北条時政(ほうじょうときまさ)は、源頼朝の妻・北条政子の父であり、流人に過ぎない源頼朝に味方して反平家の兵を挙げ、東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた人物です。
また、鎌倉幕府内で、御家人を粛清し続けて、果ては将軍まで手にかけたのですが、最終的には自分の息子(北条義時)と娘(北条政子)に追放されて政治生命を断たれるという悲しい最期を迎えています。
必ずしもいい評価を受けているとも言い難いのですが、本稿では、先見の明と大胆な行動力を持つ北条時政の波瀾万丈の人生について見て行きたいと思います。
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北条時政の出自
北条時政は、保延4年(1138年)、桓武平氏高望流の平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条を拠点とする在地豪族であった北条氏に生まれます。
もっとも、北条時政以前の北条氏の系譜は、北条時政の祖父が北条時家・父が時方(または時家又は時兼)であるとされる以前は、家系図によって異なっているため、桓武平氏の流れであることを疑問視・否定視する研究者も少なくありません。
また、石橋山の戦いの際の北条時政の戦力に鑑みると、時政は北条氏の当主ではなく傍流であり、国衙在庁から排除されていたのではないかとする見解もあります。
以上のように、北条時政の前半生には色々な説がありますが、ほぼ一代で天下第一の権力を握るに至ったにもかかわらずほとんど何も分かっていません(兄弟や従兄弟すら全く記録にありません。)。
正確な時期は不明ですが、伊豆国・伊東を治める伊東祐親の娘を娶り、北条宗時・北条義時・阿波局などを儲けています。
源頼朝挙兵に従う
源頼朝の舅となる
伊豆に勢力を有する北条氏は、平治の乱で敗れて伊豆国に流されて来た源頼朝の監視役を務めます。
ところが、監視しているはずの北条家の人間(北条時政の娘である北条政子)が、源頼朝と恋仲になってしまいます。
平家全盛の世の中で源氏の頭領の息子と関係を持つなど大問題です。
こんなことが都にいる平家にバレたら北条氏が取り潰される可能性もあります。
そこで、北条時政は、源頼朝との交際を止めようとして、北条政子を幽閉したのですが、北条政子は大雨の夜に幽閉先から逃亡して源頼朝の元へ行ってしまいます。
しかも、北条政子は、治承2年(1178年)には、源頼朝の長女である大姫を産んでしまいます。
北条政子の本気度を見た北条時政は、2人の仲を割くのは困難と判断し、しぶしぶ北条政子と源頼朝との結婚を認めます。
伊豆国での北条氏の勢力低下
そんな中、京で以仁王が反平家の挙兵をしたのですが失敗に終わり、以仁王と源頼政が敗死します。
元々伊豆国の知行国主は源頼政であったのですが、源頼政の死亡により、治承4年(1180年)6月29日、平時忠が伊豆知行国主となり、またその猶子である平時兼が伊豆守に任命されます。
そして、山木兼隆が伊豆目代(遙任国司が現地に私的に代官として派遣した家人などの代理人)に任命され、伊豆国に赴任して来ます。
この人事により、平氏の後ろ盾のを持った山木兼隆は、徐々に伊豆国で勢力を広げていき、伊東氏や工藤氏とも協力し、政争に敗れて敗死した源頼政と親しかった北条氏の勢力を凌駕していきます。
北条氏ジリ貧です。
源頼朝挙兵(1180年8月17日)
北条時政は、伊豆国内での勢力回復のための起死回生の策として、以仁王の令旨を得ながらもくすぶっている源頼朝に目をつけます。
そして、北条時政は、源頼朝に対し、源頼政の孫である源有綱の追捕のために大庭景親が下向するなど、東国に平家の追及の手が東国にも伸びてきており源頼朝の命も危ないため挙兵すべきであるなどと唆します。
危険を感じた源頼朝は、ついに反平家の兵を挙げる決意します。
最初のターゲットは、北条時政の政敵でもある伊豆目代・山木兼隆です。
意を決した源頼朝は、治承4年(1180年)8月17日、自身は北条氏館に留まって指揮をとり、北条時政を総大将とする攻撃隊でに山木兼隆邸を襲撃してこれを討ち取ります。
石橋山の戦い(1180年8月23日)
その後、頼朝は三浦氏との合流を図り、同年8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出することとなり、北条時政も一族を率いてこれに従軍します。
ところが、このときに源頼朝討伐のため平家方の大庭景親ら3000余騎が北から迫ったため、源頼朝はこれに対応するために石橋山に陣を敷いて、同年8月23日に戦いとなります。
