【伝足利尊氏像の像主は誰?】

本稿のアイキャッチ画像としている騎馬武者像を見たことがありますか。

髻の解けた髪が乱れた上に残ったわずかな矢のうちの一本は折れているにもかかわらず、口を力強く閉じ前方を鋭く見据えて、大太刀を抜き身で担ぎながら黒毛馬に乗って駆ける張り詰めた緊張感を漂わせる武者の姿が描かれています。

かつての歴史教科書などでは、この躍動感にあふれた武者は、室町幕府初代将軍である足利尊氏であるとされていました。

筆者も学生時代にそのように習いました。

もっとも、この騎馬武者像が足利尊氏像であるとする見解に対しては、有力な反対説が存在しています。

本稿では、必ずしも明らかとなっていない騎馬武者像の像主についての学説を紹介したいと思います。

【目次(タップ可)】

伝足利尊氏像とは

かつて、重要文化財に指定されている京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像」が、足利尊氏像とされていました。

この「騎馬武者像」は、元々、京の守屋家が所有していたものであり、他の足利尊氏像と区別する意味で「守屋家本」とも呼ばれました。

この「騎馬武者像」が足利尊氏像とされてきた根拠は、寛延2年(1749年)に西川祐信が「絵本武者備考」で騎馬武者像と足利尊氏の詞書として紹介し、また寛政12年(1800年)ころに松平定信が編纂した「集古十種」で足利尊氏像として紹介したことにちなみます。

なお、「集古十種」の該当ページでは「同像」と書いてあるのですが、一つ前のページが「源尊氏公木像」とあるので、「同像」=足利尊氏となります。また、所蔵について「或家蔵」となっているのですが、その図柄=旧守屋家蔵の「騎馬武者像」である事に疑いの余地はありません(国立国会図書館のデジタルコレクション参照)。

そして、その後、大正9年(1920年)に歴史学者の黒板勝美が論文の中で改めて足利尊氏像であるとする説を発表したことで旧守屋家蔵の「騎馬武者像」=「足利尊氏像」と定着しました。

否定説浮上

もっとも、昭和12年(1937年)に美術史家である谷信一が、「騎馬武者像」=足利尊氏像とする説に異論を唱え、昭和43年(1968年)にも、古文書学者である荻野三七彦が同様の論考を発表します。

この否定説の根拠と、それに対する肯定説の反論の主なものとしては、以下のようなものが挙げられます。

伝足利尊氏像≠足利尊氏説

伝足利尊氏像=足利尊氏説

花押

像主の上に室町幕府2代将軍・足利義詮の花押が記されている。

像主が足利尊氏だとすると、父の画像の上に子が名を記していること=親を下に見ていること、になり当時の慣習から有り得ない。

記録上、等持院(足利尊氏)の肖像画の上に宝筐院(足利義詮)の花押が記されていたことが分かっていることから、足利尊氏像の上に足利義詮の花押があっても問題がない。

様相

像主は、兜のない髻の解けたざんばら髪の頭・折れた矢・抜き身の状態の刀など、明らかに敗走時の姿である。そうだとすると、これが武家の棟梁である征夷大将軍だとするのはあまりに不自然である。九州に逃れた後に京に凱旋した足利尊氏が、多々良浜の戦いに臨む姿を画工に描かせたという記録が残る(梅松論)。足利尊氏が後醍醐天皇へ叛旗を翻す直前に寺に籠もって元結を切り落としたところ、味方する武士たちがこれにならって元結を切り落としたとする逸話が残されている(太平記)。

刀や馬具の紋

刀や馬具に描かれている輪違の紋が、足利家ではなく高家の家紋である。そのため、像主は高師直、もしくはその子である高師詮・高師冬のいずれかである。南北朝時代に馬具に家紋を施した例はなく、また高家の紋と推定された輪違紋(七宝)は江戸時代の高階家の紋を参考にしたもので、太平記に記された輪違紋は「寄懸り輪違」となっているため高家の紋とはいえない。また、 戦後行われた肖像画のレントゲン撮影では、輪違紋と見られる箇所が江戸時代の補修で新たに描き加えられたものと判明したことから、紋の部分は単に擦れた箇所を補っただけのことと考えるのが自然である。

現在の理解

以上のとおり、かつて足利尊氏像とされた騎馬武者像が、本当は足利尊氏像ではないのではないかという説があらわれ,現在までこの否定説を払拭するに至っていません。

そこで、現在では騎馬武者像は「伝足利尊氏像」とされるにとどまり、2000年代頃からは歴史教科書でも足利尊氏像としては掲載されなくなりました。

そのため、現在では、旧守屋家蔵の「騎馬武者像」=「足利尊氏像」とされるにとどまることとなったのです。

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