【皇記(神武天皇即位紀元)】2月11日が建国記念の日として祝日である理由

皇紀(こうき)とは、神武天皇即位紀元の略称であり、日本の初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法です。

明治5年(1872年)に、皇紀元年を西暦(キリスト紀元)前660年=皇紀元年として法定され、太平洋戦争に敗れた後にGHQに廃止されるまで日本国内で正式使用されていました。

もっとも、日本書紀の記載を基にした神話的な神武天皇の即位年を基準としているため真実性に乏しく、現在の歴史学では皇紀を科学的年代として検討される対象となっておりません。

また、皇国史観の基礎として使用されてきた経緯からこれまで様々な批判を浴びてきた概念でもあります。

他方で、今日まで日本人の心に刻まれて生き残ってきた考え方でもあり、現在においても一定の支持を得ています。

本稿では、この紀年法の1つである皇紀(神武天皇即位紀元)について、その成立に至る経緯から簡単に説明していきたいと思います。

神武天皇即位紀元という概念の始まり

日本における暦の始まり(604年)

神武天皇即位紀元を語る上で、まずは、日本で、時の流れの基本概念となる暦がいつから始まったのから検討する必要があります。

日本での暦の始まりは6世紀頃であり、朝鮮半島の百済から「暦博士」が招かれ、彼らによって中国の暦が日本に伝えられることで始まりました(日本書紀・欽明天皇14年/553年6月の条)。

そして、その後、伝えられた暦法や天文地理を利用し、推古天皇12年(604年)に初の国産の暦が作られたと伝えられています。

元号使用開始(645年)

その後、大化元年(645年)に始まった朝廷政治の大改革によって朝廷が組織化されると、暦についても担当官庁が定まり、中務省に属する陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務として暦の作成・天文・占いなどを遂行することとし、国家的な管理が行われることとなりました。

その結果、大化元年(645年)から、暦の概念を使用して中国に倣った紀年法である元号の使用が始まりました(他方で、元号と合わせて干支も使用されることもありました。)。

日本書紀から神武天皇即位紀元を創設(720年)

その後、持統天皇とその意を受けた藤原不比等により日本書紀の編纂が進められ、養老4年(720年)に完成します。

このとき完成した日本書紀では、神武天皇が初代天皇であったことが記載され、その即位の詳細として「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」との記載がなされました(日本書紀・神武天皇元年正月朔の条)。

この結果、神武天皇の即位年が辛酉年と定められ、この神武天皇即位年に特別の意味を与えることとしました

具体的には、元号や干支とは別に、神武天皇が即位したとされている年を紀元とする考え方(神武天皇即位紀元)が生み出されたのです。

神武天皇即位紀元=西暦紀元前660年と決定

もっとも、日本書記には、神武天皇即位紀元が辛酉年と書いてあるだけであり、それがいつの辛酉年であったのかは明らかにされておりません。

辛酉年は60年に一度訪れるため、日本書記の記載からはどのタイミングなのかわからないのです。

その後、どこかの時期に、何らかの理由で神武天皇即位年の辛酉年が西暦紀元前660年にあたる年と決められたのですが、いつ・どういう理由でそのように決まったのかはわかっていません。

この点については、江戸時代以降、様々な推論説が唱えられてきました。

そのうちの1つとして、天皇主権を取り戻した明治維新の発生年である明治元年(1868年)と、同じく大変革があったとされる推古天皇9年(601年)とを比較してその年差が約1260年であったとし、日本では1260年に一度大変革が起こると考え(辛酉革命説)、推古天皇9年(601年)から約1260年前の辛酉年にあたる西暦紀元前660年に神武天皇の即位年を無理矢理当てはめたと説明がなされ、一定の信任を獲得しています。

もっとも、決定的な根拠は不明であり、どこかのタイミングで何らかの理由により、神武天皇即位年=西暦紀元前660年とすることが常態化したという事実だけが残りました。

幕末期に尊皇攘夷思想と結びつく

そして、この考え方は、江戸幕末期に日本全国に浸透した尊皇攘夷思想が高まりにより、あたかも具体的事実であるかのように扱われるようになっていきました

その結果、年数をかぞえる紀年法として神武天皇即位紀元が脚光を浴びていったのです。

皇紀制定(1872年)

紀元採用の建議(1869年4月)

慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が発せられて江戸幕府が終わって明治新政府が樹立すると、新たに成立した明治政府は、一世一元の詔を発して、元号を明治に改める明治改元を行います。

そして、その直後、刑法官権判事であった津田真道が、明治2年(1869年)4月、年号を使った年月日の表記は煩雑で分かりにくいとして、集議院に対し、年号を廃して日本独自の紀元を採用すべきとする「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議します。

神武天皇即位紀元布告(1872年11月15日)