さらに、このとき、南側からも伊豆国の豪族である伊東祐親が300騎を率いてやってきたため、挟撃された源頼朝軍は散々に打ちのめされて大敗します(石橋山の戦い)。
敗れた源朝朝は、夜陰に紛れて土肥の椙山に逃げ込み、軍勢も散り散りになります。
北条時政らも敗走をし、北条時政の嫡男である北条宗時が伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしています。
結局、源頼朝と土肥実平らが箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して東に向かい安房国に脱出しました。
他方、北条時政らは、源頼朝とは別行動をとって安房国に向かいます。
富士川の戦い(1180年10月20日)
安房国に逃れた源頼朝は、上総国・下総国・武蔵国と在地豪族を味方に引き入れながら進み、治承4年(1180年) 10月6日、鎌倉に入ります(甲斐源氏の協力を求めるため、鎌倉に入る前の同年9月に北条時政と北条義時は甲斐国に赴いています。)。
同年10月13日、源頼朝の動きに同調した甲斐源氏・武田信義らは、甲斐国から南進して駿河国に進攻し、同年10月14日、富士山の麓で駿河目代・橘遠茂を撃破します(鉢田の戦い)。
また、同年10月16日には、源頼朝も鎌倉を発って西に向かって進軍していきます。
治承4年(1180年)10月18日、武田信義率いる2万騎が甲斐国から南下して富士川東岸に布陣(もっとも詳細な布陣場所の記録はありません。)し、同日夜、源頼朝率いる本軍が黄瀬川沿いに布陣して、平氏方と直接対陣します。
そして、治承4年(1180年)10月20日夜、源頼朝軍が駿河国賀島に進み、また武田信義軍が富士川の東岸に進んで開戦を待つだけとなったのですが、このとき武田信義軍が、平氏の背後を突こうとして富士川の浅瀬に馬を入れると、その動きに驚いた富士沼の水鳥が一斉に飛び立ちます。
このときの水鳥の羽音を源氏方の攻撃と勘違いした平氏方は、奇襲をかけられたと勘違いして大混乱に陥り、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走して戦いが終わります(富士川の戦い)。
源頼朝の東国支配
源頼朝が鎌倉に引き返す
源頼朝は、富士川の戦いに勝利して勢いに乗り、撤退する平氏を追撃して京に雪崩れ込もうと考えます。
ところが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らがこれに反対して東国を固めるよう主張します。
また、同盟関係にある武田信義が駿河を、安田義定が遠江と坂東と都を結ぶ東海道の途上を制圧しているので、彼らの意向を無視して上洛することもできませんでした。
いまだ自身では大きな力を持たない源頼朝は、これら東国武士たちの意志に逆らうことができず、結局は鎌倉に戻るという選択をします。
鎌倉に戻った源頼朝は、まずは自身のために働いてくれた武士の恩に報いるため、自分の下に集った武士たちに本領安堵と敵から没収した領地の新恩給付を行ない、この本領安堵と新恩給与(御恩)の対価として、臣下となった武士たちに兵役を求めることにより(奉公)、源頼朝は急速に力をつけ、鎌倉を本拠地として開拓し源頼朝の東国支配権を確立していきます。
北条時政と牧の方の結婚(1182年ころ)
源頼朝と共に鎌倉に入った北条時政は、寿永元年(1182年)ころまでに、牧の方(駿河国大岡牧の荘官であった牧宗親の娘)を継室として迎えます。なお、愚管抄には「ワカキ妻」と書かれていることから、年齢差があったものと思われます。
なお、北条時政と牧の方は、次第に、北条時政の先妻の子である北条政子・北条義時・阿波局・畠山重忠(北条時政の先妻の娘婿)の派閥と関係を悪化させていくようになり、牧の方の娘を平賀朝雅(源頼朝の猶子)に嫁がせるなどして独自の人脈を築いていくようになります。
鎌倉を去って伊豆国へ戻る(1182年11月)
この北条家中のわだかまりは、次第に顕在化していき、寿永元年(1182年)11月、源頼朝が女性問題を起こして北条政子を怒らせた際、北条政子の命令を聞いた牧宗親に辱めを与えたことに抗議し、北条時政が一族を率いて伊豆へ帰ってしまうという事件が起きたのですが(亀の前事件)、このとき北条義時が父・北条時政に背いて源頼朝の下にとどまるという騒動に発展しています。
他氏排斥運動のはしり
京都守護と呼ばれる
北条時政は、元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いに勝利して平家が滅ぼびた後は、源頼朝の地位・権限強化に協力していきます。
まず、北条時政は、子の北条義時と共に、文治元年(1185年)11月25日から文治2年(1186年)3月27日までの間、1000騎を引き連れて京に滞在し、平氏打倒に活躍した源義経を逆賊に仕立て上げ、その源義経を追討するという名目(どこに逃げたかわからない源義経を探すという名目)で、後白河法皇から追討の院宣のみなならず、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に源頼朝の御家人により選任された国地頭の設置・任命権を得ることの勅許(文治の勅許)を受けるのを助けています。
なお、この守護・地頭任命権は、名目上は、源義経を探すために、全国に御家人を展開させるためだったのですが、実質は臣下の御家人を地頭に任命しその支配を通じて源頼朝の支配を西国にも及ぼしていくことになります(守護・地頭設置による西国支配)。
また、京に残った北条時政は、京の治安維持、平家残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになります。
そして、文治2年(1186年)3月1日、北条時政は7ヶ国地頭を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、同年3月27日、北条時定ら35名を洛中警衛に残して京を離れます。
伊豆国掌握
鎌倉に帰還した北条時政は、鎌倉で新たな御家人達が活躍していたこともあり、暫くは表立った活動を見せず、本拠地・伊豆国の地盤固めに奔走します。
順調に力をつけていった北条時政でしたが、文治5年(1189年)、北条時政と牧の方の間に北条政範が生まれ、北条時政が北条家の家督を北条政範に継がせようとする動きを見せ始めたため、北条家中で前妻派閥(北条政子・北条義時・阿波局)と継室派閥(北条時政・牧の方)との間のわだかまりが大きくなっていきました。
源頼朝暗殺未遂事件(1193年5月28日)
その後、富士野で狩りを催していた源頼朝が宿泊していた御旅館に、建久4年(1193年)5月28日夜、曾我祐成・曾我時致の兄弟が押し入り、父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発します(曾我兄弟の仇討ち)。
このとき、源頼朝の長男である千鶴丸や多くの御家人も巻き込まれて討ち取られます。
また、源頼朝も暗殺の危機に陥りましたが、幸いにも源頼朝の御旅館に討ち入った曾我兄弟の兄・曾我祐成は仁田忠常に討たれ、弟・曾我時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られ、源頼朝は無事でした。
この点、北条時政が曾我兄弟の弟である曾我時致の烏帽子親であることから、この事件の黒幕が北条時政であるとも考えられますが本当のところはわかりません。
ただ、伊豆の有力者だった工藤祐経の横死により、北条時政の伊豆支配が一気に進んだことは事実です。
安田義定の処刑
また、他の甲斐源氏と同様に、長年に亘って遠江国を実効支配していた安田義定が、建久4年(1193年)に子の安田義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、あわせて安田義定も所領を没収され、遠江国守護職を解任されます。
そして、安田義定は、翌建久5年(1194年)、謀反の疑いで法光寺(放光寺、山梨県甲州市)において自害させられ、梟首されました(永福寺事件)。
そして、この安田義定が務めていた遠江国守護職は北条時政が引き継ぎ、これにより北条時政は、伊豆・駿河・遠江3ヶ国に強固な足場を築きます。
13人の合議制に名を連ねる
建久10年(1199年)1月13日に武家政権を樹立したカリスマ源頼朝が53歳の若さで死去すると、同年1月20日、その嫡男である源頼家が18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就きます。
将軍となった源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、苦労を知らないお坊ちゃんである源頼家は、御家人たちの信頼を得ることができません。
そればかりか、源頼家は、将軍就任後3ヶ月で権力を維持できなくなり、同年4月12日に有力御家人によるクーデターによって訴訟裁断権を奪われ、鎌倉幕府の政治が源頼家ではなく、源頼家を補佐するという名目で13人の有力御家人の合議体制により行われることとなります。
