平安時代と平安京の概略

「鳴くよ鶯平安京」。有名すぎる語呂合わせの年の平安遷都により平安時代が始まりました。

日本史では比較的マイナー分野で苦手としている人も多いのではないでしょうか。

平安時代は、天皇親政のために奈良仏教から逃れるための京都遷都に至る経緯と、天皇親政の時代、天皇の権力が貴族に奪われた時代、貴族の権力が上皇に奪われた時代という段階を踏まえれば理解しやすいと思います。

本稿では、この順に平安時代の概略を説明します。

平安京遷都に至る歴史

天武系天皇から天智系天皇へ

平安時代に先立つ奈良時代は、その名の通り、都は奈良にありました。有名な平城京です。

671年に天智天皇が亡くなると、その翌年である672年、天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)とが後継者争いをし(壬申の乱)、その勝者である大海人皇子が天武天皇が即位するところから、平安時代への方向付けが始まります。

壬申の乱に勝利して天皇となった天武天皇は、以降の天皇家は、天武天皇の血筋から選ばれることとなります。いわゆる天武系の天皇です。

天武天皇の後、持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇まで、天武系天皇が続きます。

ところが、この後事件が起こります。

当時の権力者であった藤原百川が、天武系であった称徳天皇の次の天皇として、天智系である白壁王(後の光仁天皇)を推したのです。

その理由としては、天武系の天皇は、聖武天皇は仏教による鎮護国家思想を持ち、また称徳天皇は僧である道鏡を天皇としようとしたりするなど、仏教勢力を政治に介入させすぎていたからです。

勢力拡大を目指す藤原氏にとっては、仏教勢力が邪魔な存在となっていたため、天武系の天皇を排することにより仏教勢力の排除を試みたためと言われています。

そこで、仏教勢力との結びつきの弱い天智系の天皇を据えることにより、仏教勢力を抑え、藤原氏の勢力拡大を目指したと考えられています。

そして、藤原百川は、宝亀元年(770年)、天智系の白壁王60歳を皇位に就けて光仁天皇とすると、宝亀3年(772年)、その息子である山部親王(後の桓武天皇)を皇太子とします。

その上で、天応元年(781年)、光仁天皇が山部親王に譲位し、天智系の天皇で最も有名な桓武天皇が誕生します。なお、桓武天皇の政治は、当初、皇后に藤原式家の女性である藤原乙牟漏をあてがわれ、また即位の翌日に弟の早良親王を皇太子と定められるなど、藤原百川のやりたい放題で進められていきます。

長岡京遷都(784年)

桓武天皇は、藤原式家の意向を受け、また天智系天皇の復活を誇示するため、延暦3年(784年)、奈良仏教勢力が居座る平城京を廃して、山背国の長岡に遷都を行います(これにより奈良時代が終わります。)。

そして、長岡京建設は、この地を推薦した藤原式家の藤原種継とその一族を中心として進められていきます。

長岡京は、近くに大きな川が3本あるため、物資の運搬、飲水確保、下水対策が有用で発展が期待され、東西約4.3km・南北約5.3kmと平城京や平安京に匹敵する大きさの本格的な都市として造営を開始されました。

なお、政治の中心の長岡宮は現在の向日市、経済の中心の市は現在の長岡京市、玄関口の港は現在の大山崎町・京都市伏見区淀にそれぞれ位置しています。

ところが、長岡京建設中に不幸が襲います。

延暦(785年)9月23日、長岡京遷都の責任者である藤原種継が暗殺されたのです。

そして、このとき皇太子である早良親王の関与が疑われます。真偽は不明ですが、早良親王は皇太子を排され、淡路国に配流される途中で憤死します。

その後、長岡京で藤原式家の関係者が相次いで死亡し、また畿内で天然痘が流行・長岡京で二度の大洪水に見舞われ飢饉となるなど、不幸な事実が相次ぎます(長岡京では、これを早良親王の祟りとおそれ混乱に陥ります。)。

そこで、桓武天皇は、和気清麻呂の助言を受け、建設中の長岡京を捨てて、再度北東の地に遷都することとしました。

平安京遷都(794年)

桓武天皇は、延暦13年(794年)、山城国(このとき山背国と言っていたのを山城国に変更しています。)に都を遷都し、これ以上何も起きない平和で安らかな都となるようにとの祈りを込めて平安京と名付けます。

そして、都の西側に桂川、西側に鴨川の水利を利用して開発を始めます。

天子南面の考え方から、大内裏(平安宮)を平安京の北端に設置し、そこから南へ向かって朱雀大路が通り、朱雀門・朝堂院大極殿(現在の千本丸太町交差点辺り)と南下し、平安京の最南端に羅城門を設置します。その上で、東西南北に道路をひいて条坊制を採用しています。なお、平城京内での仏教勢力の強大化の反省を生かして、例外的としての東寺(管理:空海)と西寺を除き、平安京内に寺を造りませんでした。

そして、平城京は、この朱雀大路をもって東西に分かれ、内裏から見て左側(東側)を左京、右側(西側)を右京と呼びました。そして、さらに、中国になぞらえ、右京を長安城、左京を洛陽城と呼んでいました。

もっとも、平安京がある京都盆地は、北・東・西を山に囲まれ、博多区から南西に向かって緩やかに標高が下がっていく形状であるため、右京の水はけが悪く、また桂川・神屋川の氾濫域でもあったために開発が進まず、結局人が住むには適さない耕作地となってしまいました。

そのため、平安京では早々に右京の開発を捨て、左京のみが整備されました。

その結果、京の都=左京=洛陽城となりました。その後、平安京そのものが洛陽城、略して洛と呼ばれるようになり、京に上ることは洛に上るというとで「上洛」というようになったのです。時代が下って、豊臣秀吉が京の都の主要部分を御土居で囲ってその中(左京のみで、右京は含まれていません。)を洛中、外を洛外と呼んだのも同じ理由です。

余談ですが、平安京遷都の後もしばらく不幸が続いたため、(早良親王の)怨霊を鎮めるため、様々な御霊会が催され、その1つが現在も続く祇園祭です。

平安時代前期(権力者=天皇)

平安前期の政治の中心

平安時代の前期は、天皇が政治を行います。

そこで、必然的に、このころの政治は天皇がいる大内裏を中心として行われます。

なお、ここでいう大内裏は、現在の京都御所とは違う場所にありますので、注意が必要です。

天皇による政治(794年)

①中央集権

平安時代の前期の政治は、奈良時代から続く中央集権的な律令政治について、これらを再編しながらも、宗教権力を廃して天皇自ら行うことにより進められていきました。なお、政治を司る太政官の筆頭官も皇族である親王らが占めていました。

具体的には、このころの日本の土地は天皇の土地とされ(公地公民)、その税は天皇に対して治めることとなっていたのですが、その単位として日本中の土地を分けてそれぞれを国と呼び、そこを治める役人として朝廷から国司(今でいう都道府県知事)を派遣して中央権力を及ぼしていました。

そして、国司はその国で絶大な権力を有していましたので、その交代の際にはさまざまなトラブルを引き起こしました。そこで、桓武天皇は、勘解由使を設置してこの国司の監督をさせました。

②蝦夷征伐

また、桓武天皇は、王威の発揚のために、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して当時日本の支配外にあった蝦夷征伐に尽力しています。

もっとも、桓武天皇による平安京造営(造作)と蝦夷征伐(軍事)は、民衆への大きな負担となっていました。

そこで、桓武天皇は、民衆の負担を軽減すべく、延暦24年(805年)に平安京のそれ以上の造営を中止するとともに、それまでの兵役という義務を廃して、志願兵制度を採用しました(健児の制)。

これらの桓武天皇の政策は、その後平城天皇(806年~809年)、嵯峨天皇(809年~823年)、淳和天皇(823年~833年)、仁明天皇(833年~850年)、文徳天皇(850年~858年)へと引き継がれていきます。

なお、この間に、天皇家内では、血で血を洗う権力争いが繰り返されていましたが(810年の薬子の変等)、基本的には天皇家内で権力を保持しています。

平安時代中期(権力者=貴族)

平安中期の政治の中心

平安時代の中期は、貴族が政治を行います。

右京北部は、大内裏にも近く、住環境もいい場所であったために高級貴族の邸宅が立つ場所となっていたため、必然的に、このころの政治は貴族がいる里内裏を中心として行われました。

貴族の台頭(858年ころ)

① 有力貴族の経済力強化

嵯峨天皇治政のころまでは、人頭課税方式をとっていたのですが、課税対象である百姓らの逃亡等が頻発して税収の低下が起きていました。

そこで、藤原氏北家の藤原冬嗣・藤原良房親子が先頭に立って課税対象を土地課税に変更し、墾田開発促進政策を進めます。

土地を基礎として税金を課されるようになると、土地の所有名義で課税されるため、土地耕作者は税金の支払いを免れる策を考えます。

そして、土地耕作者は、税負担を逃れるために、土地を有力貴族(主に藤原氏)や寺社に土地を寄進する方法を考えつます。

有力貴族に寄進された土地の名義はその貴族となりますので、税務負担者は土地耕作者ではなく有力貴族になるのですが、小役人にすぎない徴税官が有力貴族から税金を取り立てることなどできようはずがありませんので、国の税収が低下していきます(いわゆる脱税です。)。なお、このときに、耕作者は、名義使用料として国の税より低い額を有力貴族に支払います。

これに伴って、国の代表である天皇の権力も低下していきます。

他方、寄進によって土地(この貴族の土地を荘園といいました。)を集めた有力貴族は、さらにその力を増していきます。

② 藤原氏の台頭

経済力を手に入れて力をつけた藤原良房は、天安2年(858年)、皇族以外で初めて摂政となるまで上りつめます。

その後、藤原氏は、積極的に他氏排斥政策をとってライバルを蹴落としていき、権力を独占していくようになります。なお、藤原氏が菅原道真を亡き者にするため、遣唐使として唐に送り込もうと画策したのですが、菅原道真はこれに抵抗し、寛平6年(894年)に遣唐使自体を廃止してしまったため、平安時代中期には日本独自の文化として国風文化が栄えます。

