天皇陵とは、天皇が葬られた場所を言い、その根拠は皇室典範27条に求められます。
皇室典範27条では、天皇・皇后・太皇太后及び皇太后を葬る所を陵というとしていますので(その他の皇族を葬る所は墓とししています。)、陵のうち天皇が葬られた場所を「天皇陵」ということとなるのです。
日本に点在する陵墓の被葬者を特定することを「治定」といい、治定作業は古くは江戸時代(元禄~文久年間)からその当時の学問水準を基にして行われており、今日の水準からすると疑問点の多いものとなっています。
もっとも、これまでに天皇陵として治定されたものは宮内庁の管理下におかれ、発掘調査どころかその立入さえ許さないという制限を受けていますので、その真偽を質すことさえ出来ない状況となっているということを理解した上で本稿をご参照いただければ幸いです。
【目次(タップ可)】
神話の時代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | |
1 | 神武天皇 | 畝傍山東北陵 | 奈良県橿原市大久保町 | ? |
2 | 綏靖天皇 | 桃花鳥田丘上陵 | 奈良県橿原市四条町 | ? |
3 | 安寧天皇 | 畝傍山西南御陰井上陵 | 奈良県橿原市吉田町 | ? |
4 | 懿徳天皇 | 畝傍山南纖沙溪上陵 | 奈良県橿原市西池尻町 | ? |
5 | 孝昭天皇 | 掖上博多山上陵 | 奈良県御所市大字三室 | ? |
6 | 孝安天皇 | 玉手丘上陵 | 奈良県御所市大字玉手 | ? |
7 | 孝霊天皇 | 片丘馬坂陵 | 奈良県北葛城郡王寺町本町 | ? |
8 | 孝元天皇 | 劔池嶋上陵 | 奈良県橿原市石川町 | ? |
9 | 開化天皇 | 春日率川坂上陵 | 奈良市油阪町 | ? |
10 | 崇神天皇 | 山邊道勾岡上陵 | 奈良県天理市柳本町 | ? |
11 | 垂仁天皇 | 菅原伏見東陵 | 奈良市尼辻西町 | ? |
12 | 景行天皇 | 山邊道上陵 | 奈良県天理市渋谷町 | ? |
神話の時代には(古墳時代・飛鳥時代・奈良時代も同様)、ときの中央政府の中枢が奈良県内に置かれていたことが多かったとされ、奈良盆地一帯には有力者が多く居住していたと考えられます。
そのため、初期の天皇陵を含めたこの頃の陵墓の多くが奈良県内に残されていると考えられています。
なお、初代天皇である神武天皇陵が治定された幕末期には、その候補は3つあって確定していなかったのですが、文久3年(1863年)に神武田(ジブタ)と呼ばれる塚が神武天皇陵として改修されて現在に至っています。そして、これに伴って、それまで神武天皇陵と考えられていた塚山は明治11年(1878年)に2代天皇である綏靖天皇陵として治定されるに至っています。
また、2代〜9代の天皇は、日本書紀にもその記述は少なく、「欠史八代」と呼ばれる存在が疑問視されているのですが、その全てに陵が存在しています。
古墳時代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
13 | 成務天皇 | 狹城盾列池後陵 | 奈良市山陵町 | ? | |
14 | 仲哀天皇 | 惠我長野西陵 | 大阪府藤井寺市藤井寺4丁目 | ? | |
15 | 応神天皇 | 惠我藻伏崗陵 | 大阪府羽曳野市誉田6丁目 | ? | |
16 | 仁徳天皇 | 百舌鳥耳原中陵(允恭天皇陵説あり) | 大阪府堺市堺区大仙町 | ? | |
17 | 履中天皇 | 百舌鳥耳原南陵 | 大阪府堺市西区石津ヶ丘 | ? | |
18 | 反正天皇 | 百舌鳥耳原北陵 | 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁 | ? | |
19 | 允恭天皇 | 惠我長野北陵 | 大阪府藤井寺市国府1丁目 | ? | |