津田真道の建議を受けて明治政府において検討が進められ、明治5年(1872年)11月15日、「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)を布告して日本書紀の記述に従って神武天皇の即位年を紀元と定めることと決まりました。

そして、具体的な神武天皇即位年について、それまでの事実上の共通認識であった西暦(グレゴリオ暦)紀元前660年であると定められました。

太陽暦採用(1872年11月19日)

また、明治政府は、明治5年(1872)11月19日、欧米諸国と同じ暦を使うことで外交や貿易をスムーズにするため、旧暦の太陰太陽暦だと閏月のある年は13か月になるため官吏の月給を13回払う必要が出るところ太陽暦を採用して12ヶ月に固定すると支払いが減らせるなどの理由から明治5年12月3日=明治6年1月1日とした上で、明治5年の暦を切り上げ、明治6年から太陽暦に切り替えることとしました。

そして、神武天皇の即位日をグレゴリオ暦の紀元前660年2月11日に比定し、2月11日が紀元節として祝日とされました(年中祭日祝日休暇日ヲ定ム・明治6年太政官布告第334号)。

なお、西洋に倣った暦法(太陽暦=1年の日数を1太陽年にできるだけ一致するように作られた暦)に改めた際、合わせて紀年法として紀元を使用することとされ、また、年号と皇紀の表記については、最も正式な文書には皇紀と年号を併記することとし、略式・私的な文書には年号の単独使用もしくは月日のみの記載を可とすることとされました。

太平洋戦争期の使用

以上の結果、日本において、紀元として西暦と神武天皇即位紀元(皇紀)とが併用されることとなってしまいました。

その後、日本国内で軍部の力が強まって行ったのですが、軍部がその力の源を天皇に置いていたため(天皇の統帥権の代理人)、時間を経るごとに天皇の神格化が進められていき、次第に神武天皇即位紀元(皇紀)に対する反論すら許されなくなっていきました。

そして、第二次世界大戦前頃になると、敵国に対する忌避感から西暦の使用が憚られたこともあり、紀元=神武天皇即位紀元(皇紀)となるほど国内で浸透していました。

特に、軍部ではその扱いが高められていき、昭和期以降になると、兵器の制式名称について主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられるようになっていく程でした。

このうち、とくに有名なものとして、皇紀2600年(西暦1940年、昭和15年)に採用されたことを示す大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」が上げられるのですが、その他にもこれに合わせた九五式・九六式・・・・など数えていくとキリがありません。

現在の扱いに落ち着くまで

戦前までの紀元節(1873年~1948年)

前記のとおり、明治政府は、日本書紀で神武天皇が即位したとされる神武天皇元年(紀元前660年)1月1日をグレゴリオ暦に換算した2月11日を紀元節=日本国建国の日とします。

そして、その上で、多くの国において建国の日を祝日とするように、日本においても明治6年(1873年)の「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」によって、同年から紀元節である2月11日が祝日と定められていました(かつての四大節の1つ)。

祝祭日とは、その国の精神的支柱を表したものでもありますので、紀元節を建国の日として祝日としていたことから、戦前までの日本人がいかに天皇家を敬っていたのかが窺える事実となります(皇国史観)。

紀元節廃止

もっとも、太平洋戦争にて勝利し日本を占領したGHQは、この日本人の皇国史観が日本の対外戦争の根拠となっていると判断し、その根絶を目指していきます

そして、その一環として、紀元節を含めた四大節の廃止を決定します。

GHQは、昭和23年(1948年)に国民の祝日に関する法律附則2項を制定させることで「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)を廃止し、さらに「国民の祝日に関する法律」公布・施行させることにより祝祭日を整理することで日本人から皇国史観の基礎となる考え方を取り除くことを目指したのです。

前記のとおり、その国の祝祭日というのは、その国に属する国民の尊厳に関わる重要事項ですので、GHQとしては皇室に関する祝祭日を残しておくわけにはいかなかったためです。

もっとも、当時の日本人としては、GHQの圧力に負けずに何とか日本のアイデンティティを守ろうと努力し、以下のように複数の皇室関連の祝祭日を名称変更することでGHQを欺き。何とか残していこうと努力しました。

四方節 → 元日

天長節 →  天皇誕生日

春季皇霊祭 → 春分の日

秋季皇霊祭 → 秋分の日

明治節 → 文化の日

新嘗祭 → 勤労感謝の日

(後に、紀元節 → 建国記念の日)

紀元節復活のための活動

この点については、紀元節も同様です。

日本の建国を何と考えるかについては議論があり、それによって何月何日を建国の日とするかについては意見が分かれるところではあったのですが、紀元節が当時の日本人の心の拠り所の1つとなっており、当時の日本人にとってその廃止(紀元節≠日本建国とすること)は容易に受け入れられるものではありませんでした。

