榊原康政(さかきばらやすまさ)は、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる、徳川家康の側近中の側近です。
戦いで抜群の戦功を挙げているのみならず、大樹寺修業時代に学んだ幅広い知識・教養を用いて内政・外政でも大活躍をしており、文武両道の武将と言えます。
陪臣の立場から自らの才覚で立身出世を遂げ、徳川家康の主要な戦いにほとんど従軍してなんどもその危機を救い、遂には10万石という大領を与えられて上野国館林藩の初代藩主ともなっています。
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榊原康政の出自
榊原康政出生(1548年)
榊原康政は、天文17年(1548年)、三河榊原家当主であった榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)・上野会下城にて生まれます(上野城に榊原康政生誕碑が建てられていますが事実とは異なります。)。年齢的には徳川家康の5歳年下であり、同じく後に徳川四天王と言われることとなる本多忠勝と同年齢です。
榊原家は、伊勢守護であった仁木義長の子孫が伊勢国一志郡榊原村において榊原姓を名乗ったのが始まりとされており、その後、三河国に移って安祥松平家の譜代家臣であった酒井忠尚に仕えたと言われています。
榊原康政の幼名は、於亀または亀丸といい、通称は小平太といいました。
陪臣の身分である榊原家の次男であったということもあり、父榊原長政が榊原康政の成長に大きなお金をかけることはできませんので、榊原康政は三河国大樹寺の寺小姓となって勉学に励みます。
徳川家康の小姓に抜擢(1560年)
永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死した後、そのどさくさに紛れて徳川家康(この頃は松平元康と名乗っていましたが、徳川家康の名称で統一します。)が岡崎に戻ってきます。
もっとも、徳川家康は、岡崎に戻ったとはいえ、岡崎城に今川家の城代が入っていたためにすぐに岡崎城に入ることができず、一旦、大樹寺に入ります。
こうして大樹寺に入った徳川家康でしたが、ここで同寺の寺小姓をしていた勉強家であり字も上手であったとされる当時13歳の榊原康政を見出して小姓に抜擢します。
なお、大樹寺の学友であった刈谷水野家の家臣・神谷金七が、榊原康政が徳川家康に仕官するにあたり、貧乏で具足も持っていない状態で仕官すると笑われてしまうといって選別に古びた具足を榊原康政に送ったとされています。
このときの具足は「ちぎれ具足」とも言われ、榊原康政は初陣からその後の様々な合戦の際に着用して武功を挙げます。
このとき榊原康政が貰い受けた具足を身に着けて高名を挙げたことから、榊原康政は、大出世を遂げた後も、合戦に赴く際にはゲン担ぎとして生涯合戦に持参していたと言われており(名将言行録)、このちぎれ具足は、現在も榊神社に残されています(「茶糸素懸威黒塗桶側五枚胴具足」初陣着用具足)。
永禄5年(1562年)に父の榊原長政が死去すると、榊原家の家督は兄である榊原清政が継ぎ、榊原康政は叔父(榊原長政の弟)である榊原一徳斎の養子となってその後見を受けます。
初陣(1563年?)
