三好三人衆とは、永禄7年(1564年)7月4日に最初の天下人と言われる三好長慶が死去した後、三好政権内の権力闘争を勝ち抜き、事実上三好政権を簒奪するに至った三好家中の3人の重臣達の呼称です。
具体的には、三好宗渭・三好長逸・石成友通の3人です。
三好長慶の死後、その甥であった三好義継が三好家の家督を継いだのですが、まだまだ若く、三好家という超大国を支配するには経験不足が否めませんでした。
そこで、この時点での三好家重臣が三好義継を支えて行くこととなったのですが、次第に三好家中での支配権を求めてこれら重臣達が対立するようになりました。
この対立は、三好三人衆(三好宗渭・三好長逸・石成友通)と松永久秀とに分かれて大戦に発展し、三好三人衆方優位で進んで行きました。
もっとも、劣勢となった松永久秀が織田信長に助けを求め、この三好家中の内紛を利用して上洛したことで、三好三人衆(及び三好本家)が駆逐されていくこととなったのです。
【目次(タップ可)】
三好政権確立
三好家再興
三好三人衆が仕えていた三好長慶は、自らの身を守る意味もあって、復讐心を隠しながら父の仇である細川晴元の家臣となります。
そして、細川晴元の下で爪を隠しながら三好家再興のための活動をしていました。
そして、三好長慶は、天文8年(1539年)8月、三好家の再興を果たして摂津国西半分を任されて摂津国(現在の兵庫県西宮市)越水城を居城とし、周囲の国衆を束ねる立場に立つこととなりました。
ところが、三好長慶自身が若年であり、また父・三好元長が死去した際に三好家を支えた重臣たちも同時に失っていたことから、領国経営に苦心します。
そこで、三好長慶は、三好家を運営していくために、新たに高い能力を持った人材の発掘・登用に着手します。
三人衆の三好本家加入
(1)石成友通らが仕官
細川晴元の下で名を挙げて所領を得た三好長慶ですが、前記のとおり、彼を支えてくれる重臣が足りません。
そこで、三好長慶は、領国経営の助けとするために、新たに高い能力を持った人材の発掘・登用に着手します。
このときの三好長慶の人材登用基準は、家柄ではなく実力本位であり、当時の考えとしては画期的な登用方法でした。
そして、この後の三好家の人材登用の際に、石成友通・松永久秀・松永長頼・松山重治ら以降の三好政権を支える重臣達が三好長慶により見出され、三好家家臣となったと考えられています。
(2)三好宗渭仕官(1558年9月)
登用した人材をフル活用して勢力を高めていった三好長慶は、天文18年(1549年)6月の江口城の戦い(江口の戦い)で父仇である細川晴元らを破って細川晴元と当時の室町幕府13代将軍・足利義輝を京から近江国に追い払いました。
永禄元年(1558年)9月、上洛を図った足利義輝・細川晴元軍が、将軍山城で三好軍と交戦したのですが(北白川の戦い)、このときに、三好宗渭が三好長慶の臣下に下っています。
なお、三好宗渭は、1565年3月に出家するまでは、政勝→ 政生と名乗っていたのですが、本稿では便宜上「宗渭」で統一します。
(3)一族の年長者としての三好長逸
また、三好長慶を支えるべき三好一族の多くが細川家の内紛の中で命を落としており、残っていた三好長逸が、数少ない三好一族の年長者でした(三好長慶の従叔父)。
そのため、三好長逸は、頼れる一族の長老として名を上げていく三好長慶を支えました。
三好政権全盛期
(1)貿易による利益
前記のとおり、身分にとらわれない積極的な人材登用を進めていった三好長慶は、情報の重要性をも理解しており、全国展開している宗教勢力に接近して、その宗教勢力がもつネットワーク(多くは、戦国に散らばる末寺から集まる情報)を利用していました。
また、宗教勢力の信者の中には商人も多数存在し、その信者のツテを伝って東南アジアなどとの貿易なども行い、経済力を高めるとともに、鉄砲などの先進的な武器も入手していたようです。
