【東大寺大仏殿焼失】戦火で2度焼失した東大寺金堂の歴史

修学旅行のド定番となっている奈良・東大寺の大仏と大仏殿ですが、天平期に創建・造立された後,2度も戦火で焼かれていることはご存じですか。

現在ある大仏殿は、実は江戸期に再建された三代目を改修したものであり、天平期(初代)のものはもちろん,鎌倉期(2代目)のものとも全く違う様式で建てられています。

大仏様や大仏殿を焼くなんてとんでもないと思われるかもしれませんが、戦争が起こるとそんなことも言ってられないのかもしれません。

本稿では、奈良観光に行く前に基礎知識を得て、より東大寺大仏殿観光を楽しんでいただけるよう、東大寺大仏殿の歴史について簡単に説明したいと思います。

【初代】東大寺大仏殿建立

大仏造立の詔(743年10月15日)

聖武天皇治世に、皇太子の死(神亀5年/728年)、長屋王の変(天平元年/729年)、天然痘流行(天平9年/737年)、藤原広嗣の乱(天平12年/740年)があり、その他にも地震や日食が起こるなど災難・社会不安が度重なりました。

聖武天皇は、この困難に対し、数々の災難を仏教の力で消滅させて国家を守る鎮護国家という考えを持ち、天平13年(741年)に国分寺・国分尼寺の建立の詔を出します。

このときに、良弁が、諸国の国分寺の総本山とするべく東大寺を建立し大仏を造立すべきであると聖武天皇に進言したことから、聖武天皇はこれに同意し、天平15年(743年)10月15日、ときの都であった近江国甲賀郡・紫香楽宮(現在の滋賀県甲賀市)で大仏造立の詔を出します。

東大寺大仏の完成(752年)

この結果、一旦はときの都であった紫香楽宮で大仏の造立が始められたのですが、間もなく都が平城京に戻されることとなったため、新たに奈良で大仏を造立し、これを本尊とする東大寺が新たに造営されることとなりました。

そして、造立されることとなった大仏は、良弁の説く華厳経の教理で釈迦如来と同一の存在とされ、華厳宗の教主でもある一切万物を救済する仏毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)に決まります。

もっとも、大仏造立という一大事業は、聖武天皇や国家の力をもってしても難事業であったため、行基が全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めるところから始まりました。

そして、官民一体となって事業を進め、天平19年(747年)から大仏造立を開始し、ついに天平勝宝4年(752年)に大仏が完成し、菩提僊那を導師として大仏開眼供養会が盛大に行われました。

なお、東大寺では、東大寺の創建と大仏創建に尽力した、良弁(大仏造立を進言)、聖武天皇(大仏造立を決定)、行基(大仏造立のための人・金を集める)、菩提僊那(大仏開眼導師)の4人を「四聖(ししょう)」と呼んでいます。

東大寺大仏殿の完成(758年)

そして、大仏鋳造が終わると、続けて大仏殿の建設工事が始められ、天平宝字2年(758年)に完成を見ます。

対仏殿完成後も諸堂の造営は続けられ、講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営を経て、延暦8年(789年)ころに東大寺全体の完成を見ます。

このときに完成した東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70m以上と推定されています。)が回廊に囲まれるという構造でした。

完成した東大寺は、国分寺として国家安寧と国民幸福を祈る道場となったのですが、それに加え、仏教の教理を研究し学僧を養成する役目も果たし、奈良時代には南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)による六宗兼学の、平安時代にはこれに天台宗・真言宗を加えた八宗兼学の学問寺となり、多くの学僧を輩出していきます。

また、その権威の高さから荘園の寄進が集まるなどしたため、東大寺には、経済力と共にそれを基礎とする軍事力が集まっていくようになります。

初代大仏殿焼失と【二代目】大仏殿再建

南都焼討(1180年12月28日夜)