20 | 安康天皇 | 菅原伏見西陵 | 奈良市宝来4丁目 | ? | |
21 | 雄略天皇 | 丹比高鷲原陵 | 大阪府羽曳野市島泉8丁目 | ? | |
22 | 清寧天皇 | 河内坂門原陵 | 大阪府羽曳野市西浦6丁目 | ? | |
23 | 顕宗天皇 | 傍丘磐坏丘南陵 | 奈良県香芝市北今市 | ? | |
24 | 仁賢天皇 | 埴生坂本陵 | 大阪府藤井寺市青山3丁目 | ? | |
25 | 武烈天皇 | 傍丘磐坏丘北陵 | 奈良県香芝市今泉 | ? | |
26 | 継体天皇 | 三嶋藍野陵(宮内庁) | 大阪府茨木市太田3丁目 | ◯ | |
今城塚古墳(学説) | 大阪府高槻市郡家新町 | ||||
27 | 安閑天皇 | 高屋築山丘陵 | 大阪府羽曳野市古市5丁目(戦国期に高屋城の本曲輪として使用。) | ◯ | |
28 | 宣化天皇 | 身狹桃花鳥坂上陵 | 奈良県橿原市鳥屋町 | ◯ | |
29 | 欽明天皇 | 檜隈坂合陵 | 奈良県高市郡明日香村大字平田 | ◯ | |
30 | 敏達天皇 | 河内磯長中尾陵 | 大阪府南河内郡太子町大字太子 | ◯ | |
31 | 用明天皇 | 河内磯長原陵 | 大阪府南河内郡太子町大字春日 | ◯ | |
32 | 崇峻天皇 | 倉梯岡陵 | 奈良県桜井市大字倉橋 | ◯ |
3世紀頃から7世紀頃には、権力者である大王や王(豪族)が亡くなると土と石を使って高く盛った大きな墓を造り、その権力を誇示しました。
このとき造られた墓は、古墳と呼ばれ、全国に16万基以上あると言われています。
この古墳が造られた時代を古墳時代と呼んでおり、古墳のうちのいくつかが歴代天皇の陵であると治定されています。
なお、第25代までの天皇(大王)はその実在が疑われているのですが、第26代継体天皇からは記録が存在しているために実在が間違いないとされており、現在の皇室までその系譜が繋がっていることがほぼ間違いないと考えられている最初の天皇が継体天皇です。
飛鳥時代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
33 | 推古天皇 | 磯長山田陵 | 大阪府南河内郡太子町大字山田 | ◯ | |
34 | 舒明天皇 | 押坂内陵 | 奈良県桜井市大字忍阪 | ◯ | |
35 | 皇極天皇 | 斉明天皇として重祚 | |||
36 | 孝徳天皇 | 大阪磯長陵 | 大阪府南河内郡太子町大字山田 | ◯ | |
37 | 斉明天皇 | 越智崗上陵 | 奈良県高市郡高取町大字車木 | ◯ | |
38 | 天智天皇 | 山科陵 | 京都市山科区御陵上御廟野町 | ◯ | |
39 | 弘文天皇 | 長等山前陵 | 滋賀県大津市御陵町 | ◯ | |
40 | 天武天皇 | 檜隈大内陵 | 奈良県高市郡明日香村大字野口 | ◯ | |
41 | 持統天皇 | ◯ | |||
42 | 文武天皇 | 檜隈安古岡上陵 | 奈良県高市郡明日香村大字栗原 | ◯ |
この頃までの日本における葬送方法は、主に土葬であったのですが、仏教の普及に伴って火葬の文化が入ってきます(なお、釈迦が火葬されたことにちなみ、火葬は仏教の文化といえます。)。
文武天皇4年(700年)4月3日に亡くなった法相宗の開祖であった道昭に対して火葬がなされた記録があり、天皇としても703年1月13日に亡くなった持統天皇が初めて火葬によって葬られるなど火葬の文化が少しずつ国内に浸透していきます。(もっとも、平安時代を通じて三位以上の身分ある者しか墓を造ることが許されなかったために土葬は困難であり、また経済力のない一般人の遺体を焼き尽くすために相当量の木材を費やして火葬する余裕もなかったため、火葬が一般的となるのはまだまだ後の時代の話ですが。)。
その後、文武天皇・元明天皇・元正天皇や、藤原不比等・武智麻呂などの上級貴族がこれに続きました。