1539年(天文8年)に越水城に入った後、港湾都市として栄えていた兵庫を使って貿易で利を得ます。なお、1550年頃には、三好長慶が戦に鉄砲を使っていたとの記録が残されています。また、三好長慶は、1560年頃からではありますが、領土内でのキリスト教の布教を許可しています。
(2)瀬戸内ネットワーク構築
天文22年(1553年)に本拠地を摂津国・芥川山城に定めた三好長慶は、細川氏綱を傀儡として操り、自らの権威を高めて行きます。
また、三好長慶は3人の弟を使って瀬戸内海に強力なネットワークをつくりあげます。

その手段は、すぐ下の弟実休に三好の本拠地である阿波国を任せ、その下の弟冬康を淡路の海賊を率いる安宅氏の養子にし、一番下の弟一存を讃岐国を治める十河氏の養子にするというものでした。
これにより、三好長慶が摂津・(十河)一存が讃岐・(安宅)冬康が淡路・三好実休が阿波を抑えることになり、瀬戸内海の広域支配を可能としました。
河内畠山氏との戦い
ところが、永禄3年(1560年)、河内国内で大きな動きが起こります。
三好長慶の支援で河内守護に復帰した畠山高政が、三好長慶を警戒し、それまで敵対していた安見宗房を守護代に復帰させ、飯盛山城に配置したのです。
三好長慶は、畠山高政の背信行為に激怒し、畠山高政の居城高屋城を包囲し、同年7月、これを解放するために援軍として駆けつけた安見宗房軍を寝屋川付近(現在の大阪府東大阪市付近)で撃退しました。
続けて、同年7月22日には現在の八尾市一帯付近で再度安見宗房軍を破り、続けてやって来た香西・波多野軍、根来衆なども松永長頼軍が撃破します。
そして、同年10月24日に飯盛山城の安見宗房が、同年10月27日に高屋城の畠山高政が降伏開城してこの戦いは一旦終わりました。
河内国を完全に平定した三好長慶は、高屋城を弟の三好実休に与えます。
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また、永禄3年(1560年)11月13日、自らは飯盛山城に入り、三好長慶は畿内の勢力基盤を盤石なものとしています。
次世代への移行準備
もっとも、既に老いが進み始めていた三好長慶は、自らが作り上げた政権の次世代への引き継ぎを検討し始め、家督と三好本家の本拠である芥川山城を嫡男・三好義興に譲ります。
他方、政権の安定には心血を注ぎ、重臣の松永久秀に大和国侵攻を命じ、松永久秀が同年11月までに大和北部を制圧したため、同地の統治を松永久秀に任せます。
事実上の三好政権成立
永禄期に入る頃には、三好長慶は、山城・丹波・大和・和泉・淡路・讃岐・播磨を制し、近江・河内・伊賀・若狭まで影響力を及ぼします。
この点、当時は、五畿内を天下と言っていましたので、これを治める三好長慶が天下人となったのです。
この三好政権の特徴は、幕府権力や将軍権力をバックボーンにもたないことです。
三好長慶は、後の織田信長と同じように、将軍権威を必要とすることなく、幕府が裁断すべき争論をも自ら裁決しており、将軍も管領も「あってなきがごとし」という状態を作っています。
細川氏が最後まで将軍権威を必要としていたのと対照的です。
三好長慶は、将軍・管領を超える実力を手にし、永禄4年(1561年)には、天皇から将軍家や豊臣秀吉など武家の頂点に立つ者しか使用を許されない桐の紋の使用までも許されてもいます。
また、その武名は海外にまで轟いており、オランダの辞典シャトラン「歴史地図帳」に、日本の統治者として、内裏(天皇)、公方(足利将軍)に次ぐ実力者としてその名が記される程でした。
名実共に天下人となりました。
三好政権中枢が失われていく
最初の天下人として畿内一帯で隆盛を誇っていた三好長慶でしたが、以下のようにそれまで三好家の中枢を担った重要人物が次々と失われていき、その勢いに陰りが出始めます。
(1)十河一存死去(1561年3月18日)
永禄4年(1561年)3月18日、「鬼十河」と恐れられた弟・十河一存が病死します。
十河一存の死により、その支配地であった和泉国支配が弱体化してしまいます。
