【石成友通/岩成友通】三好政権の出世頭となった三好三人衆の一角

石成友通/岩成友通(いわなりともみち)は、織田信長に先立つ初代天下人といわれる三好長慶に奉行人として見いだされ、実力中心主義であった三好政権において政権中枢を担うまでにのし上がった武将です。

三好長慶死後は、三好宗渭・三好宗渭と共に3人で三好政権を実質上支配したことから、三好三人衆の1人とも言われます。

大勢力を誇った三好政権でしたが、三好長慶死後に三好三人衆と松永久秀との間で内紛を起こしたため、その隙をつき、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に権力の全てを奪われました。

その後、一旦は織田信長に臣従したものの、最終的には織田信長の下から離反し、その後の戦いに敗れて討ち取られるという悲しい最期を迎えています。

本稿では、この三好政権の出世頭とも言える石成友通の人生について見ていきたいと思います。

石成友通の出自

石成友通の出自については、生年・出生地・父母などを含めて、現時点でほぼ何もわかっていません。

石成友通の出自を記した資料が発見されていないのみならず、大出世を果たした人物でありながら親子兄弟などの親族に名を残した人物がいないため、それらの人物とのエピソードで推認することも困難なことがその理由です。

氏族である石成氏も、その地名として備後国・大和国・筑前国などに確認されており、そのルーツを辿ることはできていません。

名字として「岩成」、諱として「左通」・「古通」と書かれたものも残されているのですが、残された資料の自称・他称の量から、当時の名乗りは「石成友通」で間違いないと思われます。

また、官途名は「主税助」で一貫しています。

三好長慶に仕える

三好長慶に仕官

天文8年(1539年)8月、三好家の再興を果たして摂津国西半分を任された三好長慶が、摂津国(現在の兵庫県西宮市)越水城を居城とし、周囲の国衆を束ねる立場に立つこととなったのですが、三好長慶自身が若年であり、また父・三好元長が死去した際に三好家を支えた重臣たちも同時に失っていたことから、領国経営に苦心します。

そこで、三好長慶は、三好家を運営していくために、新たに高い能力を持った人材の発掘・登用に着手します。

このときの三好長慶の人材登用基準は、家柄ではなく実力本位であり、当時の考えとしては画期的な登用方法でした。

石成友通は、このときの三好家の人材登用の際に、その他の来歴不明家臣である松永久秀・松永長頼・松山重治らと共に三好長慶により見出され、三好家家臣となったと考えられています。

なお、三好長慶は、天文18年(1549年)6月、江口城の戦い(江口の戦い)で細川晴元らを破って、細川晴元と当時の室町幕府13代将軍・足利義輝を京から近江国に追い払い、畿内8ヵ国に影響力を及ぼす大大名となって事実上の三好政権を樹立しています。

資料上の初見(1550年)

石成友通の史料上の初見は、天文19年(1550年)、北野社の大工職の相論において、照会の役を務めていることです。

その後、天文20年(1551年)11月、堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に出席していることが確認できます。

また、三好長慶に奉行衆として仕えたことが確認されており、同年、寺町通以・米村治清・北瓦長盛と共に、三島江・柱本の堤に関する連署状を発給しています。

三好長慶の下での槍働き

(1)数掛山城包囲戦(1553年9月)

奉行人としての役割が強かった石成友通でしたが、天文22年(1553年)9月、三好家の松永久秀・松永長頼による波多野秀親が籠る丹波国・数掛山城の包囲に兵として加わったのですが、奇襲を受けて敗走し、一時的には討死したとまで言われました。

(2)北白川の戦い(1558年6月)

三好長慶に追われて近江国朽木谷へ逃れていた将軍足利義輝と細川晴元が、永禄元年(1558年)3月、近江守護・六角義賢から3000人の兵の支援を受けて率いて挙兵し、三好家が支配する京に向かって南進していきました。

