【小牧・長久手の戦い】もう1つの天下分け目の合戦

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、織田家家臣団を吸収して勢力を拡大する羽柴秀吉と、これに対して織田家当主として争った織田信雄とこれに同調した徳川家康とが戦った一連の合戦です。

この戦いは、羽柴軍が、織田信雄の本拠地であった尾張国に攻め込む形で行われたため、尾張国を中心としておこなわれたのですが、反羽柴方において秀吉包囲網が形成されたことから、全国に波及し、連動した戦いが北陸・四国・関東など全国各地で行われています

小牧・長久手の戦いに至る経緯

本能寺の変と山崎の戦い

天正10年(1582年)3月に甲斐国武田家を滅ぼし順調に天下統一戦を進めていた織田家でしたが、同年6月2日に、重臣であった明智光秀が謀反を起こして京の本能寺を襲撃して織田信長を自害に追い込み(本能寺の変)、続いて二条御所をも襲撃して織田家当主・織田信忠も自害に追い込むという大事件が起こります。

前当主のカリスマと、当主を一度に失うという事態に陥った織田家は混乱を極めたのですが、中国方面軍司令官として毛利家討伐にあたっていた羽柴秀吉が毛利家との和睦を締結させて畿内に戻ってきた後(中国大返し)、そのまま山崎の戦いで明智光秀を討ち取るという大戦果を挙げます。

織田家の内紛

もっとも、羽柴秀吉の活躍により裏切者の明智光秀の討伐に成功したとはいっても、織田家の危機的状況は変わりません。

なぜなら、全国に各方面討伐軍を派遣していた織田家としては、周囲が敵だらけの状態であり、カリスマ織田信長の死を聞いた周辺大名によって四方八方からの総攻撃を受ける危険があったからです。

そこで、織田信忠が死亡したことにより空席となった織田家の新当主を決め(形式的当主は、このとき3歳であった三法師であることに争いはなかったのですが、その名代を誰にするかが争われました。)、難局を打破するための宿老会議が開催されることとなります(清洲会議)。

このとき行われる会議には、織田家宿老として柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、池田恒興の5人の参加が予定されていたのですが、会議の直前に滝川一益が神流川の戦いで北条家に惨敗して信濃国から伊勢国へ敗走するのに奔走して間に合わなかったため、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人の宿老の出席のみで開催されることとなります。

こうして行われた清洲会議では、織田信長の次男である織田信雄と、三男である織田信孝が互いに自分が織田家の棟梁となる(三法師の後見人となる)と主張して引かなかったため、やむなく2人して三法師の後見人とすることとし、堀秀政を傅役、執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が補佐する体制となることに決まります。

また、織田家の領地の再配分が行われます。

もっとも、清洲会議が終わるまでは織田家宿老として分をわきまえた行動をしていた羽柴秀吉でしたが、清洲会議終了直後から合議決定を無視した振る舞いを始めます。

明智光秀討伐の功とそれに伴う論功行賞によって、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた柴田勝家の影響力が低下し、代わりに羽柴秀吉が重臣筆頭の地位を占めるに至った結果、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられたからです。

力をつけた羽柴秀吉は、清洲会議後、三法師の傅役となった堀秀政と組み、また執権の丹羽長秀と池田恒興を懐柔するなどして羽柴派閥を形成していきます。

他方、羽柴派閥の形成に危機感を感じた織田信孝は柴田勝家と組み、ここに清洲会議から排除された滝川一益も加わって反羽柴派閥が形成されます。

こうして、織田家臣団は、羽柴派閥と反羽柴派閥と二分され争っていくこととなります。

羽柴秀吉による清洲会議決定事項の変更

力をつけた羽柴秀吉は、だんだん野心を隠さなくなり、遂に実力行使に出ます。

天正10年(1582年)11月、岐阜城に入っていた織田信孝を処断して三法師を取り込むため、織田信孝と柴田勝家に謀反ありと主張します。

その上で、羽柴秀吉は、清洲会議で決定したはずの合議制の宿老から柴田勝家を外し、羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の3人で新たな合議体制を作り上げ、そこで織田信雄を織田当主と決めてしまいます。なお、この決定には、清洲会議の体制に含まれる徳川家康の承諾も必要だったのですが、徳川家康は、同年12月22日付で羽柴秀吉に織田信雄の家督相続への祝意を表す形でこれを追認しています。

