【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について

奈良時代創建された当初の東大寺は、唐の文化を受けた天平文化を色濃く反映した伽藍でした。

ところが、平家による焼き討ちに遭った後、鎌倉時代に復興した東大寺は、それまでの伽藍に復元することはせず、新たに南宋の文化を色濃く反映した大仏様(天竺様)の伽藍に変更されて再建されました。

本稿では、平安時代末期に創建当初の東大寺が焼失するに至った経緯と、鎌倉時代初期の再建事業・再建内容について簡単に見ていきたいと思います。

平安時代末期の東大寺焼失

東大寺創建(789年ころ)

東大寺は、度重なる政変や天然痘の流行により混乱する世の中を仏教の力で救おうと考えた聖武天皇の発案を基に創建されました。

聖武天皇は、天平13年(741年)に全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じた上、天平15年(743年)に盧舎那仏造立の詔を発します。

そして、天平勝宝4年(752年)に東大寺大仏が、天平宝字2年(758年)に東大寺大仏殿が完成します。

その後も東大寺伽藍の建築は進められ、講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営を経て、延暦8年(789年)ころに東大寺全体の完成を見ます。

このときに完成した東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70m以上と推定されています。)が回廊に囲まれるという構造でした。

完成した東大寺は、国分寺として国家安寧と国民幸福を祈る道場となったのですが、それに加え、仏教の教理を研究し学僧を養成する役目も果たし、奈良時代には南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)による六宗兼学の、平安時代にはこれに天台宗・真言宗を加えた八宗兼学の学問寺となり、多くの学僧を輩出していきます。

また、その権威の高さから荘園の寄進が集まるなどしたため、東大寺には、経済力と共にそれを基礎とする軍事力が集まっていくようになります。

東大寺焼失(1180年12月28日夜)

奈良仏教の中心にあった東大寺は、都が平城京から平安京に移った後も大和国内にとどまらない大きな影響力を持っていたのですが、平安時代末期に大きな試練を迎えます。

始まりは、治承4年(1180年)4月9日、後白河法皇の子である以仁王が、源行家以仁王の令旨を預けて全国に散らばる源氏勢力に協力を求めるとともに、自らも平家方の武将であった源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家や、興福寺・園城寺などと協力して、反平家の挙兵をしたことでした。

この以仁王の計画はすぐに発覚し、以仁王は興福寺に向かって逃亡している途中で平家の追っ手により討ち取られます。

平家棟梁であった平清盛は、以仁王の受け入れを決めた興福寺の行動を問題視します。

そこで、平清盛は、以仁王に加担して反平家の立場をとった興福寺に対する報復として、同年12月15日、平重衡を総大将・平通盛らを副将とする4万人(平家物語)とも数千人(山槐記)ともいわれる大軍が興福寺に向かって進軍させます。

そして、平家軍は、同年12月28日に木津・奈良坂の防衛線を突破して南都の入り口に到達し、般若坂近辺で興福寺軍と交戦します。

問題が起きたのは、この後です。

同日の戦いを終えた平家軍は、同日夕刻、奈良坂と般若坂を占拠し、本陣を般若坂沿いの般若寺内に移します。

そして、夜間の灯りを得るために付近の民家に火を放ったのですが、この火が折からの強風に煽られて延焼し、南都一帯に広がる大火災に発展します(平家物語)。なお、南都焼討は元々の計画であったとの説もありますので、平家が火を放った意図は不明です。

いずれにせよ、平家方から放たれた火により、北は般若寺から南は新薬師寺付近、東は東大寺・興福寺の東端から西は佐保辺りにまで及び、現在の奈良市内の大半部分にあたる地域を焼き尽くす大火事となりました。

特に、火元に近かった興福寺や東大寺の被害は大きく、東大寺では、金堂(大仏殿)・中門・回廊・講堂・東塔・東南院・尊勝院・戒壇院・八幡宮など寺の中枢となる主要建築物の殆どや、多くの仏像・仏具・経典などが失われ、焼け残ったのは中心からやや離れた高台にある鐘楼・法華堂・二月堂や寺域西端の西大門・転害門および正倉院などごく一部という事態に陥ります。

なお、大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちたといわれています。

東大寺への処分の撤回(1181年3月1日)

平清盛は、南都焼討後まもなくの治承5年(1181年)初頭、東大寺や興福寺の荘園・所領を悉く没収するとともに別当・僧綱らを更迭するなど、これらの寺院の事実上の廃寺政策を決定し、再び南都に兵を派遣してこれらの施策を実行に移します。

ところが、直後の同年正月14日に親平家派の高倉上皇が崩御し、同年閏2月4日に平清盛が高熱を発して64歳で死去したため、求心力を失った平家はこれらの施策を一旦中断します。

そうこうしているうちに、各地で反平家勢力の挙兵が頻発したため、平家は南都の処理に関わっていられなくなり、平清盛の後を継いだ平宗盛が、同年3月1日、東大寺・興福寺に対して行った処分の全てを撤回したため、すぐさま焼け落ちた東大寺の復興の動きが始まります。

鎌倉初期の東大寺復興活動

東大寺復興運動

まず、治承5年(1181年)3月18日、まずは実検使として、東大寺に後白河法皇の院司蔵人である藤原行隆が派遣され(興福寺には藤氏長者である藤原基通の家司藤原光雅と勧学院別当藤原兼光が派遣されました。)、南都の被害状況の調査が始まります。