(2)三好実休討死(1562年3月5日)
和泉国の支配力が弱まったと判断した畠山高政が、永禄4年(1561年)7月、細川晴之(細川晴元次男)を担ぎ出した上、六角義賢と連携して挙兵します。
この結果、畠山高政が南から六角義賢が北からそれぞれ三好領を攻撃することとなり、三好家としては南北両面作戦を余儀なくされます。
そして、永禄5年(1562年)3月5日、南側の陣である畠山軍対三好実休軍で大きな戦いがあり(久米田の戦い)、三好長慶のもう一人の弟であった三好実休が討ち取られる大敗北を喫してしまいました。
(3)三好義興病死(1563年8月25日)
さらに、三好家を継いで当主となっていた三好長慶の嫡男・三好義興が病に倒れ、永禄6年(1563年)8月25日、芥川山城において死去してしまいます。
三好義興は、極めて優秀な人物であり、将来が期待されていた人物であったため、その早すぎる死は三好政権に大きな暗雲をもたらしました。
(4)安宅冬康を誅殺(1564年5月9日)
三好長慶は、直系の子を亡くしたことから、三好家の存続のため養子をとる必要に迫られたのですが、優秀な弟たちの子の中から、十河一存の息子である重存(義継)を選びます。
このとき三好家には、一存以外の弟にも子があり、三好長慶にとっての甥が三好義継以外にも残っていたのですが、天下人として体裁を重視し、母親の家柄を重視して人選をしたのです。
そんな中、三好長慶は、とある事件を起こします。
永禄7年(1564年)5月9日、1人残っていた弟である安宅冬康を飯盛山城に呼び出し誅殺してしまったのです。
三好長慶が、安宅冬康を誅殺した理由については、① 安宅冬康が謀反を企んでいた、②松永久秀の讒言であった、③後継者とした三好義継に権力を集中させお家分裂を防ぐためであった、④このとき三好長慶はボケて精神衰弱に陥っていた、など様々な説がありますが、その理由ははっきりしません。
ただ、この事件により、さらに三好家の軍事力が大幅に低下したことは間違いありません。
三好政権を支配し三好三人衆と呼ばれる
三好長慶死去(1564年7月4日)
一族の重鎮を次々と失った三好家でしたが、まだまだ一族と家臣団には有能な者も多く残されており、三好長慶の存命中は、そのカリスマによりうまく統制がなされていました。
実際、三好長逸が三好一族の長老、三好宗渭が旧細川家臣団や堺衆との外交役、石成友通・松永久秀らが家臣団を取りまとめる形で三好政権が運営されていました。
ところが、永禄7年(1564年)7月4日に三好長慶が死去し、甥の三好義継が三好家の家督を継ぐこととなったことで事態が急変します。
永禄の変(1565年5月)
三好家の家督を継いだ三好義継がまだ若年であったため、三好家の重臣であった三好宗渭・三好宗渭・石成友通・松永久秀ら重臣達が後見役となってこれを補佐する形で政権運営がなされることとなったのですが、まずは、外敵が動き始めます。
三好長慶死去を好機と見た足利義輝が、失った実権を取り戻す機会が到来したと考え、朝倉義景・武田信玄・上杉謙信らに対して上洛を促す書状を送り始めたのです。
この動きを危険視した三好家では、協力して足利義輝の排除を試みます。
そして、三好義継・三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)・松永久通らが兵を集め、永禄8年(1565年)5月19日に、京・二条御所を襲撃し、室町幕府第13代将軍・足利義輝を殺害するという事件を起こしました(永禄の変)。なお、この事件への松永久秀の関与度は不明です。
この事件は将軍暗殺という一大事であったにもかかわらず、幕府奉公衆や公家たちが三好家への抵抗運動を見せることはなく、三好家による障害排除計画は成功したようにも見えました。
もっとも、このとき、足利義輝の弟・一乗院覚慶(後の足利義昭)が興福寺に入っていたのですが、三好家側が、将来興福寺別当職となることを約束されていた覚慶を殺害して興福寺を敵に回すことを恐れたことにより覚慶を殺害しなかったため、後に反三好家の旗頭として担ぎ上げられ、その結果として三好家転落が始まっていくこととなってしまいました。