同年5月3日に坂本に到着した足利義輝軍に対し、同年6月2日に三好方の石成友通・伊勢貞孝らが瓜生山山頂の将軍山城を占拠・修築して両軍が対峙します。

なお、この戦いでは、小規模な戦いが何度か発生しており、これに参戦していることが石成友通の将としての最初の軍事行動とされています(北白川の戦い)。

(3)その他の軍事行動

永禄2年(1559年)6月には、松山重治と共に2万の兵を率いて大和国に出陣し、同国の松永久秀を加えて敵対する筒井順慶を攻めたとされています。

また、永禄5年(1562年)、久米田の戦いに乗じて六角義賢が京に侵入したため石清水八幡宮に避難した足利義輝の警護を行ったとされています。

三好政権中枢の早すぎる死

(1)十河一存死去(1561年3月18日)

最初の天下人として畿内一帯で隆盛を誇っていた三好長慶でしたが、永禄4年(1561年)3月18日、「鬼十河」と恐れられた弟・十河一存が死去したことにより、その勢いに陰りが出始めます。

(2)三好実休討死(1562年3月5日)

続けて、対三好長慶の意を示す六角義賢と畠山高政が連携し、三好長慶と対抗することとなり挙兵したため、三好家としては南北両面作戦を余儀なくされます。

この点、南側の陣である畠山軍対三好実休軍で、永禄5年(1562年)3月5日に大きな戦いがあり(久米田の戦い)、三好長慶のもう一人の弟であった三好実休が討ち取られる大敗北を喫してしまいました。

(3)三好義興病死(1563年8月25日)

さらに、三好家を継いで当主となっていた三好長慶の嫡男・三好義興が病に倒れ、永禄6年(1563年)8月25日、芥川山城において死去してしまったのです。

三好義興は、極めて優秀な人物であったため、その早すぎる死は三好政権に大きな暗雲をもたらしました。

三好長慶死去(1564年7月4日)

一族の重鎮を次々と失った三好家でしたが、まだまだ一族と家臣団には有能な者も多く残されており、三好長慶の存命中は、そのカリスマによりうまく統制がなされていました。

実際、三好長逸が三好一族の長老、三好宗渭が旧細川家臣団や堺衆との外交役、石成友通・松永久秀らが家臣団を取りまとめる形で三好政権が運営されていました。

ところが、永禄7年(1564年)7月4日に三好長慶が死去し、甥の三好義継が三好家の家督を継いだのですが若年であったために三好宗渭・三好宗渭・石成友通・松永久秀らが後見役となってこれを補佐する形で政権運営がなされることとなりました。

永禄の変(1565年5月)

ところが、三好長慶死去を好機と見た足利義輝が、失った実権を取り戻す機会が到来したと考え、朝倉義景・武田信玄・上杉謙信らに対して上洛を促す書状を送ります。

この動きを危険視した三好家では、協力して足利義輝の排除を試みます。

そして、三好義継・三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)・松永久通らが兵を集め、永禄8年(1565年)5月19日に、京・二条御所を襲撃し、室町幕府第13代将軍・足利義輝を殺害するという事件を起こしました(永禄の変)。なお、この事件への松永久秀の関与度は不明です。

この事件は将軍暗殺という一大事であったにもかかわらず、幕府奉公衆や公家たちが三好家への抵抗運動を見せることはなく、三好家による障害排除計画は成功したようにも見えました。

もっとも、このとき、足利義輝の弟・一乗院覚慶(後の足利義昭)が興福寺に入っていたのですが、三好家側が、将来興福寺別当職となることを約束されていた覚慶を殺害して興福寺を敵に回すことを恐れたことにより覚慶を殺害しなかったため、後に反三好家の旗頭として担ぎ上げられ、その結果として三好家転落が始まっていくこととなってしまいました。

