡、西国を千幡が支配するという分割支配案です。
源頼家の後見人として権力を手中にできると考えていた比企氏は当然反発します。
権力の低下に繋がる案を許せるはずがない比企能員は、同年9月2日、娘の若狭局を通じて、源頼家に北条時政を追討すべきと伝え、源頼家はこれに呼応して比企能員に北条氏追討の許可を与えます。
ところが、これを事前に察知した北条時政は、比企能員を薬師如来の供養と称して自邸(名越亭)に誘い出し、暗殺してしまいます(比企能員の変)。
その上で、北条義時らが一幡の邸である小御所に攻め込み、一幡もろとも比企一族を皆殺しにし、比企氏を滅亡させます(愚管抄によると、同年11月に北条義時によって捕えられて殺されたと書かれていますので、一幡の死亡時期は必ずしも明らかではありません。)。
この後も、北条氏による有力御家人排除は、北条時政・北条義時が一体となって粛々と行われ、傀儡としてわずか12歳の源実朝を鎌倉幕府3代将軍に即位させ、彼を擁することを正当性の根拠として北条時政が鎌倉幕府の実権を独占していきました【源実朝の後ろ盾は北条氏】。
まず、北条時政は、建仁3年(1203年)10月9日、大江広元と並んで政所別当(執権)に就任し、政治の実権を握ります(北条義時も、元久元年(1204年)3月6日、相模守に任じられます。)。
ただ、北条時政は、この程度では満足しません。
③ 源頼家暗殺(1204年7月18日)
病気から快復した源頼家は、比企氏が北条氏によって滅亡させられたと聞き激怒します。
もっとも、比企氏という強力な後ろ盾を失った源頼家に北条氏と戦う力はなく、敵を討つどころか逆に北条氏によって、北条氏の討伐許可を出したことを理由として将軍位を廃され伊豆国修善寺へ追放されてしまします。
北条時政は、元久元年(1204年)7月18日、北条義時を伊豆・修善寺に差し向け、入浴中の源頼家を襲撃し暗殺します(源頼家は、首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。享年23歳(満21歳)でした。
④ 畠山重忠の乱(1205年6月22日)
北条時政は、継室として牧の方(北条義時と北条政子からみると継母)を迎え、その間に北条政範と3人の娘を設けていたのですが、この北条時政と牧の方の娘のうちの1人は、源頼朝の猶子であり、畿内で大きな力を持っていた平賀朝雅と結婚していました。
そんな中、有力御家人であったは畠山重忠の息子である畠山重保が、源実朝の結婚相手である坊門信子を迎えに鎌倉から京へ赴きます。
京に着いた畠山重保は、京にいる平賀朝雅と宴席を共にするのですが、その席で口論となり、それを平賀朝雅が牧の方に報告をしたことから問題が起こります。
話を聞いた牧の方が、北条時政を唆し、北条時政の命で北条義時に畠山重忠を攻撃させ、畠山家を滅亡させたのです。
北条家の家督簒奪と権力集中
牧氏の変・北条時政追放(1205年7月)
自身の主張により畠山氏を滅ぼした牧の方は、勢いに乗って娘婿である平賀朝雅を将軍に据えようと考え、今度は、北条時政に現将軍源実朝の暗殺を働きかけます。
もっとも、源実朝の母である北条政子にとっては、自分の子の暗殺計画など許せるはずがありません。
そこで、北条政子は、人望の厚かった畠山重忠を謀殺して御家人たちの反感を買ったことにより北条時政に疑問をもっていた北条義時を取り込み、北条時政・牧の方の排除を計画します。
そして、元久2年(1205年)閏7月、北条義時と北条政子が協力し、三浦義村(母方の従兄弟)などの有力御家人の協力をも得て、北条時政と牧の方を伊豆国に追放します(牧氏の変)。
そして、北条義時は、同年8月2日、山内首藤通基(経俊の子)に命じて平賀朝雅を殺害します。
また、元久2年(1205年)8月、下野国の宇都宮頼綱(北条時政の娘婿)に謀反の疑いありとして守護の小山朝政に追討を命じ、出家遁世させます。
そして、北条義時は、父に代わって政所別当の地位に就き、ここで北条氏の実権が北条時政から、北条義時・北条政子に移ります。
そして、実権を得た北条義時は、ここから本領を発揮します。
北条義時は、畠山重忠・平賀朝雅の排除により空席となった武蔵国守護・国司について、信頼する弟の北条時房を就任させた上、源実朝と北条政子を表面に立てて、政所別当・大江広元、源頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らと連携しつつ幕政の最高責任者の座に座ります。