また、羽柴秀吉は、その後の柴田勝家との決戦に備え、居城を柴田勝家の領地と近い山城国・山崎城に移します。

これに対し、天正11年(1583年)3月、豊臣秀吉の横暴に耐えきれなくなった柴田勝家が兵を挙げます。

もっとも、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴秀吉が柴田勝家軍を打ち負かし、同年4月23日、そのまま北ノ庄城に逃れた柴田勝家を追い詰めてもこれを自害に追い込みます。

また、柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝も、豊臣秀吉に与した織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏し、尾張国内海に移された後、同年4月29日切腹して果てています。

この結果、織田家の家臣団の多くが羽柴秀吉に接近または臣属するに至り、羽柴秀吉が織田信長の後継者の地位を盤石なものとします(形式的には、まだ織田信雄の臣下という形ですが)。

徳川家康の躍進

他方、徳川家康もまた、本能寺の変により権力の空白地帯となっていた後、武田家の遺領である甲斐国・信濃国に侵攻してこれらを切り取り(天正壬午の乱)、それまでの三河国・遠江国・駿河国とあわせて5ヶ国を治める大大名に成長します。

また、徳川家康は、天正11年(1583年)8月15日、次女である督姫を後北条家4代当主北条氏政の嫡男であった北条氏直(後の後北条5代)の正室に出して北条家と同盟を締結し、羽柴秀吉との決戦に備えます。

織田信雄挙兵(1584年3月)

織田信孝と柴田勝家を亡き者とした上で織田家臣団の取り込みに成功した羽柴秀吉は、ついに本格的な織田家の乗っ取りに着手します。

次の標的は賤ヶ岳の戦いに際して織田家当主として祭り上げた、形式的主君・織田信雄です。

きっかけは,羽柴秀吉によって賤ヶ岳の戦いの後で織田信雄に北伊勢・伊賀を加増したことに気をよくした織田信雄が三法師の後見として安土城の二の丸に入った際に羽柴秀吉から釘を刺され安土城からの退去を命じられたことでした。

納得がいかない織田信雄は、天正12年(1584年)正月に近江国の三井寺で羽柴秀吉と会見したのですが話合いは決裂します。

こうして羽柴秀吉との関係が悪化した織田信雄は、代わりに徳川家康に接近します。

この織田信雄の動きに対し、羽柴秀吉が織田信雄の三家老であった津川義冬・岡田重孝・浅井長時に接近したのですが、天正12年(1584年)3月6日、織田信雄は内通した疑いによりこれらの三家老を処刑し、同年3月11日に徳川家康と協議を行い、共に反羽柴秀吉の兵を挙げます。

その上で、織田信雄は、挙兵に際し、長宗我部元親・北条氏政・佐々成政・雑賀衆らとも連携をとって秀吉包囲網を構築しています。

こうして、織田信雄(とこれに味方する徳川家康)対羽柴秀吉という構図で戦いが始まります。

そして、徳川家康は、攻略して間もなく安定していない甲斐国・信濃国には鳥居元忠や平岩親吉らを残し、天正12年(1584年)3月13日、羽柴秀吉と対峙するために三河国・遠江国・駿河国の兵を率いて清洲城に入ります。

小牧・長久手の戦い

池田恒興の寝返り(1584年3月13日)

