【名胡桃城(続日本100名城115番)】小田原征伐の原因となった真田の城

名胡桃城(なぐるみじょう)は、戦国時代後期に、武田勝頼が北条氏から沼田城を奪取することを目指し、真田昌幸に命じて沼田城攻略のための前線基地とするために築かせた城です。

北関東の要衝であった沼田城から僅か数kmという近接地に築かれているため、激しい争奪戦の舞台となった城で、後に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすこととなった小田原征伐のきっかけとなった城としても有名です。

名胡桃城築城の経緯

名胡桃城の立地

利根川上流の右岸断崖部に位置し、利根川支流の赤谷川と湯舟沢の間の階段状の地形(河岸段丘)にある台地上の東端に築かれています。

北関東の要衝である沼田城の約7km北西に位置しています。

名胡桃城築城(1579年)

名胡桃城は、天正7年(1579年)に武田勝頼が上杉景勝と甲越同盟を結ぶ際に東上野から切り取りを容認された後、敵対関係となった北条氏から沼田領を奪取するための前線基地と定め、真田昌幸に命じて名胡桃館(明応元年・1492年築城の沼田城の支城)を攻略させ改築させたのが名胡桃城の始まりです。

すなわち、名胡桃城は、武田家が北条領であった沼田城を攻めるために築いた城なのです。

そして、真田昌幸は、天正8年(1580年)に名胡桃城を足掛かりとして沼田城代の金子泰清に調略を仕掛けた後、叔父の矢沢頼綱を沼田城を攻撃させて無血開城にてこれを獲得します。

そして、これ以降、真田家が沼田を支配下におくこととなり、名胡桃城は沼田城の支城に組み込まれます。

名胡桃城の縄張り等

名胡桃城は、南北を利根川支流の川で挟まれたた崖上に築かれ、外郭から三郭・二郭・本郭・ささ郭と主要な郭を西側から台地の先端となる東側に向かって直線的に並べて行き、これをさらに北側にある般若郭で守る連郭式山城です。

城全体が川と崖で守られている上、各郭がそれぞれ堀切で分断され、各郭周囲を石積みを持つ土塁・柵で覆っていました。

名胡桃城跡の発掘調査により、土塁址・三日月堀・虎口・通路・門礎石址・掘立柱建物址などの重要な遺構が多数確認されており、また廃城となった後、ほとんど改変を受けていないため、築城当時の遺構が比較的良好に残されている興味深い城です。

現在は、国道17号線の北西側にある馬出の位置から入っていく形となりますので、馬出しから直線的に東に向かってみていくのが観光ルートとなります(上図のイメージです)。

外郭

水の手郭

般若郭

丸馬出し

三郭

① 木橋

② 堀切

三郭と二郭の間は、深い堀切で切断されています。

二郭

① 南虎口(食違い虎口)

三郭から二郭に入る前には木橋が架けられ、その先が食違い虎口となっています。

そして、その先の二郭南虎口には二階建ての櫓門が設置されていたそうです。

② 土塁

二郭内には土塁が復元されており、その上を歩けるようになっています。

土塁に登ると、南虎口の側面を見ることができますので横矢として利用されていたことが分かり、南虎口に押し寄せてくる攻城兵を攻撃する様子を想像することができます。

③ 建物跡

二郭は、本郭と比べて格段に大きく、内部に建物が建てられていたこともわかっています。

④ 北虎口

名胡桃城の二郭には、南側のみならず北側にも虎口が設けられています。

これはとても不思議です。

名胡桃城は、構造上南側から攻められることを想定して築城されており、本郭も二郭の北側に配置されています。

そして当然、二郭は本郭を防衛するためにあるはずですので、二郭の北側虎口は本郭防衛上無意味だからです。

そこで、二郭の北側にも虎口が設けられた理由を考えると、おそらく名胡桃城築城後のいずれかの段階(三郭の増設後と思われます。)で、本郭の機能をより広い二郭に移して二郭を本郭的に利用していたのではないかと考えられます。推測ですが。

本郭

① 木橋

② 虎口

③ 石碑

本郭は、言うまでもなく名胡桃城の最重要郭です。

籠城戦の際に城主が籠って指揮をとる場所です。

現在は、名胡桃城跡の石碑が建っています。

ささ郭

名胡桃城の本丸東側にある曲輪です。

台地の先端にある曲輪ですので周囲を一望できる場所にあり、籠城時に物見のために使われていたと考えられます。

なお、曲輪の東側には搦手門があったそうです。

物見郭

名胡桃城は、前記のとおり利根川対岸(北東側)にある沼田城を攻略するために築かれた城です。

名胡桃城から沼田城の動きが確認できることは絶対に必要です。

そこで、沼田城に最も近い場所となる名胡桃城の東側端に沼田城監視のための物見櫓が築かれました(もっとも、名胡桃城から沼田城を直接確認できませんので、実際には両城の間に繋ぎの櫓が設置されていたそうです。)。

名胡桃城廃城

沼田を巡る真田・徳川・北条の争い

前記のとおり、かつて沼田領は北条家の領土だったのですが、天正8年(1580年)に上杉景勝の許可を得た真田昌幸に切り取られた歴史があります(沼田城攻略のために、天正7年・1579年に築城されたのが名胡桃城です。)。

そのため、天正8年(1580年)以降、沼田領は、武田家の支配の下で真田領として認められていました。

もっとも、天正10年(1582年)に武田家が滅亡したため、真田昌幸は織田信長に臣従し沼田領を織田信長に差し出します。

ところが、その後すぐの同年6月2日に織田信長も本能寺の変で横死したため、武田旧領が統治者不在の混乱状態となります。

これを好機と見た真田昌幸は、すぐさま沼田領に派兵してこれを取り戻してしまいます。

その後、上杉景勝・徳川家康・北条氏政らが甲斐国・信濃国に侵攻を開始して武田旧領の切り取りを始めますが(天正壬午の乱)、真田昌幸はこれらの間をうまく立ち回って生き残りを図ります。

やがて、天正壬午の乱は、徳川対北条の戦いに集約されていくのですが、真田昌幸は最終的には徳川家側につきます。

その後、徳川家と北条家との間で和睦に至ったのですが、その際に徳川家康が勝手に北条氏政に沼田領全域を割譲することを約束してしましまいます。

ところが、真田昌幸としては、徳川家康が勝手に決めた沼田領割譲など認められませんので、これを拒否します。

その結果、徳川家・真田家の関係は急速に悪化します(その結果、第一次上田合戦に繋がっていきます。)。

また、沼田領を得られると約束した北条家と真田家との関係も冷え込みます。

沼田裁定(1589年)

以上の経緯の結果、真田家・徳川家・北条家の三者で沼田領を巡って泥沼の争いが始まります。

困った三家は、当時最大勢力となった豊臣秀吉に裁定を依頼したため、豊臣秀吉が、真田家の「祖先墳墓の地」である名胡桃城を含む3分の1を真田領のものにし、その他沼田領の3分の2を北条家当主が上洛するという条件の下で北条領とするとの裁定を行います。

この裁定に対して北条氏側において北条氏政の上洛の方向で調整がされたため、先行して沼田城が北条に引き渡されます(真田昌幸には代替地として西上野の箕輪城が与えられます。)。

名胡桃城事件(1590年)

ところが、ここで大問題が起こります。

沼田城を得た北条氏からの音信が途絶えたのです。

そればかりか、天正17年(1589年)11月3日、沼田城代となった北条家家臣・猪俣邦憲が、真田家家臣であるの名胡桃城代・鈴木重則の家臣であった中山九郎兵衛を寝返らせ、偽の書状で鈴木重則を上田城に呼び寄せた隙に名胡桃城を占領してしまいます。

北条家としては、沼田城を得ても沼田城攻略のための城である名胡桃城が真田家の下にあれば喉元に刃が突き付けられている形となり安心できないからです。

沼田城だけでなく名胡桃城まで奪われた真田昌幸は、寄親である徳川家康を通して豊臣秀吉に訴えでたため、豊臣秀吉が北条氏に関係者の引き渡しと処罰を求めたのですが北条家はこれを拒否します。

そのため、豊臣秀吉は、天正7年(1589年)11月中に北条氏政が上洛しなければ翌年春に北条討伐を行うと通告します。

もっとも、北条氏政がこの通告を無視したため、天正8年(1590年)3月、豊臣秀吉の全国統一の総決算である小田原征伐が始まることとなります。

名胡桃城廃城

小田原征伐によって北条家が滅亡すると、豊臣秀吉は沼田領全域を真田氏に安堵します。

沼田領を安堵された真田昌幸では、沼田城を攻める必要がなくなったため名胡桃城はその役目を終え、廃城となりました。

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