なお、北条義時は、父・北条時政が性急な権力独占をして多くの反発を招いた反省から、柔軟な姿勢を示しながら北条執権体制の障害となる有力御家人の排除を進めていきます。
和田合戦(1213年2月)
北条時政を追放した後に江間姓から北条姓に戻して北条義時は、第2代執権となって次第に独裁的政治を展開していきます。
そして、その後も有力御家人への攻撃は続きます。
次のターゲットは、鎌倉幕府創設以来の重鎮で初代侍所別当の地位にあった和田義盛です。
建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見したのですが(泉親衡の乱)、この謀反に加担したとして、和田義直(和田義盛の子)、和田義重(和田義盛の子)、甥の和田胤長(和田義盛の甥)が捕縛されます。
その後、和田義盛の2人の息子である和田義直、和田義重は配慮されて赦免されたのですが、和田義盛の甥である和田胤長は許されず流罪とされて領地が没収されました。
一族から謀反人が出たと噂され、和田一族の面目は丸つぶれです。
この北条義時の処分を不服とした和田一族が、和田義盛を担ぎ上げ、姻戚関係にあった横山党や和田一族の本家である三浦一族の三浦義村と結んで北条義時打倒の兵を挙げます(和田合戦)。
もっとも、途中で三浦義村が北条義時側に寝返り、和田義盛は、北条義時に敗れ敗死します。
北条義時は、和田義盛の死亡により、政所別当(政治)のみならず侍所別当(軍事)をも兼任することとなり、鎌倉幕府の主要ポストを独占します。
執権・北条義時が鎌倉幕府の事実上の最高権力者となった瞬間でもありました。
権勢を極める北条義時は、建保4年(1216年)には従四位下に叙し、建保5年(1217年)5月に右京大夫、同年12月に陸奥守を兼任します。
源氏将軍の断絶(源実朝暗殺)
次は、いよいよ名目上の最高権力者・3代将軍源実朝です。
源実朝の排除には、名目上の問題のみならず,鎌倉幕府維持のための実質的な必要性がありました。
なぜなら、源頼朝は御家人が朝廷から直接官職を受けることを禁止していたのですが、源実朝はこれを黙認したため関東御家人たちに朝廷側の影響が及んでいたのです。
また、それどころか、源実朝は、西国守護職については、後鳥羽上皇の推薦した御家人を登用することを続けたため、鎌倉幕府による西国支配は大いに後退していたからです。
戦いの結果勝ち取った東国武士の権利をこれ以上失うことはできません。
そして、事件は承久元年(1219年)正月27日に起こります。
この日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式が行われることとなっており、本来源実朝が参加し、その脇で北条義時が太刀持ちをする予定でした。
ところが、当日、北条義時が急に体調不良を訴えて館に戻ることとなり、急遽太刀持ちが北条義時から源仲章に交代します。
そして、同日、八幡宮での拝賀式が終わって石段を下りる一行に、法師の姿に変装した源頼家の子・公暁が乱入し、源仲章もろとも源実朝が暗殺されます。
この源実朝暗殺事件は、北条義時陰謀説や、鎌倉御家人共謀説、後鳥羽上皇黒幕説などその原因について色々な説があるのですが、直前まで同行するはずだったのに暗殺の直前にその場からいなくなった北条義時に強い疑義があります(1000人とも言われる護衛をかいくぐってたった1人の公暁が源実朝の下にたどり着いており、怪しさ満載です。)。
朝廷権力の排除
後鳥羽上皇と北条義時との確執
初めての武家政権として成立した鎌倉幕府でしたが、当初は、鎌倉幕府の支配力は主に東日本に及んでいたものの、西日本についてはいまだ朝廷の力が強く及んでいたため、二元統治体制となっていました。
もっとも、朝廷にとっても、鎌倉幕府を討伐できるだけの力はなく、また源氏が清和天皇の血を引くいわば身内の関係にあったことから、鎌倉幕府の将軍が源氏の者であった間は、両者の間に微妙なパワーバランスが維持され、両者の間に武力衝突は発生しませんでした。
ところが、承久元年(1219年)1月に第3代鎌倉殿であった源実朝が暗殺されて源氏将軍が断絶すると、朝廷と鎌倉幕府(鎌倉幕府を実質的に支配する執権・北条義時)との関係が急速に悪化します。
皇族将軍下向の奏上(1219年2月13日)
この緊張関係は北条義時にとっても望むものではなかったため、北条義時は、承久元年(1219年)2月13日、朝廷との関係を改善するため、後鳥羽上皇に対し、その皇子である雅成親王(六条宮)か頼仁親王のいずれかを第4代鎌倉殿として迎えたいと奏上します。