なお、余談ですが、古墳として存在する天皇陵のうち天智天皇陵と天武・持統陵のみはその被葬者がそれぞれの天皇であることはほぼ間違いないと考えられています。
その理由は、天智天皇は唯一外れた位置に存在しているためであり、天武・持統陵は文暦2年(1235年)に盗賊によって荒らされた際に定真という僧によって内部が記録されているからです(阿木幾乃山陵記)。
奈良時代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
43 | 元明天皇 | 奈保山東陵 | 奈良市奈良阪町 | ◯ | |
44 | 元正天皇 | 奈保山西陵 | 奈良市奈良阪町 | ◯ | |
45 | 聖武天皇 | 佐保山南陵 | 奈良市法蓮町(戦国期に多聞城の西出曲輪として使用。) | ◯ | |
46 | 孝謙天皇 | 称徳天皇として重祚 | |||
47 | 淳仁天皇 | 淡路陵 | 兵庫県南あわじ市賀集 | ||
48 | 称徳天皇 | 高野陵 | 奈良市山陵町 | ◯ | |
49 | 光仁天皇 | 田原東陵 | 奈良市日笠町 |
奈良時代になると、天皇の皇室の陵墓は都の近くに築かれるようになっていきます。
称徳天皇陵の疑問
奈良時代の天皇陵のうち、宮内庁により第48代天皇である称徳天皇陵として墳丘長127mの前方後円墳である高野陵(遺跡名「佐紀高塚古墳」、現在の奈良市山陵町)が治定されているのですが、8世紀・奈良時代の天皇の陵が、佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳であるのは不自然であるとして強い疑問が呈されています。
平安時代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
50 | 桓武天皇 | 柏原陵 | 京都市伏見区桃山町永井久太郎 | ◯ | |
51 | 平城天皇 | 楊梅陵 | 奈良市佐紀町 | ◯ | |
52 | 嵯峨天皇 | 嵯峨山上陵 | 京都市右京区北嵯峨朝原山町 | ◯ | |
53 | 淳和天皇 | 大原野西嶺上陵 | 京都市西京区大原野南春日町 | ◯ | |
54 | 仁明天皇 | 深草陵 | 京都市伏見区深草東伊達町 | ◯ | |
55 | 文徳天皇 | 田邑陵 | 京都市右京区太秦三尾町 | ◯ | |
56 | 清和天皇 | 水尾山陵 | 京都市右京区嵯峨水尾清和 | ◯ | |
57 | 陽成天皇 | 神樂岡東陵 | 京都市左京区浄土寺真如町 | ◯ | |
58 | 光孝天皇 | 後田邑陵 | 京都市右京区宇多野馬場町 | ◯ | |
59 | 宇多天皇 | 大内山陵 | 京都市右京区鳴滝宇多野谷 | ◯ | |
60 | 醍醐天皇 | 後山科陵 | 京都市伏見区醍醐古道町 | ◯ | |
61 | 朱雀天皇 | 醍醐陵 | 京都市伏見区醍醐御陵東裏町 | ◯ | |
62 | 村上天皇 | 村上陵 | 京都市右京区鳴滝宇多野谷 | ◯ | |
63 | 冷泉天皇 | 櫻本陵 | 京都市左京区鹿ヶ谷法然院町,鹿ヶ谷西寺ノ前町 | ◯ | |
64 | 円融天皇 | 後村上陵 | 京都市右京区宇多野福王子町 | ◯ | |
65 | 花山天皇 | 紙屋川上陵 | 京都市北区衣笠北高橋町 | ◯ | |
66 | 一条天皇 | 圓融寺北陵 | 京都市右京区竜安寺朱山 竜安寺内 | ◯ | |
67 | 三条天皇 | 北山陵 | 京都市北区衣笠西尊上院町 | ◯ | |
68 | 後一条天皇 | 菩提樹院陵 | 京都市左京区吉田神楽岡町 | ◯ | |
69 | 後朱雀天皇 | 圓乘寺陵 | 京都市右京区竜安寺朱山 竜安寺内 | ◯ | |
70 | 後冷泉天皇 | ◯ | |||
71 | 後三条天皇 | ◯ | |||
72 | 白河天皇 | 成菩提院陵 | 京都市伏見区竹田浄菩提院町 | ◯ | |
