【八王子城の戦い】小田原征伐の際の豊臣北方軍最大の激戦

八王子城の戦いは、豊臣秀吉の小田原征伐の一環として行われた戦いであり、上野国に入った豊臣北方軍(前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら)と、これを迎え討った八王子城兵との戦いです。

八王子城は、北条家の築城技術を結集して築かれた屈指の山城でしたが、城主であった北条氏照が城兵を率いて小田原城に入っていたために婦女子で防衛していたこともあり僅か1日で落城し、豊臣軍の勝利で終わっています。

小田原城の指揮を下げるために城兵が皆殺しにされ、現在の八王子城を心霊スポットとする伝説が生まれるほどの凄惨な殺戮劇が繰り広げられた戦いとしても有名です。

八王子城の戦いに至る経緯

沼田裁定(1589年)

本能寺の変により織田信長が横死すると、直前に獲得したばかりの武田遺領で反乱が続発し、甲斐国・信濃国が統治者不在の権力空白地帯となります。

これを好機と見た周囲大名(上杉景勝・徳川家康・北条氏政ら)が、一斉に甲斐国・信濃国に侵攻を開始して武田旧領の切り取りを始めます(天正壬午の乱)。

このどさくさに紛れて、真田昌幸が暗躍して沼田城を乗っとったのですが、一国衆に過ぎない真田家には大国徳川・北条に対抗して更なる領土拡大をする力はなく、真田昌幸は、沼田獲得後に徳川家側に与して、その後の天正壬午の乱の混乱を乗り切ります。

その後、徳川家康が甲斐国・信濃国を、北条氏政が上野国を切り取ったところで徳川・北条の間が和睦に至ったのですが、その際に徳川家康が和睦条件として真田昌幸に無断で北条氏政に沼田領全域を割譲することを約束してしましまいます。

真田昌幸としては寝耳に水の話であり、徳川家康が勝手に決めた沼田領割譲など認められませんので北条家への沼田割譲を拒否します。

この結果、メンツを潰された徳川家も真田家との関係が急速に悪化します(その結果、第一次上田合戦に繋がっていきます。)。また、沼田領を得られると約束した北条家と真田家との関係も冷え込みます。

これにより、徳川家と北条家の沼田割譲合意とそれを拒否する真田昌幸の対応により、真田家・徳川家・北条家の三者で沼田領を巡って泥沼の争いが始まります。

困った三家は、当時最大勢力となった豊臣秀吉に裁定を依頼し、豊臣秀吉が、真田家の「祖先墳墓の地」である名胡桃城を含む3分の1を真田領のものにし、北条家当主が上洛するという条件の下でその他沼田領の3分の2を北条領とするとの裁定を行います。

この裁定に対して北条家において北条氏政の上洛の方向で調整がされたため、先行して沼田城が北条に引き渡されます。

名胡桃城事件(1589年11月)

ところが、ここで大問題が起こります。

天正17年(1589年)11月3日、沼田城代となった北条家家臣・猪俣邦憲が、真田領と決められたはずの名胡桃城までも調略によって獲得し占領してしまったのです。

北条家としては、沼田城を得ても沼田城攻略のための城である名胡桃城が真田家の下にあれば喉元に刃が突き付けられている形となり安心できなかったという理由によるものなのですが、沼田城だけでなく名胡桃城まで奪われた真田昌幸は激怒し、寄親である徳川家康を通して豊臣秀吉に訴え出ます。

約定違反を聞かされてメンツをつぶされた豊臣秀吉は、北条氏政に対して、関係者の引き渡しと処罰を求めたのですが北条家はこれを拒否します。

これに対し、豊臣秀吉は、同年11月中に北条氏政が上洛しなければ翌年春に北条討伐を行うとの最後通牒を突き付けましたが北条氏政はこれも無視します。

小田原征伐の始まり

怒った豊臣秀吉は、天正17年(1589年)12月13日、遂に北条家討伐を決断して陣触れの上、全国統一の総決算である小田原征伐を始めます。

豊臣秀吉は、20万人とも言われる大軍を準備し、これを3軍に分け、北側から上杉景勝・真田昌幸ら率いる約3万5000人、東側から豊臣秀次・徳川家康ら率いる約15万3000人、海路から九鬼嘉隆らに命じて北条家の居城・小田原城に向かわせます。

これに対し、迎え討つ北条家は、領内で防備を整え豊臣秀吉の大軍を待ち受けます。

また、北条氏政は、豊臣北方軍の進軍を妨害するため、相木房頼や伴野貞長を信濃国佐久郡に潜入させて白岩城(平尾氏館)で挙兵させたのですが、これは徳川家の松平康国(依田康国)によってによって即座に鎮圧されてしまいます。