三好家中の内部抗争

三好政権(三好本家)内の対立構造

室町幕府将軍という最大の目の上のたん瘤を排除した三好家は、畿内における支配権を確固たるものとします。

そうなると、権力を手にしたものの典型的な性として、内輪揉めを始めます。

三好家での内輪揉めは、当主である三好義継がまだ若年であったこと三好長慶の直系でなかったことなどから、その後見人であった三好宗渭・三好宗渭・石成友通の3人が勝手な政権運営を始め、それに松永久秀が反発するという形で始まりました。

そして、三好家中において、三好政権の主導権を巡って三好三人衆側に与する者と松永久秀側に与する者に分かれていき、三好三人衆と松永久秀という対立構造がエスカレートしていきました。

三好政権を掌握(1565年11月)

永禄8年(1565年)11月16日、三好三人衆軍が当時松永方の城であった飯盛山城を突如襲って、奉行衆であった長松軒淳世を切り捨てた上、三好義継に対して三好家内から松永久秀を見放すように迫ります。

三好義継にこの要求を拒絶する力はなく、要求に応じて松永久秀・松永久通父子を三好政権から追放する処分を下します。

この結果、石成友通が松永久秀の地位を受け継ぐこととなり、三好三人衆が三好本宗家と三好義継を支える新体制が形成されるに至りました(事実上、3人で政権運営がなされるようになったため一般にこの3人を三好三人衆と呼ぶようになりました。)。

また、これにより、三好三人衆と松永久秀の対立は決定的になります。

このとき、苦しくなった松永久秀は、三好家と対立する畠山秋高に接近し、三好三人衆に対する対応を始めます。

そして、永禄9年(1566年)2月、ついに三好三人衆と松永久秀・畠山秋高との間で戦いが始まります。

阿波三好家の協力を得るために足利義栄を担ぐ

もっとも、三好三人衆と松永久秀との間では大きな戦力差はなく、戦局が大きく動くことなく時間が過ぎていきました。

そこで、三好三人衆は、阿波三好家の協力を取り付けるために、同家が庇護する足利義栄を次期将軍に擁立しようと画策を始めます。

そして、足利義栄を次期将軍にするとの約定の下、永禄9年(1566年)6月、同人を連れた阿波三好家の軍が阿波国から淡路国志知に渡り、四国一円に軍勢催促を行いました。

この結果、阿波三好家の宿老であった篠原長房を先陣とする2万5000人の兵が編成されて兵庫浦へ上陸します。

山城国・摂津国を掌握(1566年9月)

これに呼応した三好三人衆方では、石成友通らが、永禄9年(1566年)7月13日、松永方に与する今村氏の拠点の1つであった山城国の勝竜寺城(土豪の中沢満房・革嶋一宣、援軍の竹内季治、幕府奉公衆・一色孝秀らが籠もっていた)・小泉城・淀古城を立て続けに攻め落とすなどして松永方の勢力を削いでいきました。

また、阿波三好家の篠原長房が同年7月14日に摂津国越水城、同年8月14日に摂津国堀城、同年9月5日に摂津国伊丹城を立て続けに陥落させるなどし、三好三人衆が山城国・摂津国の支配権を掌握してしまいました。

足利義栄の将軍就任

永禄9年(1566年)9月23日、足利義栄が、阿波三好家に連れられて渡海した上で、摂津国・越水城に入城して将軍就任準備が進められ、同年10月3日には朝廷工作として太刀や馬を献上するなどしています。

また、足利義栄もまた将軍であるかのような振る舞いを始め、同年10月4日、いまだ将軍未就任ながら伊予国を治める河野通宣や村上通康などに対して京を平定したために上洛する旨の将軍発給文書(御内書)を下したりしています。

そして、足利義栄は、同年12月7日、富田荘の普門寺城に移ってさらなる準備を重ねます(なお、足利義栄が離れた越水城には篠原長房が入り、畿内での活動拠点としています)。