この13人の合議制は、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムです。
北条時政も、有力御家人の1人としてその一翼を担います。
そして、ここから北条時政は、横並びであるはずの御家人を1人1人消していきます。
北条氏による他氏排斥運動
梶原景時の乱(1200年1月20日)
始まりは、梶原景時の排斥でした。
事の発端は、北条時政の娘である阿波局が、御家人である結城朝光に対し、結城朝光が謀反を企んでいると梶原景時が将軍に讒言したと讒言したことでした。なお、真偽は不明ですが、梶原景時失脚のきっかけを作ったのが阿波局であることから考えると、北条家による他氏排斥運動の始まりであると考えるのが一般的です。
身に覚えのないことから危機に陥ったと感じた結城朝光は、三浦義村に相談し、和田義盛ら梶原景時に恨みを抱く御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まり、梶原景時糾弾のための話し合いを行います。
そして、正治元年(1199年)10月28日、有力御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、将軍側近官僚大江広元に提出されました。
もっとも、これを受け取った大江広元は、梶原景時を恐れて連判状をしばらく留めていました。
この大江広元の行為に怒った和田義盛が強く迫り、遂に連判状が源頼家の下に届けられます。
連判状を見た源頼家は、同年11月12日、梶原景時を呼び出して弁明を求めたが、何を思ったのか、梶原景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて相模国一宮に下向してしまいました。
その後、梶原景時は、同年12月18日、源頼家から鎌倉からの追放を申し渡され、同年12月29日には、播磨国守護は小山朝政に、美作国守護は和田義盛に交代させられてしまいました。
所領を失った上で鎌倉まで追われた梶原景時は、京で再起を図るべく(または、九州で兵を募って反乱を起こすべく)、正治2年(1200年)正月、一族を率いて相模国一ノ宮より出立し上洛の途についたのですが、梶原景時ら一行は、同年正月20日、東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くに達した際、偶然居合わせた吉香友兼ら在地の武士たちや相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受けます。
そして、駿河国狐崎にて子の三郎景茂(年34)・六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連が討たれ、また、嫡子景季(年39)、次男景高(年36)は山へ引いて戦ったのち討ち死にし、梶原景時は西奈の山上にて自害して、梶原一族が滅びます(梶原一族全滅の地は、現在は梶原山と呼ばれています。)。
そして、この後、正治2年(1200年)4月1日、北条時政は遠江守に任じられ、源氏一門以外で御家人として初めて国司に任ぜられるまで権力を得ています。
なお、正治2年(1200年)に安達盛長と三浦義澄が病死し、僅か1年程の間に3人ものメンバーを失ったことにより13人の合議制は解体します。
比企能員の変(1203年9月2日)
13人の合議制の解体と梶原景時の失脚により、鎌倉幕府内の権力が、北条時政と比企能員に集まって行きます。
その理由は、有力者の排斥と権力基盤の確保により北条時政の地位は大いに向上した一方で、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に移ったため比企能員の権限も急成長したためです。
もっとも、大きな勢力が2つ現れると争うのが常です。
そして、この2大勢力の争いは、御家人のみならず将軍・源頼家までも巻き込んだ権力闘争に発展します。
具体的な経緯は、以下のとおりです。
2代将軍・源頼家の乳母である比企尼の実家であり、また娘の若狭局が源頼家の側室となって嫡子・一幡を産んだ事から鎌倉幕府内で比企能員の権勢が強まります【源頼家の後ろ盾は比企氏】。
これにより、北条時政と北条政子は、源頼朝の外戚であった北条氏から、源頼家の外戚である比企氏に権力が流れていく傾向が出始めます。
権力低下を恐れた北条時政は、今ある権力を維持するために比企能員を亡き者とするための謀を練ります。