三好家中の内部抗争
室町幕府将軍という最大の目の上のたん瘤を排除した三好家は、畿内における支配権を再び確固たるものとします。
そうなると、権力を手にしたものの典型的な性として、内輪揉めを始めます。
三好家での内輪揉めは、三好宗渭・三好宗渭・石成友通の3人が勝手な政権運営を始め、それに松永久秀が反発するという形で始まりました。なお、後にこの3人で三好政権を事実上乗っ取ってしまったことから、この3人を合わせて三好三人衆と言うようになりました。
そして、三好家中において、三好政権の主導権を巡って三好三人衆側に与する者と松永久秀側に与する者に分かれていき、三好三人衆と松永久秀という対立構造がエスカレートしていきました。
三好三人衆が三好政権を掌握(1565年11月)
永禄8年(1565年)11月16日、三好三人衆軍が当時松永方の城であった飯盛山城を突如襲って、奉行衆であった長松軒淳世を切り捨てた上、三好義継に対して三好家内から松永久秀を見放すように迫ります。
また、三好三人衆は、三好義継に対して三好家本城である飯盛山城を出て河内高屋城に移るよう指示をします。
三好義継にこれらの要求を拒絶する力はなく、要求に応じて松永久秀・松永久通父子を三好政権から追放する処分を下した後、河内高屋城に移りました。
この結果、石成友通が松永久秀の地位を受け継ぐこととなり、三好三人衆が三好本宗家と三好義継を支える新体制が形成されるに至りました(事実上、3人で政権運営がなされるようになったため一般にこの3人を三好三人衆と呼ぶようになりました。)。
また、これにより、三好三人衆と松永久秀の対立は決定的になります。
このとき、苦しくなった松永久秀は、三好家と対立する畠山秋高に接近し、これと協力して三好三人衆への対応を始めます。
そして、永禄9年(1566年)2月、ついに三好三人衆と松永久秀・畠山秋高との間で戦いが始まります。
松永久秀との戦い
阿波三好家の協力を得るために足利義栄を担ぐ
三好三人衆軍は、永禄9年(1566年)2月17日に河内国で畠山軍を蹴散らし(上芝の戦い)、松永久秀を大和国に追いやります。
その後、三好三人衆は、同年4月に松永久秀の本拠地である大和国に侵攻したのですが、一旦堺に逃れた松永久秀が高屋城を脅かしたため、池田勝正や安宅信康らの援軍と共に兵を河内国に戻すこととなってしまいました。
以上のとおり、三好三人衆と松永久秀との間では大きな戦力差はなく、一進一退を続けながら戦局が大きく動くことなく時間が過ぎていきました。
そこで、三好三人衆は、戦局を優位にするために阿波三好家の協力を取り付けようと考え、同家が庇護する前将軍足利義輝の従兄弟である阿波公方・足利義栄を次期将軍に擁立しようと画策を始めます。
そして、足利義栄を次期将軍にするとの約定の下、永禄9年(1566年)6月、同人を連れた阿波三好家の軍が阿波国から淡路国志知に渡り、四国一円に軍勢催促を行いました。
この結果、阿波三好家の宿老であった篠原長房を先陣とする2万5000人の兵が編成されて兵庫浦へ上陸します。
山城国・摂津国を掌握(1566年9月)
これと同時に、三好三人衆方では、石成友通らが、永禄9年(1566年)7月13日、松永方に与する今村氏の拠点の1つであった山城国の勝竜寺城(土豪の中沢満房・革嶋一宣、援軍の竹内季治、幕府奉公衆・一色孝秀らが籠もっていた)・小泉城・淀古城を立て続けに攻め落とすなどして松永方の勢力を削いでいきました。
また、阿波三好家の篠原長房が同年7月14日に摂津国越水城、同年8月14日に摂津国堀城、同年9月5日に摂津国伊丹城を立て続けに陥落させるなどし、三好三人衆が山城国・摂津国の支配権を掌握してしまいました。
足利義栄の将軍就任
永禄9年(1566年)9月23日、足利義栄が、阿波三好家に連れられて渡海した上で、摂津国・越水城に入城して将軍就任準備が進められ、同年10月3日には朝廷工作として太刀や馬を献上するなどしています。
