【徳川家康の妻一覧】判明している22人の神君の正室・側室

徳川家康には、判明しているだけで22人の妻(正室・側室)がいます。また、判明していない者も含めると40人近くいたとも言われています。

これらの妻のうち、正室は、今川家主導で選定された築山殿(先妻)と、豊臣秀吉から押し付けられた朝日姫(継室)の2人だけであり、その他は全て側室となります。

若い頃は周辺国衆や敵対家臣団の娘などを迎えて領土保全を図ったり、既に子供を産んだ経験のある未亡人を選んで子供を儲けることを第一に考えて「徳川家」の存続を図っていた徳川家康ですが、勢力が大きくなってお家が安定して来ると、「徳川家康個人」の欲を優先させて10代を中心とした若い女性を選んでいるところが注目されます。

本稿では、これらの徳川家康の妻の遍歴について、貰い受けた時代背景もあわせて紹介していきたいと思います。

人質時代に娶った妻

天文11年(1543年)12月26日に西三河の小大名の子として生まれた徳川家康(幼名:竹千代、本稿では徳川家康の表記で統一します。)は、海道一の弓取りと言われた今川義元の下に人質として預けられ、8歳から駿河国で人質生活をしていました。

①【正室】瀬名姫(1557年1月)

今川家の下で元服を果たした徳川家康に対し、松平家を取り込んで三河支配を盤石化するという今川義元の計画のために、今川一門衆から結婚相手となる娘が探されました。

この頃に年頃の未婚の娘として関口氏純の娘である瀬名姫(後の築山殿)がいたため、今川義元は、瀬名姫を養女として迎えた上で、弘治3年(1557年)正月15日に徳川家康と結婚させます。

すなわち、徳川家康は、今川家の一門衆となって三河国を今川家の傘下に置くこととするために今川一門衆の娘である瀬名姫を正室に迎えることとなったのです。なお、正室とは、夫と共に家の経営にたずさわり、妾を側室として認めるかどうか、妾が産んだ子を夫の子として認めるかどうかを決定するなどの強い権限を持っていた妻をいいます。

もっとも、このような政略結婚としての要素が強かったものの、当初の徳川家康と瀬名姫との仲は良く、2人の間には、永禄2年(1559年)3月6日に嫡男・松平信康が、永禄3年(1560年)に長女・亀姫(後の奥平信昌の正室)が生まれています。

今川家との攻防戦時代に娶った妻

今川家で11年もの人質生活を強いられた徳川家康でしたが、永禄3年(1560年)5月23日の桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れて本拠地である岡崎城入城を果たします(正室の瀬名姫は駿府に残したままです。)。

岡崎城に入った直後の徳川家康は、当初、今川方の将としての立場を維持していたため、今川義元の首を取って勢いに乗る織田軍と最前線で戦っていたのですが、今川家から一向に援軍が送られてこないことから今川氏真を見かぎり、三河国で独り立ちする決意を固めてその準備に取り掛かります。

そして、徳川家康は、独立のための準備として、まずは三河国内の反今川の意向を持つ勢力に調略を仕掛けると共に、味方することとなった国衆達との関係強化を図っていきます。

②西郡局(蓮葉院・1564年)

今川家に敵対することを決めた徳川家康は、三河国平定を目指して統一戦を戦い始めます。

その後、次々と三河国内の国衆を調略して勢いに乗る徳川家康は、永禄5年(1562年)に東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛し、これと人質交換によって今川氏真の下から瀬名姫・竹千代・亀姫を取り戻します。

そして、その後、徳川家康は、東三河を押さえていた鵜殿家の権威得るため、鵜殿家支流であり徳川家康に従っていた柏原城主鵜殿長忠に仕える加藤家の娘を選び、鵜殿長忠の養女として側室に貰い受けます。

こうして、西郡局は徳川家康の側室となり、天正3年(1575年)11月11日(永禄8年/1565年誕生説あり)に徳川家康の次女・督姫(後の北条氏直室・池田輝政室)を生んでいます。

その後、西郡局は、慶長11年(1606年)に伏見城で亡くなっています。

③お万の方(長勝院・1570年頃?)