次第に大きな力を持つようになっていった東大寺ですが、平安時代末期に大きな試練を迎えます。

始まりは、治承4年(1180年)4月9日、後白河法皇の子である以仁王が、源行家以仁王の令旨を預けて全国に散らばる源氏勢力に協力を求めるとともに、自らも平家方の武将であった源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家や、興福寺・園城寺などと協力して、反平家の挙兵をしたことでした。

以仁王の計画はすぐに発覚し、以仁王もまた逃亡中に、平家の追っ手により討ち取られます。

こうして反平家の初動はすぐに鎮圧されたのですが、平清盛は、巨大寺社勢力である園城寺・興福寺などが反平家の立場をとったため、これらの巨大寺社に挟まれた京の地理的不利を払拭するため、京を放棄し、摂津国・福原に遷都をします(福原京遷都)。

ところが、同年8月17日に伊豆国で源頼朝が、また同年9月には信濃国で木曾義仲が挙兵するなど、全国各地で反平家の挙兵が相次いでいるとの報が届いたため、内裏の新造を進める福原にも混乱が走ります。

そのため、諸寺諸社や貴族達だけでなく、平家政権の中枢からも福原から京に還都するべきとの意見が噴出し、こうなると、さすがの平清盛も、自分1人の意見で福原京遷都を維持できなくなり、結局、平安京への還幸を決定します。

このとき、平清盛としては、京に戻る前提として、京に近い園城寺に対する対策が必要となり、治承4年(1180年)12月11日、平重盛に命じ、園城寺が以仁王に加担した罪として、園城寺に攻め込み、金堂以下の堂塔のほとんどを焼き討ってしまいます。

懸念の1つである園城寺の脅威を取り除いた平清盛は、もう1つの脅威である興福寺をはじめとする南都寺院の脅威の排除に取り掛かります。

平清盛は、4万人(平家物語)とも数千人(山槐記)ともいわれる大軍を動員し、同年12月15日、平重衡を総大将、平通盛らを副将として興福寺に向かわせます。

同年12月28日には、平家方の大軍が、木津・奈良坂の防衛線を突破して南都の入り口に到達し、般若坂近辺で、平家軍と興福寺軍との激戦が繰り広げられます。

問題が起きたのは、この後です。

治承4年(1180年)12月28日の戦いでは決着がつかなかったため、平家軍は、夕刻になると、奈良坂と般若坂を占拠し、本陣を般若坂沿いの般若寺内に移します。

そして、夜間の灯りを得るために、付近の民家に火を放ったところ、折からの強風に煽られて延焼し、南都一帯に広がる大火災に発展します(平家物語)。なお、南都焼討は元々の計画であったとの説もありますので、平家が火を放った意図は不明です。

いずれにせよ、平家方から放たれた火により、北は般若寺から南は新薬師寺付近、東は東大寺・興福寺の東端から西は佐保辺りにまで及び、現在の奈良市内の大半部分にあたる地域を焼き尽くす大火事となりました。

特に、興福寺や東大寺の被害は大きく、東大寺では、金堂(大仏殿)・中門・回廊・講堂・東塔・東南院・尊勝院・戒壇院・八幡宮など寺の中枢となる主要建築物の殆どや、多くの仏像・仏具・経典などが失われ、焼け残ったのは中心からやや離れた高台にある鐘楼・法華堂・二月堂や寺域西端の西大門・転害門および正倉院などごく一部という事態に陥ります。なお、大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちたといわれています。

また、興福寺では、主要建築物のほとんどといえる38もの施設(五重塔、二基の三重塔、中金堂・東金堂・西金堂・講堂・北円堂・南円堂・食堂・僧坊や大乗院・一乗院を始めとする子院など)が焼失し、焼け残ったのはわずかに禅定院のみでした。

東大寺への処分とその撤回

そして、治承5年(1181年)に入ると、平清盛は、東大寺や興福寺の荘園・所領を悉く没収するとともに別当・僧綱らを更迭するなど、これらの寺院の事実上の廃寺政策を決定し、再び南都に兵を派遣してこれらの施策を実行に移します。