また、足利義栄もまた将軍であるかのような振る舞いを始め、同年10月4日、いまだ将軍未就任ながら伊予国を治める河野通宣や村上通康などに対して京を平定したために上洛する旨の将軍発給文書(御内書)を下したりしています。
この御内書は大和国内で松永久秀に押されて大和国南側に追いやられていた筒井順慶にも送られ、大和国北側に本拠を置く松永久秀に対して、三好三人衆が北側から、筒井順慶が南側から挟撃することが約束されました。
そして、足利義栄は、同年12月7日、富田荘の普門寺城に移ってさらなる準備を重ねます(なお、足利義栄が離れた越水城には篠原長房が入り、畿内での活動拠点としています)。
その後、足利義栄は、同年12月28日に従五位下・左馬頭に叙任した後、永禄11年(1568年)2月に室町幕府第14代将軍に就任します。
三好本家当主が松永久秀方へ(1567年4月)
阿波三好家(三好分家)の協力を得て順調に三好政権(三好本家)を掌握していった三好三人衆でしたが、永禄10年(1567年)4月6日、その計画が崩れ始める事件が起こります。
高屋城に追いやられていた三好本家当主・三好義継が、三好三人衆が三好本家の主君を自分ではなく足利義栄としたことに反発し、三好三人衆の下を離れて対立する信貴山城の松永久秀の下に逃げ込んだのです。
三好家当主という地位は、この時点では実質上の力を失っていたものの、劣勢下にあった松永久秀方に大義名分を与えるだけの効果を保持していました。実際、三好義継とあわせて三好康長らも三人衆から離反しています。
そこで、三好家当主を擁してこれをないがしろにする家臣団(三好三人衆)を討ち取るという大義名分を得た松永久秀は勢いを取り戻し、本拠地大和国において三好三人衆に対する攻撃準備を始めます。
三好三人衆と松永久秀との戦い
松永久秀方に軍事行動の兆候ありと見た三好三人衆は、それに先んじて兵を動員し、逆に京から大和国へ攻め入って東大寺に布陣します。
この結果、多聞城を本拠に置く松永久秀軍に対し、東大寺に布陣する三好三人衆軍が対陣することとなり、その後、東大寺周辺において、永禄10年(1567年)4月18日から、松永軍(松永久秀・三好義継)と、三好三人衆軍(石成友通・三好長逸・三好宗渭・筒井順慶・池田勝正ら)とが半年間に亘って市街戦を繰り広げます(東大寺の戦い、多聞山城の戦い)。なお、この戦いの途中で東大寺大仏殿が焼失しています。
兵力に勝る三好三人衆軍が優勢に展開していたこの戦いでしたが、断続的な小規模合戦が続くのみであり、決定打がなく膠着することとなってしまいました。
織田信長との戦い
松永久秀が織田信長に通じる
他方、もう1つの戦場となっていた信貴山城が、永禄11年(1568年)6月29日に落城し(信貴山城の戦い)、さらに三好三人衆軍が松永家の本拠である多聞城に取りついたことから松永久秀は窮地に陥ります。
ここで、松永久秀は窮地を脱する起死回生の一手を打ちます。
尾張国・美濃国を平定して勢いに乗り、さらには畿内へ進出する機会をうかがっていた織田信長と同盟を組むこととしたのです。
このときの織田信長は、かつて松永久秀が取り込んだ足利義昭を将軍職につけるという名目で上洛を目論んでいたのですが、そのためには畿内に大勢力を持つ三好三人衆が邪魔で仕方がなかったのです。
すなわち、織田信長は上洛するため、松永久秀は松永家・三好家を維持するために三好三人衆を排除するという共通目的を達成するための同盟が成立するに至りました。
織田信長上洛(1568年9月)
足利義昭を奉じた織田信長は、永禄11年(1568年)9月7日、1万5千の兵を率いて岐阜城を出立し三好家の内紛に乗じた上洛作戦を敢行します。
このときの織田信長上洛軍は、将軍上洛軍であったため尾張・美濃・北伊勢・北近江の浅井軍・三河などから義勇兵の参陣が相次いでどんどん軍勢が膨れ上がっていき、5万人とも6万人ともいわれるまでに膨れ上がった織田軍は、数に物を言わせた強硬手段で道中の六角家を攻略し(観音寺城の戦い)、京の入り口にまで到達します。
