【松永久秀】三好長慶を天下人に押し上げた戦国三大梟雄(?)の1人

戦国時代のもっともインパクトのある死に方をした武将と言えば誰を思い浮かべますか。
将軍を暗殺し東大寺を焼き討ちした極悪人という話でも有名な松永久秀ではないですか。
今日では、研究が進み、これらのエピソードは真実ではないことがわかっています。
そこで、先入観が先行していて、実は実体がよく知られていない松永久秀について見ていきましょう。

松永久秀の出自

松永久秀の前半生は全く分かっていません。

生まれたときの身分が低かったため、記録が残っていないからです。

一説には、永正5年(1508年)生まれとも永正7年(1510年)生まれとも言われていますが、はっきりしていません。

また、出身地についても、山城国西岡や摂津国五百住など諸説あり、定かではありません。

さらには、山城の商人の子であったとも、摂津の土豪の子であったとも言われていますが、これも定かではありません。

つまり、出自については何もわかっていないのです。

三好長慶に見出されて表舞台に

三好長慶に右筆として仕える

松永久秀は、天文3年(1534年)ころに、三好長慶の右筆(書記)として使えたようですが、これも記録が残っていませんので、正確な時期はわかりません。

三好長慶は、阿波国(現在の徳島県)から、勢力を拡大して畿内を制圧し、その後、織田信長に先立って天下人となった人物です。

三好長慶は、畿内に勢力を伸ばしていった際、人材登用を行うのですが、その際、家柄ではなく能力を基に採用をした当時としては画期的な人物です。

そして、三好長慶は、物事を確実に記録・伝達できる高度な能力を買って松永久秀を登用、側近に抜擢したようです。

歴史の表舞台に登場

松永久秀の名が最初に歴史の表舞台に出てくるのは、天文9年(1540年)頃です。

天文11年(1542年)には、松永久秀は、三好長慶の軍を率いて木沢長政を討伐し、その後も、弟である松永長頼とともに畿内に残る抵抗勢力(足利将軍家と宗教勢力)を排除するため軍事面で力を発揮していき、その地位を高めていったようです。

なお、松永久秀は、この頃には「弾正忠」の官命を付した文書を使用しており、三好長慶の下で出世街道を駆け上がっていることが見て取れます。

三好長慶の下で出世街道を駆け上がる

天文18年(1549年)、三好長慶が、細川晴元・将軍足利義輝を今日から追放し、畿内における三好政権を樹立すると、松永久秀は、その教養や交渉力を生かして、公家・寺社との仲介役として活躍します。

そして、天文19年(1550年)、松永久秀は、三好家の家宰となって「三好長慶政権」のナンバー2にまで上り詰めます。

その後、天文20年(1551年)4月に三好長慶と敵対する細川晴元を相国寺の戦いで打ち破った松永久秀は、天文22年(1553年)に摂津国・滝山城を与えられ、ついに一国一城の主となります。

大和国への侵攻を開始

また、松永久秀は、三好長慶の命を受け、大和国の宗教勢力にも手を入れ始めます。

当時の大和国は、京・堺と共に三都と呼ばれる商工業の発展した都市だったのですが、武士の統治から外れた独自の強大な経済力・軍事力を有する宗教勢力によって支配されていました。

特に、東大寺・興福寺などの勢力は絶大であり、武士の立場からすると大和国は難治の国とも呼ばれていました。

この大和国の利権を手にすべく、三好長慶は、摂津国滝山城主を務めていた松永久秀に大和国制圧を命じます。

三好長慶の命を受け、松永久秀は、まずは大和国への侵攻を開始するために本拠地を大和国・信貴山城に移します。

また、松永久秀は、永禄2年(1559年)から大和国の東大寺・興福寺の目の前にあった眉間寺山から寺を移築させた上、その跡地に多聞城(多聞山城とも言います。)の築城を開始します。

