源範頼(みなもとののりより)は、源頼朝の異母弟・源義経の異母兄として、木曾義仲討伐戦や平家討伐戦で大将軍を務めた武将です。
源氏一門として重用され、鎌倉幕府において重要なポジションを占めていたのですが、後に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流されています(粛清された?)。
共に平家討伐に貢献した源義経と比べると知名度は今一つですが、実は役回りや実績は源範頼の方が圧倒的に上です。
そこで、本稿では、不当な評価を受けがちな源範頼の生涯について見ていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
源範頼の出自
出生(1150年?)
源範頼は、久安6年(1150年)ころ、清和源氏為義流(河内源氏)棟梁であった源義朝の六男として生まれます。
母は、静岡県磐田市(平成の大合併前は磐田郡豊田町)にあったとされる遠江国池田宿の遊女とされており(尊卑分脈)、源頼朝の異母弟、阿野全成・源義円・源義経らの異母兄となります。
藤原範季に庇護される(1161年ころ)
出生後しばらくの正確な記録はなく(平治の乱の際にも存在を確認されていません。)、父・源義朝が敗死した後の応保元年(1161年)以降に、藤原範季に引き取られて養子となり、遠江国蒲御厨において藤原範季の庇護の下で生活をしていました。
そのため、源範頼は、元服に際し、養父・藤原範季から「範」の一字をもらい受け、源範頼と名乗ります。
また、源範頼は、遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれます。
源頼朝の下に参陣
甲斐源氏の挙兵に協力
以仁王が挙兵し、以仁王の令旨が全国の源氏勢力に配られたことをきっかけとして、治承4年(1180年)4月下旬または5月上旬ころ、甲斐源氏・武田信義が甲斐国で挙兵します。
挙兵した武田信義は、弟・安田義定、子・一条忠頼らと協力してまずは甲斐国を制圧し(山槐記)、続いて信濃国・駿河国・遠江国に侵攻していきます。
このとき、埋伏していた源範頼は、遠江国に進出してきた甲斐源氏・安田義定に協力し、その下にて源氏方の将として平家と戦うようになります。
他方、富士川の戦いに勝利し、相模国・鎌倉を本拠と定めた源頼朝は、上洛戦を進めるのではなく、関東一円の平氏勢力掃討戦を進めていきます。
源頼朝の下に参陣(1183年2月)
寿永2年(1183年)2月、源頼朝の関東制圧戦の1つとして、3万騎を率いて鎌倉に向かって進軍してきた常陸国の志田義広を下野国の小山朝政が迎え討つという野木宮合戦が勃発したのですが、この戦いに甲斐源氏・安田義定から源頼朝方への援軍として源範頼が派遣されます(これが吾妻鏡に記載された源範頼の初見ですが、このときが源範頼が源頼朝の下に参陣した最初であったのかは定かではありません。)。
そして、源範頼は、おそらくこのときから源頼朝の下で働くようになったと考えられます。
また、時期は不明ですが、源頼朝の最古参家人である安達盛長の娘を室に貰い受け、結びつきの強化が図られています。
木曾義仲討伐戦
木曾義仲討伐軍総大将任命(1184年1月)
寿永2年(1183年)7月28日、木曾義仲が平家を都から追放し上洛を果たしたのですが、京の治安維持に失敗したり、皇位継承問題に口を出したりするなどして朝廷の信頼を失います。
追い詰められた木曾義仲は、寿永2年(1183年)11月19日、後白河法皇がいる法住寺殿を襲撃し、武力によるクーデターを起こします。
もっとも、このクーデターは、源頼朝に木曾義仲討伐の口実を与えます。
これを好機と見た源頼朝は、寿永3年(1184年)1月、源範頼を代官(大手軍の大将軍)とする木曾義仲追討軍を編成し、別働隊(搦手軍)として編成した源義経軍と共に京に向かわせます。
木曾義仲を討ち取る(1184年1月20日)
そして、西進を続ける源範頼軍は、寿永3年(1184年)1月、瀬田まで進軍して瀬田橋を押さえます。
源範頼が瀬田橋を確保したことにより、京にいる木曾義仲が支配地である北陸地方に戻ることが出来なくなります。
そして、搦手軍を率いた源義経が、同年1月20日、宇治橋の戦いを制して入京し、木曾義仲を源範頼が待ち受ける瀬田方向に追い込みます。なお、このときの源義経軍の宇治橋の戦いの契機は、源義経の独断による強襲とも、源範頼の作戦だったとも言われており、そこに至った経緯は不明ですが。