榊原康政は、永禄6年(1563年)の西三河で起こった三河一向一揆鎮圧戦の1つである上野の合戦で初陣を果たしたとも言われているのですが、正確には不明です。
この三河一向一揆鎮圧戦の活躍を高く評価され、徳川家康から「康」の字の偏諱を賜わって榊原康政と名乗り、また翌永禄7年(1564年)には、与力として伊藤正照、伊奈広質、中島右衛門佐が付されます(寛政重修諸家譜)。
徳川軍の将となる(家督相続前)
旗本先手役に抜擢(1566年)
徳川家康は、永禄9年(1566年)に東三河平定戦を勝利で終えて三河国を統一した後、軍制改革を行い、軍を徳川家康旗本衆、西三河衆(旗頭石川家成、後に石川数正)、東三河衆(旗頭酒井忠次)に分けて再編成します(三備の制)。
榊原康政は、この軍制改革が行われた翌年である永禄10年(1567年)、中根長重をはじめとする4人の与力が付けられて徳川家康直轄の旗本衆のうちの旗本先手役の1人に抜擢されます(4人の与力がそれぞれ数人の兵を従えていますので、実際には20〜30人を率いる部隊長です。)。
なお、旗本先手役には、前年に就任した本多忠勝、鳥居元忠、大久保忠世、大須賀康高、植村家存など安祥松平家の譜代家臣が並んでいますので、陪臣の家の当主の弟に過ぎなかった榊原康政がこの中に入っていることがどれだけ異例の人事であったかがわかります。
なお、旗本先手役となった榊原康政は、以降、三鈷剣(不動明王が持つ剣)前立の冑を着用し始めます。
また、榊原康政は、隊旗に「無」の一字を配しました。この「無」という文字の意味は未だ不明ですが、無欲無心で家康の元で戦う信念を表したとも、常に無名の一将でありたいという康政の志であったとも言われています。
その後も、榊原康政は、徳川家康に付き従って各地を転戦し、永禄11年(1568年)の掛川城攻城戦では先陣を務め、永禄12年(1569年)には久能城(遠江国)に赴いて今川氏真に内通した久能宗益を誅殺しています。
姉川の戦い(1570年6月28日)
元亀元年(1570年)6月28日、野村・三田村にそれぞれ布陣した浅井・朝倉連合軍に対し、野村には織田軍の馬廻衆と西美濃三人衆が、三田村には徳川軍が向かうことにより始まった姉川の戦いでは、当初、次々に姉川を渡って押し寄せる磯野員昌を始めとする浅井軍に対して、柴田勝家・木下秀吉などの名だたる織田方の陣が次々と突破され、浅井軍が織田信長本陣に迫ります。なお、このときの磯野員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残っています(浅井三代記)。
このとき、南に向かって侵攻する朝倉軍の陣形が伸びきっていると見た徳川家康が、第二陣に属していた榊原康政に命じて別働隊を率いさせて密かに姉川を迂回させ、侵攻してくる朝倉軍の西側(朝倉軍の右側)側面を攻撃させます。
そして、榊原康政が、朝倉軍の側面を突いて朝倉軍が敗走させ、続いて浅井軍が敗走させるという大戦果を挙げます。なお、姉川の戦いの後、徳川家康は、「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」と言ってその働きを絶賛したと言われています。
三方ヶ原の戦い(1572年12月)
元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いでは徳川家康に付き従って戦うも敗れ、榊原康政もまた他の徳川軍の将兵と共に浜松城を目指して逃れていきます。
もっとも、榊原康政は、そのまま浜松城に入ることなく兵を率いて浜松城の東南側にあった西島に500人の兵で陣を敷いて夜を待ちます。
これは、敗走して来た徳川軍を武田軍が追撃してきた場合、この武田軍を攻撃するための布陣でした。
そして、同年12月23日夜になると、榊原康政は、大久保忠世らと共に兵を率いて武田軍を奇襲します(犀が崖の夜襲)。
勝ち戦に安心していた武田軍は、突然の奇襲を受けて混乱します。
その後、さらに榊原康政の陣に掛川城から石川家成が2000人の兵を率いて合流したため2500人の布陣が出来上がったことから、挟撃を恐れた武田軍は浜松城攻撃が出来なくなり浜松城を前にして戦線が膠着します。