そこで、紀元節が廃止されてから間もなくの昭和26年(1951年)頃から紀元節復活のための活動が日本の各所で見られるようになります。

そして、昭和32年(1957年)2月13日には、自由民主党衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出されたのですが、当時の野党第1党であった日本社会党の反対により否決されてしまいました(その後も9回に亘って法案提出がなされては廃案を繰り返すという事態に発展します。)。

建国記念の日成定(1967年)

その後、何度も議論が繰り返された結果、最終的には、建国の日と紀元節とを確定的に結びつけることは否定しつつ、これを認める立場にも配慮する形で解決することに決まり、かつての紀元節の日であった2月11日を建国記念「の」日として、同日に日本が建国されたという事象そのものを記念するとも解釈できるようにしてこの問題を解決することで決着することに決まります。

そして、昭和41年(1966年)、祝日法改正がなされて建国記念の日が国民の祝日に加えられ、翌昭和42年(1967年)から2月11日から同日が祝日となりました。なお、余談ですが、祝日法では、他の祝日は日付が法定されていのに対し、建国記念の日のみ政令で定めることとされ、昭和41年に佐藤内閣によって定められた政令(昭和41年政令第376号)によって建国記念の日=2月11日と定められました。

以上の結果、紀元節の名残を残すことには成功したものの、紀元節自体が廃止された影響は小さくなく、時間の経過と共にその歴史的背景の認識は薄れており、神武天皇即位紀元の認知度も著しく低下してしまいました。

そのため、今日においては紀元というと西暦を指すことがほとんどとなっています。

また、今日では2月11日が元々何のための祝日であったのかを知っている人の方が少なくなってしまったように感じます。

余談(皇記に対する今日の批判)

日本人が最初に文字に接したのは、57年に後漢皇帝であった光武帝が倭国の使者に与えたとされる印綬であり(後漢書東夷伝倭人条)、それ以前に日本に文字はありませんでした。

また、日本人は、その後もしばらくは文字を文字としてではなく模様(文様)として認識・使用していたと推測されており、倭国と呼ばれていた日本においては、少なくとも古墳時代前期(4世紀初頭頃)に至るまでの間に文字が使用されていたと解釈することは困難です。

そのため、神武天皇についての記録は一切存在していません。

その結果、神武天皇が存命時にどういう名で呼ばれていたは不明であり、そもそも存在していたことを示す一次資料の手がかりすら存在していないのです(なお、漢風諡号である「神武」は、淡海三船により8世紀後半に撰進された名称です。)。

もっとも、ここで神武天皇が歴史上存在したかどうかを議論しても意味がないことです。

日本では、天皇家の祖となる人物に対して後に「神武天皇」という名を付けたというだけであり、実際にどこかのタイミングで天皇家の祖となる人物(後に神武天皇とされた人物)が存在したことは明らかだからです。

問題となるのは、後に神武天皇と呼ばれることとなる初代天皇はいつの人物だったのかということです。

歴史学からの批判

この点については、資料的根拠に乏しい日本書紀の記述を基にして、神話的な神武天皇の即位年をあたかも歴史的事実であるかのように扱い、皇紀元年=西暦紀元前660年とすることについて、古くから強い批判がなされてきました。

特に、神武天皇の即位を西暦紀元前660年とすると、日本書紀の時間軸に従う限り、初期の天皇の在位年数が不自然に長く、年齢も非現実的な長寿とされてしまうことです(古事記によると、神武天皇は137歳まで生きたとされています。)。

もっとも、この批判に対しては、当時の年の数えかたは1年を180日とする春秋暦であったため、神武天皇崩御は、現在の数え方だと約64才であって不自然ではないとの反論がなされています。

もっとも、この点については、当時の日本の1年は180日であったため(春秋暦)、現在の1年=365日の基準に合わせると実際にはその半分の期間であったとする反論がなされています。

また、日本書紀に記載されていない天皇が複数人いたという可能性もありますので、必ずしも年数が誤っているとまで断定することはできないかもしれません(各天皇に、初代・2代・3代と複数代同名の天皇がいた可能性もあります)。

また、紀年法が中国で作られたものを輸入したはずであるところ、中国で干支紀年法が確立したのが太初暦が採用された紀元前104年あたりとされているため、神武天皇即位年を辛酉年とすること自体ありえないとも言われます。

考古学からの批判

また、西暦紀元前660年は、考古学的には縄文時代晩期、放射性炭素年代測定では弥生時代前期にあたるのですが、ヤマト政権下で築かれたはずの古墳と時期が整合しないとされています。

イデオロギーへの批判

さらには、戦時期に皇国史観と結びつけられて教育・宣伝に利用され、徴兵や排外主義を正当化する根拠とされたことから、神武天皇の即位年という概念の存在自体がそもそもの批判対象となっています。

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