その結果、木曾義仲は、瀬田において北側で待ち構えるの源範頼軍と、南西側からやって来た源義経軍に挟撃されて討ち死にします(瀬田の戦い)。
源範頼入京
そして、源範頼・源義経が入京し、後白河法皇を解放します。
源範頼・源義経の活躍によって政治の表舞台返り咲くことができた後白河法皇でしたが、法皇の下には三種の神器がありませんので、権威の正当性の根拠がありません。
そこで、後白河法皇は、この状況を打破すべく、寿永3年(1184年)1月26日、源頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じます。名目は平家追討の宣旨ですが、実質は三種の神器奪還命令です。
なお、平家は、この木曾義仲と源頼朝方が源氏同士で争っていた間に屋島を本拠地として勢力を整え、この時点では、京奪還のための拠点とすべく大輪田泊に上陸して福原の再建を進める程に力を取り戻していました。
この結果、木曾義仲を討伐して京に入った源範頼は、間もなく福原に進出していた平家と対峙することとなったのです。
平家討伐戦
一ノ谷の戦い(1184年2月7日)
源頼朝は、後白河法皇の命を受けて、京にいた源範頼と源義経に平家追討を命じます。
そして、源頼朝の命を受けた源範頼・源義経は、直ちに軍勢を整え、寿永3年(1184年)2月4日、源範頼が大手軍5万6千余騎を、源義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発し、福原に向かいます。
京を出発した源氏軍は、源範頼率いる大手軍が京からゆっくりと西進して平家方の気を引きつけ、その間に源義経率いる搦手軍が北側の丹羽路を通って大きく西側に迂回していきます。平家が守る福原を挟撃する作戦です。
源氏軍は、同年2月5日、西側・塩屋口から土肥実平ら7000騎、北西側・夢野口から安田義定、多田行綱ら3000騎、北側から源義経70騎、東側から源範頼5万6000騎の陣容で福原に迫ります。
そして、同年2月7日明け方、西側に取り付いた土肥実平の軍の中から先駆けをしようと抜け出した熊谷直実・直家父子・平山季重を含めた5騎が、先陣を争って抜け駆けし、平忠度が守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げたことにより一ノ谷の戦いが始まります。
続いて夢野口・生田口でも戦いが始まり、当然、源範頼率いる大手軍が攻撃する生田口が最大の激戦地となります。
このとき、北西の山から迫った源義経が、平家軍本隊の喉元に突然飛び込むという奇襲により平家方が大混乱に陥り(鵯越の逆落し)、船に乗って海上にいた安徳天皇、建礼門院、総大将・平宗盛らが福原を放棄して屋島へ向かったことにより、一ノ谷の戦いは源氏方の勝利に終わります。
もっとも、福原から平家一門を追放しまたその勢力に大打撃を与えたという戦術的勝利はあったものの、合戦の戦略目標であった安徳天皇と三種の神器の確保には失敗しています。
一ノ谷戦いの戦後処理
木曾義仲と平家を打ち破って西国に影響力を及ぼすこととなった源頼朝は、梶原景時を播磨・美作の、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使(守護)に任命して山陽道を確保し、また佐原義連を和泉の、佐々木定綱を近江の、津々見忠季を若狭の、大内惟義を伊賀と美濃の惣追捕使に任命して勢力拡大(名目は畿内の平家方勢力を討伐)を図ります。
また、源頼朝は、自らも知行国主として関東知行国を獲得し、一旦源義経を除く源氏一門を鎌倉に戻した上で、源範頼を三河守、源広綱を駿河守、平賀義信を武蔵守にそれぞれ任官させています。
さらに、朝廷でも平家の影響力が低下したため、後白河法皇は、元暦元年(1184年)7月28日、安徳天皇を廃し、弟の尊成親王を後鳥羽天皇として即位させます。
もっとも、このときの後鳥羽天皇即位は、三種の神器がないままに行われたため(三種の神器は安徳天皇と共に平家の手中にありました。)、正当性の担保のないままに行われたものでした。
この正当性がない天皇即位は朝廷内でも大きな異論があったため、後白河法皇は、源頼朝に安徳天皇と三種の神器奪還を命じ、これを受けて、源頼朝が源範頼に更なる平家追撃を命じることとなったのです(このとき、一緒に京にいた源義経は、畿内の反乱勢力討伐に忙殺されており、平家討伐に向かうことはできませんでした。)。
山陽道・九州遠征(1184年8月〜)