ところが、直後の同年正月14日に親平家の高倉上皇が崩御し、続く同年閏2月4日に平清盛が高熱を発して64歳で死去したため、巷では南都焼討の仏罰であると噂されます。

また、この頃になると、各地で反平家勢力の挙兵が頻発したため、南都の処理に関わっていられなくなります。

そこで、平清盛の後を継いだ平宗盛は、同年3月1日、東大寺・興福寺に対して行った処分の全てを撤回します。

東大寺大仏殿再建(1181年3月~)

この結果、興福寺・東大寺の再建の動きが始まり、治承5年(1181年)3月18日、まずは実検使として、興福寺に関白・藤原氏の氏長者(藤氏長者)である藤原基通の家司藤原光雅と勧学院別当藤原兼光が、東大寺に後白河法皇の院司蔵人である藤原行隆が派遣され、南都の被害状況の調査が始まります。

このとき、被害状況を視察に来た藤原行隆に対して俊乗房重源が東大寺再建を進言し、それに賛意を示した藤原行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就き、東大寺の再建が始まりました(まず、大仏の修復から進められることとなりました。)。

もっとも、東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難がありました。

まず、財政面では、勧進活動によって再興に必要な資金を集めたり、西行に奥羽への砂金勧進を依頼したりするだけでなく、重源自ら後白河法皇・九条兼実・源頼朝などに浄財寄付を依頼し、その工面をしています(文治2年/1186年には周防国が東大寺造営料所とされたため、以降、同国の税収を再建費用に充てています。)。

また、技術面では、重源自ら中国で建設技術・建築術を習得するなどし、また、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導しています。その上で、周防国から巨木を運び出したり、伊賀国・紀伊国・周防国・備中国・播磨国・摂津国に別所を築いたりするなどして信仰と造営事業の拠点とするなど、幾多の困難を克服していきます。

そして、文治元年(1185年)6月に大仏の修復が完了して同年8月28日に大仏の開眼供養が行われました。その後、建久6年(1195年)には大仏殿を再建して後白河上皇や源頼朝列席のもとで落慶法要が盛大に営まれ、建仁3年(1203年)には、総供養を行われています。

また、この後も半世紀以上もの長い期間をかけてその他建築物の再建が進められ、大仏殿についても天平期創建当時とは異なる大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる様式にて再建されました。

さらに、各種建築物の再建事業と共に、運慶・快慶らを中心とする奈良仏師によって新たに多くの新しい仏像が造られました(東大寺南大門金剛力士像などが特に有名です。)。

こうした復興に伴って、東大寺における教学活動も活発になり、鎌倉時代にも多くの学僧を輩出することとなります。

二代目大仏殿焼失と【三代目】大仏殿再建

松永久秀の夜襲で焼失(1567年10月)

東大寺を襲った次の試練は戦国時代です。

きっかけは、室町幕府第13代将軍・足利義輝が殺害されるという永禄の変の後、「三好政権の中心にいた三好三人衆」と「三好義継を支えて政権運営を行なっていた松永久秀」とが三好政権の主導権を巡って対立し、永禄8年(1565年)11月16日、三人衆軍が当時松永方の城であった飯盛山城を突如襲って、三好長慶の甥で後継であった三好義継を高屋城に庇護して取り込んでしまったため、三好三人衆と松永久秀の対立が決定的になったことでした。

この後、三好家当主三好義継を取り込み、また阿波国の三好家も加わった三好三人衆側が次第に有利に進めていったのですが、永禄10年(1567年)4月6日、松永久秀がいる信貴山城に三好義継が保護を求めてきたことで事態が動きます。

このときの三好家の当主という地位は、実質上の力はなかったものの、劣勢下にあった松永久秀に大義名分を与えるだけの効果を保持していたのです。

大義名分を得た松永久秀は、本拠地大和国において勢力の回復に取り掛かります。

これに対し、松永久秀の動きを見た三好三人衆は、京から兵を率いて大和国へ攻め入ってきたのです。

東大寺にほど近い多聞城に本拠を置く松永久秀軍に対し、三好三人衆は東大寺に本拠に置いて対陣し、永禄10年(1567年)4月18日から、松永久秀及び三好義継と、三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で、半年間に亘って市街戦を繰り広げます(東大寺の戦い、多聞山城の戦い)。