豊臣北方軍の侵攻

天正18年(1590年)3月28日、信濃国から侵攻を開始した豊臣北方軍が碓氷峠を越えて上野国から関東平野に入ろうとしたため、松井田城代であった大道寺政繁が碓氷峠で豊臣軍を迎え撃つも敗北します。

難なく上野国に入った豊臣軍は、同年4月17日頃に国峯城・宮崎城、同年4月19日に厩橋城を落城させます。

また、包囲していた松井田城を同年4月22日に降伏・開城させて同城城代であった大道寺政繫を降らさせます。なお、このころに東海道を進んでいた豊臣本隊もまた、同年3月29日に山中城を陥落させ(山中城の戦い)、同年4月4日に北条家の本拠地である小田原城を囲みます。その上で、小田原包囲中の豊臣本隊から兵を割いて関東一円に派兵し、同年4月21日には玉縄城を、同年4月23日には下田城を、同年4月27日には江戸城を降伏開城させていきます。

松井田城を落とした豊臣北方軍から前田利家が、同年4月末ころ、状況報告のために降伏した大道寺政繁父子を伴って小田原包囲中の豊臣秀吉の下へ赴いたところ、豊臣秀吉から小田原城の士気を下げるために、降伏開城を拒否した城の城兵を見せしめのために皆殺しにするよう指示を受けます。

その後、豊臣方北方軍は、小田原から戻った大道寺政繫の道案内の下で小田原城に向かって南進を開始し、同年5月15日に白井城、同年5月22日に松山城、その他、西牧城・石倉城・新田金山城・大胡城・白倉城・新堀城など上野国から武蔵北西部にまたがって配置されていた北条支城群を次々と陥落させていきます。

その上で、豊臣北方軍は、同年6月14日には北条氏邦を降伏させて鉢形城を攻略し、同年6月22日、ついに八王子城に迫ります。

八王子城の戦い

豊臣軍の布陣

八王子城は、東側を案下城・小田野城・出羽砦・廿里砦・初沢城という支城群で守りを固めていたため、八王子城に迫った豊臣軍1万5000人は、城攻めの準備として八王子城支城群の外側にあたる四谷・楢原に分かれて布陣します。

そして、四谷には前田利家・真田昌幸・上杉景勝・大道寺政繫ら本隊が、楢原には直江兼続・前田利長・真田信之ら搦手隊が布陣します。

八王子城の防衛構造

他方、八王子城では、城主であった北条氏照が兵を引き連れて小田原城に籠っていたため、城将と城兵が不在でした。

そこで、北条氏照に代わって横地監物が指揮をとることとなり、本丸に横地監物、二の丸に大石照基、三の丸に狩野一庵、高丸に中山家範、御主殿に近藤助実、金子曲輪に金子家重、搦手に小田野源左衛門を配置した上だ、領内から動員した農民・婦女子を中心とした合計3000人の守備兵により豊臣軍を待ち受けます。

開戦(1590年6月22日)

八王子城近くに布陣した豊臣軍の前田利家が、八王子城に使者を出して降伏を勧告したのですが、八王子城側が使者を斬り捨てて拒絶の意思を表明します。

この結果、豊臣軍による八王子城総攻撃が決まります(なお、前記のとおり、豊臣軍は豊臣秀吉から徹底抗戦があった場合には見せしめのために城兵を皆殺しにするよう指示を受けていたため、これが凄惨な殺戮戦の始まりを意味しました。)。

豊臣軍では、降将である大道寺政繫から八王子城の配置を聞き取った上で作戦立案が行われ、四谷に布陣した本隊は東側から、楢原に布陣した搦手隊は北側から八王子城を攻撃することに決まり、天正18年(1590年)6月22日午後10時ころ、八王子城を目指して一斉に進軍していきます。

城に向かっていく豊臣軍は、途中深い霧に足を止められながらも、大道寺政繫の道案内によって八王子城に向かって順調に進軍していきます。他方、この深い霧は、豊臣軍進軍を隠す作用をもたらしたため八王子城兵には不利に働きました。

そして、同年6月23日0時ころ(正確な時間は諸説あります)、八王子城に向かっていた豊臣軍本隊が、大城戸と八王子城の支城であった出羽砦付近で北条軍と遭遇したため、八王子城の戦いが始まります。

もっとも、大軍であった豊臣軍はすぐさま北条方を蹴散らして1時間程度で大城戸・出羽砦を突破し、天正18年(1590年)6月22日から翌23日に変わるころ、中宿大手門・八幡社砦などの支城群を突破して八王子城に取りつきます。

攻城戦(1590年6月23日)