西国出兵の命を受けた源範頼は、元暦元年(1184年)8月8日、和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎を率いて平氏追討のために鎌倉を出立します。
その後、京に入った源範頼は、同年8月27日に追討使に任命された上で軍の結集を待ち、千葉常胤・三浦義澄・八田知家・葛西清重・小山朝光・比企能員・工藤祐経・天野遠景ら率いる3万騎を預かって、同年9月1日、京を出発し西に向かいます(源範頼の山陽道・九州遠征)。
山陽道を進む源範頼の軍は同年10月には安芸国に、同年12月には備中国に到達し、ここで平行盛軍を撃破して(藤戸の戦い)、山陽道の一応の安全を確保します。
その後、源範頼は、さらに平家の最西の拠点・彦島を無力化するため、さらに西に向かって進んで行きます。
ところが、源範頼軍は、3万騎という大軍であったために戦線が長く伸びてしまった上、瀬戸内水運を平家水軍に押さえられていることもあり、慢性的な兵糧不足に陥って進軍が停滞します(食糧不足の原因は、3万人もの大軍でえるにもかかわらず、源頼朝が兵站を確保することなく急ぎ出陣したことによります。)。
それでもなんとか関門海峡手前まで到達した源範頼軍ですが、水軍を持たなかったために、平知盛が押さえる関門海峡を突破できずここで進軍が止まります。
結局、困った源範頼は、関門海峡を前に兵糧が尽きて周防国へ後退し、元暦元年(1184年)ころから、窮状を訴える書状を次々と鎌倉に送っています。
この状況に、将兵の間で厭戦気分が広まって源範頼軍は全軍崩壊の危機に陥り、同行していた侍所別当・和田義盛らも鎌倉への帰還を進言する状況でした。
その後、元暦2年(1185年)1月、源範頼の下に、反平家の立場にいた豊後国の豪族緒方惟栄・臼杵惟隆兄弟から82艘の船と、周防国の豪族宇佐那木上七遠隆から兵糧の提供があり、ようやく源範頼軍の九州上陸のめどがつきます。
そこで、源範頼は、周防国の守りとして三浦義澄を残し、その他の軍が船で豊後国に上陸します。
九州に上陸した源範頼軍は北上し、同年2月1日に、葦屋浦の戦いで平家家人・原田種直を破り大宰府に入ります。
大宰府を押さえた源範頼は、その勢いで豊前国・筑前国を制圧したため、九州上陸前から味方していた長門国・周防国とあわせて、平家の拠点であった長門国・彦島(下関市)を取り囲んで孤立させることに成功します。
その後、源範頼は、そのまま孤立する平家の拠点・彦島を攻撃しようと試みたのですが、兵船不足で彦島に上陸することまでは不可能と判断し、源範頼軍による彦島攻撃には至りませんでした。
平家滅亡(1185年3月24日)
この後、源範頼軍は、元暦2年(1185年) 2月、源義経が、平家のもう1つの拠点である屋島を攻略して(屋島の戦い)、西に向かってくるのを待ってこれと合流します。なお、源範頼は、源頼朝に窮状を訴える手紙の中で、屋島を攻略した源義経が熊野水軍を調略して九州へ渡ってくるという噂を聞き、攻撃手段がないために停滞している自分の面子が立たないとの苦情も書いています。
そして、大宰府に入って北九州を制圧した源範頼が南側の陸路での退路を塞ぎ、水軍を率いて瀬戸内海を西進してくる源義経が水軍で彦島に向かいます。
平家方としても、このまま源義経水軍を待ち受ければ挟撃される形となりますので、彦島から水軍を発進させ、長門国・赤間関壇ノ浦の海上で、海戦が始まります(壇ノ浦の戦い)。
そして、この戦いに敗れた平家方の将は次々と海に身を投げていき、ついに平家が滅亡に至ります。
また、このとき、幼い安徳天皇と共に、宝剣(天叢雲剣)が海の底に沈んで失われてしまいました。
源氏一門の有力者として
平家滅亡後の戦後処理
壇ノ浦の戦いの後、源範頼は、源頼朝の命に従って九州に残り、海に沈んだ神剣の捜索、平家の残存勢力掃討、領地の処分などの戦後処理に尽力します。
そんな中、元暦2年(1185年)5月、源範頼の下に、源頼朝から御家人達に問題があった場合には自ら判断して処罰せず、鎌倉の源頼朝を通すようにとの伝令が届きます。
そこで、源範頼は、この命を守りながら、戦後処理を進めていきます。
また、源範頼は、同年9月には、源頼朝に対し、帰還の手配を進めるも海が荒れたため到着が遅れる旨の報告し、忠誠を示しています。
源頼朝と源義経との対立
ところが、九州に残って源頼朝の命に従いながら事後処理を行う源範頼とは違い、先に京に戻った源義経は、源頼朝の命を無視し、源頼朝に無断で後白河法皇からの申し出を受けて官位を得てしまうなどの専横・越権行為が目立つようになり、源範頼が九州の行政に当たっている間に、源頼朝と源義経が対立していくようになります。
この点については、こまめな報告をした源範頼が、逆に源頼朝を無視する源義経の独断専行ぶりを際だたせたようです。
その後、源義経は、壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛・清宗父子を連行して鎌倉に凱旋帰国しようとするのですが、源頼朝に鎌倉入りを拒否され京に戻ります。
他方、源範頼は、元暦2年(1185年)10月、鎌倉へ帰還し、父・源義朝の供養のための勝長寿院落慶供養にで源氏一門として出席しています。
そして、同年10月17日、源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が、60余騎を率いて源義経がいる六条堀川にあった源氏堀川館を襲撃したことにより(堀川夜討ち)、源頼朝と源義経との仲が決定的に破綻します。
源義経の最期(1189年閏4月30日)
この結果、源義経が、源頼朝討伐のために挙兵したのですが、思ったようには兵が集まらず、また乗っていた船が難破したことにより集まっていた仲間や兵も失ったことから挙兵自体が失敗に終わり、同年11月に都から落ちていきます。
その後、源義経は、奥州に落ち延び、奥州藤原氏に匿われたのですが、文治5年(1189年)閏4月30日、源頼朝の圧力に屈した藤原泰衡の襲撃により自害して果てています(衣川の戦い)。
奥州藤原氏討伐戦
源頼朝は、文治5年(1189年)7月、源義経を匿ったためという名目で、自ら出陣して奥州藤原氏討伐を行います(奥州合戦)。
このとき、源範頼は、源頼朝本隊に従って進軍しています。
その後、建久元年(1190年)11月の源頼朝の上洛については、これに従って上洛し、源頼朝任大納言の拝賀で前駆をつとめています。
源範頼の最期
源範頼の失言?
建久4年(1193年)5月、源頼朝が、多くの御家人を伴って富士の裾野で盛大な巻狩を開催することとなったのですが(吾妻鏡)、同年5月28日夜、曽我兄弟が工藤祐経の寝所を急襲して討ち取るという事件が起こります(曾我兄弟の仇討ち)。
ところが、このときの事件はこの仇討ちだけでは終わらず、理由は不明ですが、現場から逃走した曾我兄弟の弟・曾我時致が、源頼朝の御旅館に押し入るという事件に発展しました。
この曾我兄弟の仇討事件とその後の源頼朝襲撃は鎌倉幕府を揺るがす大事件として鎌倉にも伝わります。
もっとも、鎌倉には、工藤祐経が暗殺されたこと、源頼朝も襲われたこと等の情報が伝わったものの、源頼朝の安否の情報はなかなか届きませんでした。
そればかりか、鎌倉には源頼朝が討たれたとの誤報まで届く混乱ぶりでした。
源頼朝が死亡したとの報を聞いた北条政子は、嘆き悲しむこととなったのですが、この北条政子の悲嘆ぶりを見た源範頼が、北条政子を励まそうとしてもしものときは源範頼が控えているのでご安心くださいといった旨の見舞いの言葉を送ります(保暦間記)。
なお、このときの源範頼の言葉は保暦間記にしか記されていないことから、北条政子の虚言、また陰謀であるとする説もあり、正確なところは不明です。
伊豆国配流(1193年10月17日)
その後、源頼朝が無事であったことがわかったのですが、源頼朝は、北条政子から、源頼朝の生死不明の間に源範頼がもしものときは源範頼が控えているとの発言をしたとの話を聞かされます。
元々猜疑心の強い源頼朝は、この話を聞き、源範頼に謀反の疑いありと判断します。
完全な言いがかりとしか思えませんが、源範頼は、源頼朝が謀反を疑っていると聞いて驚きます。
焦った源範頼は、建久4年(1193年)8月2日、源頼朝に対して、忠誠を誓う起請文を送ります。
ところが、源頼朝は、この起請文の中で源範頼が自らの名を「源」範頼という源姓で名乗ったことを、過分であると責め立てます。
そして、源頼朝は、同年10月17日、源範頼を伊豆国・修善寺に流して幽閉します。
源範頼の最期?
吾妻鑑にはこの後の源範頼についての記載がないため、その後の源範頼の生死は不明です。
もっとも、館に籠もって不審な動きを見せたとして建久4年(1193年)8月18日、結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって源範頼の家人らが討伐されていますので、謀殺されたと考えるのが素直なのかもしれません(保暦間記・北條九代記では誅殺されたとされています。)。