この戦いは、決定打がなかったために膠着していたものの、兵力に勝る三好三人衆・筒井順慶・池田勝正らが優勢に展開していました。

この戦局を打開すべく、松永久秀・三好義継連合軍は、同年10月10日、三好三人衆が本陣を置く東大寺を奇襲したのですが、その際に大仏殿に火の手が上がり、大仏殿がそのまま焼失しています。なお、大仏殿の消失については、松永久秀が故意に焼き払ったという説もありますが、最近の研究では戦の最中の不慮の失火説が有力なのだそうです。

そして、大仏殿に発生した火は、次々と東大寺内に燃え広がり、僅かに二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院・鐘楼などを残して、その他の建物を焼き尽くしてしましました。

当然、大仏殿の中にあった大仏も崩れ落ちています。

進まない東大寺再建(流れは方広寺へ)

焼失した大仏及び大仏殿の再建を目指し、永禄11年(1568年)、山辺郡山田城城主・山田道安が中心となってこれらの修理が試みられたのですが、その費用を考えると、一領主の手におえる代物ではありません。

これについては、織田信長なども勧進許可を出しているのですが、戦国時代においては、これらの再建は二の次三の次とされ、長期間に亘り、木造銅版張りの仮の頭部を乗せた状態にて雨ざらしの状態で放置され続けました。

天正14年(1586年)ころになると、天下の覇権は、徳川家康を臣従させた豊臣秀吉に移っていったのですが、豊臣秀吉は、消失した東大寺大仏の再建ではなく、これに代わる大仏の造立を考え、天正16年(1588年)、蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に大仏と大仏殿(方広寺)の造立を決めます。

なお、このとき、豊臣秀吉は、天文16年(1588年)、方広寺の大仏建立を名目とし、建立する大仏殿の釘・かすがいの用途で寄進するという名目の下、刀狩令を発布して百姓から刀・脇差・弓・槍・鉄砲、その他の武具を取り上げ、以降百姓がこれらを持つことをかたく禁止し、新大仏造立を、身分社会を確立と一揆防止手段に使っています。

そして、文禄4年(1595年)、現在の方広寺境内に加え、現在の豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大な敷地を有する方広寺が完成させ、その境内(現在の豊国神社のある位置だそうです。)に、豊臣秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した高さ約49m、南北約88m、東西約54mという壮大な大仏殿が造立されました。

その上で、高さ約19 mもの木製金漆塗坐像大仏が、大仏殿に安置されました。

方広寺大仏喪失

ところが、文禄5年(1596年)閏7月13日、山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で大地震が発生し(慶長伏見大地震)、方広寺大仏殿は倒壊を免れたものの、方広寺大仏は開眼法要前に倒壊してしまいました。

なお、このとき豊臣秀吉は倒壊した大仏を見て、大仏なのに「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝えられています。

その後、慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉は死去し、その後、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われ、慶長4年(1599年)、豊臣秀頼は、父豊臣秀吉が行っていた大仏造立事業を引継ぎ、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図ります。

もっとも、慶長7年(1602年)に流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏もろとも大仏殿が全て焼失してしまいました。

方広寺の大仏再建も相当の難事業ですので、ここで一旦、豊臣秀頼による方広寺大仏造立計画が頓挫します。

その後、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで天下をほぼ手中に収め、また征夷大将軍に任じられた徳川家康でしたが、莫大な財産を持ち、また恩顧の大名に影響力を持つ豊臣家の存在はどうしても邪魔な存在でした。

そのため、徳川家康は、豊臣家の弱体化を志向するために豊臣家の財力を減らしていこうと考え、その手段の1つとして豊臣秀頼に多くの寺社の再建を提案します。そして、その1つとして、一旦は頓挫した方広寺の再建・大仏造立を唆します。