道中の安全を確保した織田信長は、同年9月22日に足利義昭を呼び寄せて、同年9月23日に園城寺光浄院に入れます。
その上で、同年9月26日、細川藤孝を別働隊として御所に向かわせてこれを防衛させ、織田信長本隊は東寺にまで進軍した後で東福寺に陣を移します(織田信長軍の入京により京の安全が確保されると、足利義昭が上洛を果たして東山の清水寺に入っています。)。
そして、京に入った織田信長は、河内方面に軍を進めて山崎・天神馬場に着陣して畿内掃討戦を進めることとします(他方、足利義昭は東寺に移った後、さらに西岡日向の寂勝院に入ります。)。
勝竜寺城の戦い(1568年9月)
足利義昭を京に送り出した織田信長は、畿内から三好三人衆の勢力を駆逐するため、永禄11年(1568年)9月26日、まずは柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚らに先陣を命じ、桂川を渡河させ、石成友通が守る勝竜寺城に向かわせます。
また、同年9月29日には、織田信長自ら5万の兵を率いて勝竜寺城の攻略に向かいます。
大軍に取りつかれた勝竜寺城では、守将であった石成友通が、三好長逸・三好宗渭・篠原長房らと連携しての抵抗を試みますが多勢に無勢で勝ち目がなく、織田信長に降伏して勝竜寺城を織田信長に明け渡しました(勝竜寺城の戦い、多聞院日記・言継卿記)。
織田軍により駆逐されていく三好三人衆
勝竜寺城を攻略した織田信長は、続けて淀古城・山崎城・芥川山城・高槻城・越水城・高屋城などの三好三人衆方の城を次々と攻略していきました。
勢いを失った三好三人衆は、永禄11年(1568年)10月1日、推戴していた14代将軍足利義栄・篠原長房・三好長治らとともに阿波へと退いて再起を図ることとします。
この結果、畿内所在の城を概ね制圧して三好三人衆らを阿波国へ追い出し、三好義継・松永久秀・松永久通らを傘下に収めた織田信長は、畿内をほぼ完全に掌握します。
そして、織田信長に連れられて入京した足利義昭が、一旦芥川山城に入った後、永禄11年(1568年)10月14日、帰京して六条(現在の京都市下京区内・西本願寺の北側)にあった本圀寺を仮御所として同寺に入った後、同年10月18日、室町幕府第15代征夷大将軍の宣下を受けました(なお、この前後に足利義栄は死去しているのですが、死去日が明らかではないため、足利義昭の将軍就任が、足利義栄が将軍職を解任されて行われたのか、死去に伴う後任なのかは不明です。)。
本圀寺の変(1569年1月)
以上の結果、足利義昭を将軍にするという上洛目的を果たした織田信長は、足利義昭の警備を、近江国・若狭国の国衆約2000人と足利義昭直属の奉公衆に託し、永禄11年(1568年)10月26日、一旦本拠地である美濃(岐阜)に帰国します。
ところが、将軍となり京に返り咲いた足利義昭でしたが、元々僧侶であったこともあり、将軍として相応しい軍事力をもっていませんでした。
そんな中で、織田信長が主力軍を連れて本拠地に戻ったのですから、当然足利義昭のいる京の守りは弱くなります。
石成友通ら三好三人衆は、京が手薄となったのをチャンスと見て、京の奪還と15代将軍足利義昭を亡きものとする計画を立てます。遡ること3年前の永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺している三好三人衆に(永禄の変)、将軍暗殺についての迷いなどありません。
1万人の兵を動員して阿波国を出発した三好三人衆軍は、永禄12年(1569年)1月5日、京市中に火を放ちながら足利義昭がいる六条本圀寺に向かって進軍してきます。
ところが、三好三人衆襲来を聞いた室町幕府足軽衆が、当時上京にあった奉公衆の屋敷から本圀寺に駆け付け、同日中に足利義昭を討ち取ることができませんでした。
