武田二十四将(たけだにじゅうししょう/たけだにじゅうよんしょう)は、後世に講談や軍記物語などの題材となった、武田信玄に仕えた武将のうち特に評価の高い24人を選んで付された武田家家臣団の呼称です。
武田信玄が生きていた時代にそのような名称があったわけではなく、江戸時代に軍記者などを基に抽出された武将の集合体であるため、その内容に確定性・客観性があるものではありません。
もっとも、この武田二十四将は、現在よりも往時に近かった江戸時代に武田家の主要家臣が誰であったかを推認させる資料となっており、その構成などは戦国最強武田軍の運用の一端を検討する素材として有用であると考えます。
そこで、本稿では、この武田二十四将について検討していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
武田二十四将図について
武田二十四将図の成り立ち
言うまでもなく、本稿で検討する武田二十四将は、武田二十四将図に描かれた人物です。
この点、甲斐武田家に限らず、供養像として戦国大名家の家臣団を描いた集団肖像画が制作されることがあるのですが(徳川十六神将など)、廃絶大名家は遺臣の需要が少なく、その作例は多くないのが一般的です。
もっとも、甲斐武田家は、天正10年(1582年)に滅亡した後に徳川家康によってその遺臣が庇護されたこと、江戸時代に甲陽軍鑑の普及や甲州流軍学の流行があったことなどから、集団肖像画に一定の需要がりました。
そのため、江戸時代に武田二十四将肖像画が盛んに描かれ、現在においても、武田神社・山梨県立博物館・高野山成慶院・柏原美術館(旧岩国美術館)・医王院などに所蔵されています。
武田二十四将図の構成
現存する武田二十四将図は、甲陽軍鑑などの軍記物を基にして描かれていることが多いため、文書上確認できる実名と異なる場合がある上、活躍時期の異なる武将を一緒に描いているなど時系的に矛盾がある図も散見されます。
また、図によってメンバーの入れ替わりがあり、武田信玄を含めて24人とするものや、武田信玄以外に24人いるものもあるため、確立した構成があるわけでもありません。
さらに、武田信玄も、青年武将像や出家壮年像の肖像画が残されているにも関わらず、武田二十四将図では甲陽軍鑑による法師武者や不動明王のイメージから諏訪法性の兜・軍配を持った軍陣姿で描かれることが一般化していました。
武田二十四将図の武将配置
武田二十四将図は、武田信玄を中心(上部中央)に、その周囲に一門衆・譜代家臣・外様家臣・国衆が配されて軍議が行われている状況を描いているものが一般的です。
以上のとおり、武田二十四将図は浄瑠璃や浮世絵の影響を受けて後世のイメージで描かれた肖像画に過ぎませんので、資料としての客観性があるわけではありません。
もっとも、現在よりも近い時代に武田信玄の下で活躍した武将を選考したものであるため、武田家の人事構成を検討する上で参考となる資料と考えられます。
そこで、以下、残された複数の武田二十四将図の武将配置を基に武田家臣団の構成を検討したいと思います。
武田二十四将一覧
前記のとおり、武田二十四将に挙げられる武将は、資料によって異なるのですが、以下の中から抽出されるのが通常です。
武田一門衆
(1)武田信玄兄弟
① 武田信繁(武田信玄弟)
大永5年(1525年) 〜永禄4年(1561年)9月10日【第4次川中島の戦い討死】
② 武田信廉(武田信玄弟)
天文元年(1532年)?〜天正10年(1582年)3月24日【残党狩り】
③ 一条信龍(武田信玄弟)
天文8年(1539年)?〜天正10年(1582年)3月10日【斬首?】
(2)武田信玄血縁者
④ 穴山信君(武田信玄従兄弟)
天文10年(1541年)〜天正10年(1582年)6月2日【落武者狩り】
⑤ 武田勝頼(武田信玄四男・当初外様→後に陣代)
天文15年 (1546年)〜天正10年(1582年)3月11日【自刃】
譜代衆(武田家累代の家臣)→侍大将格
(1)一期四天王
① 板垣信方
延徳元年(1489年)?〜天文17年(1548年)2月14日 【上田原の戦い討死】
② 甘利虎泰
明応7年(1498年)?〜天文17年(1548年)2月14日 【上田原の戦い討死】
③ 飯富虎昌
永正元年(1504年)?〜永禄8年(1565年)10月15日【義信事件の責めにより自害】
④ 小山田昌辰/小山田虎満
生年不詳〜天正7年(1579年)10月12日【死因不明】
(2)二期四天王
⑤ 山県昌景
享禄2年(1529年)?〜天正3年(1575年)5月21日【長篠の戦い討死】