その後、足利義栄は、同年12月28日に従五位下・左馬頭に叙任した後、永禄11年(1568年)2月に室町幕府第14代将軍に就任します。

石成友通が勝竜寺城主となる(1567年)

以上のとおり、三好三人衆の計画は順調に進んでいったため、三好三人衆もそれぞれに出世を果たすこととなります。

このうち、石成友通は、永禄10年(1567年)、このとき攻略した山城国の勝竜寺城を与えられ、城主となって同城に入ります。

石成友通が入るまでの勝竜寺城は有事の際に土豪が立て籠ることができる程度の小規模なものだったのですが、同城に入った石成友通は同城の大規模整備を始め、近代城郭への改修を進めていきました(このことから、石成友通が勝竜寺城の最初の城主と言われています。)。

そして、勝竜寺城を居城と定めた石成友通は、同城を拠点として革嶋一族を始めとする敵対土豪を追い出して自らに与する者に与えるなどして山城国西部の西岡地区の支配権を確立させていきました。

三好本家当主が松永久秀方へ(1567年4月)

阿波三好家(三好分家)の協力を得て順調に三好政権(三好本家)を掌握していった三好三人衆でしたが、永禄10年(1567年)4月6日、その計画か崩れ始める事件が起こります。

高屋城に追いやられていた三好本家当主・三好義継が、三好本家の主導権争いを三好分家の力で解決されたことにより権威を傷つけられ、かつ三好三人衆から冷遇されたことを嫌って三好三人衆の下を離れ、これと対立する信貴山城の松永久秀の下に逃げ込んだのです。

三好家当主という地位は、この時点では実質上の力を失っていたものの、劣勢下にあった松永久秀方に大義名分を与えるだけの効果を保持していました。

そこで、三好家当主を擁してこれをないがしろにする家臣団(三好三人衆)を討ち取るという大義名分を得た松永久秀は、本拠地大和国において、三好三人衆に対する攻撃準備を始めます。

三好三人衆と松永久秀との戦い

松永久秀方に軍事行動の兆候ありと見た三好三人衆は、それに先んじて兵を動員し、逆に京から大和国へ攻め入って東大寺に布陣します。

この結果、多聞城を本拠に置く松永久秀軍に対し、東大寺に布陣する三好三人衆軍が対陣することとなり、その後、東大寺周辺において、永禄10年(1567年)4月18日から、松永軍(松永久秀・三好義継)と、三好三人衆軍(石成友通・三好長逸・三好宗渭・筒井順慶・池田勝正ら)とが半年間に亘って市街戦を繰り広げます(東大寺の戦い、多聞山城の戦い)。なお、この戦いの途中で東大寺大仏殿が焼失しています。

兵力に勝る三好三人衆軍が優勢に展開していたこの戦いでしたが、断続的な小規模合戦が続くのみであり、決定打がなく膠着することとなってしまいました。

織田信長との戦い

松永久秀が織田信長に通じる

他方、もう1つの戦場となっていた信貴山城が、永禄11年(1568年)6月29日に落城し(信貴山城の戦い)、さらに三好三人衆軍が松永家の本拠地・多聞城に取りついたことから松永久秀は窮地に陥ります。

ここで、松永久秀は窮地を脱する起死回生の一手を打ちます。

尾張国・美濃国を平定して勢いに乗り、さらには畿内へ進出する機会をうかがっていた織田信長と同盟を組むこととしたのです。

このときの織田信長は、かつて松永久秀が取り込んだ足利義昭を将軍職につけるという名目で上洛を目論んでいたのですが、そのためには畿内に大勢力を持つ三好三人衆が邪魔で仕方がなかったのです。

すなわち、織田信長は上洛するため、松永久秀は松永家・三好家を維持するために三好三人衆を排除するという共通目的を達成するための同盟が成立するに至りました。

織田信長上洛(1568年9月)