こうして小牧・長久手の戦いが始まります。

羽柴軍の戦略目標は挙兵した織田信雄軍の鎮圧であり、具体的には総大将・織田信雄が守る清洲城の攻略です。

そこで、羽柴軍先遣隊は、美濃国方面を通り、北側から清洲城に向かうルートで進軍していきます。

この動きに呼応して、天正12年(1584年)3月13日、織田信長の乳兄弟であり織田家譜代家臣でもあった池田恒興が、羽柴方に寝返って犬山城を占拠するという事態に陥ります。

小牧山城争奪戦(1584年3月)

こうして犬山城が敵方に回ったことによりそのまま織田信雄が守る清洲城への進軍経路ができてしまう危険があったことから、危険を感じた徳川家康家臣であった酒井忠次・榊原康政は、徳川家康に対して、尾張戦線の要が犬山城と清洲城の中間に位置する小牧山であるとして一刻も早くこのときは廃城となっていた小牧山城跡に入るように進言し、徳川軍は大急ぎで清洲城から小牧山城跡に向かって動き出します(名将言行録)。

小牧山城跡は、濃尾平野の中央に位置する小山に建てられた超重要拠点であり、平野全体を一望できる唯一の場所である上、織田信長が拠点としていたことからもわかるとおり、石垣で固められた堅固な防御力を有する堅城でもあったことから、ここを制する陣営が戦いを有利に進めることができることが明らかであったためです。

当然ですが、そのような事実は羽柴秀吉もわかりきっており、羽柴方もまた小牧山城跡確保に動きます。

具体的には、美濃国可児郡にあった兼山城であった森長可とその義父池田恒興もまた小牧山城占拠を目指して動き始め、る同年3月16日、まずは兼山城から3000人を率いてきた森長可が先遣隊としてに羽黒砦の南側にあった八幡林に陣を敷き、後からやってくるであろう池田恒興隊を待って共に小牧山城跡に入ることを目指します。

ところが、徳川家康がこの森長可隊の動きに対してすぐさま対応し、同年3月17日早朝、酒井忠次・松平家忠らに5000人の兵を預けてこれを奇襲させます。

そして、酒井忠次隊の先鋒となった奥平信昌率いる1000人の攻撃により戦いが始まります。

このとき側面攻撃を仕掛けてくる松平家忠の鉄砲隊に苦戦した森隊は、さらに酒井忠次率いる2000人の兵が後方に回り込もうとする動きをしていることを見て不利を悟り、300人もの死者を出したところで、家臣であった野呂助左衛門を残して陣を払って退却し、初戦の戦いは徳川軍の勝利に終わります(羽黒の戦い)。

徳川家康小牧山城へ(1584年3月18日)

羽黒の戦いに勝利して南進する羽柴秀吉方の勢力を追い払った徳川家康は、天正12年(1584年)3月18日、ゆうゆうと小牧山城跡に入ってこれを占拠します。

そして、その後、徳川家康は、小牧山城全体に堀・土塁の構築するなどして城の大規模改修に取り掛かった上で、さらにその周囲に蟹清水・北外山・宇田津・田楽などの各砦を設けてその後の羽柴秀吉軍との合戦に備えます。

対する羽柴方では、同年3月21日に総大将である羽柴秀吉が3万人の兵を率いて大坂城を出発した後、楽田城(現在の愛知県犬山市)に入り、周囲に小牧山城攻略のための砦(陣城)を張り巡らせていきます。

こうして、小牧山城に入った徳川家康と、楽田城に入った羽柴秀吉が、いずれも高度な防衛網を完成させていったため、いずれも相手方に対する本格的な攻撃ができなくなり、両陣営の間で挑発や小競り合いだけが行われるという戦線膠着状態に陥ります。

三河中入り(羽柴方の三河国急襲作戦)