73 | 堀河天皇 | 後圓教寺陵 | 京都市右京区竜安寺朱山 竜安寺内 | ◯ | |
74 | 鳥羽天皇 | 安樂壽院陵 | 京都市伏見区竹田浄菩提院町 | ◯ | |
75 | 崇徳天皇 | 白峯陵 | 香川県坂出市青海町 | ◯ | |
76 | 近衛天皇 | 安樂壽院南陵 | 京都市伏見区竹田浄菩提院町 | ◯ | |
77 | 後白河天皇 | 法住寺陵 | 京都市東山区三十三間堂廻り町 | ◯ | |
78 | 二条天皇 | 香隆寺陵 | 京都市北区平野八丁柳町 | ◯ | |
79 | 六条天皇 | 清閑寺陵 | 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町 | ◯ | |
80 | 高倉天皇 | 後清閑寺陵 | ◯ | ||
81 | 安徳天皇 | 阿彌陀寺陵 | 山口県下関市阿弥陀寺町 | 入水 |
平城天皇陵の疑問
平安時代初期の天皇である平城天皇の陵は、平城宮・大極殿跡のすぐ北側に位置する楊梅陵(やまもものみささぎ)であると治定されています。宮内庁上の形式は円丘であり、遺跡名は「市庭古墳」です。
もっとも、楊梅陵は、円筒埴輪・動物埴輪などの出土品から築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)と推定されており、平城京建都以前から同所に存在していた前方後円墳であったものを、平城京建都の際に前方部を取り壊したために現残するのは後円部の一部のみであることが判明しています。
そのため、平城京の建設以前から存在した楊梅陵(市庭古墳)が、平安時代の人物である平城天皇のために造られた陵とするには無理があるとして宮内庁による陵墓の治定に否定的な意見が多くみられます。
宮内庁の治定に最大限配慮して、その治定が正しいとするのであれば、平城天皇には新たな陵墓が造られず既存の古墳に追葬されたことになるのですが、なかなか考えにくいと思われますね。
葬送方法の変化
平安時代の京では、貴族階級の者であっても、人が亡くなった場合にはそのまま市中に遺体を野晒しにして、風葬(遺体を埋葬することなく放置して風化を待つ)によって見送るというのが一般的でした。
三位以上の身分ある者しか墓を造ることが許されなかったために土葬は困難であり、また経済力のない一般人の遺体を焼き尽くすために相当量の木材を費やして火葬する余裕もなかったからです。遺体を鳥が啄むことから、鳥葬とも呼ばれる方法でした
もっとも、さすがに天皇が風葬されることはなく、当初は土葬されていましたが、平安後期の院政期になると、火葬の上で仏式のお堂に納骨する方法が採用され始めていきます。
鎌倉時代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
82 | 後鳥羽天皇 | 大原陵 | 京都市左京区大原勝林院町 | ◯ | |
83 | 土御門天皇 | 金原陵 | 京都府長岡京市金ヶ原金原寺 | ◯ | |
84 | 順徳天皇 | 大原陵 | 京都市左京区大原勝林院町 | ◯ | |
85 | 仲恭天皇 | 九条陵 | 京都市伏見区深草本寺山町 | ||
86 | 後堀河天皇 | 觀音寺陵 | 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 | ◯ | |
87 | 四条天皇 | 月輪陵 | ◯ | ||
88 | 後嵯峨天皇 | 嵯峨南陵 | 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天竜寺内 | ◯ | |
89 | 後深草天皇 | 深草北陵 | 京都市伏見区深草坊町 | ◯ | |
90 | 亀山天皇 | 亀山陵 | 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 天竜寺内 | ◯ | |