足利義昭を奉じた織田信長は、永禄11年(1568年)9月7日、1万5千の兵を率いて岐阜城を出立し三好家の内紛に乗じた上洛作戦を敢行します。

このときの織田信長上洛軍は、将軍上洛軍であったため尾張・美濃・北伊勢・北近江の浅井軍・三河などから義勇兵の参陣が相次いでどんどん軍勢が膨れ上がっていき、5万人とも6万人ともいわれるまでに膨れ上がった織田軍は、数に物を言わせた強硬手段で道中の六角家を攻略し(観音寺城の戦い)、京の入り口にまで到達します。

道中の安全を確保した織田信長は、同年9月22日に足利義昭を呼び寄せて、同年9月23日に園城寺光浄院に入れます。

その上で、同年9月26日、細川藤孝を別働隊として御所に向かわせてこれを防衛させ、織田信長本隊は東寺にまで進軍した後で東福寺に陣を移します(織田信長軍の入京により京の安全が確保されると、足利義昭が上洛を果たして東山の清水寺に入っています。)。

そして、京に入った織田信長は、河内方面に軍を進めて山崎・天神馬場に着陣して畿内掃討戦を進めることとします(他方、足利義昭は東寺に移った後、さらに西岡日向の寂勝院に入ります。)。

勝竜寺城の戦い(1568年9月)

足利義昭を京に送り出した織田信長は、畿内から三好三人衆の勢力を駆逐するため、永禄11年(1568年)9月26日、まずは柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚らに先陣を命じ、桂川を渡河させ、石成友通が守る勝竜寺城に向かわせます。

また、同年9月29日には、織田信長自ら5万の兵を率いて勝竜寺城の攻略に向かいます。

大軍に取りつかれた勝竜寺城では、守将であった石成友通が、三好長逸・三好宗渭・篠原長房らと連携しての抵抗を試みますが多勢に無勢で勝ち目がなく、織田信長に降伏して勝竜寺城を織田信長に明け渡しました(勝竜寺城の戦い、多聞院日記・言継卿記)。

織田軍により駆逐されていく三好三人衆

勝竜寺城を攻略した織田信長は、続けて山崎城芥川山城高槻城・淀古城・越水城・高屋城などの三好三人衆方の城を次々と攻略していきました。

勢いを失った三好三人衆は、永禄11年(1568年)10月1日、推戴していた14代将軍足利義栄・篠原長房・三好長治らとともに阿波へと退いて再起を図ることとします。

この結果、畿内所在の城を概ね制圧して三好三人衆らを阿波国へ追い出し、三好義継、松永久秀・松永久通らを傘下に収めた織田信長は、畿内をほぼ完全に掌握します。

そして、織田信長に連れられて入京した足利義昭が、一旦芥川山城に入った後、永禄11年(1568年)10月14日、帰京して六条(現在の京都市下京区内・西本願寺の北側)にあった本圀寺を仮御所として同寺に入った後、同年10月18日、室町幕府第15代征夷大将軍の宣下を受けました(なお、この前後に足利義栄は死去しているのですが、死去日が明らかではないため、足利義昭の将軍就任が、足利義栄が将軍職を解任されて行われたのか、死去に伴う後任なのかは不明です。)。

本圀寺の変(1569年1月)

以上の結果、足利義昭を将軍にするという上洛目的を果たした織田信長は、足利義昭の警備を、近江国・若狭国の国衆約2000人と足利義昭直属の奉公衆に託し、永禄11年(1568年)10月26日、一旦本拠地である美濃(岐阜)に帰国します。

ところが、将軍となり京に返り咲いた足利義昭でしたが、元々僧侶であったこともあり、将軍として相応しい軍事力をもっていませんでした。

そんな中で、織田信長が主力軍を連れて本拠地に戻ったのですから、当然足利義昭のいる京の守りは弱くなります。

石成友通ら三好三人衆は、京が手薄となったのをチャンスと見て、京の奪還と15代将軍足利義昭を亡きものとする計画を立てます。遡ること3年前の永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺している三好三人衆に(永禄の変)、将軍暗殺についての迷いなどありません。

