【第88代・後嵯峨天皇】鎌倉幕府に忖度して天皇家分裂をもたらした天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう)は、承久の乱で鎌倉幕府に敗れて失脚した後鳥羽上皇・順徳上皇系の天皇に代わり、同戦で中立の立場をとったことにより後に鎌倉幕府の後押しを受けて即位した土御門上皇系の天皇です。

承久の乱の後に即位した天皇ですので、完全に鎌倉幕府の影響下にあります。

この後嵯峨天皇が、死去に際して自身の後継者となる治天の君を誰にするか指名しなかったために、後深草上皇と亀山天皇との間で治天の君の座を巡って争われることとなり、このことが後に日本全国を2つに割った南北朝大乱の原因となっていきます。

 後嵯峨天皇即位

出生(1220226日)

後嵯峨天皇は、承久2年(1220年)226日、土御門天皇の第2皇子として、源通子(源通宗の娘)との間に生まれます。

諱は、邦仁(くにひと)と言われました。そのため、即位するまでは邦仁王と呼ばれていたはずですが、本稿では便宜上即位前も後嵯峨天皇と表記します

四条天皇後の皇位承継問題

承久の乱の責めを負う形で土御門上皇が土佐に流されると、その子である後嵯峨天皇は、母方の大叔父である中院通方・土御門定通の下で育てられます。

もっとも、承久の乱後の土御門家没落の余波により、後嵯峨天皇も苦しい生活を余儀なくされ、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれることとなってしまいました。

そんな中、仁治3年(1242年)19日、第87代天皇である四条天皇が皇子女を残すことなく12歳で崩御したため、朝廷内に皇位継承の問題が持ち上がります。

まだ若かった四条天皇には皇子女がいなかったのはもちろんですが、さらには男兄弟も存在していなかったため、後堀河上皇の血統が絶えてしまったからです。

そこで、やむなく後鳥羽上皇の血統まで戻って候補者を探して次期天皇を選ぶこととなったのですが、このとき九条道家ら有力公卿は順徳上皇の皇子・忠成王(仲恭天皇の異母弟)を推します。

他方、鎌倉幕府(執権・北条泰時及び六波羅探題・北条重時)は、承久の乱の際に後鳥羽上皇に与して積極的に倒幕のために動いた順徳上皇系の皇子が天皇となることを嫌い、承久の乱の際に中立的立場をとった土御門上皇の皇子である邦仁王を擁立しようと考えます。

そして、鎌倉幕府が、鶴岡八幡宮の御託宣があったとの理由をつけて、邦仁王を推す形で皇位承継問題に介入したため、問題が紛糾します。

鎌倉幕府の介入による皇位継承

この皇位承継問題のすったもんだは11日間続き(仁治三年の政変)、最終的には、鎌倉幕府が推す邦仁王が皇位を承継する形で決着します。

そして、鎌倉幕府の後押しによって皇位を承継することとなった邦仁王(後嵯峨天皇)は、仁治3年(1242年)120日に元服の上で践祚され、88代天皇として即位します(即位礼は同年318日)。

即位した後嵯峨天皇は、まずは自らの立場を強化するため、同年610日に鎌倉幕府に近い西園寺家から西園寺姞子を女御として貰い受け(同年89日に中宮冊立)、西園寺家を通じて鎌倉幕府と繋がることから始めます。

 

治天の君となる

譲位して院政を敷く(1246129日)

後嵯峨天皇は、中宮となった西園寺姞子との間に久仁(兄・寛元元年/1243610日生)と恒仁(弟・建長元年/1249527日生)という2人の皇子を儲けました。なお、その他に平棟子との間に宗尊親王もいたのですが、宗尊親王は皇位継承争いに参加しないためここでの説明は割愛します。

後嵯峨天皇は、寛元4年(1246年)129日、治天の君となるため、在位4年にして当時わずか4歳であった久仁親王(後深草天皇)に譲位して院政を開始します。

この結果、以降、幕府の統制下にて治天の君となった後嵯峨上皇により朝廷政治が行われていくという複雑な権力構造が出来上がります。

ここで、後嵯峨上皇は、建長4年(1252年)4月、長子であった宗尊親王(平棟子を母とする後深草天皇・亀山天皇の異母兄)を宮将軍として鎌倉に下向させて鎌倉幕府と連携し、その力を背景として安定的な朝廷政治を行っていきます。

長講堂領を事実上支配して経済力を得る

当時の皇室財産として、建久2年(1191年)に後白河法皇が莫大な荘園を長講堂に寄進したことにより成立した42ヵ国89ヵ所に及ぶ長講堂領がありました。

この長講堂領は、後白河法皇の死後にその第6皇女であった宣陽門院(覲子内親王)に引き継がれたのですが、その後も増加を続け、莫大な富を生み出す財産となっていました。

宣陽門院は、寛元4年(1246年)、後嵯峨上皇に対し、長講堂領を鷹司院に一期分として譲渡し、その死後に後深草天皇に引き継がせることを提案します。

ところが、後嵯峨上皇は、後深草天皇への長講堂領譲渡を嫌って天皇の異母兄であった宗尊親王(後の宮将軍)への譲渡を望んだため、皇位継承者への講堂領譲渡を望む宣陽門院との交渉が紛糾します。

その後、後嵯峨上皇と宣陽門院との調整の結果、建長3年(1251年)、後白河院の法要を引き継ぐことを条件として長講堂領を後深草天皇に譲渡し、これを幼少の後深草天皇に代わって治天の君である後嵯峨上皇が掌握することで決着することとなりました。