この後、痺れを切らして先に動いたのは羽柴方でした。

天正12年(1584年)4月4日、池田恒興が、羽柴秀吉のもとを訪れ、付城群の後方(北側)から徳川方に隠れて兵を出し、徳川家康不在となっている三河国を急襲すれば焦った徳川家康が小牧山城から出てくるとして別働隊による三河国急襲策を献策します(中入り作戦、もっとも羽柴秀吉が池田恒興に命じたという説も有力です。)。

危険を感じつつも戦線膠着に焦りを感じていた羽柴秀吉は、この池田恒興の策を採用し、三好秀次(後の豊臣秀次)を総大将とし、第1隊池田恒興5000人、第2隊森長可3000人、第3隊堀秀政3000人、第4隊三好秀次9000人の陣容で、密かに三河国を目指す軍を編成します。

こうして、同年4月6日夜半、池田恒興らは小牧山城の北側を迂回して三河国を目指して順に出陣していったのですが、総勢2万人もの大軍勢が密かに行動できるはずがありません。

すぐさまこの行軍は徳川家康の耳に入ります(近隣農民や伊賀衆からの情報で知ったと言われています。)

三河国攻撃計画を知った徳川家康は、同年4月8日、丹羽氏次・水野忠重・榊原康政・大須賀康高らに小牧山城守備兵から4500人を預け、先行隊として三河国を目指して行軍していく羽柴軍を追撃させます。

その後、徳川家康・織田信雄率いる主力9300人も遅れて小牧山城から出撃して小幡城で合流し、徳川家康本隊は池田恒興・森長可隊を追って色金山に向かい、榊原康政・大須賀康高らは最後尾の三好秀次隊を後方から攻撃することに決め、2方面から羽柴軍を追撃していきます。

① 岩崎城の戦い(1584年4月9日未明)

他方、徳川軍が追撃していることを知らない羽柴軍では、先行する第1隊の池田恒興隊と第2隊の森長可隊が、天正12年(1584年)4月9日未明、三河国への通行ルート上にあった16歳であった丹羽氏重(氏次の弟)が守る岩崎城攻めからの挑発を受け、同城の力攻めを始めを始めて時間を費やしてしまいます(岩崎城の戦い)。

元々攻撃対象ではなかった岩崎城攻めを行なってしまったため、池田・森隊は疲弊し、羽柴軍の進行を遅らせてしまいます。

そのため、数時間後に同城が陥落したころには朝方となってしまい、三河国に向かって進軍する羽柴軍は、南から池田恒興・森長可隊は岩崎城近辺(現在の日進市)、堀秀政隊は桧ケ根近辺(現在の長久手市)、三好秀次隊は白山林(現在の名古屋市守山区・尾張旭市)において陣を敷いて休息し、朝食の準備等にかかります。

② 白山林の戦い(1584年4月9日午前4時)

このタイミングで、最後尾(最北端の第4隊)の三好秀次隊を追っていた水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高・榊原康政らが、白山林にいた三好秀次隊に追いついてこれを捕捉します。

そして、天正12年(1584年)4月9日午前4時35分ころ、水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高・榊原康政らが、朝食休憩中であっ羽柴秀次隊に対し強襲をしかけます。

想定していなかった後方(北側)からの攻撃を受けた三好秀次隊は大混乱に陥ったのですが、若く経験の浅い三好秀次ではこの混乱を鎮めることができません。

遂には、三河国攻撃隊の総大将が率いる最大兵力を誇った主力の三好秀次隊が壊滅し、三好秀次も自身の馬を失って供回りの馬をもらって逃げだすような有様となります。

大将であった三好秀次は、軍監として付けられていた木下祐久やその弟の木下利匡などの木下一族の多くの犠牲の上で確保された退路で命からがら退却を果たしています。

③ 桧ヶ根の戦い

白山林で羽柴秀次隊を壊滅させて勢いに乗る徳川軍は、その勢いのまま堀秀政率いる第3隊への攻撃を試み、一気に南下していきます。

ところが、名人とも呼ばれた堀秀政隊は簡単に攻略できません。

三好秀次の敗報を聞いた堀秀政は、三河国へ向かう進軍を取りやめて直ちに北に向かって引き返した上で、防戦に適する桧ケ根に陣を敷き、逃げてくる三好秀次隊の敗残兵を吸収しつつ攻め寄せてくるであろう徳川軍を待ち受けます。

そして、その後、待ち伏せにあっていることを知らない徳川軍は、桧ケ根に到達したのですが、そこで伏兵の堀秀政隊からの待ち受けに遭い、一斉射撃を受けて280人とも500人とも言われる死者を出し、岩作城方面に撤退するという大敗北を喫します。

こうして、水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高・榊原康政らが率いる徳川別働隊は、1勝1敗で戦線から離脱します。

④ 長久手の戦い(1584年4月9日午前10時)

他方、小幡城を出発して東へおおきく迂回して色金山に布陣していた徳川家康・織田信雄本隊は、白山林での戦勝報告を受けると、第3隊の堀秀政隊と第1隊池田恒興・第2隊森長可隊との間を分断するため、色金山を降りて本陣を御旗山に移します。

岩作城方面に流れた徳川別働隊を追撃しようとしていた堀秀政は、ここで御旗山に布陣した徳川家康本隊の動きを見て、このままでは大軍の徳川家康・織田信雄本隊に飲み込まれてしまうと判断し、先行する池田恒興隊・森長可隊からの援軍要請を無視して後退してしまいます。

この結果、羽柴軍は第4隊が壊滅し、第3隊が撤退することとなり、第2隊の森長可隊・第1隊の池田恒興隊が最前線に取り残されてしまいました。

孤立して勝機が薄くなった池田恒興隊・森長可隊は、占領した岩崎城を捨てて、北に向かって退却を始めたのですが、ここで、色金山から御旗山に進んで布陣していた徳川家康・織田信雄連合軍(中央に織田信雄隊3000人、右翼に徳川家康隊3300人、左翼に井伊直政隊3000人)の待ち受けに遭います。

やむなく、池田恒興隊・森長可隊は、率いる隊を、中央に池田恒興隊2000人、右翼に池田元助隊・池田輝政隊4000人、左翼に森長可隊3000人という陣容に展開させ合戦に挑むこととします。

こうして、天正12年(1584年)4月9日午前10時ごろ、対峙した両軍が激突します。小牧・長久手の戦いの一連の戦いのうちで、最大の激戦となっな長久手合戦の始まりです。

一見すると兵数に大差はないようにも思えますが、先に高地を押さえて有利な陣形に布陣していた織田・徳川連合軍の圧倒的優位は明らかです。

一進一退の戦いが2時間ほど続いたのですが、左翼から最前線に展開していた森長可が鉄砲に撃たれて討ち死にし、これに伴って指揮官を失った池田・森隊の左翼が崩れ始めます。

苦しくなった池田恒興は、次男・池田輝政を戦場から離脱させて池田家の存続を確保した上、勢いに乗る徳川軍と最後の戦いに臨みます。

もっとも、この時点での勢いの差は大きく、総崩れとなった池田・森隊は壊滅し、総大将であった池田恒興は永井直勝の槍を受けて討死にし、またその嫡男池田元助も安藤直次に討ち取られます。

こうして、長久手の戦いは、約2500人もの死者を出した羽柴軍の大敗に終わります。

なお、勝利した徳川・織田連合軍の死者は約590人であり、戦いに勝利した後、兵を休めるために小幡城に引き上げます。

⑤ 小牧山城の攻防

こうして長久手の戦いでは大敗した羽柴軍でしたが、長久手に向かうために徳川家康・織田信雄が小牧山城から兵を引き連れて出ていましたので、羽柴方からするとこのときが小牧山城を攻略する最大のチャンスでした。

