【酒井忠次】背に目を持つ如しと評された徳川四天王筆頭

徳川家康の天下統一に最も貢献したのが徳川四天王ですが、その筆頭は何と言っても酒井忠次です。

何度も徳川家康の窮地を救った冷静沈着なブレーンです。

松平信康切腹事件の際には、究極の選択を迫られるなど苦しい立場も経験した苦労人でもあります。

本稿では、そんな徳川四天王筆頭・酒井忠次の人生について見ていきましょう。

酒井忠次の出自(1527年)

酒井忠次は、大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏に古くから仕える譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれます。幼名は小平次といいました。

酒井忠次は、元服後、酒井小五郎、後に左衛門尉と称し、徳川家康の父・松平広忠に仕えます。

その後、徳川家康(このとき7歳で幼名を竹千代といいましたが、本稿では便宜上徳川家康の名で統一します。)が紆余曲折の後に、天文18年(1549年)に人質として今川家に移されることとなったのですが、酒井忠次は、その後も岡崎に残って奉行を勤め、主不在の領地を守ります。

徳川家康が駿河国へ移った後も尾張国・織田家と駿河国・今川家との間では激しい戦いが繰り広げられ、今川家に従属する三河国・松平家は、対織田家との戦いの最前線で戦わされることとなり、松平家家臣であった酒井忠次もまた織田家との数々の戦に今川方の武将として出陣し、そこで武功を挙げています。

徳川家康の三河国統一期

今川家からの独立(1560年)

その後、永禄3年(1560年)5月、今川家による尾張国侵攻作戦を開始した際、今川軍の先鋒としてとして大高城兵糧入れ作戦を成功させた徳川家康が大高城にいたのですが、このとき桶狭間の戦いにより今川義元が討ち取られます。

徳川家康は、このときのどさくさに紛れてかつての居城であった西三河の岡崎城に戻り、その後、今川家との決別を決意し、その証として今川義元から貰った当時の松平元康という名を捨て、松平家康に改名します。

その上で、人質交換により妻子を今川家から取り戻して今川家から独立し、永禄5年(1562年)正月ないし3月、織田信長との間に軍事同盟(清洲同盟)を締結して織田家により西側の安全を確保したかり徳川家康は、西三河の支配権の取り戻し及び奥三河・東三河侵攻作戦にとりかかります。

長く苦しい三河国平定戦の始まりです。

三河一向一揆(1563年)

ところが、徳川家康の西三河平定戦の最中にとんでもない事態が起こります。

永禄6年(1563年)、徳川家康が、西三河の浄土真宗本願寺派寺院が持っていた守護不入特権を否認したことをきっかけに西三河で大規模な一向一揆が発生し、主君と信仰とを天秤にかけた家臣団の一部が徳川家康に反旗を翻したのです。

このとき徳川家康に反旗を翻した家臣には、その後徳川家康の参謀となる本多正信、徳川十六神将の蜂屋貞次、三方ヶ原の戦いで徳川家康の身代わりとなって討死した夏目広次などの家中の有力者も多く含まれる大規模な内紛に繋がります。

また、酒井忠次の属する酒井家でも、酒井忠次の叔父である酒井忠尚を始めとする幾人もの者が一向一揆に与して徳川家康に敵対することとなりました。

この三河一向一揆は、徳川家(松平家)の存亡の危機であり、その後の三方ヶ原の戦い、神君伊賀越えと並ぶ徳川家康の3大危機と言われています。

もっとも、酒井忠次は、一族が離反していく中でも徳川家康への忠義を貫き、決して徳川家康に敵対することはありませんでした。

その後、何とか三河一向一揆を鎮めた徳川家康は、西三河の統一を果たします。なお、徳川家康は、以降、同地での一向衆の信仰を禁止したものの、離反した家臣には寛大な処置にとどめ、家中の結束を守ることに成功しています。

なお、この頃、酒井忠次は、徳川家康の生母である於大の方の異母妹であり松平元広忠の異母妹でもある碓井姫を室に迎えていますので、徳川家康の義理の叔父にあたる立場となっています。

吉田城を与えられる(1566年)

三河一向一揆を制圧した徳川家康は、次に東三河制圧作戦を始めます。

徳川家康は、永禄7年(1564年)6月2日、酒井忠次に対して、攻略の暁にはその褒美として吉田城を与え、吉田北郷一円の支配を任せる旨記載した書状を与え、吉田城攻略を命じます。