そんな中、建仁3年(1203年)7月に源頼家が病に倒れたため、万一があった場合に時期将軍をどうするかの話し合いがなされます。
このとき、本来は源頼家の嫡子である一幡が将軍職を継ぐはずなのですが、同年8月27日、北条時政の主導で、家督・日本国総地頭職・東国28ヶ国の総地頭は一幡としつつも、西国38ヶ国の総地頭を源頼朝の次男・千幡(源頼家の弟・後の源実朝)に分割することとしたのです。
事実上、東国は一幡、西国を千幡が支配するという分割支配案です。
源頼家の後見人として権力を手中にできると考えていた比企氏は当然反発します。
権力の低下に繋がる案を許せるはずがない比企能員は、同年9月2日、娘の若狭局を通じて、源頼家に北条時政を追討すべきと伝え、源頼家はこれに呼応して比企能員に北条氏追討の許可を与えます。
ところが、これを事前に察知した北条時政が、比企能員を薬師如来の供養と称して自邸(名越亭)に誘い出し、暗殺してしまいます(比企能員の変)。
その上で、北条義時らが一幡の邸である小御所に攻め込み、一幡もろとも比企一族を皆殺しにし、比企氏を滅亡させます(愚管抄によると、同年11月に北条義時によって捕えられて殺されたと書かれていますので、一幡の死亡時期は必ずしも明らかではありません。)。
この後も、北条氏による有力御家人排除は、北条時政・北条義時が一体となって粛々と行われ、傀儡としてわずか12歳の源実朝を鎌倉幕府3代将軍に即位させ、彼を擁することを正当性の根拠として建仁3年(1203年)10月9日、大江広元と並んで政所別当(執権)に就任するなど、北条時政が鎌倉幕府の実権を握っていきます【源実朝の後ろ盾は北条氏】。
もっとも、北条時政は、この程度では満足しません。
次は、権力の危機に陥らせた源頼家です。
源頼家暗殺(1204年7月18日)
病気から快復した源頼家は、比企氏が北条氏によって滅亡させられたと聞き激怒します。
もっとも、比企氏という強力な後ろ盾を失った源頼家に北条時政と戦う力はなく、敵を討つどころか逆に北条氏によって、北条氏の討伐許可を出したことを理由として将軍位を廃され伊豆国修善寺へ追放されてしまします。
北条時政は、元久元年(1204年)7月18日、北条義時を伊豆・修善寺に差し向け、入浴中の源頼家を襲撃し暗殺します(源頼家は、首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。享年23歳(満21歳)でした。
畠山重忠の乱(1205年6月22日)
北条時政は、継室である牧の方との間に3人の娘を設けていたのですが、そのうちの1人が源頼朝の猶子であり畿内で大きな力を持つ平賀朝雅と結婚していました。
そんな中、有力御家人であったは畠山重忠の息子である畠山重保が、源実朝の結婚相手である坊門信子を迎えに鎌倉から京へ赴きます。
京に着いた畠山重保は、京にいる平賀朝雅と宴席を共にするのですが、その席で口論となり、それを平賀朝雅が牧の方に報告をしたことから問題が起こります。
話を聞いた牧の方が、北条時政を唆し、北条時政の命で北条義時に畠山重忠を殺害させ、畠山重氏を滅亡させたのです。
北条時政の最期
北条時政追放(1205年7月)
自身の主張により畠山氏を滅ぼした牧の方は、勢いに乗って娘婿である平賀朝雅を将軍に据えようと考え、今度は、北条時政に現将軍源実朝の暗殺を働きかけます。
もっとも、源実朝の母である北条政子は、源実朝の暗殺計画を許せませんでした。
また、北条義時にとっても、牧の方の娘婿である平賀朝雅が鎌倉殿になるということは、北条家の実権が自分ではなく牧の方側が得ることを意味しますので、到底承服できません。
そこで、北条政子と北条義時が協力し、北条時政・牧の方の排除を計画します。北条家の先妻派閥と継室派閥との争いがついに具現化したのです。
そして、元久2年(1205年)閏7月、北条義時と北条政子が協力し、また有力御家人・三浦義村(母方の従兄弟)の協力をも得て、北条時政と牧の方を伊豆国に追放した上(牧氏の変)、同年8月2日には、山内首藤通基(経俊の子)に命じて平賀朝雅をも殺害します。
これにより、その後、北条義時が父・北条時政に代わって政所別当の地位に就き、ここで北条氏の実権が北条時政から、北条義時・北条政子に移ることとなりました。
北条時政の最期(1215年1月6日)
権力を失った北条時政は、政治の表舞台から退き、建保3年(1215年)1月6日、腫瘍のため北条の地で死去します。享年78歳でした。
なお、北条時政の墓所は、北条時政自らが源頼朝の奥州藤原氏討伐のための戦勝祈願のために建立したとされる願成就院(静岡県伊豆の国市寺家83-1)にあります。