なお、多聞城は、安土城に先立ち天守を有した城としても有名で、石垣や土塀、石垣の上に長屋上の櫓を設置したことでも画期的な城でした(なお,多聞城で長屋状の櫓が設置され,その後普及したことから,この形状の櫓を「多聞櫓」といいます。多聞櫓は下の写真参照)。

残念ながら現存していませんので正確なところはわかりませんが、ルイスフロイスが記した「日本史」に、全ての城や塔の壁に漆喰が塗られ、見たことがない程白く輝く城であった、世界に類を見ない建造物であったと評される豪華な城であったようです。

松永久秀が大和国に新しく築いた城をあえて豪華にしたのは、宗教勢力に代わって奈良を治めるんだという強い意志を周囲に見せつける意図があったんだと思います。

多聞城築城(1560年)

そして、永禄3年(1560年)に多聞城が完成すると、松永久秀は、いよいよ本格的な大和国侵攻を開始し、大和国内で大きな勢力を持っていた筒井家の所領や、大和守護の座にあった興福寺の所領を次々と攻略していきます。

そして、大和国の実効支配を進めた松永久秀は、畿内から将軍家・宗教勢力の影響を排斥し、三好長慶を名実共に天下人に押し上げることに成功します。

このように、三好政権下において、三好長慶は、松永久秀の実力を認めて重用し、松永久秀もこれに対して忠義を尽くしていることがわかります。

松永久秀は、主君に忠義を尽くさない悪者であったというイメージがついていますが、徹頭徹尾主君の三好長慶のために働いており、少なくとも信頼できる資料で松永久秀の不忠義さを示すものはありません。

室町幕府の幕臣となる

永禄4年(1561年)、松永久秀は、譜代の家臣でないにもかかわらず、三好長慶と同じ従四位下の官位を与えられました。なお、外様や身分の低いものを登用するときには名門家の名跡を継がせることが多いのですが、松永久秀は、松永姓のままで異例の待遇を得ています。

また、このとき、足利義輝の御供衆となり、幕臣ともなっています。

永禄5年(1562年)、本拠を多聞城に移し、大和国の宗教勢力への牽制をさらに強化します。

松永久通に家督を譲る(1563年)

松永久秀は、永禄6年(1563年)に家督を嫡男である松永久通に譲ります。

三好長慶の死亡とそれによる危機

三好長慶の死

以上のとおりに順風満帆に勢力拡大を続けていた松永久秀にピンチが訪れます。

永禄7年(1564年)7月4日、三好長慶が居城・飯盛山城で病により死去し、これを好機と見た第13代将軍・足利義輝が将軍復権のために動き出したからです。

永禄の変

足利義輝の動きを見た三好家臣団(三好義継、三好三人衆である三好長逸・三好宗渭・岩成友、松永久秀ら)に危機感が募っていきます。

そして、永禄8年(1565年)5月19日、足利義輝を目障りと見た三好義継・三好三人衆・松永久通(松永久秀の子)が、清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率いて二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入して足利義輝を殺害します(永禄の変)。

目の上のたん瘤を取り除いた三好家でしたが、将軍暗殺によって三好家は諸大名から反感を買い、一転して三好家は窮地に陥ります。

危険を感じた松永久秀は、挽回策を講じ、足利義輝の弟である足利義昭を取り込むこととしたのです。

将軍の弟を味方にすることで、三好家が、足利将軍家に敵対するものではないことを示し、足利将軍家に味方する勢力から攻め込まれるの防ぐためです。

また、松永久秀は、朝廷に対して、朝廷が保管していた室町幕府の初代将軍である足利尊氏が着ていた鎧(将軍の象徴)を三好家に引き渡すよう交渉し、周囲に天皇家からも三好家が信頼されているということを示すこととして非難をかわそうと試みます。

三好家のお家騒動

ところが、そんな松永久秀に更なるピンチが生じます。

足利義輝を殺害した永禄の変以降、「三好政権の中心にいた三好三人衆」と「三好義継を支えて政権運営を行なっていた松永久秀」とが三好政権の主導権を巡って対立したのです。