城持になれると考えた酒井忠次は、吉田城を守る小原鎮実を撤退させて同城を開城させ、これにより徳川家康による東三河平定を果たさせる大功を挙げます。

この結果、酒井忠次は、戦後に約束どおり吉田城を与えられ、東三河の国人衆の統括者としての役割を担うようになります。

なお、徳川家康の家臣団の内で、新たに城主に任じられたのは酒井忠次が初めてであり(それまでに徳川家康から城代に任じられた者はいたのですが、城主に任じられた者はいませんでした。)、このことからも酒井忠次が徳川家の筆頭家臣であったことがわかります。

その後、徳川家康は、永禄9年(1566年)5月に奥三河の平定も終え、念願の三河国統一を成し遂げます。

東三河旗頭に任じられる(1566年)

三河国を統一した徳川家康は、富国強兵を目指して様々な改革に着手します。
まずは、天野康景・高力清長・本多重次の3人を岡崎三奉行(三河三奉行)に任命して三河国内の内政・訴訟の一切を取り仕切らせ、富国を目指していきます。

さらに、さらなる強兵を目指して軍政改革を行います。

目的は、さらなる領土拡大のために機動的な軍の編成が可能となることと、宗家の座を巡って度々反乱を起こしていた松平一門衆に序列を認識させることにより徳川家康を頂点とするピラミッド型の支配システムを作り上げることでした。

そのために、徳川家康は、統治下に治めた西三河一帯を石川家成に,東三河一帯を酒井忠次に委ね、これとは別に編成した徳川家康直轄の旗本衆を編成することにより、三河国内の軍を3つの備として再編成し、松平一門衆・国衆らを含めた全ての者をこの指揮系統下に入れてしまいます(三備の制)。

この結果、酒井忠次は、単に吉田城主となっただけではなく、合戦の際には徳川軍の3分の1を指揮する指揮官となりました。

なお、徳川家康は、功績を認められたことから三河守に叙任されたことを機に、同年末に松平姓を徳川姓に改めています。

織田家臣従期

三河国を統一した徳川家康は、織田信長と共に飛躍の時代を迎えます。

それに伴い、酒井忠次は、東三河勢を率いる徳川家の主力部隊の1つとして、徳川家康が出陣するあらゆる戦場に向かいます。

徳川家康の遠江国侵攻(1569年)

三河国を平定した徳川家康の次のターゲットは、今川義元を失って混乱する今川家が治める遠江国です。

このとき今川家の領土を狙っていたのは徳川家康だけではなく、武田信玄も同様でした。

そこで、永禄12年(1569年)、徳川家と武田家との間で今川領の切り取りの密議が行われて、武田家が駿河国、徳川家が遠江国を切り取るとの同盟が成立します。

このとき、徳川方の交渉役として武田信玄との軍事同盟をまとめ上げたのが酒井忠次でした。

その後、永禄11年(1568年)12月、徳川軍・武田軍による今川領同時侵攻作戦が行われると、徳川軍の三河国から遠江国への進軍ルートとして浜名湖の北側を通って陣座峠から入るルートと南側を通るルートの2方面作戦がとられたのですが、このとき徳川家康率いる本隊が北側から,酒井忠次率いる別動隊が浜名湖西を攻略しつつ南側ルートを通って遠江国に侵攻していくこととなりました。

このとき、浜名湖南側ルートを進軍していた酒井忠次率いる別働隊は、同年12月13日に境目城を攻撃しこれを陥落させた後、同年12月15日には宇津山城・白須賀城を相次いで陥落させ曳馬城に到達します。

酒井忠次は、その後、徳川家康本隊と合流しますが、その後の遠江国侵攻戦でも活躍をして徳川家の遠江国獲得に貢献しています。

姉川の戦い(1570年)

また、元亀元年(1570年)の織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍との戦いである姉川の戦いが勃発します。

このとき徳川軍は姉川沿いで織田軍の西側に陣取ります。

この戦いでも、酒井忠次は、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切り、その後は崩れそうになる戦線を支えて勝利に貢献をしています。

三方ヶ原の戦い(1573年)

ところが、その後徳川家に試練が起きます。

元亀3年(1573年)、足利義昭の要請を受けた武田信玄が西上作戦を開始し、徳川領に侵攻してきたのです。

勢いにのる武田軍は次々と徳川方の城を落としていき、徳川家康の本拠岡崎城に迫ってきます。

籠城戦ではなく野戦を選んだ徳川家康は、三方ヶ原で武田軍と戦いになりますが、大敗に終わります(三方ヶ原の戦い)。なお、この戦いでも、酒井忠次は、徳川軍の右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊を打ち破る活躍をみせています。