これにより、名目上は後深草天皇のものではあったものの、莫大な富を生み出す長講堂領が後嵯峨院政の財政的な基盤となりました。

亀山殿造営(1255年10月27日)

後嵯峨上皇は、建長7年(1255年)1027日に小倉山東南の亀山山麓に亀山殿(嵯峨殿)を造営し同地に移ります(「百錬抄・建長七年一〇月二七日条「上皇嵯峨殿御所亀山殿御移徙儀也」)。

 後深草天皇退位(1259年)

長講堂領が生み出す経済力を背景として院政を敷いていた後嵯峨上皇は、正元元年(1259年)11月、後深草天皇が瘧病を患ったことをきっかけとして皇位を取り上げ、亀山天皇に譲位させてしまいます。

その上で、後嵯峨上皇は、亀山天皇即位に際し、後深草天皇にも皇子がいたにも関わらず、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子に定めます。

これは、後嵯峨上皇が、後深草天皇(兄)よりも亀山天皇(恒仁親王、弟)を好んでいたためでした。

もっとも、この後嵯峨上皇の愛情が、後に日本を2つに割った大戦乱を引き起こす引き金となっていきます。

 

後嵯峨法皇の最期

大覚寺門跡となる(126810月)

その後、後嵯峨上皇は、文永5年(1268年)10月に亀山殿(嵯峨殿)において出家して法皇となり、素覚と号して大覚寺第21代門跡となって大覚寺に移ります。

その後、亀山上皇や後宇多上皇といった亀山天皇系の天皇経験者が譲位後に同寺に移り住んでいることから同寺近辺は嵯峨御所と呼ばれ、また同寺の名から亀山天皇系の系統を「大覚寺統」と呼ぶようになっています。

後嵯峨法皇崩御(1272217日)

その後、後嵯峨法皇は、文永9年(1272年)217日に崩御されます。宝算は53歳でした。

後嵯峨法皇の死後、その遺諡によって「後嵯峨院」の追号が定められました。

そして、後嵯峨法皇の遺体は、同年219日に薬草院で火葬され、翌同年220日に銀の壺に納められた遺骨が浄金剛院に安置された後、文永11年(1274年)の浄金剛院法華堂の落慶を待って同堂に移し納められました。

 

死後に起こった天皇家分裂

次代の治天の君就任問題

朝廷内の絶対的権力者である治天の君の死は、朝廷に新たな紛争の火種をもたらします。

前記のとおり、後嵯峨法皇の生前は、亀山天皇(弟)系の皇位承継がなされるような外観が整えられていた反面、長講堂領という事実上の主要皇室財産を後深草上皇(兄)が有することとなっており、両者の微妙な力関係を後嵯峨法皇の権力で押さえつけているに過ぎなかった状態であったにも関わらず、後嵯峨法皇は、その遺詔に自らの死後、その跡の政治を「後深草院政が治天の君を継ぐのか」、「亀山親政に戻すのか(亀山天皇が次代治天の君となるのか)」という皇統に対する見解を一切記載しませんでした。

そればかりか、後嵯峨法皇は、自らが天皇となることに尽力してくれた鎌倉幕府に義理を立てて具体的な皇統については鎌倉幕府に一任するとして結論を丸投げして崩御されたのです。

そのため、文永9年(1272年)の後嵯峨法皇の崩御により朝廷において後嵯峨法皇の皇統に対する見解に対する解釈が分かれ混乱が生じます。

また、承久の乱というクーデターを除きそれまで皇室の相続問題に関与することがなかった鎌倉幕府としては、突然皇統に対する見解を求められて困惑します。

鎌倉幕府としては、誰を治天の君とするかという判断などする立場にないとして、西園寺姞子に後嵯峨法皇の真意について問い質すこととしました。

 亀山天皇系の皇位承継に決まりかける

この鎌倉幕府からの質問に対し、西園寺姞子が後嵯峨法皇は亀山天皇親政を推す意向であったと回答します。

そこで、鎌倉幕府は亀山天皇親政を是とし、この決定を受けた亀山天皇が、文永11年(1274年)326日に後宇多天皇に譲位し治天の君となります。

この結果、亀山上皇の子孫が皇位を継承していくことが確実となります(治天の君が皇位継承における決定権を有するため)。

これに対し、当然、後深草上皇側が猛反発します。

自分の子への皇位継承を求める後深草上皇は、自らの正統性を訴えて鎌倉幕府に対して異議を申し立てていきました。

大覚寺統と持明院統の対立が生じる

この結果、鎌倉幕府としては、再び亀山上皇と後深草上皇との皇位承継問題の結論を求められて困惑します。

どちらかを立てれば他方に恨まれることは明らかです。

鎌倉幕府としても、判断できるはずがありません。

困った鎌倉幕府は、妥協案を提案します。

それは、亀山上皇の子である後宇多天皇の皇太子として、後深草上皇の子である熈仁親王(後の伏見天皇)を擁立するというものでした。

この案は、亀山上皇系と後深草上皇系とのいずれもが妥協しうるギリギリの内容だったのですが、亀山上皇系と後深草上皇系のいずれにも皇位継承権を与えてしまったため、皇位が両系統を行き交う複雑な皇位継承を生み出すこととなってしまいました(両統迭立)。

この両統は、それぞれが院政を行った寺院にちなんで、亀山上皇系統を「大覚寺統」、後深草上皇系統を「持明院統」というようになります。

そして、後に持明院統が北朝、大覚寺統が南朝となって、200年に亘る日本全国を2つに割った大乱の原因となっていきます。

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