八王子城に取りついた豊臣軍は、本隊が東正面の大手口(元八王子町)、搦手隊が北側の搦手口(下恩方町)という2方向から八王子城への攻撃を開始します。

(1)豊臣北方軍本隊による総攻撃開始

天正18年(1590年)6月23日深夜、東正面の大手口に取りついた豊臣軍本隊は、前田利家隊・真田昌幸隊が麓の居住地区への攻撃を開始し、他方で、上杉景勝隊は太鼓曲輪群へ向かいます。

根小屋(元八王子の集落)守りを突破した豊臣軍でしたが、深夜と濃霧により城内の状況がわからなかったこともあり、居館地区からの石や弓での攻撃を受けて相当数の損害を被ります。

居館地区では、御主殿などを中心によく守り、前田利家らは大いに苦戦を強いられたのですが、太鼓曲輪群の制圧を終えた上杉景勝隊が攻撃に参加すると戦局が豊臣方に大きく傾きます。

そして、遂に居館地区に入って御主殿を突破した豊臣軍本隊は、豊臣秀吉の命令に従って婦女子を含めた城兵を皆殺しにしていきます。なお、このとき、八王子城内にいた者は、北条氏照の正室であった比左を含めことごとく自刃または御主殿の滝に身を投げたと言われており、余りに大量の血が流れたことから滝が三日三晩血に染まって麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと言い伝えられています(この逸話から、同地では先祖供養として赤飯を炊くことが風習として受け継がれています。)。

こうして居館地区の攻略を果たした豊臣軍本隊は、本丸のある要害地区を目指し、中腹曲輪群を上っていきます。

そして、同日朝方には、中腹曲輪群の金子曲輪群、金子丸、高丸を次々と突破していき、中腹曲輪群の制圧を完了します。

また、同時に真田昌幸隊が御主殿から急斜面を上って山王台を、上杉景勝隊が無名台を攻略しています。

(2)要害地区包囲

また、ここで前田利長・真田信之らが率いる搦手隊が、夜のうちに小田野城を攻略し、明け方に八王子城の北側に取りつき、本隊が行っていた中腹曲輪群攻撃に合流し、一気に中腹曲輪群を突破して要害地区に迫ります。

もっとも、高台にある八王子城要害地区は、小宮曲輪に狩野一庵、中の曲輪に中山家範、山頂曲輪に横地監物と大石照基が入り、それぞれが連携して城内で最も強固な防衛網を構築していました。

そのため、多勢の豊臣軍もこれを責めあぐね、1000人以上とも言われる死傷者を出しても攻略する見込みが見出せませんでした。

そこで、上杉搦手隊の将であった藤田信吉が、八王子城の普請奉行を勤めていた平井無辺を調略し、その指示の下、直江兼続が少数の精兵を抜粋して搦手隊から分離し直接要害地区攻撃を目指し、間道沿いに北側の恩方より水の手(棚沢)を経て搦手から小宮曲輪を奇襲しました。

不意を突かれた要害地区は大混乱に陥り、ここで戦局が一変します。

突然の奇襲を受けた小宮曲輪が陥落すると、その混乱は要害地区一体に伝播し、そのまま要害地区一帯が制圧され、八王子城が陥落します。

なお、陥落した八王子城には、攻城戦を担った前田軍と上杉軍がそのまま入っています。

八王子城の戦いの後

落城に際し、城代であった横地監物はなんとか脱出に成功したのですが、平山氏重の守る檜原村の檜原城を目指して落ち延びる途中に切腹して果てたと言われています。

また、残った城兵は豊臣秀吉の命を受けた豊臣兵により皆殺しにされました。

そして、攻城戦を通じて獲られた八王子城将兵の首は、籠城を続ける小田原城に運ばれて、城内の士気を下げるために城門近くに晒されました。

このときの小田原城では、天正18年(1590年)5月9日に北条家と同盟を結んでいたはずの伊達政宗が豊臣秀吉に降ったことにより他家からの後詰の道が断たれ、また小田原城を守る支城郡が次々と陥落していったことにより家臣団の離反が進む北条家は小田原城籠城戦の維持が難しくなっている状態でした。

以上の不安な状態下にあった小田原城兵は、八王子城兵の首を見てさらにその士気を低下させます。

また、同年6月26日に、小田原城を見下ろす石垣山に関東初の近世城郭の威容を誇った石垣山城が現れたことも北条方の士気低下に拍車をかけました。

そしてついに、同年7月5日、北条氏直と太田氏房が滝川雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けることを条件として小田原城を明け渡すと豊臣方に申し出たことにより小田原征伐が終わります。

なお、八王子城には、一旦、上杉景勝の家臣であった須田満統が城代として入った後、徳川家康の関東移封によって移ってきた徳川家康によって廃城とされています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です