徳川家康に、亡関白殿下の悲願ですからとかなんとか言われて造立を勧められた豊臣秀頼は、あらためて片桐且元を奉行に任命して、再び方広寺と大仏造立事業を再開し、莫大な費用をかけて、慶長17年(1612年)に大仏と大仏殿が完成させます。

続いて、慶長19年(1614年)4月16日には、高さ一丈七寸(3.24m)、口径九尺五寸(2.88m)、銅使用量一万七千貫(63.75t)という巨大な梵鐘も完成させています(方広寺鐘銘事件で問題となった鐘です。)。

その上で、徳川家康の同意の下、同年8月3日に、大仏開眼供養と堂供養とを併せて行うことが決まり、開眼法要のための準備がすすめられていったのですが、慶長19年(1614年)7月18日になり、突然、徳川家康から、開眼法要の延期(開眼供養と堂供養の分離)が申し渡されます。

開眼法要延期の理由は、梵鐘に付された銘文(禅僧:文英清韓の作)のうち、「国家安康」「君臣豊楽」の句の部分が、「国家安康」は家康を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家が没落するように呪いが込められていると徳川家康側が異議を出してきたことです。

その後、この方広寺鐘銘事件をきっかけとして勃発した大坂の陣により豊臣家が滅亡し、方広寺自体は残されたのですがその影響力は低下します。

そして、寛文2年(1662年)の寛文近江・若狭地震で2代目大仏も大破し、寛文7年(1667年)に木造で再興されています(この三代目大仏は、寛政10年/1798年の落雷による火災で焼失しています。)。

東大寺大仏殿再建(1684年~)

豊臣家の滅亡により方広寺への資金流入も止まり、代わって荒廃していた東大寺の復興運動が始まります。

貞享元年(1684年)、公慶が中心となって江戸幕府から勧進(資金集め)の許可を得て、大仏の修理のために勧進を始めます。

そして、江戸や上方などで大仏縁起の講談と宝物の拝観を行い、大仏の現世利益・霊験を期待する民衆の信仰心をつんで多額の喜捨を集め、大仏修理の費用を集めていきます。

また、大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所としての龍松院が建てられ、東大寺の復興事業が本格的にスタートしていきます。

これらの資金を基にして、貞享3年(1686年)には大仏の修理が始められて、元禄4年(1691年)にこれが完了し、その翌年である元禄5年(1692年)に大仏開眼供養が行われました。

また、その後も公慶による勧進が続けられ、さらに江戸幕府主導による国家事業としてその債権が進められ、宝永6年(1709年)には東大寺大仏殿も落慶しています。

現存する東大寺大仏殿

宝永6年(1709年)に建てられた東大寺大仏殿は、時間の経過と共に老朽化が進んだのですが、明治維新によりその存続の危機に立たされます。

慶応4年(1868年)に、明治政府が、神祇官を再興し、その後神仏判然(分離)令を出して仏教と神道を区別して神道を重んずる方針を示すと、全国的に廃仏毀釈の動きが広まり、仏像などが美術品として海外に売り飛ばされたり薪などの生活用品にされたりして一斉に失われていきます。

東大寺を始めとする大寺院もこの動きに抗えず、江戸時代に東大寺勧進所となった龍松院も廃院とされます。

その後も、文明開化を目指して急激な近代化(西欧化)が進められ、伝統美術の排除されていきました。

こうした風潮に心を痛めたフェノロサの助手・岡倉天心が、文化財の保護を訴え、明治30年(1897年)、文化財保護のための最初の法律である古社寺保存法が制定され、国の責任において貴重な仏像の保存や修復を行うことに決まります。

その後、この制度の下で、明治36年(1904年)から大正2年(1913年)までかけて、東大寺大仏殿の大規模な修理が行われ、また、その後、良弁の没後1200年を記念して、昭和49年(1974年)から55年(1980年)までかけて、大仏殿の屋根瓦が軽量なものに交換されるなどの「昭和の大修理」が行われ、現在に至っています。

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