この頃までは、築山殿に遠慮していたのかあまり側室を取ったりしなかった徳川家康でしたが、徳川家康が浜松城に移り、岡崎に瀬名姫(築山殿)に残して距離を置いたころから男としての性が動き始めます。

手始めは、瀬名姫に仕えていた女中・お万の方(於古茶・小督局)を見初めてお手付きにしたことでした。

この当時に側室を認める権限を持っていた正室・築山殿が、お万の方を徳川家康の側室とすることを認めなかったのですが、徳川家康が分かれて生活する築山殿の拒否権を無視してお万の方との関係を続け、天正元年(1573年)、お万の方が徳川家康の子を妊娠します。

なお、徳川家康の側室(妾)とすることを承知していなかったにもかかわらずお万の方が徳川家康の子を妊娠したことを聞いた築山殿は、自身の拒否権を無視されたとして激怒し、お万の方を女房衆から追放してしまいます。

浜松城を追放されたお万の方は、徳川家重臣であった本多重次の差配により、浜松城下の中村源左衛門正吉の屋敷において、天正2年(1574年)2月8日徳川家康の次男・結城秀康を生んでいます。

武田家との攻防戦時代に娶った妻

④お久の方(朝覚院・1575年頃?)

お久の方(茶阿局)は、元々遠江国金谷村の鋳物師の後妻として娘(於八)を生んでいた女性だったのですが、お久の方が美人であることから代官が横恋慕し、その夫を闇討ちにするという事件が起こります。

このとき、お久の方が3歳になる於八を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらうために鷹狩に来ていた徳川家康の一行の前に飛び出して直訴し、結果として代官が処罰されることになったのです。

もっとも、お久を見初めた徳川家康が、お久を浜松城に召し出て奥に入れさせ、その後に側室となって茶阿局を名乗ります。

そして、天正20年(1592年)8月9日に徳川家康の六男・松平忠輝を、文禄3年(1594年)に徳川家康の七男・松千代を産んでいます。

⑤お愛の方(宝台院・1578年)

お愛の方(西郷局)は、東三河国衆であった西郷正勝の孫です(父は戸塚忠春、母が西郷正勝娘)。

西郷正勝は、桶狭間の戦い後のどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康が、独立のための準備として、まずは三河国内の反今川の意向を持つ勢力に調略を仕掛け、最初に徳川家康の調略に従った東三河の国衆達の1つでした。

お愛の方は、一旦は最初の夫に嫁したものの夫に先立たれて寡婦となっていたところを、同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれて1男1女をもうけていたのですが(もっとも、西郷義勝が最初の夫であるとする説もあります。)、武田信玄の西上作戦が始まると、元亀2年(1571年)に東美濃に進軍してきた武田軍の秋山虎繁との戦いで西郷義勝が落命したため、またも未亡人となってしまいます。

その後、天正6年(1578年)、徳川家康が、未亡人となっていたお愛の方を見初め、東三河衆の取り込みの意味もあってお愛の方を側室に望み、叔父である西郷清員の養女とした上でこれを娶ります(このときに徳川家康の命により西郷局と名を改めています。)。

その後、お愛の方は、天正7年(1579年)4月7日に徳川家康の三男・徳川秀忠を、天正8年(1580年)9月10日に徳川家康の四男・松平忠吉を生んでいます。

なお、この頃には、築山殿は徳川家康の正室の地位を失っていたと考えられており、徳川家康は、正室である築山殿の許可なく徳川秀忠・松平忠吉を子として認知しています。

⑥阿茶局(雲光院・1579年)

阿茶局は、甲斐武田家の家臣であった飯田直政の娘です。一旦は、今川家の家臣で主家没落後に一条信龍に属した神尾忠重に嫁ぎ、2人の男子(神尾守世、神尾守繁)をもうけた後、天正5年(1577年)7月に夫であった神尾忠重が亡くなったことから、天正7年(1579年)に徳川家康に召されました。