1565年(永禄8年)11月16日、三人衆軍が当時松永方の城であった飯盛山城を突如襲って、三好長慶の甥で後継であった三好義継を高屋城に庇護して取り込んでしまったため、三好三人衆と松永久秀の対立は決定的になります。

その後、三好三人衆と松永久秀との争いが続きますが、三好家当主三好義継を取り込み、また阿波国の三好家も加わった三好三人衆側が次第に有利に進めていきます。

ところが、永禄10年(1567年)4月6日、松永久秀がいる信貴山城に三好義継が保護を求めてきたことで事態が動きます。

三好氏の当主という地位は、実質上の力はないものの、劣勢下にあった久秀に大義名分を与えるだけの効果を保持していたのです。
大義名分を得た松永久秀は、本拠地大和国において勢力の回復に取り掛かります。

松永久秀の動きを見た三好三人衆は、京から兵を率いて大和国へ攻め入りました。

東大寺の戦い(東大寺大仏殿焼失)

そして、多聞城を本拠に置く松永久秀軍に対し、三好三人衆は東大寺に本拠に置いて対陣します。

永禄10年(1567年)4月18日から、松永久秀及び三好義継と、三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが大和東大寺周辺で、半年間に亘って市街戦を繰り広げます(東大寺の戦い、多聞山城の戦い)。

兵力に勝る三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが優勢に展開していたものの、決定打がなく膠着します。

同年10月10日、松永久秀・三好義継連合軍が、三好三人衆が本陣を置く東大寺を奇襲し、そのときに大仏殿が焼失しています。なお、大仏殿の消失については、松永久秀が故意に焼き払ったという説もありますが、最近の研究では戦の最中の不慮の失火説が有力なのだそうです。

その後、三好三人衆・筒井連合軍と松永久秀軍との小規模な戦いは断続的に続いていたのですが、1568年(永禄11年)6月29日、信貴山城の戦いで信貴山城が落城し、また多聞城も攻め込まれたことにより松永久秀は窮地に陥ります。

ここで、松永久秀は運命の一手を打ちます。

織田信長と手を結ぶのです。

織田信長の同盟相手から臣従に至るまで

織田信長との同盟

この頃、織田信長は、尾張・美濃を平定し、畿内へ進出する機会をうかがっていました。
そんな織田信長は、その旗印となる足利義昭に目をつけ、かつて松永久秀が取り込んだ足利義昭を将軍職につけるという名目で、上洛を目論んでいました。
織田信長は、そのための松永久秀を選んで、同盟を申し出てきたのです。松永久秀としても、三好三人衆に押されて危ない状況であったため、三好家・松永家を守るため、これに同意することとなりました。

織田信長の快進撃

永禄11年(1568年)9月12日、織田信長は三好三人衆に与していた六角義賢・六角義治親子を観音寺城の戦いで撃破し、足利義輝の弟・足利義昭を第15代将軍に擁立して上洛を果たすことになります(足利義栄は阿波で病死)。

そして、足利義昭を無事京に送り届けた織田信長は、同年9月28日、山城国南部から摂津国に至る諸城を攻略するため、自ら5万人もの兵を率いて先行軍が攻撃中の勝龍寺城に向かい、これを囲んで落城させます(勝竜寺城の戦い、勝竜寺城を守る岩成友通は、織田信長の率いる大軍に包囲されたため支えきれないと判断して勝竜寺城を開城して織田信長に明け渡しています。)。

織田信長に臣従

そして、松永久秀は、畿内制圧に動いていた織田信長に質子を入れ、同年9月29日に芥川山城で息子の松永久通、三好義継と共に拝謁し、10月4日に再び信長に拝謁すると「吉光」と「九十九髪茄子」を差出して恭順の意を示し軍門に下ることになりました。