これに対し、後鳥羽上皇は、同年閏2月4日、皇子を鎌倉殿とすれば国を二分することにつながりかねないとして、皇子の下向を拒否します。
そればかりか、後鳥羽上皇は、北条義時に対し、北条義時が領主を務める摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭の改補を命じます。
怒った北条義時は、同年3月、北条時房に1000騎を率いて上洛させ、後鳥羽上皇の要求を拒否した上で、再び皇族将軍下向の圧力をかけます。
摂家将軍候補者下向(1219年7月19日)
軍事力をもって圧力をかけられた後鳥羽上皇は、北条義時の提案を突っぱねることができなくなり、やむなく交渉を進めた結果、皇子ではなく摂関家の子弟を下向させるとの結論に落ち着きます。
そして、最終的には、このとき2歳であった九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)を将来の第4代鎌倉殿として下向させることとなり、同年7月19日、三寅が鎌倉に送り届けられます。
もっとも、将来の第4代鎌倉殿(摂家将軍)が決まったとはいえ、僅か2歳の三寅に政治などできようはずがなく、三寅が幼少の間は、北条政子がその後見として鎌倉幕府を主導し、北条義時がこれを補佐するという政治形態が作られます。
いわゆる尼将軍の誕生です。
こうして、将来の摂家将軍候補者の受け入れにより、朝廷と鎌倉幕府との関係はなんとか維持されたのですが、これらの将軍継嗣問題は、北条義時にも後鳥羽上皇にもしこりとして残ります。
北条義時討伐計画(1221年4月28日)
この将軍継嗣問題のトラブルや、鎌倉幕府の内紛により内裏や宝物が焼失してしまったことなどから、後鳥羽上皇の鎌倉(ひいてはそれを実質的に支配する北条義時)に対する不満が溜まっていきます。
そして、承久3年(1221年)ころになると、後鳥羽上皇は毎月のようにどこかの寺社で密かに北条義時調伏の祈祷を行うようになります。
そして、承久3年(1221年)4月28日、ついに北条義時との対決を決意した後鳥羽上皇は、後鳥羽上皇の御所であった高陽院(かやのいん)において、土御門上皇・順徳上皇・六条宮雅成親王・冷泉宮頼仁親王などの皇族をはじめとする名だたる外戚・近臣・僧侶を招集した上、北条義時調伏の祈祷を行います。
その上で、後鳥羽上皇は、鳥羽離宮内の城南寺で行う予定の「流鏑馬揃え」を口実として、御所の警備を担う北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士らの招集を命じます。
流鏑馬揃い(1221年5月14日)
承久3年(1221年)5月14日、「流鏑馬揃え」の場に、北面武士・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士ら1700余騎が集まったのを見た後鳥羽上皇は、北条義時討伐を決意します。
後鳥羽上皇挙兵(1221年5月15日)
そして、後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日朝、ついに北条義時討伐を掲げて挙兵します。
最初のターゲットに選んだのは、後鳥羽上皇の誘いを断った伊賀光季でした。
後鳥羽上皇は、藤原秀康・大内惟信・佐々木広綱・三浦胤義ら800騎を高辻京極邸の伊賀光季討伐に向かわせました。
このとき伊賀光季が率いたのはわずか85騎でしたので、多勢に無勢で勝負になりませんでした。
次男・伊賀光綱の死を見届けた伊賀光季は、北条義時宛に事の顛末を伝える使者を送りだした後、討ち死にしてしまいます。
院宣・官宣旨の発布(1221年5月15日)
緒戦に勝利してほぼ京を制圧した後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月15日、畿内及びその近隣諸国を中心とする守護・地頭を含めた不特定の人々に対して、北条義時追討の院宣・官宣旨をしたためます。
また、関東の鎌倉幕府有力御家人に対しては、官宣旨に加え、特別に後鳥羽上皇の院宣(葉室光親に命じて作成されたようです。)が添えられることとなりました。
もっとも、この院宣・宣旨については、実物が現存していないため、それらが正式文書としての「官宣旨」であったのか、略式の「院宣」に過ぎなかったのかなど,詳細は不明です。また、その発布目的についても、北条義時という個人の排除目的だったという説が有力ですが、鎌倉幕府の否定まで目指していたという説もありますので、正確なところはわかっていません。