その後、三方ヶ原の戦いに敗れて浜松城に逃げ戻ってくる徳川軍に対し、酒井忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞すると共に、伏兵のあることを疑わせて武田方を引き返させたという話も残っています(酒井の太鼓、おそらく江戸時代以降の創作話ですが)。

長篠設楽原の戦い(1575年5月)

天正3年(1575年)5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍との雌雄を決する有名な長篠設楽原の戦いが行われたのですが、その戦いの直前に極楽寺で行われた軍議の際、酒井忠次は、設楽原に布陣した織田・徳川連合軍に攻め入る武田軍の背後をとる策を献策します。

そして、織田信長に献策の実行を許された酒井忠次は、決戦前夜である同年5月20日深夜に別動隊4000人(酒井忠次の配下500人、徳川軍2000人、織田軍1500人)を率い、西進してくる武田軍を南側から迂回して豊川を渡河し、さらに尾根伝いに進んで武田軍の退路上にある長篠城を囲む砦群を奇襲し、鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、長篠城を解放する大功を挙げています。

武田軍は、酒井忠次によって退路を断たれ、長篠設楽原で敗れた後、名だたる武将をことごとく失う大損害を被りました。

この酒井忠次の大功は織田信長に大絶賛され、長篠設楽原の戦い後、織田信長から「背に目を持つごとし」と称賛されて陣羽織を送られています。

松平信康切腹事件(1579年)

徳川家康の嫡男であった松平信康は、永禄2年(1559年)に徳川家康が人質とされていた今川家の本拠であった駿府で生まれます。

永禄5年(1562年)に織田家・徳川家間に清洲同盟が成立すると、その関係強化のため、永禄10年(1567年)5月、松平信康は織田信長の娘である徳姫と結婚します(共に9歳の少年少女でした。)。

同年6月、松平信康は浜松城に移った徳川家康から岡崎城を譲られ、以降同城に移り住みます。また、このとき直属の譜代家臣も与えられます。

同年7月、元服し、織田信長の偏諱「信」の名を与えられ、以降松平信康と名乗ります。なお、徳川家康が永禄9年(1566年)徳川に改姓しているため、徳川信康と名乗っていたはずですが、江戸時代に「徳川」姓を名乗るれのは将軍家・御三家・御三卿に限るとの方針がとられたため、死後徳川信康から松平信康に格下げされています。(そのため、本稿では松平信康で統一します。)。

松平信康は武勇に優れていたと言われ、天正元年(1573年)に初陣を果たした後、数々の武功を挙げていき、徳川家康の後継者としての地位を固めていきます。

ところが、順風満帆だった松平信康を奈落の底に落とす事件が起こります。

松平信康の正室である徳姫(織田信長の娘)は、姑である築山殿と折り合いが悪く、結果として築山殿の子である松平信康とも不仲となっていきました。

そんな中、徳姫は、天正7年(1579年)、使者として織田信長の元に赴く酒井忠次に、徳姫が松平信康と不仲であること、築山殿と松平信康が武田勝頼と内通していると記載した手紙預けます。

織田信長は、徳姫からの手紙を見て激高し、酒井忠次に対して事の真偽を詰問します。

織田信長に問い質された酒井忠次は悩みます。

手紙の内容を否定すれば、織田信長にその娘である徳姫が嘘をついているということになりますので、織田家に喧嘩を売るようなものです。徳川家と織田家との戦になりかねません。

他方で、手紙の内容を肯定すれば、松平信康は裏切り者の汚名を着せられ切腹を命じられます。徳川家は嫡男を失います。

究極の選択です。

悩みに悩んだ酒井忠次は、この詰問は織田信長が徳川家をつぶす口実を探しているものであると察し、徳川家を守るため、松平信康を切り捨てる決断をします。

そして、酒井忠次は、全く弁明することなく徳姫が書いた内容が全て事実であると認めました。

織田信長は、酒井忠次の回答を聞き、徳川家康に対して築山殿と松平信康の処分を命じます。

これに対し、徳川家康もまた、徳川家を守るため、やむなくこれに同意します。

徳川家康は、天正7年(1579年)8月29日、まずは佐鳴湖畔で築山殿を殺害し、続いて同年9月15日、二俣城に幽閉していた松平信康を切腹させます。

徳川家康は、切腹の直接のきっかけを作った酒井忠次の選択を責めることはありませんでした。

そればかりか、徳川家康は、苦しい選択を強いられた酒井忠次をその後も重用し続けます。

徳川家による武田領切取り期

神君伊賀越え(1582年6月)

