【黄瀬川の対面】政治の天才源頼朝と戦の天才源義経との出会い

黄瀬川の対面は、伊豆国に流されて長い雌伏の時を経て立ち上がった源頼朝の下に、弟・源義経が駆けつけて両者が感動の対面をしたという出来事です。

政治の天才・源頼朝と戦の天才・源義経との結びつきとして美談に描かれがちですが、実際は、全くかみ合わない2人の天才の悲劇的物語の序曲でした。

本稿では、そんな黄瀬川の対面について、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。

黄瀬川の対面に至る経緯

源頼朝及び源義経の出自

源頼朝は、久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として藤原季範の娘(由良御前)との間に生まれ、源義経は、平治元年(1159年)、源義朝の九男として、近衛天皇の雑仕女(雑用係)であった母・常盤御前との間に生まれました。

源頼朝と源義経は、11歳離れた異母兄弟となります。

平治元年12月9日(1160年1月19日)に勃発した平治の乱において、2人の父である源氏棟梁・源義朝が平清盛に敗れ、都から落ち延びる道中に立ち寄った尾張国で家人に裏切られ謀殺されます。

また、源義朝の子のうち、長男・源義平は捕えられて永暦元年(1160年)1月19日に六条河原で処刑され、16歳であった次男・源朝長は逃亡中に左腿に矢を受けたため足手まといとならないよう父・源義朝に殺害してもらって果てています。

三男・源頼朝は、逃亡中に源義朝らと逸れたところを捕えられ、京に送られたのですが、平清盛の母・池禅尼が、昔死んだ子に源頼朝がそっくりであるとの理由で助命されました。

源義朝の子の命のボーダーラインはこの源頼朝であったようで、源頼朝以下の兄弟である源義朝の四男・源義門、五男・源希義、六男・源範頼、七男・阿野全成(今若・常盤御前の子)、八男・源義円(乙若・常盤御前の子)、九男・源義経(牛若・常盤御前の子)は、いずれも助命されています。

源頼朝配流

前記のとおり、平治の乱の後、源義朝の子のうち三男から九男までは助命されることとなったのですが、いずれも源氏の棟梁の子ですので、自由放免というわけにはいきません。

源頼朝は、伊豆国に流され、伊豆国・伊東を治める伊東家に預けられ、その監視の下での生活となります。

そして、後に、源頼朝が伊東祐親の娘に手を出して伊東家から逃げ、北条時政に預けられたことから、歴史が動き始めます。

源義経が奥州・平泉へ

他方、源義経(牛若丸)は、2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れます。その後、今若と乙若は出家して僧として生きることになったのですが、常盤御前が公家の一条長成に再嫁するため京に戻ることとなり、まだ幼かった源義経(牛若)がこれに付き添います。

その後、源義経は、11歳になった際に鞍馬寺(京都市左京区)の覚日和尚の下へ預けられることとなりました。

もっとも、源義経は、16歳時に京の鞍馬寺から逃亡し、金売吉次という商人に連れられて奥州・平泉に向かい、藤原秀衡の庇護をうけることとなります。

源義経が藤原秀衡の庇護を受けるに至った理由は、かつて鎮守府将軍兼陸奥守として平泉に滞在していた藤原基成という人物がいたのですが、同人が藤原秀衡の次男である藤原泰衡の外祖父でした。

この藤原基成の父である藤原忠隆が、源義経の母である常盤御前が再婚した一条大蔵卿長成と従兄弟という関係にあったため、常盤御前から一条長成を介して藤原秀衡に対して、源義経を奥州・平泉で匿ってほしいとの申し出がなされ、藤原秀衡がこれを受け入れたため、源義経が奥州・平泉に向かうこととなったのです。

なお、藤原秀衡としても、源義経は源氏の棟梁であった源義朝の子ですので、平家政権と対抗することがあった場合に神輿として担げる絶好の駒として使えますので、断る理由がありませんでした。

源義経が奥州・平泉を出る

治承4年(1180年)同年4月27日に叔父の源行家から以仁王の令旨を受け取った源頼朝が同年8月17日に挙兵します。

そして、源頼朝挙兵の話を聞いた源義経も動きます。

源頼朝挙兵の話を聞いた源義経は、親代わりとなっていた藤原秀衡の生死を振り切り、佐藤継信・忠信らを引き連れて参戦するため、奥州・平泉を後にします(吾妻鏡)。なお、平家物語(延慶本)では、源義経に対し藤原秀衡が兵を与えて合流させたとされていますので、源義経が奥州・平泉を発った実際の経緯は不明です。

富士川の戦い(1180年8月20日)

挙兵後、伊豆目代・山木兼隆を討ち取った源頼朝は、石橋山の戦いに敗れて阿波国に逃れた後、周辺豪族を取り込みながら勢力を高め、治承4年(1180年)10月6日、鎌倉に入ります。

そして、共に蜂起した甲斐源氏の武田信義安田義定らと合流をして、同年10月20日夜、富士川で平家軍を破ります(富士川の戦い)。

富士川の戦いに勝利して勢いに乗る源頼朝は、撤退する平氏を追撃して京に雪崩れ込もうと考えます。ところが、上総広常千葉常胤三浦義澄らがこれに反対して東国を固めるよう主張します。

また、同盟関係にある武田信義が駿河、安田義定が遠江と坂東と都を結ぶ東海道の途上を制圧しているので、彼らの意向を無視して上洛することもできませんでした。

いまだ自身では大きな力を持たない源頼朝は、これら東国武士たちの意志に逆らうことができず、結局は鎌倉に戻るという選択をします。

黄瀬川の対面(1180年10月21日)

富士川の戦いの翌日である治承4年(1180年)10月21日、黄瀬川駅(現在の静岡県駿東郡清水町)にて鎌倉へ戻る準備をしていた源頼朝の下に、同所に到着した源義経が対面を求めてきます。

聞けば、源頼朝の挙兵を耳にし、はるばる奥州・平泉から駆けてきたというのです。なお、平治物語では、両者の対面は頼朝軍が鎌倉から足柄・箱根を越え黄瀬川に向かう途上の大庭野(神奈川県藤沢市大庭)であったとされていますので、正確な場所は必ずしも明らかではありません。

また、源義経は、このとき1人であったとも(吾妻鏡)、20余騎を率いていたとも(源平盛衰記)とも言われています。

当初、源頼朝の配下であった土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠らが源義経の対応に当たったのですが、源義経の言う内容を疑って源頼朝に取り次ごうとはしませんでした。

もっとも、このときの騒ぎを聞きつけた源頼朝が、話を聞いて九郎義経であろうと考え、ついに両者の対面がかなうこととなりました。

そして、両者の初対面に際し、源頼朝は、後三年の役で苦戦していた源義家を助けるため官職をなげうってはるばる来援した弟・源義光の故事を引用し、懐旧の涙にむせんだと言われています(上の写真が、この対面の際に両者が座ったとされる対面石です。)。

余談ですが、源頼朝の下に駆け付けた兄弟は、源義経が最初ではありません。実は、その3週間ほど前の同年10月1日に、源義経の同母兄である阿野全成(源義経の同母兄である今若)源頼朝の下に駆け付けています。しかも、後世の我々は源義経のその後の活躍を知っていますが、この時点では単なる田舎から駆け付けた末の弟という立場でしかありませんので、源頼朝が僅かな兵を伴って参戦してきた源義経をそれほど歓迎したかについては疑問も残ります。

黄瀬川の対面の後

源頼朝と源義経との認識の違い

感動の対面をした源頼朝と源義経でしたが、対面の直後から関係性に亀裂が生れます。

きっかけは、源頼朝が鎌倉に戻る途中に相模国府において行った富士川の戦いの論功行賞でした。

ここで、源頼朝は、御恩と奉公を用い、所領を媒介とした「主を鎌倉殿」、「その他従者を御家人」とする鎌倉幕府の御家人制度の基礎を作り上げます。

具体的には、御家人の所領を安堵し、また敵対者を倒して獲得した所領の分与で御家人を配下に組み込むという方法です。

この制度では、主君は鎌倉殿である源頼朝ただ1人であり、その他は源氏一門であっても全て家臣としての御家人です。

すなわち、源頼朝は、兄弟であっても御家人制度に組み入れて自身と主従関係を持たせることとしたのですが、源義経は、そんな源頼朝の意向を理解できず自分は源頼朝の弟であるため御家人制度の枠外であるとの意識を持っていました。

そのため、出会った直後から、源頼朝と源義経との間には認識の齟齬が生じます。

源頼朝と源義経との確執の始まり

また、この両者の認識の違いは、早くも翌年に具現化します。

養和元年(1181年)閏2月、鎌倉の鶴岡八幡宮において若宮宝殿の上棟式が行われたのですが、ここで大工の棟梁などに褒美として与える馬を曳く役目を源義経に命じます。

源頼朝からすれば、兄弟とはいえ、源義経も一御家人に過ぎませんので、当然の命令の認識でした。

畠山重忠や佐貫広綱などの御家人も同じ役割を担っていたからです。

ところが、源義経としては、源頼朝の兄弟であるという強烈な自負から他の御家人と同等に扱われることが我慢できません。

そこで、源義経は、源頼朝の命令を拒否します。

これを聞いた源頼朝は、源義経の命令拒否を聞いて激高します。

源義経の命令拒否行為は、源頼朝が考える鎌倉幕府制度の根幹を否定するものだったからです。

源頼朝の政治構想を理解できない源義経は、源頼朝の怒りの理由を理解できずに戸惑います。結局、源義経は、しぶしぶ源頼朝の命に従い馬曳きの任を担うこととなったのですが、この一見は、源頼朝と源義経との確執の始まりを暗示させるものとなりました。

おわりに

そして、この後も源頼朝と源義経との確執は埋まることはなく、むしろどんどん深まっていきました。最終的には、悲劇的な結末となるのですが、長くなりますので、以降の話は別稿に委ねたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。