そして、翌日である同年1月6日になると、将軍襲撃(本圀寺の変)の報が織田方の各将の下に届き、将軍直属の細川藤孝・和田惟政をはじめとして、三好本家の三好義継や、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らが、続々と足利義昭(本圀寺)に援軍として駆け付け、一気に形成が逆転します。
形勢不利となった三好三人衆は、退却を試みるも桂川湖畔で追いつかれ、足利方の軍勢と合戦に及んだものの大敗北を喫してしまいました。
野田・福島の戦い(1570年8月)
元亀元年(1570年)6月、織田信長が姉川の戦いに赴くために畿内の兵を近江に向かわせたため、織田方の主力部隊が畿内からいなくなります。
これを好機と見た三好三人衆は、同年6月19日、摂津池田城主・池田勝正の重臣であった荒木村重をけしかけて池田城を奪取させた上で、同年7月21日、摂津国に再上陸し野田と福島に砦を築いて、これらを拠点に反織田の兵を挙げます。
この三好三人衆の動きに、畿内の反織田勢力であった、三好康長・十河存保・細川昭元・斎藤龍興・長井道利などが次々と参加し、その勢力は8000人にまで膨れ上がりました。
なお、このとき、三好三人衆軍に対抗できる可能性があった畿内の織田方は、信貴山城の松永久秀・古橋城の三好義継らわずかであり、反織田ののろしを上げた三好三人衆は、同年8月2日、まず三好義継率いる300人が守る古橋城を攻略して三好義継を追い払います。
姉川の戦いを終えて岐阜に戻った織田信長は、いそぎ軍備を整え、同年8月20日に岐阜城を出立し、同年8月22日の長光寺、同年8月23日の本能寺宿泊を経て、同年8月25日に枚方寺内に陣を構えた後、同年8月26日に天王寺に到着し本陣を置きます。
その後、織田軍は、周辺諸城を奪還した上で付城を築くなどして4万人の兵で三好三人衆が籠る野田城・福島城を取り囲み、城の北側にある川をせき止めた上、北側に櫓を組んで、野田城・福島城に鉄砲を雨のように打ちかけます。
落城寸前となった野田城・福島城でしたが、元亀元年(1570年)9月12日、石山本願寺法主顕如が三好三人衆に与して挙兵し、海老江に布陣していた織田信長と足利義昭の下に想定外の敵が襲いかかったことで戦局が一変します(10年間に及ぶ石山合戦の始まりです。)。
本願寺勢蜂起によりもはや野田城・福島城攻めどころではなくなった織田軍に対し、さらに近江国で浅井・朝倉連合軍までもが織田方に襲いかかったため、元亀元年(1570年)9月23日、織田信長は、柴田勝家と和田惟正を殿に残して野田城・福島城の包囲を解き、急ぎ京に向かって進軍しています。
この結果、野田城・福島城の戦いは三好三人衆の勝利に終わり、三好三人衆は、再び畿内に進出する橋頭堡を確保しました。
なお、この後、浅井・朝倉連合軍を追って比叡山に釘付けとなった織田軍に対し(志賀の陣)、周辺勢力が対織田戦線に参加することとなり、比叡山を取り囲む織田軍を、さらにその周辺勢力で取り囲むという図式が出来上がり(第一次信長包囲網)、この戦いは、反織田勢力の勝利に終わりました。なお、このときに反織田方となった主な勢力は、石山本願寺・長島一向一揆、雑賀衆、三好勢(三好三人衆・篠原長房・三好長治・十河存保・安宅信康)・六角義賢・荒木村重・池田知正・浅井長政・朝倉義景・比叡山延暦寺・筒井順慶などです。
三好三人衆崩壊
対織田戦線を優位に進める
周囲を敵に囲まれて厳しい状況となった織田信長は、分散する敵対勢力に対する各個撃破作戦を立案し、元亀元年(1571年)5月、5万人もの兵を動員してまずは伊勢長島の一向一揆の鎮圧に向かいますが失敗に終わります。
この状況を好機と見た三好長逸が、元亀元年(1571年)7月、阿波国から畿内に再上陸します。
また、同年8月28日には、反織田方の三好三人衆・本願寺・池田知正・荒木村重・中川清秀らが摂津国馬塚に布陣し、他方、織田方の和田惟正が摂津国糠塚に布陣して戦いに発展し(白井河原の戦い)、織田方の総大将であった和田惟正が中川清秀に討ち取られるという織田方の大敗北で戦いは終わります。