このとき、被害状況を視察に来た藤原行隆に対して俊乗房重源が東大寺再建を進言します。

この進言に藤原行隆が賛同し、その推挙を受けて重源が東大寺勧進職に就き、東大寺の復興が始められることとなりました

もっとも、東大寺の復興には財政的・技術的に多大な困難がありました。

東大寺復興における財政的問題

当然ですが、東大寺クラスの巨大寺院を再建するためには巨額の費用が必要となるのですが、東大寺単独でそのような資金を工面できません

そこで、東大寺再建の責任者となった重源は、東大寺再建を国家の安泰・仏教のもとでの人心の統合を立て直すための国家事業であると説き、身分の差を問わず、後白河院から庶民に至るまで様々な者に対して寄付を呼びかけました。

具体的には、西行に奥州藤原氏に砂金勧進をさせたり、重源自ら後白河法皇・九条兼実・源頼朝などに浄財寄付を依頼したりしています。

これを受けて、藤原秀衡から奥州産の金、源頼朝から米・金・絹などの多額の寄付がなされ、また文治2年(1186年)3月に周防国が東大寺造営料所とされたことにより重源が周防国に下向し、同年以降、同国の税収が東大寺再建費用に充てられることとされたりすることにより東大寺再建費用が集められていきました。

なお、源頼朝は、当初は朝廷の覚えをめでたくしようとして積極的に多額の寄付を申し出ていたのですが、武家の棟梁としての地位を確立し、また右近衛大将に任官して権威を得ると自ら行う寄付は減らされ、代わりに御家人に再建事業を命じて担わせる形に変わっていきました。

東大寺復興における技術的問題

復興が決まった東大寺でしたが、財政的な問題に加えて技術的な問題にも直面します。

創建当初の奈良時代建築技術は約400年という時間の経過により失われており、かつての技術を基に東大寺を再建することができなかったからです。

そこで、かつての技術で復興するのではなく、南宋から新たな技術を取り入れ、新技術によって大仏鋳造・伽藍造営・仏像彫刻などが行われることとたなりました

なお、このとき南宋の技術が用いられることとなった理由は、東大寺再建の責任者であった重源が宋に渡った経験があり、南宋とのコネクションがあったことによります。

(1)大仏の鋳造

東大寺再建事業開始当初、日本人技術者により大仏の再建が試みられます。

もっとも、日本人技術者による大仏再建は上手くいかず、再建作業は難航します。

このとき、重源は、かつて宋に渡った経験と伝手を使い、当時盛んに行われていた日宋貿易を行うために民間商船で来日していた宋の商人兼技術者であった陳和卿を大仏再建技術者に抜擢します。

(2)伽藍造営

大仏造立について陳和卿の指導を受けた重源は、伽藍配置(東大寺のレイアウト)と、そこに配される各種建築物についても陳和卿の持つ南宋の建築技術を採用します。

このとき採用された南宋の建築技術は大仏様(だいぶつよう、元々は天竺様と呼ばれていたのですが天竺だとインドの建築様式との誤解生むため大仏様と呼ばれるようになりました。)と呼ばれ、大陸的な雄大さ力強さを持つ建築技法でした。

このとき、大仏殿(2代目大仏殿、1195年再建・1567年再焼失)も創建当初のものとほぼ同じ規模で再建されたのですが、その様式は大仏様に変更されています。

また、現存し国宝となっている南大門も、このときに再建された大仏様の建築物です。

(3)仏像彫刻

南都焼き討ちにより、東大寺建築物と共に、その中に納められていた多くの仏像もまた焼失します。

そこで、このとき失われた仏像群を復活させるため、当時大和国(現在の奈良県)を中心に活動していた慶派仏師に仏像彫刻が依頼されます。

その結果、慶派仏師であった運慶・快慶・湛慶などが仏像の彫刻に取り掛かり、次々とこれを完成させていきます。

慶派の仏師が制作する仏像は、それまでの優しい佇まいの仏像とは一線を画した写実的で力強い佇まいのものが多く、この頃に台頭してきた武士の世の中を象徴するものとして高い評価を獲得します。

再建されていく東大寺

大仏開眼供養(1185年8月)

東大寺の再建は、大仏の修復から始められており、まずは文治元年(1185年)6月に修復が完了した大仏につき、同年8月28日に後白河上皇を導師として大仏の開眼供養(魂を請じ入れること)が行われました。

その上で、翌文治2年(1186年)3月に東大寺造営料所とされた周防国の税を用いてさらなる東大寺再建事業が進められます。

大仏殿落慶法要(1195年)

その後、建久6年(1195年)には2代目大仏殿が再建され、後白河法皇や源頼朝列席のもとで落慶法要が盛大に営まれます。

総供養(1203年)

さらに、建仁3年(1203年)には、後鳥羽上皇列席のもとで総供養を行われます。

そして、この後も半世紀以上もの長い期間をかけてその他建築物の再建が進められ、再建事業が完了したのは焼失から100年以上経過した正応2年(1289年)1月18日でした。

余談

再建に伴って、東大寺における教学活動も活発になり鎌倉時代以降にも多くの学僧を輩出することとなるのですが、東大寺は戦国時代の永禄10年(1567年)10月に再焼失しています。

もっとも、長くなりますので、戦国時代の東大寺再焼失の話については別稿に委ねたいと思います。

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