91 | 後宇多天皇 | 蓮華峯寺陵 | 京都市右京区北嵯峨朝原山町 | ◯ | |
92 | 伏見天皇 | 深草北陵 | 京都市伏見区深草坊町 | ◯ | |
93 | 後伏見天皇 | ◯ | |||
94 | 後二条天皇 | 北白河陵 | 京都市左京区北白川追分町 | ◯ | |
95 | 花園天皇 | 十樂院上陵 | 京都市東山区粟田口三条坊町 | ◯ | |
96 | 後醍醐天皇 | 塔尾陵 | 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾 如意輪寺内 | ◯ |
室町時代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
97 | 後村上天皇 | 檜尾陵 | 大阪府河内長野市寺元 観心寺内 | ? | |
98 | 長慶天皇 | 嵯峨東陵 | 京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町 | ||
99 | 後亀山天皇 | 嵯峨小倉陵 | 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町 | ◯ | |
100 | 後小松天皇 | 深草北陵 | 京都府京都市伏見区深草坊町 | ◯ | |
101 | 称光天皇 | ◯ | |||
102 | 後花園天皇 | 後山國陵 | 京都市右京区京北井戸町丸山 常照皇寺内 | ◯ | |
103 | 後土御門天皇 | 深草北陵 | 京都市伏見区深草坊町 | ◯ | |
104 | 後柏原天皇 | ◯ | |||
105 | 後奈良天皇 | ◯ | |||
106 | 正親町天皇 | ◯ | |||
107 | 後陽成天皇 | ◯ |
江戸時代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
108 | 後水尾天皇 | 月輪陵 | 京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内 | ◯ | |
109 | 明正天皇 | ◯ | |||
110 | 後光明天皇 | ◯ | |||
111 | 後西天皇 | ◯ | |||
112 | 霊元天皇 | ◯ | |||
113 | 東山天皇 | ◯ | |||
114 | 中御門天皇 | ◯ | |||
115 | 桜町天皇 | ◯ | |||
116 | 桃園天皇 | ◯ | |||
117 | 後桜町天皇 | ◯ | |||
118 | 後桃園天皇 | ◯ | |||
119 | 光格天皇 | 後月輪陵 | ◯ | ||
120 | 仁孝天皇 | ◯ | |||
121 | 孝明天皇 | 後月輪東山陵 | ◯ |
江戸時代に入ると、京都市東山区今熊野泉山町所在の泉涌寺内に石造塔形式の陵墓が建立されるようになります。
もっとも、幕末期に尊王思想が高まってくると、天皇陵にも復古調が取り入れられるようになり、孝明天皇陵はかつての天皇大規模な墳丘を持つ形式で築造されています。
近代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
122 | 明治天皇 | 伏見桃山陵 | 京都市伏見区桃山町古城山 | ◯ | |
123 | 大正天皇 | 多摩陵 | 東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地 | ◯ |
明治維新を果たした明治天皇の陵は、天智天皇陵に範とする上円下方墳が採用されています。
現代
天皇名 | 陵名 | 所在 | 葬送方法 | ||
土葬 | 火葬 | ||||
124 | 昭和天皇 | 武藏野陵 | 東京都八王子市長房町 武蔵陵墓地 | ◯ |