三好家衰退
その後も織田信長打倒と畿内復帰を画策する三好三人衆でしたが、周囲を敵に囲まれて手を焼いた織田信長が分散する敵対勢力に対する各個撃破作戦を展開したことにより、もはや単独で太刀打ちすることができなくなります。
ここで、織田信長に抗いきれなくなった石成友通が、元亀2年(1571年)12月に細川六郎とともに織田信長に拝謁し、その参加に下ることとなりました(石成友通の能力を高く評価した織田信長は、元亀3年/1572年1月に石成友通に山城国内6か所の所領を与えて山城郡代に任命し、実質的には山城守護として扱うこととしています。)。
また、阿波国でも三好長治が篠原長房を殺害して三好家中の不和を招くなどの混乱が見られ、織田信長に対する対抗策を取れない状態となって三好家が衰退しています。
三好一族の再結集
他方、織田信長への反発を高めていった足利義昭が、織田信長の影響力を弱めるため、織田信長に敵対する力を持つ勢力に接近していき、浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺・比叡山延暦寺・六角義賢・武田信玄などに御内書を乱発していくようになり(第二次信長包囲網)、これに甲斐の虎・武田信玄が呼応し、元亀3年(1572年)10月、織田信長の本拠地・岐阜を目指して進軍を開始します(西上作戦)。
反織田勢力は、破竹の勢いで進軍していく武田軍の強さを見て勢いづき、足利義昭もまた、元亀4年(1573年)2月、二条御所で自ら反織田信長の兵をあげます。
もっとも、徳川領に進行中だった武田信玄が、元亀4年(1573年)4月、体調悪化により本拠地・甲斐へ引き返し、そしてその帰途で病死したため、第二次信長包囲網が急速に勢力を失います。
この結果、勢いを取り戻した織田信長は兵を京に向け、二条城を囲んで同城から足利義昭を追い出します。
京を追われた足利義昭でしたが、元亀4年(1573年)7月3日、宇治の槇島城に籠って再度挙兵します。
この動きに呼応し、それまでいがみ合っていた三好義継・松永久秀・三好三人衆ら三好一族が総力を挙げ、織田信長と戦う道を選びました。
三好三人衆の最期
もっとも、元亀4年(1573年)7月18日、織田軍の攻撃を受けた槇島城が陥落し(槇島城の戦い)、降伏した足利義昭は人質を差し出して河内国に逃亡します。
旗頭を失った反織田勢力に勝ち目などありません。
畿内の城に籠っていた三好三人衆もそれぞれが以下のような悲惨な最期を迎えます。
(1)石成友通討死(1573年8月2日)
織田信長は、槇島城攻撃軍とは別に、石成友通が籠る淀古城には木下秀吉(羽柴秀吉)・細川藤孝・三淵藤英らを派遣しており、これらの隊による淀古城攻撃が加えられました(第二次淀古城の戦い)。
織田方の攻撃に対し、淀古城内から坂東季秀・諏訪行成らが離反したため、後がなくなった石成友通は、淀古城から打って出て奮戦した後、細川家家臣・下津権内に討ち取られました。なお、石成友通は、生年が不明であるため享年も不明です。
(2)三好宗渭消息不明
淀古城が陥落した時点で勝敗が確定したため、山城国・木津城に籠っていた三好宗渭は、城を放棄して逃亡します。
そして、この後の三好宗渭の動向は不明です(他方で、これに先立つ永禄12年/1569年阿波国で死去したとする説あり)。
(3)三好長逸消息不明
また、摂津中嶋城に籠っていた三好長逸は、続けて進軍して来た織田軍と戦い、城を放棄して逃亡しています。
そして、この後の三好長逸の動向は不明です(討死説・幽閉説など様々な説あり)。
三好家滅亡
また、足利義昭を匿った三好家当主・三好義継が、攻め寄せてきた織田軍に討ち取られました。
そして、三好長治は阿波の内乱で敗死、三好康長を始めとする他の三好一族もまた織田信長に臣従・討伐することにより大名としての三好家は滅亡します。
他方、松永久秀は、織田信長に降伏することで、再びその臣下に下っています。