⑥ 内藤昌豊(内藤昌秀)
大永2年(1522年)〜天正3年(1575年)5月21日【長篠の戦い討死】
⑦ 馬場信春(馬場信房)
永正12年(1515年)?〜天正3年(1575年)5月21日【長篠の戦い討死】
⑧ 高坂昌信(春日虎綱)
大永7年(1527年) 〜天正6年(1578年)5月7日【病死】
(3)その他
⑨ 小山田信茂(武田信玄の従甥)
天文8年(1539年)?〜天正10年(1582年)3月24日【刑死】
⑩ 秋山虎繁
大永7年(1527年) 〜天正3年(1575年)11月26日【岩村城の戦い後刑死】
⑪ 三枝守友(三枝昌貞)
天文6年(1537年) 〜天正3年(1575年)5月21日【長篠の戦い討死】
⑫ 甘利信忠
天文3年(1534年)〜永禄10年(1567年 )8月22日または元亀3年(1572年)12月22日)【病死】
⑬ 土屋昌次(土屋昌続)
天文14年(1545年)?〜天正3年(1575年)5月21日【長篠の戦い討死】
⑭ 曽根昌世
生年不詳〜没年不詳
外様衆(信虎・信玄時代採用)→足軽大将格
(1)武田信虎時代採用組
① 多田満頼(五名臣)
生年不詳【美濃国出身】〜永禄6年(1563年)【病死】
② 横田高松(五名臣)
1487年?【近江国出身】〜天文19年(1550年)10月1日【砥石崩れ討死】
③ 小幡虎盛(五名臣)
延徳3年(1491年)【遠江国出身】〜永禄4年(1561年) 6月2日【病死】
④ 小幡昌盛
天文3年(1534年)〜天正10年(1582年)3月6日 【病死】
⑤ 小幡信貞
天文10年(1541年) 〜天正20年(1592年)11月21日【病死】
⑥ 原虎胤(五名臣)
明応6年(1497年)【安房国出身】〜永禄7年(1564年)1月28日【病死】
⑦ 原昌胤
享禄4年(1531年)?〜天正3年(1575年)5月21日【長篠の戦い討死】
(2)武田信玄時代採用組
⑧ 真田幸隆(真田幸綱)
永正10年(1513年) 〜天正2年(1574 年) 5月19日【病死】
⑨ 真田信綱
天文6年(1537年)〜天正3年(1575年)5月21日【長篠の戦い討死】
⑩ 真田昌輝
天文11年(1543年)6月〜天正3年(1575年)5月21日【長篠の戦い討死】
⑪ 真田昌幸(武藤喜兵衛)
天文16年(1547年)?〜慶長16年(1611年) 6月4日【病死】
⑫ 山本勘助(五名臣)
1493年? 〜永禄4年(1561年)9月10日【第4次川中島の戦い討死】
武田二十四将の分析
武田二十四将の出自
以上を見ると、武田家一門衆を除き、武田二十四将に選ばれる武将のほとんどが天文10年(1541年)6月に駿河国に追放された武田信玄の父である武田信虎時代までに採用された人物であることがわかります。
すなわち、戦国最強と言われた武田家の基礎は武田信虎までに作り上げられ、武田信玄がこれをうまく運用したことがわかります。
他方で、武田信玄が将来の幹部候補とした奥近習六人衆(土屋昌次・三枝守友・曽根昌世・武藤喜兵衛・甘利昌忠・長坂源五郎)などでも基本的には譜代家臣から選抜しており、武田信玄時代に採用されて活躍した外様武将としては山本勘助と真田家一門くらいしか見受けられず、武田信玄が積極的な人材登用を行っていなかった(できなかった?)ことがわかります。
また、出世の度合いを見ても、外様衆のほとんどは武田家の幹部である侍大将にはなれておらず、足軽大将で終わっていることがわかります。
そう考えると、武田信玄による天才的軍才により勢力拡張をしたことは明らかではあるものの、その基礎は武田信虎までの当主によって作られていたことがわかります。
武田二十四将からみる武田信玄の人材運用
以上のことから、甲斐国一国から勢力拡大を始めてその版図を信濃国・飛騨国の一部・西上野・駿河国などに及ぼしていった武田信玄は、あと10年生きていれば織田信長に代わって天下を取ったかもしれないと言われることもありますがその人材運用は古典的なものであったことがわかります。
この点については、筆頭宿老であった佐久間信盛を追放し、自ら採用した明智光秀や羽柴秀吉を宿老にまで引き上げた実力主義の織田信長とは全く別の運用がなされていたことがわかります。
また、前記の武田二十四将の多くが天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで討死していることがわかり、この敗戦による立て直しが武田家の大きなターニングポイントとなっていたこともまた見て取れますね。