才知に長け、侍女の統制など奥向きの諸事一切を家康より任され、戦場においても幾度となく徳川家康に供奉するなどしており、この時期の徳川家康を公私共に支えた女性です。

小牧・長久手の戦いの陣中で一度懐妊したものの、流産しています。

また、天正17年(1589年)には、亡くなった西郷局に代わって徳川秀忠と松平忠吉を養育するなど、徳川家康の信頼の厚い女性でした。

また、政治の分野でも活躍を見せ、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、常高院や大蔵卿局と会見して和議の成立に尽力するなどしています。

⑦お竹の方(良雲院・1580年頃)

お竹の方は、武田家の旧臣である市川昌永の娘とされています(穴山信君・秋山虎康・武田信玄の娘の説あり)。

天正8年(1580年)に徳川家康の三女・振姫を出産していることから、この頃に側室となったと考えられています。

天正壬午の乱時代に娶った妻

⑧阿牟須の方(正栄院)

阿牟須の方は、武田家の旧臣である三井吉正の娘です。

天正10年(1582)に徳川家康のもとに召しだされ側室となりました。

文禄元年(1592)、肥前名護屋に随行中に、難産のため母子ともに死去しています。

⑨お都摩の方(長慶院・1582年)

天正10年(1582年)に武田一門衆であった穴山梅雪が、甲斐一国の信君への拝領と武田氏の名跡継承を条件として織田信長方に裏切ったことをきっかけとして武田家が滅びると、穴山梅雪は、甲斐河内領と駿河江尻領を安堵されたて織田方の従属国衆となって徳川家康の与力として位置づけられます。

もっとも、穴山梅雪は、本能寺の変後に落ち武者狩りに遭って横死したため、その嫡男であった穴山勝千代(武田信治)が武田家当主として徳川家康の与力となります。

このとき、穴山勝千代(武田信治)が、徳川家康への従属の証として側室に差し出したのが、永禄7年(1564年)に武田一門の秋山虎康の娘として生まれ、後に穴山信君の養女となった於都摩の方(おつまのかた・下山殿)でした。なお、一説には、武田信玄の娘である松姫の身代わりだったともと言われています。

その後、於都摩の方は、翌天正11年(1583年)に徳川家康の五男・武田信吉を出産します。

なお、天正15年(1587年)に穴山家(武田家)当主の武田信治が死去したために、武田信吉が甲斐武田家を継ぐこととなったのですが、武田信吉は、天正18年(1590年)に徳川家康の関東入封に伴って甲斐河内領から下総国小金城3万石分封になった後、慶長8年(1603年)に水戸で死去しています。

⑩お仙の方(泰栄院)

お仙の方は、武田家の旧臣である宮崎泰景の娘です。

天正年間に徳川家康のもとに召しだされ側室となりました。

元和5年(1629)駿府において没しています。

豊臣秀吉に下った際に娶った妻

⑪【正室】朝日姫(1586年)

小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉は、徳川家康の次男である於義丸(後の結城秀康)を養子との名目で人質にとっていたのですが、さらに徳川家康との関係を強化して臣下の令を取らせようと考えます。

このとき、豊臣秀吉は、築山殿を失って正室がいない状態となっていた徳川家康を妹婿とすることで形式的な従属を強めようと考え、天正14年(1586年)年、妹の朝日姫を当時の夫と強制的に離縁させ、徳川家康に嫁がせました。このとき、徳川家康は45歳、朝日姫は44歳でした。

もっとも、その後、朝日姫は京に上り、天正18年(1590年)正月14日に死去しています。

関東入封時代に娶った妻

天正18年(1590年)の小田原征伐後に豊臣秀吉の命により徳川家康が関東に移封されます。

もっとも、直前まで関東が北条家により治められていたことや、関東八屋形と言われる旧来の名族の名残があったことなどから徳川家康による統治は簡単ではありませんでした。

そこで、徳川家康は、領内政策として数々の内政・外政策を施行していくのですが、その1つとして、有力者の子女を側室に貰い受けることにより、姻戚関係を利用した名門の取り込みを進めていきます。

⑫お梶の方(英勝院・1590年頃)

お梶の方(お勝の方)は、太田道灌の子孫である太田康資又は江戸城代であった遠山家の娘であったと言われています(諸説あり)。

江戸に入った徳川家康は、江戸城に入っていた13歳頃のお梶の方を見初めます。

於梶の方は一旦松平正綱に嫁ぐこととなったのですが、江戸近辺で力を持つ太田家(または遠山家)を取り込む意味もあり、僅か1ヶ月で江戸城に戻され、そのまま徳川家康の側室となります。