このとき、織田信長から、三好義継は河内上守護に、松永久秀・松永久通父子には大和国が任されることとなりました。

そして、織田信長は、その後、細川藤孝佐久間信盛、和田惟政ら2万兵の援軍をつけて松永久秀を大和に帰国させて10月8日に筒井城を奪還、 10月10日に筒井方であった森屋城と窪之庄城を、10月15日に豊田城を奪還し、大和国が再び松永久秀の支配下に戻ることとなりました。なお、このとき、三好三人衆も畿内の諸城を落とされ、三人衆の勢力は一旦畿内から阿波国に放逐されています。

そんな織田信長の勢いに危険を感じた松永久秀は、織田信長の機嫌を取るために、元々将軍家に伝わる茶器「付藻茄子」を献上したと信長公記に記載されています。

戦国随一の茶器コレクターであった織田信長は、とても喜んだようです。

織田信長への裏切り(1度目の裏切り)

織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち

ところが、元亀2年(1571年)、三好本家の同盟相手である比叡山焼き討ちという暴挙にでます。
これに主君である三好義継が激怒し、三好本家は織田信長と戦うこととなってしまいました。

第二次信長包囲網

松永久秀は、主君である三好義継と織田信長のどちらにつくかで悩まされることとなったのですが、このときは室町幕府15代将軍足利義昭の画策により信長包囲網(第二次信長包囲網)が敷かれていた時期であり、三好義継方に勝算ありと考え、三好義継につくことを選択します。

ところが、天正元年(1573年)4月に武田信玄の急死したことをきっかけとして第二次信長包囲網が崩壊します。

三好義継の死と織田信長への降伏

結果、天正元年(1573年)11月、三好義継は河内国の若江城にて、寡兵で佐久間信盛率いる織田方の大軍を迎えることとなったのですが、若江城はたちまち陥落し、三好義継は自害させられてしまいます(若江城の戦い)。

また、松永久秀は大和国の多聞城にて待ち受けていたのですが、織田信長は、多聞城の松永久秀には、降伏勧告をしてきました。

松永久秀は、この降伏勧告に応じ、織田信長の軍門に下ることを選びます。

死して三好家と心中するのではなく、四国にいるかつての主君三好長慶の甥である三好長治を封じて三好家を再興する可能性に賭けたのです。なお、松永久秀は、このとき治めていた大和国の大半と居城である多聞城を召し上げられています。

松永久秀の最後(2度目の裏切り)

織田信長は、松永久秀から召し上げた大和国を興福寺と繋がりがありまた松永久秀のライバルでもあった筒井順慶に与えました。

松永久秀としては、三好長慶とともに行った一大事業である大和国の武士による支配は否定し、かつての宗教勢力による支配に復帰させるかの政策を実施する織田信長に従うことは最早できませんでした。

天正5年(1577年)8月、松永久秀は、織田信長が石山本願寺攻めを行っていた最中、毛利輝元や上杉謙信などとの協力関係を作り信長を取り囲むことによって勝利をすべく(第三次信長包囲網)、8000人の兵を率いて大和国・信貴山城で織田信長討伐の兵を挙げます。

しかし、手取川の戦いで織田方の柴田勝家軍に大勝利を挙げた上杉謙信が追撃することなく越後に引き返したことによってこの目論見は瓦解し、松永久秀は単独で織田信長と対峙することを余儀なくされました。

しかも上杉謙信撤退により、加賀に向けられていた織田信忠佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀隊が信貴山城攻めに参加することとなってしまいました。
そうすると、力の差は歴然で、すぐに信貴山は織田信長軍に包囲され、天正5年(1577年)10月10日、信貴山は陥落し松永久秀は自害して果てました。

最後に

なお、松永久秀の死因については、茶器である古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)に爆薬を詰めて腹に抱き茶器もろとも爆死したとのエピソードが有名ですが、どうやらこれは後世の作り話であるようです。

主家への裏切り、将軍暗殺、東大寺大仏殿焼き討ちなどを行ったとして、斎藤道三、宇喜多直家と共に戦国三大梟雄に数えられる松永久秀ですが、実は、松永久秀の悪行の数々は、江戸時代にかかれた逸話集「常山紀談」によって面白おかしくするために歪められて書かれた話であり、本当の話ではありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA