【石川家成】三備の軍制で西三河旗頭を任された徳川家康の従兄弟

石川家成(いしかわいえなり)は、徳川家康の従兄弟の立場として幼少期からこれを支えた古参家臣です。

甥にあたる石川数正の陰に隠れてマイナー扱いをされていますが、実は、今川家から独立した頃の徳川家康の家臣団の中では、最高位に位置したといえる人物です。

三河国を平定した後に徳川家康が行った軍制改革では、西三河旗頭に任命されて徳川軍の3分の1を指揮する権限を持っていました。

また、徳川家康が遠江国を平定すると、その後の今川・武田との戦いの最前線となる掛川城を任されるほどの絶大な信頼を得ていました。

本稿では、石川数正の陰に隠れた名将・石川家成の生涯について振り返っていきたいと思います。

石川家成の出自

石川家成出生(1534年)

石川家成は、天文3年(1534年)、松平清康(徳川家康の祖父)・松平広忠(徳川家康の父)に仕えた石川清兼の三男(次男説あり)として、三河国西野(現在の愛知県西尾市)で生まれます。幼名は、彦五郎といいました。

母は、徳川家康の生母・於大の方の姉妹である妙春尼(水野忠政の娘)ですので、竹千代(後の徳川家康、本稿では「徳川家康」の表記で統一します。)とは8歳年上の従兄弟にあたります。

当主不在の岡崎を守る(1549年11月)

天文18年(1549年)11月、徳川家康が今川家に対する人質として駿府に送られることとなったのですが、このとき石川家からは石川家成の甥である分家筋の石川数正が随伴することとなります。

他方、石川家本家筋にあたる石川家成は、三河国に残って竹千代不在の岡崎を守っていきます。

その後、元服した石川家成は、松平清善(竹谷松平家4代当主)の娘を室に貰い受けた後、天文23年(1554年)に長男である石川康通(母は不明)を儲けます。

岡崎残留組時代

徳川家康の下で転戦

① 寺部城の戦い(1558年)

永禄元年(1558年)ころ、今川義元が嫡男である今川氏真に家督を譲り、隠居した今川義元が三河国から西に向かって版図を広げるという政策を進めていきます。

そして、今川義元は、三河国を治めていた安祥松平家の徳川家康に当時三河国で勃発していた三河忩劇の鎮圧を命じます。

このとき、徳川家康は、まず岡崎城の北側に位置する寺部城を攻撃します(この寺部城の戦いが徳川家康の初陣です。)。

この寺部城攻めについては、徳川家康が岡崎勢を率いて行うこととなったのですが、石川家成がその先鋒を務めています。

② 丸根砦の戦い(1560年)

また、永禄3年(1560年)に始まった今川義元による西進作戦の先鋒部隊として永禄3年(1560年)5月19日早朝までに大高城兵糧入れを成功させた徳川家康隊は、そのまま佐久間盛重が守る丸根砦に攻め込み、激戦の末にこれを陥落させます。

このとき、丸根砦攻撃隊の指揮をとったのが、石川家成と酒井忠次であったと言われています。

③ 対織田戦線

その後、桶狭間の戦いで今川義元が討死にすると、徳川家康は、そのどさくさに紛れて本拠地・岡崎城に入ります。

この後、徳川家康は、しばらくは今川方の将として織田方と戦っており、石川家成は、石ヶ瀬川の戦いなどのそのほとんどの戦いに従軍しています。

三河一向一揆(1563年)

西三河・奥三河に勢力を拡大させていった徳川家康は、経済力の強化を果たすために父・松平広忠が認めた浄土真宗本願寺派寺院に対する守護不入特権を否認し、これらに対して貢祖、軍役の賦課等を課すこととしました。

これに対し、それまでの特権を否認された浄土真宗本願寺派寺院は徳川家康に対する抵抗し、この動きに徳川家康に抗う勢力が便乗します。

その結果、永禄6年(1563年)、西三河で領主(徳川家康)と仏(浄土真宗本願寺派寺院)とが争う形となったため(三河一向一揆)、領民はもちろんのこと徳川家康家臣団もまた領主側(主君への忠誠)と仏側(信仰)のどちらを選ぶかという選択に迫られ、松平家臣団がそれぞれの思想・思惑に従って、徳川家康に付き従う者、浄土真宗寺院側に付く者に分かれてしまいます(家ごとにというわけではなく、それぞれの家でも人によって分かれてしまうような状況となったのです。)。

このとき、浄土真宗本願寺派を信仰する敬虔な信者であった石川家では多くの者が一揆方に加担したのですが、石川家成は、父・石川清兼と共に改宗までして徳川家康に与します。

この後、一向一揆を制圧した徳川家康は、一向一揆方に与した家臣団をことごとく許すこととしたのですが、他方で、苦しいときに徳川家康の下に残った家臣団を最重用します。

東三河平定戦

その後も、石川家成は、西三河を概ね平定した徳川家康に従って東三河平定戦に参加します。

このときには、山中城に入って今川氏真と対峙するなどしています。

西三河旗頭時代

西三河の旗頭となる

永禄9年(1566年)5月に牛久保城の牧野成定を降伏させ、これをもって織田領となった加茂・碧海両郡の西部地域を除いた三河国の統一を果たした徳川家康は、富国強兵を目指して様々な改革に着手します。

まずは、天野康景、高力清長、本多重次の3人を岡崎三奉行(三河三奉行)に任命して三河国内の内政・訴訟の一切を取り仕切らせ、富国を目指していきます。

次に、徳川家康は、三河国統治の正当性を明らかにするために三河守任官の申請をします。

そして、さらなる領土拡大のために指揮系統を明確にして機動的な軍の編成をすると共に、宗家の座を巡って度々反乱を起こしていた松平一門衆に序列を認識させることにより徳川家康を頂点とするピラミッド型の支配システムを作り上げることとし、統治下に治めた西三河一帯を西三河衆として石川家成に、東三河一帯を東三河衆として酒井忠次に委ね、これとは別に編成した徳川家康直轄の旗本衆を編成することにより、三河国内の軍を3つの備として再編成しました(三備の制)。

これにより、石川家成は、松平一門衆・国衆らを含めた西三河衆の全てを指揮系統下に置くようになり、徳川家中で絶大な力を持つようになります。

誤りを恐れず言うと、徳川家の3分の1の指揮権を持つ大将のなったのです(西三河の松平一門衆や有力国衆よりも上位に位置付けられます。)。

そして、この後、石川家成は、徳川家康の戦いに、西三河衆を率いて参戦し、武功を挙げていきます。

遠江国侵攻戦(1568年12月)

三備の制により軍制を整えた徳川家康は、本格的に遠江侵攻を開始します。

きっかけは、永禄11年(1568年)3月、今川氏真の祖母であった寿桂尼の死亡に伴い、今川家臣団の調略を進めていた武田信玄が、徳川家康に対して共に今川家を攻撃してこれを滅亡させ、その領地のうち大井川を境にしてその東部(駿河国)を武田家が・西部(遠江国)を徳川家がそれぞれ切り取って領有するとの条件での密約をもちかけてきたことでした。

そして、同年12月、武田軍の駿河国侵攻にあわせて、徳川軍も遠江侵攻を開始し、井伊谷城・曳馬城などの主要な城やその支城群を次々と攻略した後、同年12月27日には武田軍に駿府今川館を陥落されて逃げてきた今川氏真が籠る掛川城を包囲します。

そして、永禄12年(1569年)正月17日から、石川家成を先鋒として掛川城への総攻撃が始まり、同年5月15日に開城に至り、掛川城までも獲得した徳川家康は、三河国と遠江国という2ヶ国を治める大大名となります。

掛川城主時代

掛川城主となる(1569年)

そして、徳川家康は、以降の対武田・対今川の最前線拠点となる掛川城に、西三河旗頭を務めていた石川家成をスライドさせて城主として入れることとします。

なお、掛川城は、長らく今川家により支配されていた土地であったために攻略直後は不安定であった上、駿河に残る今川家や、甲斐・信濃を治める武田家との接する重要拠点であったことから、その統治には多大な困難が予想されます。

このような困難な重要拠点の城主として任命されていますので、石川家成に対する徳川家康の信頼の高さがうかがえます。

西三河旗頭を譲る(1569年)

遠江国に入ったことにより西三河の取りまとめが出来なくなったため、永禄12年(1569年)、石川家成は、西三河旗頭の職を甥である石川数正に引き継ぎます。

この結果、三備の制が一部発展し、徳川家康をトップとし、西三河は石川数正が、東三河は酒井忠次が、遠江国は石川家成がそれぞれ取りまとめるという体制となります。

そして、この後、石川家成は、徳川家康の戦いに、遠江衆を率いて参戦し、武功を挙げていきます。

三方ヶ原合戦の後詰(1572年12月)

元亀3年(1572年)12月22日、西上作戦を進める武田信玄に釣りだされて徳川家康が大敗し(三方ヶ原の戦い)、命からがら浜松城に逃げ帰るという事態に陥ります。なお、このとき、石川家成は、掛川城を守っていたために三方ヶ原の戦いに参戦していませんでした。

三方ヶ原の戦いの後、武田軍が徳川家康の籠る浜松城に向かって進軍していったため、徳川家存亡の危機を迎えます。

徳川家康に危機迫るの報を聞いた石川家成は、2000人の兵を率いて掛川城から後詰に向かい、西島に布陣した榊原康政隊に合流します。

この結果、武田軍が浜松城を攻めるためには、守りを固めた浜松城とは別に背後を突いてくるであろう2500人もの大部隊の遊軍を相手にしなければならないこととなりますが、先に西島を攻めるとするとそれはそれで浜松城から打って出てくる城兵とで挟撃される危険もでてきます。

そのため、挟撃を恐れた武田軍は安易に浜松城や西島を攻撃出来なくなり、ここで戦線が膠着します。

この結果、兵站や武田信玄の体調に不安のある武田軍は、浜松城攻略をあきらめ、これを捨て置いて一旦刑部城に入って越年した後、野田城へ向かって西進していった結果、三方ヶ原の戦いで大敗したにもかかわらず、浜松城はなんとか陥落することなく持ちこたえることができたのです。

石川家成の最後

隠居(1580年)

以降も、遠江衆を率いて徳川家康を支え続けた石川家成でしたが、47歳となった天正8年(1580年)、長男である石川康通に石川家の家督を譲って隠居します。

伊豆国梅縄5000石を得る(1590年)

そして、天正18年(1590年)の小田原征伐後に徳川家康が関東に移封されると、石川家成は、石川家の当主となっていた石川康通と共に徳川家康に従って関東に入ります。

関東に入って江戸を拠点とした徳川家康は、家臣団の再編や所領整備などを行うために5人の関東総奉行を置いて石川康通らにその任を命じ(近習・外様を5組に分け、それぞれ榊原康政・井伊直政本多忠勝平岩親吉・石川康通の5人を長に任じています。)、さらに江戸に繋がる街道の出入口や、主要都市に家臣団を配置していきます。

このとき、石川康通が上総国・成戸2万石が与えられたのですが、石川家成にもまた隠居料として伊豆国梅縄5000石を与えられています。

第2代大垣藩主となる(1607年)

その後、慶長5年(1600年)に石川康通が関ヶ原の戦いの功により美濃国・大垣5万石に加増移封され、大垣藩を立藩します。

慶長12年(1607年)に石川康通が死去したのですが、その子(11歳の石川忠義)がまだ幼かったため、石川家成が仮当主として再び石川家の家督を引き継ぎ、第2代大垣藩主となって大垣に移ります。

なお、石川家成は、石川康通の子が成長するまでのピンチヒッターにすぎず、また高齢でもあったため、5万石という大領をはむ古参家臣でありながら幕政には参加していません。

石川家成死去(1609年10月19日)

もっとも、大垣藩主となった2年後の慶長14年(1609年)10月19日(29日とも)、石川家成は死去します。享年は76歳でした。

石川家の家督は、外孫で養子の石川忠総が引き継いでいます。

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