そのため、天正12年(1584年)4月9日、羽柴秀吉は小牧山城への攻撃を開始します。

ところが、ここで小牧山城攻めを進める羽柴秀吉の下に、白山林の戦いで羽柴秀次が大敗したとの報が届いたため、羽柴秀吉はやむなく羽柴秀次の救援と徳川家康討伐の目的で自ら3万人の兵を率いて南進し、龍泉寺城に入ります。

他方、羽柴軍が徳川家康本隊の下へ向かったとの報を聞きつけた本多忠勝もまた、500名の兵を率いて小牧山城を出て徳川家康の下へ駆けつけ、5町(約500m)先にいた羽柴軍との間にあった龍泉寺川に単騎で乗り入れて立ちふさがり、悠々と馬の口を洗わせて豊臣秀吉を挑発します。

羽柴秀吉指揮下の武将達は、本多忠勝を討つべしと具申しますが、羽柴秀吉は、その豪胆な振舞いから本多忠勝を東国一の勇士と賞賛して殺すことを惜しんだため、結局徳川家康を取り逃す結果となってしまいました。

同日夕刻、羽柴秀吉の下に徳川家康が小幡城に入っているとの報が届いたため、翌朝に小幡城を総攻撃することに決まったのですが、同日夜のうちに徳川家康と織田信雄が小幡城を出て小牧山城に戻ったため、小幡城攻撃は取りやめられます。

その後、徳川家康らが無事小牧山城に戻ったことにより、長久手の戦いは徳川家康・織田信雄の戦術的大勝利に終わります。

その後、戦局を挽回すべく、羽柴勢は同年5月4日から、尾張国の加賀野城・奥城・竹ヶ鼻城などを囲んだのですが、徳川家康・織田信雄は、これらの城からの後詰要請に応えず開城するように勧告したことから順次開城して羽柴方に落ちています(なお、6月10日に開城した竹ヶ鼻城の水攻めは有名です。)。

もっとも、再び戦局が膠着し、この後長宗我部元親が四国から本州に迫る動きを見せたため、羽柴秀吉は同年6月13日に岐阜城を経由した後、同年6月28日に大坂城に戻っています。

また、羽柴秀吉の前線離脱を受け、徳川家康もまた小牧山城を酒井忠次に任せて清州城に移っています。

各地での小競り合い(秀吉包囲網)

① 和泉方面の戦い

尾張国に進軍した羽柴軍主力不在の隙をついて、天正12年(1584年)3月から根来・雑賀衆、粉河寺衆徒などが秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め寄せていたのですが(岸和田合戦)、小牧・長久手の戦いの後、大坂に戻った羽柴方は、この報復として、天正13年(1585年)3月から本格的な紀州征伐に赴いています。

② 伊勢方面の戦い

伊勢方面から尾張国侵攻を目指していた羽柴秀長軍が、松ヶ島城を攻撃していたのですが、長久手の戦いが勃発した日である天正12年(1584年) 4月9日、同城が落城し、開城主であった滝川雄利が浜田城(三重県四日市市)に落ち延びています。

また、同年6月16日には、滝川一益が九鬼嘉隆の安宅船と共に、織田信雄が治める長島城と徳川家康が入っていた清州城との中間にあった、蟹江城・下市場城・前田城を海上機動にて落城させて一旦はその遮断を果たしたのですが、これに織田信雄・徳川家康が即日反応し、同年7月3日までに全ての城を奪還します。

このときには、羽柴秀吉が大坂に戻っていたために織田・徳川に対する対応が遅れ、伊勢国に羽柴秀長・丹羽長重・堀秀政らが率いる6万2000人の兵を集め、同年7月15日に西側からの尾張国総攻撃を計画したのですが、蟹江城が落城により計画中止となっています。

③ 美濃方面の戦い

天正12年(1584年)4月9日の長久手の戦いで森長可が討死したことにより、同人の所領であった東美濃が手薄になったとして、三河国に残っていた徳川軍が東美濃への侵攻を開始し、同年 4月17日には徳川方の遠山利景が旧領であった明知城を奪還しています。

④ 北関東方面の戦い

尾張国方面での戦線が膠着した天正12年(1584年)5月初旬から8月まで頃、北関東では、羽柴方に与した佐竹義重、宇都宮国綱、佐野宗綱、由良国繁、長尾顕長らと、徳川家康と同盟関係にあった北条方との間で戦いが勃発します(沼尻の合戦)。

この動きに加え、北条軍が、徳川家康との同盟関係に従って小牧・長久手の戦いに参戦しようとする動きを見せたことから、羽柴秀吉は上杉景勝に信濃国出兵を命じて北条氏直の動きをけん制しています。

⑤ 四国方面の動き

長宗我部元親が、天正12年(1584年)6月11日、十河存保が守る十河城を攻略して讃岐平定を成し遂げます(第二次十河城の戦い)。

この後、徳川家康が、長宗我部元親に対し、「3カ国(同年8月19日付の本多正信から長宗我部親泰宛の書状では「淡路・摂津・播磨」)を与えることを約束した上で渡海して摂津か播磨を攻撃してほしい」と依頼しています。また、織田信雄は、これとは別に香宗我部親泰に備前国を与えるとも約束しています。

これにより長宗我部元親が、本州へ進軍する動きを見せたため、羽柴秀吉は、急遽尾張国から大坂城に戻り、これに対する警戒に動いています。

⑥ 信州方面の戦い

天正12年(1584年)9月、徳川方の菅沼定利・保科正直・諏訪頼忠らが、木曽谷の妻籠城に攻め込んだのですが、木曾義昌の重臣山村良勝によって撃退されています。

⑦ 能登方面の戦い

天正12年(1584年)9月9日には、佐々成政が、徳川家康に呼応して蜂起し、約1万人の兵で能登国の末森城(現在の石川県宝達志水町)を取り囲んで落城寸前にまで至ったのですが、羽柴方の前田利家の反撃に遭って退却しています(末森城の戦い)。

休戦・講和

以上のとおり各地での一進一退の攻防があったものの、尾張国戦線が膠着して大きな動きがなくなったところで、羽柴秀吉が奇策に出ます。

徳川家康に手を焼いた羽柴秀吉は、天正12年(1584年) 11月11日、織田信雄に対し、伊賀国と伊勢半国の引き渡しを条件に講和を申し入れたのです。

そして、織田信雄は、徳川家康に無断でこれを受諾してしまったため、総大将の脱落により戦争の大義名分を失ってしまった徳川家康は、同年11月17日に小牧山城を出て帰国し、小牧・長久手の戦いが終わります。

総合的に見ると、戦術的には局地戦で勝利を重ねた織田信雄・徳川家康連合軍の勝利と言えるのですが、戦略的に見ると美濃国・伊賀国・伊勢国南部において織田信雄の影響力を排除した羽柴秀吉の勝利と言える戦いとなりました。

小牧・長久手の戦いの後

秀吉包囲網の瓦解

織田信雄は伊賀国と伊勢半国を取り上げた羽柴秀吉は、伊賀国を脇坂安治、伊勢反国を蒲生氏郷らに分け与え、さらなる勢力拡大を果たします。

そして、羽柴秀吉は、滝川雄利を使者として浜松城に送り、徳川家康の次男である於義丸(後の結城秀康)を羽柴秀吉の養子(羽柴秀吉側の認識は人質)として大坂に送ることで、徳川家康との和睦を果たします。

こうなると困るのは周辺勢力です。

織田信雄や徳川家康が個別に羽柴秀吉と講和してしまったため、秀吉包囲網を形成していた各勢力が孤立してしまったからです。

結局、この後、紀州征伐により雑賀衆・根来衆が、四国征伐により長宗我部元親が制圧されるなどして個別撃破されていきます。

また、北陸戦線の佐々成政もまた徳川家康の和睦に驚き、これを撤回させようとして、天正12年(1584年)11月23日、自ら自領・富山から雪深い立山を越えて浜松城の徳川家康の下に赴いて豊臣秀吉への抗戦を申し出たのですが聞き入れられず(さらさら越え)、翌天正13年(1585年)8月の富山の役で羽柴秀吉に降伏しています。

なお、羽柴秀吉は、このころに二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、天正13年(1585年)7月11日、近衛前久の猶子となってこの2人を差し置いて関白宣下を受け、天正14年(1586年)9月9日に正親町天皇から豊臣の姓を賜った上で、同年12月25日に太政大臣に就任しています。

徳川家康攻撃計画の破綻

以上の結果、天下統一の道に進んでいくこととなった羽柴秀吉でしたが、抵抗勢力として残っていた徳川家康を武力にて討伐することを諦めていませんでした。

実際、羽柴秀吉は、天正13年(1585年)の富山の役に際し、徳川家康に対して追加の人質を要求して拒絶されたことをきっかけとして徳川家康討伐を計画し、天正14年初めの出陣計画を基に美濃国大垣城に15万人の大軍のための兵糧を備蓄させます。

ところが、出陣を控えた天正13年11月29日(1586年1月18日)、日本列島中央部にマグニチュード8とも言われる天正大地震が発生し、中部・東海・北陸の広範囲に甚大な被害をもたらします。

地震発生の際、徳川家康討伐準備のために近江国坂本城に入っていた羽柴秀吉は、恐怖を感じて大坂城に逃戻ります。

また、この地震による美濃・尾張・伊勢地方の被害は大きく、羽柴方の前線基地となっていた大垣城が全壊焼失したことから、徳川領侵攻どころではなくなります。

徳川家の窮状

他方、徳川家康もまた、天正壬午の乱の後、北条家と結んだ同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲問題において、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸の同意が得られずにこれと対立し、真田討伐軍を差し向けるも敗れ(第一次上田合戦)、北条・真田との間にトラブルを抱えます。

また、天正11年(1583年)5月から7月にかけて関東から東海地方一円に亘大雨が相次ぎ、徳川家の領国も「50年来の大水」(家忠日記)に見舞われ、深刻な問題となっていました。

そんな中で繰り広げられた小牧・長久手の戦いは、徳川家の領国経営に大きな打撃となっていました。

そして、極め付けは、天正13年11月13日(1586年1月2日)、徳川家の筆頭家老として実質ナンバー2の地位にあった石川数正が徳川家から出奔して豊臣秀吉に帰属する事件が発生し、徳川軍の軍事機密が豊臣方に筒抜けになったため、徳川方としても豊臣方と戦いなどできなくなります(この結果、徳川軍は、急いで軍政改革を行い、武田軍にならったシステムに変更します。)。

徳川家康の臣従(1586年10月27日)

こうして、豊臣秀吉・徳川家康のいずれもが和睦の道を探すようになります。

そして、小牧・長久手の戦いの中心人物であった織田信雄が、両者の間を取り持って1年間にも亘る和睦交渉が進められ、豊臣秀吉の妹である旭姫を徳川家康の継室に出し、また豊臣秀吉の母である大政所人質として差し出すことを条件として徳川家康が豊臣秀吉に臣従することに決まります。

この結果、徳川家康が、天正14年(1586年)10月27日、大坂城に赴き、諸大名の前で豊臣秀吉に下ったことを表明します。

なお、豊臣秀吉に下った後も徳川・北条同盟が存続していたことから、豊臣秀吉が、徳川家康の協力と領内通行許可なしに北条家を攻撃することができなくなり、豊臣秀吉はこの後は西国平定戦(四国征伐・九州征伐)を優先し、関東以東に対しては、徳川家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得なくなっています。

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