この後、徳川家康は36歳離れたお梶の方を寵愛し、関ヶ原の戦いにも随伴させたと言われています。

慶長12年(1607年)1月、徳川家康最後の子である五女・市姫を出産します(お梶の方30歳、徳川家康66歳)。

⑬お万の方(養珠院・1593年)

お万の方(陰山殿)は、三浦庶流の正木頼忠を父として生まれ、後に母親が蔭山氏広と再婚したことより蔭山一族となったとされる女性です。

その後、文禄2年(1593年)、徳川家康から、江戸から伏見に向かう道中に寄った三島で見初められ、江川英長(江川太郎左衛門)の養女となって徳川家康の側室となりました。

慶長7年(1602年)3月7日に徳川家康の十男・徳川頼宣を、慶長8年(1603年)8月10日に徳川家康の十一男・徳川頼房を産んでいます。

⑭お亀の方(相応院・1594年)

お亀の方は、当初竹腰正時に嫁いで竹腰正信を生んだのですが、その後に夫と死別したため、奥勤めに入ります。

その後、石川光元の側室となって石川光忠を生んだのですが離縁された後、文禄3年(1594年)、22歳となったお亀の方は、徳川家康に見初められ側室となりました。

その後、文禄4年(1595年)に徳川家康の八男である仙千代(6歳で夭折)、慶長5年(1600年)に徳川家康の九男である徳川義直を生んでいます。

徳川家康の死後は相応院と名乗って徳川義直のいる名古屋城で暮らしています。

⑮お久の方(普照院)

お久の方は、後北条家の旧臣であった間宮康俊の娘です。

文禄4年(1595年)、伏見城にて徳川家康の四女である松姫(4歳で夭折)生んでいます。なお、松姫の生母は徳川家康の側室である英勝院とする説もあります。

⑯お夏の方(清雲院・1597年)

お夏の方(お奈津の方)は、伊勢北畠家の旧臣であった長谷川藤直の娘として生まれます。

お夏の方の兄である長谷川藤広が徳川家康に仕えていた縁で17歳となった慶長2年(1597年)に二条城の奥勤めとなり、そこで、当時56歳であった徳川家康に見初められて側室となりました。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では本陣に供奉し、翌年の大坂夏の陣では伏見城に留守居をしていました。

関ヶ原の戦い後に娶った妻

⑰お梅の方(蓮華院)

お梅の方は、天正14年(1586年)、豊臣家臣である青木一矩の娘として生まれますので、徳川家康より43歳年下です。

慶長5年(1600年)、徳川家康の外祖母にあたる華陽院の縁戚であった縁で15歳で奥勤めとなり、そのまま徳川家康の側室となりました。

後に、下野国小山藩主・本多正純の継室となっています。

⑱お六の方(養儼院)

お六の方は、今川家臣であった黒田直陣の娘であり、慶長2年(1597年)に生まれていますので、徳川家康より54歳も年下です。

お梶の方の部屋子を経て、徳川家康の側室となりました。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣にも供奉し、元和2年(1616年)に徳川家康が死去すると出家して養儼院と号して田安比丘尼屋敷に住みました。

詳細がほぼ不明の妻

⑲松平重吉娘

松平重吉娘は、詳細は不明であり、徳川家康の若年期の側室と考えられています。

⑳お松の方(良雲院)

お松の方は、天正10年(1582年)に徳川家康の落胤・松平民部を産んだとされているのですが(源流綜貫)、それ以外は、出自を含めてほとんどわかっていない女性です。

㉑三条氏

三条氏は、天正17年(1589年)に徳川家康の落胤・小笠原権之丞を産んだとされているのですが(源流綜貫)、それ以外は、出自を含めてほとんどわかっていない女性です。

㉒お富の方(信寿院)

お富の方は、山田氏の娘とされていますが、その出自はおろか、法号が信寿院とされていること以外、その出自を含めてほとんどわかっていません。

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