この結果、武田軍は、浜松城を攻撃することなく刑部城→野田城へと西に向かって進んでいったため、浜松城は陥落することなく持ちこたえることができました。
その後、天正元年(1573年)9月10日には、遠江国・森郷において武田信廉と戦って勝利し、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、徳川家康本隊の前に布陣し、本多忠勝や義父である大須賀康高などと共に突撃してくる内藤昌豊隊を防いでいます。
また、同年6月の遠江国・光明城攻め、同年7月20日の諏訪原城攻めに際して先陣を務めています(寛政重修諸家譜)。
徳川軍の大将として活躍(家督相続後)
家督相続(1579年)
徳川家康は、天正7年(1579年)8月3日、浜松城から岡崎城に赴いた後翌日同年8月4日に松平信康を大浜城へ移し、同年8月7日に榊原康政を岡崎城の本城城番に任命します(家忠日記)。このとき岡崎城に入った松平康忠と榊原康政は、同年8月12日、岡崎にいた松平信康麾下の武将達に事の顛末を伝え、戒厳令を敷いて反乱などが起きないように抑え込みます。
そして、同年9月15日に松平信康が二俣城において切腹させられると、その傅役であった兄・榊原清政もまた連座して蟄居することとなり(病弱を理由とする説もあります)、代わって榊原康政が榊原家の家督を相続します。
小牧・長久手の戦い(1584年)
天正12年(1584年)、織田信雄と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)とが対立すると、徳川家康は織田信雄側に与して羽柴秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いに至ります。
こうして小牧長久手の戦いが始まるに至ったのですが、榊原康政は、酒井忠次と共に徳川家康に対して尾張戦線の要となる小牧山に一刻も早くに入るように進言し、羽柴軍より先に徳川軍が小牧山を押さえて小牧山城に入ります(名将言行録)。
小牧山は、終わりを見渡す高台にあり、またその守りが極めて強固であったため、大軍の羽柴軍は容易に動けなくなり、寡兵の徳川軍でも大軍の羽柴軍と対峙することが出来ることとなり、寡兵の織田・徳川連合軍が羽柴軍と互角の戦ができるようになります。
そして、その結果、長久手戦線が膠着します。
ここで、榊原康政は、羽柴秀吉を挑発するため、榊原康政は、羽柴秀吉は織田家を乗っ取った大悪人でありこれに従う者には義がない者であるとの檄文をしたためます(榊原康政は、三河大樹寺で学んだ能筆家としても知られ、達筆な文字でしたためられたこのときの檄文は様々な箇所に掲げられました。)。
この話を聞いた羽柴秀吉は、激怒して榊原康政の首を取ったものには10万石を与えるとまで言い放ったと言われています(藩翰譜)。
その後、羽柴秀吉は、徳川家康を小牧山から釣りだすために、別動隊として、池田恒興5000人、森長可3000人、堀秀政3000人、羽柴秀次9000人に命じて徳川家康の治める三河国を急襲させる作戦を立案します。
ところが、天正12年(1584年)4月9日午後、途中の白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)で休息していた羽柴秀次隊が、後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高隊、側面から榊原康政隊に急襲されて潰滅します。
羽柴秀次隊を壊滅させた榊原康政ら徳川軍は、そのまま、池田恒興・森長可・堀秀政隊を追って南進していったのですが、途中、檜ヶ根で伏兵として潜んでいた堀秀政隊の一斉射撃に遭って大損害を被り榊原康政自身も深手を負います。
なお、この後、不利を悟った堀秀政が撤退したため、先行していた池田恒興・森長可が前線で孤立し、徳川軍に討ち取られています(長久手の戦い)。
その後、一進一退の攻防を続けていた羽柴・徳川両軍でしたが、同年11月12日、織田信雄が徳川家康に無断で豊臣秀吉と和議を結んだことから、戦争の大義名分を失った徳川家康もまた同年11月17日に三河に帰国します。
徳川家康は、小牧山城から撤退に際し、小牧山城に留守居として榊原康政を置いています(寛政重修諸家譜)。
この後、羽柴・徳川間でも和睦交渉が行われ、徳川家康が、次男・於義丸(後の結城秀康)を豊臣秀吉への人質として大坂に送り、小牧・長久手の戦いは終わります。
そして、和睦が成立した後、羽柴秀吉は、徳川家康に対し、その家臣団のうち、特に井伊直政・本多忠勝・榊原康政の3人を指名して上洛するよう命じます。
この命に対し、戦中に羽柴秀吉を挑発した榊原康政は死を覚悟します。
ところが、羽柴秀吉は、天正14年(1586年)11月、徳川家康に随伴して上洛した井伊直政・本多忠勝・榊原康政の3名を推挙して官位を与えます。
榊原康政に対しては、同年11月9日、従五位下・式部大輔に叙任し、豊臣姓の下賜まで行っています。
上野国館林10万石を得る
関東総奉行就任(1590年)
天正18年(1590年)、小田原征伐後に徳川家康が関東に移封されると、榊原康政もまた徳川家康の関東入封に従って関東入りします。
関東に入って江戸を拠点とした徳川家康は、家臣団の再編や所領整備などを行うために関東総奉行を置いて榊原康政にその任を命じました(近習・外様を5組に分け、それぞれ榊原康政・井伊直政・本多忠勝・平岩親吉・石川康通の5人を長に任じています。)。
また、榊原康政は、本多正信ら実務の人間たちの監督を行って江戸城や街の整備を行っています。
上野国館林に入封(1590年)
また、徳川家康は、江戸に繋がる街道の出入口に主要家臣を配置することとし、榊原康政には、上野国邑楽郡・勢田郡、下野国簗田郡10万石を与え日光街道の出入口を守らせることとします。
館林に入った榊原康政によって館林藩が立藩され、榊原康政が初代館林藩主となり、堤防工事(利根川東遷工事の一環)や街道整備などに力を注いでその発展に寄与します。
もっとも、陪臣の家であった榊原家には家臣が少なく(記録上、確認できる家臣は竹尾氏のみです。)、兄・榊原清政の息子や娘婿をも家臣団に組み込んだものの、これらで10万石もの大領を運営することは不可能でした。
そこで、館林統治のために徳川家康から御付人と称される家臣団(特に中根長重・原田種政・村上勝重の「三家老」が有名です。)が派遣されて統治を補佐し、後に彼らは徳川家康の命によって徳川家の直臣から榊原氏の家臣へ転属しています。
井伊直政との絆
榊原康政は、当初、井伊直政とあまり仲が良くなく、武田家滅亡後に武田遺臣と赤備えが井伊直政の配下としてつけられた際には、手柄を正しく評価されていないと憤り、徳川家康(酒井忠次)に対して猛然と抗議したほどでした。
もっとも、徳川家康が関東に移封印された後で井伊直政と行動を共にすることが多くなった榊原康政は、次第に井伊直政と打ち解け、「大御所(家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」と述べるほど深い信頼関係で結ばれていきます。
実際、関ケ原の戦いの際の傷によって井伊直政が亡くなると、まだ幼少だったその子・井伊直孝(の家臣・木俣守勝)に対し、「何かあったら自分に申し付けるように」と申し向けたほどでした(京都井伊美術館所蔵文書・大阪城歴史博物館所蔵文書)。
関ケ原の戦いでの失態
関ケ原の戦いに遅刻(1600年)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、上杉攻めのために会津に向かっていた徳川軍(東軍)が、下野国小山から引き返すこととなったのですが、このとき徳川家康率いる本隊と豊臣恩顧大名先発隊は東海道を、徳川秀忠率いる徳川譜代隊3万8000人は中山道を進んで美濃国を目指すこととなりました。
このとき、榊原康政は、軍監として徳川秀忠軍につけられてこれに従軍し、徳川秀忠と共に中山道を西進します。
ところが、途中の上田城に差し掛かった際に真田昌幸の挑発に遭い、若く実戦経験のない徳川秀忠が我慢できずに上田城攻めを決断して戦闘状態となります(第2次上田合戦)。なお、榊原康政は、本多正信と共に徳川秀忠に対して上田城攻撃を止めるよう進言したとも言われていますが、正確なところは不明です。
そして、大軍の徳川軍で上田城を取り囲んでこれを攻撃するも上田城はなかなか落城せず、そうこうしている間に、同年9月8日、徳川秀忠の下に徳川家康より急ぎ美濃国に来るよう伝える使者が到着します(荒天により、命令を伝える使者の到着が遅れます。)。
この結果、徳川秀忠は、抑えの兵を残して上田城の包囲を解き、全軍を率いて美濃国に向かって急いで進軍したのですが、荒天のために進軍が進まず、東軍主力であった徳川秀忠軍が同年9月15日の関ケ原の戦いの戦いに間に合わないという大失態を犯してしまいます。
結果的に関ケ原の戦いに勝利した徳川家康でしたが、この徳川秀忠の遅刻により敗戦の危機に陥ったために徳川秀忠に対して激怒し、しばらくは徳川秀忠に面会を許さないような事態に陥ります。
徳川家の2大看板の反目は徳川家にとっても良いことではなく、このときに榊原康政が徳川家康と徳川秀忠との間に入って間を取り持ち、伏見城において徳川秀忠が徳川家康に対して謝罪することで事態の収束が果たされます(藩翰譜)。
徳川秀忠は、この榊原康政の仲裁をとても感謝したと言われています。
その後、榊原康政は関ケ原の戦い後に老中に任命されたものの、目立った活躍のなかった榊原康政に対して加増はありませんでした。
徳川家康から与えられた証文
なお、関ケ原の戦いの後に、徳川家康から榊原康政に対して水戸への加増転封を打診されたものの、榊原康政から関ヶ原での戦功がないことや水戸より館林の方が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったとする逸話を残されており、これによると、このときに徳川家康が榊原康政の態度に感銘して、徳川家が榊原家を冷遇することはないとの証文を与えたと言われています。
なお、この証文は後に大活躍しています。
具体的には、江戸時代中期に榊原家の当主であった榊原政岑が、江戸城大手門の警備担当の際に奇抜な服装で現れたり、8代将軍徳川吉宗が出していた倹約令に反して吉原に通い詰めて名妓を身請けするなどしたりしため、榊原家にお家取り潰しの危機が訪れたのですが、このときに榊原政岑が、榊原康政が徳川家康から貰い受けた前記証文を提出したことから、榊原家のお取り潰しは免れ、当主の隠居と越後高田藩(当時の知行地であった姫路藩と同じ石高15万石)への移封処分というお咎めで済まされたという逸話が残されています。
なお、この処分により、榊原家に対して徳川家康直々の裁定により御家存続した家という前例が作り上げられ、その後、幾度かの不祥事や相続危機を迎えても榊原家に対する改易や断絶という処分がなされることはありませんでした。
榊原康政の最期
政治的な活動
慶長8年(1603年)11月25日、徳川家康は、榊原康政に対し、在京料として近江国野洲郡・栗太郡・蒲生郡内で5000石を給付します(寛政重修諸家譜)。
慶長9年(1604年)2月15日、次男・榊原忠長が上野国館林において死去します。
慶長10年(1605年)4月26日、徳川秀忠の征夷大将軍宣下のための参内に、榊原康勝・酒井忠世と共に供奉します(義演准后日記)。
榊原康政死去(1606年5月14日)
慶長11年(1606年)4月、館林城(上野国)にて毛嚢炎を煩います。
榊原康政が病に倒れたと聞いた徳川秀忠が、見舞いのために、医師や家臣(酒井忠世・土井利勝)を館林に遣わしたのですが、症状に改善は見られず、同年5月14日巳刻に死去します(寛政重修諸家譜)。享年は59歳、武勇では本多忠勝には及ばずも、指揮能力としては本多忠勝に勝り井伊直政に匹敵すると言われた名将(武備神木抄)の最後でした。
なお、榊原康政の葬儀の際し、側近であった南直道が追腹を行っています。
当初、善導寺(現在の群馬県館林市楠町)が墓所とされたのですが、後に榊原家に対して多くの移封が命じられたため、榊神社(現在の新潟県上越市)・高野山奥の院(現在の和歌山県高野町)など、様々な場所に墓所が置かれています。