最盛期は、藤原道長の摂関政治期で、3人の孫(後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇)の祖父として最高権力をふるいます。

なお、摂関政治とは、貴族が、天皇の外祖父(天皇の母の父=天皇の祖父)として摂政・関白に就任して権力を掌握し、掌握した権力をもってその貴族家に都合がいい天皇を据えて代々裏から天皇を操ることにより

もっとも、藤原道長の子である藤原頼道には子が生まれませんでした。

しかも、藤原頼道は、子がいないという問題を解決するために、天皇家の敦康親王の娘である嫄子を養子にもらい後朱雀天皇と結婚させるのですが女子が2人生まれたものの男子は生まれません。

ところが、そうこうしていると、藤原頼道の弟である藤原教通・藤原頼宗が外戚争いに参戦し、この2人も後朱雀天皇に娘を嫁がせます。

こうして、藤原道長の子3人で天皇の外戚争いを続けるのですが、3人の娘のいずれもが男子を生むことができませんでした。

そうこうしているうちに、寛徳2年(1045年)1月16日、後朱雀天皇が病にかかって後冷泉天皇に譲位するのですが、後冷泉天皇は、治暦4年(1068年)、在位中に崩御します。

摂関政治の終焉(1068年)

ここで、藤原氏の摂関政治がほころびます。

治暦4年(1068年)、後冷泉天皇の後を継いで弟の後三条天皇が天皇に即位したのですが、後三条天皇の母は禎子内親王でありその父(後三条の祖父)は三条天皇だったのです。

すなわち、藤原氏が外戚ではなくなってしまったのです。

後三条天皇は、有力貴族を外戚に持たないために外圧がかかりませんので、思い切った改革を断行します。

まずは、有力貴族に集まっていた荘園の整理を始めます。具体的には、記録荘園券契所を設置して実効的な荘園整理を進めます(延久の荘園整理令)。

私有地である荘園を徹底して調べ上げ、書類に不備があったりする荘園を全て天皇の土地(公領)に組み戻します。

後三条天皇は、皇位を息子の白河天皇に、白河天皇は、皇位をその息子の堀河天皇に譲位し、外戚を排した天皇の意志による譲位が可能となります。

平安時代後期(権力者=上皇)

平安後期の政治の中心

平安時代の中期は、上皇が政治を行います。

具体的には、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇の3名です。

この3名の上皇により政治が行われましたので,必然的に、このころの政治の中心は、平安京の外周部にある上皇の住居である白河殿(白河上皇時代)・鳥羽離宮(鳥羽上皇時代)・法住寺殿(後白河上皇時代)となります。

院政期(1086年)

外戚の地位喪失により権力を失い、またその結果として後三条天皇が断行した延久の荘園整理令によって有力貴族の荘園を公領に組み戻す作業を行った結果として荘園という経済基盤をも失った有力貴族の力が衰えていきます。

これを好機と見た白河天皇は、応徳3年(1086年)、わずか8歳であった息子の堀河天皇に皇位を譲位して上皇となり、幼い息子を補佐して政治を行います。

そして、上皇として政治力のみならず、経済力も手にしていきます。後三条天皇による延久の荘園整理令には不備があったからです。

公領に戻す土地として貴族を含めた一般人の領地(荘園)を挙げていたのですが、上皇の土地を含めていたなかったのです。

その結果、それまで有力貴族に寄進されていた土地が、上皇に集まるようになります。

そして、一旦は外戚の地位を取り戻した藤原氏ですが、権力が集中しつつある白河上皇を排斥できません。

こうして、堀河天皇の背後で白河上皇が実権を持ち、陰から政治を支配する院政が始まります。

武士の台頭と平安時代の終焉

京で、藤原氏を中心とした貴族勢力による勢力争いが繰り広げられる中、地方で武士の反乱が起きます(935年の関東での平将門の乱や瀬戸内海での藤原純友の乱など)。

このときに、平将門の乱を鎮圧した平氏が、また藤原純友の乱を鎮圧した源氏が名を挙げます。

そして、時代を経るに従って力を持っていった平氏と源氏が、時の権力者の身辺警護を行うようになって中央政権に近づいていき、それによってさらに力を持った平氏・源氏が、権力争いを行うようになります。

遂には、1156年の保元の乱・1159年の平治の乱で勝ち残った平清盛が、それまでの摂関政治のように娘を天皇の嫁に出して天皇の祖父となることにより権力を集め、太政大臣にまで上り詰めます。

そして、平清盛は、後白河法皇を幽閉することによって、平氏一門で、院政によって上皇が得ていた力(主には、荘園の寄進を受けることにより得ることができる経済力)を吸収していくこととなり、院政時代の終焉を迎えます。

その後、1180年に天皇家と源頼朝が平氏打倒を謳って挙兵し、1185年に壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、源頼朝が全国に守護・地頭の任命権を獲得したことにより力を得た武士が台頭し、反面朝廷・貴族・上皇が経済基盤が失って没落したことにより平安時代が終わります。

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