いずれにせよ、後鳥羽上皇は、院宣や官宣旨の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって後鳥羽上皇方に味方すると考えて戦局を楽観視していました。
そして、この北条義時討伐の院宣は、同年5月16日、藤原秀康の所従であった押松丸に託され、鎌倉へ運ばれていきます。
上皇挙兵の報が届く(1221年5月19日)
以上のように、京から鎌倉に向かって、鎌足幕府方の伊賀光季の使者と、後鳥羽上皇方の院宣・官宣旨の双方が送られたのですが、先に鎌倉に着いたのは、鎌倉幕府方の伊賀光季からの使者でした。
承久3年(1221年)5月19日、西園寺公経の家司・三善長衡と伊賀光季からの使者が北条義時の下に到着し、北条義時が上皇挙兵の事実を知ることとなります。
院宣が届く(1221年5月19日)
伊賀光季による上皇挙兵の報の到達から少し遅れて、後鳥羽上皇の使者・押松丸が鎌倉に入ります。
もっとも、三善長衡・伊賀光季からの報告を受けて鎌倉全域を警戒させていた北条義時は、鎌倉に入った押松を捕らえ、院宣と共に、院宣配布対象を記載した名簿を没収します。
このとき、三浦義村の下には、別途、弟である三浦胤義から密使が届いていたのですが、三浦義村はこれを追い返し、届いた密書を北条義時の下に届けています。
鎌倉幕府内の混乱
関東の有力御家人に届く前に「北条義時追討の院宣」を回収できた北条義時でしたが、事情が分からない御家人たちは,後鳥羽上皇挙兵の報を聞いて大いに動揺します。
このときまで、朝廷軍に勝利した(朝敵となって勝利した)武士はいなかったからです。
混乱した御家人たちは、後鳥羽上皇挙兵の理由を聞くために、北条政子・北条義時の下に続々と集まってきます。
もっとも、北条政子・北条義時としては、後鳥羽上皇が、「北条義時追討」のために挙兵したなどとは口が裂けても言えません。
そんなことを言えば、北条義時が御家人たちに捕えられて京に送られ、北条家が滅亡する可能性があるからです。
ここで、北条政子が、承久3年(1221年)5月19日、起死回生の歴史的演説を行います。
北条政子の演説(1221年5月19日)
このとき行われた北条政子の演説は、「吾妻鏡(六代勝事記をもとに編集したもの)」と「慈光寺本・承久記」に概略が記載されています。
簡単に言うと、鎌倉幕府創設以来の源頼朝の恩顧を強調した上で、讒言に基づき鎌倉幕府を滅ぼそうとしている後鳥羽上皇を追悼しなければならないという内容でした。
「北条義時追悼」の院宣であるにもかかわらず、「鎌倉幕府の危機」であるかのように読み替えてなされた北条政子の演説により、御家人たちは北条義時の下で一致団結して後鳥羽上皇と戦う決意を固めたのです。
承久の乱(1221年5月22日〜)
そして、幕府首脳によって開かれた軍議での大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」という発言により、幕府を挙げて京へ出撃することが決定します。承久の乱の始まりです。
北条義時は、承久3年(1221年)5月22日、軍勢を東海道・東山道・北陸道の3つに分け、嫡男である北条泰時と弟である北条時房を総大将として東海道から、次男である北条朝時を北陸道から、甲斐源氏である武田信光を東山道から京へ上らせます。
急な出発であったため、鎌倉を出た当初は少ない軍勢でしたが、進軍する道中で兵力を増強し美濃へ到達する頃には19万騎にまで膨れ上がっていたと言われています(吾妻鏡)。
西進する鎌倉幕府軍に対し、後鳥羽上皇軍は1万7500騎を東進させ、両軍は美濃国と尾張国との国境にある尾張川を挟んで布陣しますが、数に勝る鎌倉幕府軍は、後鳥羽上皇軍を駆逐して京へ進軍します。
その後、同年6月13日に再度、瀬田橋と宇治橋において後鳥羽上皇軍と鎌倉幕府軍が衝突しますが、ここでも後鳥羽上皇軍は駆逐され、同年6月14日夜には鎌倉幕府軍が京になだれ込み、同年6月15日に京を制圧します。
北条義時追討の宣旨発布からわずか1ヶ月での幕府軍の完勝でした。
この戦いは、日本史上、朝敵となった人物が初めて朝廷側に勝利した戦いであり、朝廷の権威が地に落ちて武士政権の確立の礎となったという歴史的意味のある勝利です。
京を制圧された後鳥羽上皇は、自身の挙兵は謀臣の企てであったとして北条義時追討の院宣を取り消し、逆に後鳥羽上皇に味方した藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下します。