1万人の兵を動員して阿波国を出発した三好三人衆軍は、永禄12年(1569年)1月5日、京市中に火を放ちながら足利義昭がいる六条本圀寺に向かって進軍してきます。

ところが、三好三人衆襲来を聞いた室町幕府足軽衆が、当時上京にあった奉公衆の屋敷から本圀寺に駆け付け、同日中に足利義昭を討ち取ることができませんでした。

そして、翌日である同年1月6日になると、将軍襲撃(本圀寺の変)の報が織田方の各将の下に届き、将軍直属の細川藤孝・和田惟政をはじめとして、三好本家の三好義継や、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らが、続々と足利義昭(本圀寺)に援軍として駆け付け、一気に形成が逆転します。

形勢不利となった三好三人衆は、退却を試みるも桂川湖畔で追いつかれ、足利方の軍勢と合戦に及んだものの大敗北を喫してしまいました。

なお、元亀元年(1570年)、石成友通は、「友通」から「長信」に名乗り改めていますが、本稿では便宜上そのまま「友通」表記で統一します。

野田・福島の戦い(1570年8月)

元亀元年(1570年)6月、織田信長が姉川の戦いに赴くために畿内の兵を近江に向かわせたため、織田方の主力部隊が畿内からいなくなります。

これを好機と見た三好三人衆は、同年6月19日、摂津池田城主・池田勝正の重臣であった荒木村重をけしかけて池田城を奪取させた上で、同年7月21日、摂津国に再上陸し野田と福島に砦を築いて、これらを拠点に反織田の兵を挙げます。

この三好三人衆の動きに、畿内の反織田勢力であった、三好康長・十河存保・細川昭元・斎藤龍興・長井道利などが次々と参加し、その勢力は8000人にまで膨れ上がりました。

なお、このとき、三好三人衆軍に対抗できる可能性があった畿内の織田方は、信貴山城の松永久秀・古橋城の三好義継らわずかであり、反織田ののろしを上げた三好三人衆は、同年8月2日、まず三好義継率いる300人が守る古橋城を攻略、三好義継を追い払います。

姉川の戦いを終えて岐阜に戻った織田信長は、いそぎ軍備を整え、同年8月20日に岐阜城を出立し、同年8月22日の長光寺、同年8月23日の本能寺宿泊を経て、同年8月25日に枚方寺内に陣を構えた後、同年8月26日に天王寺に到着し本陣を置きます。

その後、織田軍は、周辺諸城を奪還した上で付城を築くなどして4万人の兵で三好三人衆が籠る野田城・福島城を取り囲み、城の北側にある川をせき止めた上、北側に櫓を組んで、野田城・福島城に鉄砲を雨のように打ちかけます。

落城寸前となった野田城・福島城でしたが、元亀元年(1570年)9月12日、石山本願寺法主顕如が三好三人衆に与して挙兵し、海老江に布陣していた織田信長と足利義昭の下に想定外の敵が襲いかかったことで戦局が一変します(10年間に及ぶ石山合戦の始まりです。)。

本願寺勢蜂起によりもはや野田城・福島城攻めどころではなくなった織田軍に対し、さらに近江国で浅井・朝倉連合軍までもが織田方に襲いかかったため、元亀元年(1570年)9月23日、織田信長は、柴田勝家と和田惟正を殿に残して野田城・福島城の包囲を解き、急ぎ京に向かって進軍しています。