天正10年(1582年)6月2日、京にいた織田信長が配下の明智光秀の謀反により横死するという大事件(本能寺の変)が起こります。

このとき、酒井忠次は、僅かな伴を連れた徳川家康と共にから京に向かう途中だったのですが、このままでは明智光秀に捕られて命を落とすことは目に見えていますので、急遽本拠地三河に帰らなければならない事態に陥ります。

そして、徳川家康らは、明智光秀の手が及んでいない伊賀の山越ルートでの帰国を決めます。

このとき、酒井忠次らは、落武者狩りから徳川家康を守り抜き、無事武士三河国に帰り着きました(神君伊賀越え)。

天正壬午の乱(1582年6月〜)

織田信長が死亡したことより、武田家の遺領を抑えきれなくなった織田家家臣団が甲斐国・信濃国から撤退します。

これにより統治者不在となって権力の空白地帯となった武甲斐国・信濃国を狙って徳川家、北条家、上杉家が三つ巴の戦いを繰り広げます(天正壬午の乱)。

そんな中、徳川家康は、天正10年(1582年)6月27日、酒井忠次を信濃国へ派遣して信濃国衆の懐柔を図ります。

そして、酒井忠次は奥三河・伊那経由で信濃国へ侵攻しましたが、深志城主・小笠原貞慶の離反や高島城主・諏訪頼忠の調略失敗により、作戦をうまく勧めることが出来ませんでした。

もっとも、天下壬午の乱では、徳川家康が上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域を獲得し、徳川家は、先の駿河侵攻を含めてわずか数ヶ月で5国を領有する大大名となります。

また、徳川家康は、武田家家臣団を吸収し、人材登用も進みました。

なお、このとき採用された武田家臣団の大半を井伊直政が引き受けたことから榊原康政が不満を漏らしたところ、酒井忠次が榊原康政を叱責して井伊直政と榊原康政の仲を取り持ったという逸話が残っています。

小牧長久手の戦い(1584年3月)

天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いの際には、小牧山を占拠した上で砦や土塁で取り囲んで徳川軍の本陣とし、池田恒興と共闘する森長可が先行しているのを見て、同年3月17日、酒井忠次らが5000人の兵でこれを奇襲してこれを破り敗走させています。

その後、幾度かの戦いを経た徳川家康が同年6月28日に清洲城に移る際、酒井忠次は、徳川家康から小牧山城を預かっています。

また、戦後の同年10月には、徳川家康に供奉して上洛し、敵将であった豊臣秀吉からそのさらに戦功を評価され、従四位下左衛門督への推挙がなされ任命されて、また京の桜井に屋敷を与えられています(さらに、同戦いの評価により、徳川四天王の1人にも挙げられるようになります。)。

酒井忠次死去(1596年)

酒井忠次隠居(1588年10月)

天正13年(1585年)、徳川家の双璧とされていた宿老・石川数正が出奔して豊臣秀吉に寝返ったため、酒井忠次は、徳川家第一の重臣となります。そして、酒井忠次は、天正14年(1586年)10月24日に家中最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されています。

そんな酒井忠次も60歳を越えて老が見えはじめたこと、眼病を患って目が見えなくなってきたことから、天正16年(1588年)10月、嫡男の酒井家次に家督を譲って隠居します。

なお、天正18年(1590年)7月に徳川家康が関東に移封された際に、酒井忠次の子である酒井家次が徳川家康から下総国臼井(碓井)に3万7000石を与えられたのですが、このとき酒井忠次は、他の徳川四天王3人が10万石規模を与えられたにもかかわらず酒井家次が得た知行が少なすぎると抗議します。

もっとも、このとき酒井忠次は、徳川家康から「お前も我が子が可愛いか」と松平信康事件の不手際を責められて何も言えなくなったとの逸話が残されています。

酒井忠次死去(1596年10月28日)

そして、晩年の酒井忠次は、豊臣秀吉から、京の桜井(現在の京都市上京区桜井町)にあっ屋敷と在京料として近江国内で1000石の知行地を与えられて京で暮らしたのですが、年には勝てず、慶長元年(1596年)10月28日、京の桜井屋敷で死去します。享年70歳でした。

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