もっとも、北条義時は、乱の首謀者たる後鳥羽上皇らに対して極めて厳しい態度を取ります。
具体的には、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に配流され、倒幕計画に反対していた土御門上皇も自ら望んで土佐国へ配流(後に阿波国へ移される)、後鳥羽上皇の皇子の雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国へ配流されることとなりました。
また、在位70日余りの仲恭天皇は廃されて新たに後堀河天皇が立てられ、朝廷対鎌倉幕府という構造となった承久の乱は、鎌倉幕府方の一方的勝利となり、北条義時は名声を高めて終結します。
北条義時の独裁政権確立
京の支配:六波羅探題設置(1221年6月)
承久の乱に勝利した北条義時は、天皇を挿げ替え、上皇3人と・皇子達を配流にしたのみならず、上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官とします。
その上で、北条義時は、自身に都合よく政治が進むよう、朝廷の人員を親幕府派の公家・西園寺公経らを中心となるように再編成します。
これらの行為により、朝廷及び朝廷についた対抗勢力は一掃され、北条義時の主導する鎌倉政権が公家政権に対して支配的地位を持つという力関係を成立させることに成功し、また北条義時の鎌倉幕府内での絶対的・最高権力者たる地位が確定します。
また、承久の乱を鎮圧した北条義時は、承久の乱の戦後処理のため北条泰時と北条時房の2人を京に派遣し、朝廷の軍事力を支える存在であった京都周辺の軍事貴族や周辺武士を解体させます。
そして、鎌倉幕府としては、今後朝廷がその権威をかさにして挙兵する可能性を摘むため、御所近くに本拠を定め、鎌倉武士を常時駐屯させて朝廷の一挙手一投足を監視することとします。
このとき京にいた北条泰時と北条時房が、六波羅にあった旧平清盛邸跡地にを拠点にその北と南に駐留して、承久の乱の西国の御家人の監視と再編成および承久の乱の戦後処理を含めた朝廷の監視をはじめます。
そして、検非違使や北面武士の担い手が失われたために京都の治安が急速に悪化することとなり、その対策として、六波羅探題は京の治安維持活動をも担うこととなり、以降、六波羅探題は京以西を監視する鎌倉幕府の一大軍事拠点となります。
全国支配へ
六波羅探題設置により、鎌倉幕府が、鎌倉を拠点に主に東国支配を重視するとした体制から、鎌倉・京を拠点とした
西国も含めた全国支配体制に飛躍することとなります。
さらに、後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収されて幕府の支配権付きで後高倉院に寄進され、後鳥羽上皇に与した貴族・武士たちの所領3万ヵ所が鎌倉幕府に没収され、これらが新たに北条義時によって東国武士たちへの恩賞として与えられます。
これにより、東国武士たちは、将軍に対してではなく、執権・北条義時に対して奉公をするようになります。
こうして、承久の乱を契機として、北条義時による執権政治は、全国的独裁政権として発展していきます。
北条義時の最期
北条義時死去(1224年6月13日)
北条義時は、貞応元年(1222年)8月13日に陸奥守を、同年10月16日に右京権大夫をそれぞれ辞職して、無官となります。
そして、元仁元年(1224年) 6月13日、北条義時は62歳で急死します。
吾妻鏡によると、死因は衝心脚気のためとされていますが、事実上の最高権力者の急死であったため様々な憶測を呼び、後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞や(明月記)、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(保暦間記)も言われています。
なお、北条義時の別称は得宗と呼ばれ、これが以後の北条氏の嫡流の呼び名となりました。
北条義時の後年の評価
北条義時は、承久の乱で朝廷に弓を引き、さらに戦後に仲恭天皇の皇位を廃し、3人の上皇を配流しているため、明治時代においては尊皇の視点から同情の余地の無い逆臣で不遜の人とされました。
また、源氏将軍を滅ぼし、あるいは傀儡にして将軍から実権を奪い取っているため、江戸時代から不忠の臣・陰険な策謀家と評価されました。
北条義時の黒いイメージは、これらの歴史の積み重ねによるものです。