この結果、野田城・福島城の戦いは三好三人衆の勝利に終わり、三好三人衆は、再び畿内に進出する橋頭堡を確保しました。

なお、この後、浅井・朝倉連合軍を追って比叡山に釘付けとなった織田軍に対し(志賀の陣)、周辺勢力が対織田戦線に参加することとなり、比叡山を取り囲む織田軍を、さらにその周辺勢力で取り囲むという図式が出来上がり(第一次信長包囲網)、この戦いは、反織田勢力の勝利に終わり。なお、このときに反織田方となった主な勢力は、石山本願寺・長島一向一揆、雑賀衆、三好勢(三好三人衆・篠原長房・三好長治・十河存保・安宅信康)・六角義賢・荒木村重・池田知正・浅井長政・朝倉義景・比叡山延暦寺・筒井順慶などです。

織田信長による各個撃破作戦

その後も織田信長打倒と畿内復帰を画策する三好三人衆でしたが、周囲を敵に囲まれて手を焼いた織田信長が、分散する敵対勢力に対する各個撃破作戦を展開すると、もはや単独で太刀打ちすることができなくなります。

織田信長に下る(1572年)

結局、石成友通は、元亀2年(1571年)12月に細川六郎とともに織田信長に拝謁し、その参加に下ることとなりました。

石成友通の能力を高く評価した織田信長は、元亀3年(1572年)1月、石成友通に山城国内6か所の所領を与えて山城郡代に任命し、実質的には山城守護として扱うこととしました。

元亀3年(1572年)1月、織田信長は友通を山城郡司に任命し、実質的には山城守護の地位を与えました。

なお、織田信長は、細川藤孝宛てた書状において、石成友通のことを「表裏なき仁」と書いており、強い信頼関係を構築したことがうかがえます。

石成友通の最期

織田信長の下から離反(1573年7月)

他方、元亀2年(1571年)ころから織田信長への反発を高めていった足利義昭が、織田信長の影響力を弱めるため、織田信長に敵対する力を持つ勢力に接近していき、浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺・比叡山延暦寺・六角義賢・武田信玄などに御内書を乱発していくようになりました(第二次信長包囲網)。

これに甲斐の虎・武田信玄が呼応し、元亀3年(1572年)10月、織田信長の本拠地・岐阜を目指して進軍を開始します(西上作戦)。

破竹の勢いで進軍していく武田軍の強さを見た反織田勢力が勢い付きます。

武田軍の強さを見た足利義昭は、元亀4年(1573年)2月、二条御所で自ら反織田信長の兵をあげます。

もっとも、徳川領に進行中だった武田信玄が、元亀4年(1573年)4月、体調悪化により本拠地・甲斐へ引き返し、そしてその帰途で病死したため、第二次信長包囲網が急速に勢力を失います。

勢いを取り戻した織田信長は兵を京に向け、二条城を囲んで同城から足利義昭を追い出します。

京を追われた足利義昭は、元亀4年(1573年)7月3日、宇治の槇島城に籠って再度挙兵します。

そして、このとき、石成友通もまた、足利義昭の要請を受けて織田信長の下から離反し、淀古城に籠って再び織田信長と戦う道を選びました。

第二次淀古城の戦い

もっとも、元亀4年(1573年)7月18日、織田軍の攻撃を受けた槇島城が陥落し(槇島城の戦い)、降伏した足利義昭は人質を差し出して河内国に逃亡します。

また、石成友通が籠る淀古城には、木下秀吉(羽柴秀吉)隊が派遣され、木下と勝竜寺城主細川藤孝及びその兄淵藤英隊による攻撃が加えられました(第二次淀古城の戦い)。

織田方の攻撃に対し、淀古城内から坂東季秀・諏訪行成らが離反します。

石成友通討死(1573年8月2日)

後がなくなった石成友通は、淀古城から打って出て奮戦した後、細川家家臣・下津権内(おりつごんない)に討ち取られました。生年が不明であるため享年も不明です。

また、このとき、石成友通と共に石成方からは340人が討ち取られています。

そして、討ち取られた石成友通の首は、近江高島にいた織田信長の元に届けられ、比類なき働きを嘉賞し着ていた胴衣がかけられたとされています(信長公記)。

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